偽りの婚約者のはずが、極上御曹司の猛愛に囚われています

冬野まゆ

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1巻

1-3

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 社会人になってから、莉子とは、お互いの誕生日に食事をご馳走し合う習慣がついている。
 だからここは、莉子にご馳走してもらうことにして、十二月の彼女の誕生日に素敵なお店を予約することにした。
 会計を済ませて外に出ると、莉子がもう一軒行くかと誘ってくれた。
 この流れだと、次も彼女に支払わせることになりそうなので、それは辞退する。

「ここしばらく仕事が忙しくて疲れているから、今日は帰る」

 その言葉に、莉子が腕時計を確認する。
 今の時刻は二十二時近く。二軒目に行くには微妙なタイミングだ。

「じゃあ、今日はこれで解散にしとこうか」
「うん。また近いうちに飲もうね」

 舞菜香がひらりと手を振ると、莉子がその手を掴んで引き寄せる。
 驚いて「え?」と声を漏らす舞菜香に、莉子は顔を寄せ、もう一方の手を舞菜香の耳元に添えてささやく。

「失恋の傷は、新しい男に癒やしてもらうのが一番だよ」
「はぁ?」

 突然なにを言うのだと目を丸くする舞菜香に、莉子は目を輝かせて言う。

「舞菜香は美人で性格もいいんだから、もっといい相手を見つけて、あの最低男に見せつけてやりな」

 莉子は舞菜香を掴んでいた手を離すと、親指を立てて笑う。
 そのまま自分の知り合いを紹介しようかと話を続けてくるので、舞菜香は一歩後ろに下がって彼女と距離を取る。

「私、当分恋愛はパスだから」

 栄一の本性を知り気持ちが一気に冷めたとはいえ、そんな簡単に気持ちを切り替えることはできない。もともと恋愛に消極的な性格をしている舞菜香なら、なおさらである。

「そう? 無理にとは言わないけど、今回のこと、変に引きずるのだけはやめてよ」

 長い付き合いで舞菜香の性格を承知している莉子は、渋々といった感じで自分の意見を引っ込めた。

「心配してくれて、ありがとう」

 お礼を言って、舞菜香が手をヒラヒラさせる。
 舞菜香の両親とも顔なじみの莉子は、「おじさん、おばさんにもよろしくね」と言って、手を振り去っていく。
 そんな彼女を見送った後、舞菜香はこれからどうしたものかと考える。
 実のところ、莉子にはもう帰ると話したけど、親には今日は外泊すると伝えているので、なんとなく帰りにくい。
 舞菜香にだってプライドはあるのだ。
 近いうちに栄一と別れたことは話すにしても、誕生日前日にフラれたという事実は隠しておきたい。
 ――適当なネットカフェで一夜を明かすか、ビジネスホテルに飛び込みで空きを聞くか……
 どちらにせよ、二十八歳の誕生日を迎える夜の過ごし方としてはかなり虚しい。
 気持ちを立て直したつもりでも、一人になると、自分の置かれている状況に情けなさが込み上げてくる。誕生日を目前に、恋人を知人に寝取られたのだ。傷付いていないはずがない。

「せっかくだから、もう一軒くらい、どこかお洒落なお店で飲んでから宿を決めようかな」

 すぐ近くに花いちがあるけど、油断したら泣いてしまいそうなので、今日は違う店にしよう。
 気を抜くとうるみ始める涙腺をどうにかなだめて、スマホを取り出す。

「どこで飲もうかな」

 舞菜香が明るい声で呟いてスマホを操作していると、「あれ?」という声が降ってきた。
 顔を上げると、自分の前に見目麗しい男性の顔があった。

「榛原さん」

 先日知ったばかりの男性の名前を口にすると、彼、裕弥は優しく目を細めた。

「これから待ち合わせ?」
「えっと、お店を探そうかなと……」

 思いがけない場所での遭遇に驚き、誤魔化す言葉も思いつかず素直に認める。
 それを聞いて、裕弥の表情に微かな驚きが浮かんだ。
 どうしたのかと思っていると、彼が言う。

「誕生日は、恋人に祝ってもらうと以前話していたと思うのだが……」

 先日、花いちで遭遇した時の莉子との会話を記憶していたのだろう。
 裕弥が怪訝けげんな顔をする。
 その言葉に、栄一の裏切りを想像もしていなかった頃の自分を思い出し、不覚にも先ほどこらえた涙が込み上げてくる。

「……あっ」

 慌てて目元を押さえたけれど、もう遅い。
 溢れ出した涙が、頬を伝う。

「橋詰さん?」

 裕弥が驚いた声を上げる。
 偶然見かけたから声をかけただけの知り合いに、突然泣かれては驚くだろう。
 ――あれ? 私あの時に自己紹介したっけ?
 ふとそんなことを考えて、そういえば先日彼に食事代を支払ってもらったことを思い出す。

「そうだ。先日は、食事をおごっていただいてありがとうございました。今度、花いちでお会いした時に、お礼をさせてください」

 視線を落とし、早口でそれだけ言うとそのまま立ち去ろうと彼に背を向ける。

「ちょっと待って」

 そんな舞菜香の腕を、裕弥が掴む。
 舞菜香が振り返ると、裕弥が息を吐く。

「それじゃあまた……って雰囲気じゃないだろ。俺でよければ話を聞くけど」
「わざわざ話すようなことでもないので」

 舞菜香は消え入りそうな声で答える。
 誕生日直前に恋人を寝取られたなんて話、聞かされても彼が困るだけだ。
 舞菜香がうつむき黙っていると、彼が数秒考え込む。
 そして「わかった」と呟くと、舞菜香の腕を掴む手の力を強くする。

「え?」

 てっきり手を離してもらえると思っていた舞菜香が驚いて顔を上げると、裕弥が言う。

「じゃあ、この前のお礼として、俺に一杯付き合ってくれ。知り合いに約束をすっぽかされて、この後どうしようかと悩んでいたところなんだ」

 そう言って舞菜香を飲みに誘う裕弥は、「そこで、気が向いたら君の話を聞かせてくれ」と付け足す。

「私の話なんて、聞いても楽しくないですよ」

 この状況で彼と飲んでも、舞菜香には気の利いた話題を提供できる自信はない。
 それどころか、油断するとまた泣いてしまいそうだ。

「せっかくの金曜日の夜を一人で過ごす趣味はないから、付き合ってくれると嬉しい」

 遊び人であることを感じさせる台詞に、そういえば、莉子が裕弥はかなりのモテ男だと話していたことを思い出す。
 視線を上げると、裕弥が優しく微笑みかけてくる。
 端整な顔立ちの彼は、いきなり涙を流した舞菜香に戸惑っている様子はない。
 もしかして遊び慣れている彼には、目の前で突然女性が泣き出すことなんて珍しくもないのだろうか?
 そう思うと、強張っていた体から力が抜ける。
 だから……というわけではないが、上手い断り文句が思いつかなかった舞菜香は、彼の誘いを受け入れることにした。


 裕弥が舞菜香を案内したのは、ホテルに入っているバーラウンジだった。
 高層階にあるその店は、床から天井まで伸びる開放的な窓に、傾斜をつけているのが印象的だ。
 ガラスに傾斜をつけることで店内の照明の反射が抑えられ、夜景がよく見える。
 先ほどまで莉子と食事をしていたレストランも夜景を楽しめたが、ここからの眺めはまた別格だ。
 インバウンドで日本を訪れる海外富裕層をターゲットにしているためか、ラグジュアリーな雰囲気に満ちている。
 二人が案内されたのは、そんな眺望を楽しめる窓辺の席だった。
 小さなテーブルを前に、窓に向かって一人がけのソファーが二脚並べて置かれている席に座り、舞菜香は裕弥と二人でグラスを傾けた。
 この配置だと、自然と裕弥と視線を合わせずに話すことができる。少々人見知りの傾向にある舞菜香としては、初対面に近い彼と過ごすにはそれが心地良かった。
 裕弥が聞き上手ということもあるのだろう。
 綺麗な夜景を眺めつつ、やわらかな響きの彼の声に耳を傾けていると、自然と気持ちがほぐれていく。

「簡単に説明すると、誕生日を目前に、知人に恋人を寝取られたんです」

 こんな素敵な店でする話でもないが、裕弥も先ほどの涙の理由が気になるだろうと思い、舞菜香は自分の身に起きたことを簡潔に話した。

「本当に簡単な説明だな」

 裕弥は喉の奥で小さく笑って、手にしているグラスに口をつける。
 彼のその動きにつられて、舞菜香もテーブルに置かれている自分のグラスに手を伸ばした。
 逆に裕弥は手にしていたグラスをテーブルに戻す。
 互いにテーブルに手を伸ばしたことで、自然と裕弥の顔が近くなる。間近で見る造形の整った顔立ちに改めて驚き、思わず肩が跳ねた。
 なんとも初心うぶすぎる自分の反応が恥ずかしくて、舞菜香は慌てて表情を取りつくろう。

「詳しく話すと長くなってしまうので」

 澄ました表情でそう言い、軽く肩をすくめてみせた。
 きちんと説明するには、安達との関係や、舞菜香の家のことまで話す必要が出てくる。美しい夜景を見ながらする話ではないし、先日の長峰のように、苦労したと思われるのも面倒くさい。

「なんにせよ、それはお互いラッキーな話だな」

 ソファーに座り直した裕弥が、背もたれに体を預けてこちらに意味深な眼差しを向ける。

「え?」
「そんな男に、君の時間を消費させる価値はない。別れ話をする面倒が省けてラッキーだったな」

 栄一のことをあっさり切り捨てた裕弥は、「それに」と言いながら、自分の鼻を指で軽く叩いた。

「そいつが愚かなおかげで、俺に君を口説くチャンスが回ってきた」

 歯の浮くような台詞を平然と口にして、裕弥は口角を持ち上げた。
 大人の男の色気に満ちた裕弥の笑みに、舞菜香の顔が一気に熱くなる。

「そ、それはどうも」

 こういう時どう返すのが正解かわからず、視線を遠くに向けて素っ気なく返事をする。

「信じてないな」

 舞菜香の反応に、裕弥が苦笑する。
 ――遊び人のリップサービスに自惚うぬぼれるほど愚かじゃないです。
 栄一の手ひどい裏切りを体験したばかりなのだから、なおのことだ。
 でもそれを言葉にするのも彼に失礼かと思い、舞菜香は軽く肩をすくめるだけにしておく。

「ところで榛原さんとは花いちでよく会いますが、近くにお住まいなんですか?」

 莉子のおかげで彼が何者なのかはわかった。
 だが、舞菜香の記憶違いでなければ、花いちの近くにハイバラ電気の関連会社はないはずだ。
 その割に裕弥と鉢合わせする機会が多いので、彼、もしくは彼の恋人の家が近いのだろうかと考えた。
 舞菜香の質問に、裕弥は首を横に振る。

「いや。あの店のオーナーと知り合いで、開店祝いを兼ねて何度か利用していたんだ。店の雰囲気が気に入って、その後も自主的に通っている。和モダンで落ち着けるいい店だ」
「そうなんですね」

 舞菜香ははにかみ、グラスに口をつける。

「自分の手柄を自慢しないのか?」

 甘いカクテルの味を楽しんでいた舞菜香は、弾かれたように彼を見た。
 その視線を受けて、裕弥はイタズラを成功させた子供のような笑顔を見せる。

「オーナーと知り合いだと言っただろう。たまたま橋詰さんが来店しているタイミングで俺が店の内装をめたら、君の仕事だと教えてくれたんだ」

 裕弥より少し年上と思われるオーナーは、店で顔見知りを見つけると一人一人にきちんと挨拶あいさつをしてくれる。
 裕弥もオーナー経由で、舞菜香のことを知ったようだ。
 ――だから榛原さんは、私の名前を知っていたんだ。
 舞菜香もオーナーと顔を合わせれば、挨拶あいさつし雑談を交わすので納得がいった。

「お店の内装をめていただいて嬉しいんですけど、あれは私の手柄ではないんです」
「だったら、自分の会社がした仕事だと自慢すればいい。謙遜は美徳なんて考えはもう古いぞ」
「なんていうか……榛原さんらしいご意見です。知り合ったばかりですし、あくまで印象ですけど」

 強気な表情で話す裕弥の態度に、舞菜香の口からそんな言葉が零れた。
 裕弥とまともに言葉を交わすのはこれが初めてだけど、店でよく見かけていたせいもあるのだろう。
 の強さを隠さず、自分の意見を述べる姿に“彼らしい”という言葉が浮かんだ。

め言葉として受け取っておく」

 裕弥は悪びれる様子もなく、強気な表情で続けた。

「いい仕事をしたら誰かに気付いてもらえる。だから自分たちは、いいものを作り続けていればいい……そんな考えは傲慢だろ」
「傲慢……ですか?」

 自分とは異なる価値観に驚き、舞菜香は瞬きをする。

「今の時代、どんな業界にも良品と粗悪品が混在している。その中で、消費者に対して『ウチの商品は素晴らしいから頑張って見つけろ』『ウチは老舗しにせなのだからわかるだろ』ってふんぞり返ってただ待っている。そんなの傲慢以外のなにものでもないだろ」

 少々苛立った口調で話す裕弥は、「そう会議で話したら、役員共に煙たがられた」と付け足して、話を締めくくる。
 彼の家が経営するハイバラ電気は、日本でも有数の歴史を持つ家電メーカーだ。
 以前舞菜香の部屋のエアコンを買い換える際、母が消費電力やら耐久性やらを比較するために色々パンフレットを集めたくせに、結局面倒になって、『ハイバラ電気のなら間違いないから』といった言葉を口にしていたことを思い出す。
 そんなふうに、ネームバリューだけで自社製品を選んでもらえるなんてすごいことだと思うのだけど、裕弥はそれでは不満らしい。
 そしてそんな彼の態度を、面白く思っていない役員もいるようだ。
 確固たる歴史のある大企業では、裕弥のような存在は少々異端なのだろうか。

「でも最近は、口コミでバズることも多いですよ」

 別に彼の意見を否定するつもりはないが、違う角度の考え方もできると教えたくてそう言ってみる。
 すると裕弥は、強気な表情のまま肩をすくめた。

「自信があるなら、そんな運任せみたいな勝負に頼る必要はない」
「榛原さんの人生、前進あるのみですね」

 どこまでも攻めの姿勢を貫く裕弥に、つい笑ってしまう。
 舞菜香が口元を手で隠してクスクス笑っていると、裕弥が腕を伸ばして手を下ろさせた。

「え?」

 突然のことに驚く舞菜香に、裕弥が言う。

「せっかくの笑った顔を、隠すのは勿体もったいないだろ」

 そしてお手本を見せるかのように、優しい笑顔を舞菜香に向ける。

「仕事でもプライベートでも、もっと自己主張した方がいい。その方が新しい出会いに繋がる。……と、言いたいところだが、プライベートではあまり自己主張されると困るな。せっかく口説いているのに、他の男に横取りされたくはない」

 もちろん後半の台詞は、女性の扱いに慣れている彼のリップサービスだろう。
 それでも彼が自分を気遣ってくれていることが伝わってきて、恋人の手ひどい裏切りに傷付いていた舞菜香の心を癒やしてくれる。

「そんなことばかり言っていると、本気にしますよ」

 もちろん舞菜香なりの冗談だ。
 遊び人の彼が、口説き口調で舞菜香を慰めてくれるから、そのノリに付き合っただけである。
 それは彼も心得ているのだろう。

「本気にしてくれ。俺はずっと君を狙っていたんだ」

 そう言って、掴んだままになっていた舞菜香の手の甲に口付けを落とす。

「――!」

 思いがけない彼の行動に、舞菜香は肩を跳ねさせ、手を引っ込めようとした。だが裕弥がしっかり握って離さない。
 裕弥は、舞菜香の抵抗を気に留める様子もなく続ける。

「さっきも言ったが、俺は謙遜を美徳とは考えていない。相手に損をさせない自信があれば、どんどん攻めることにしている。というわけで、俺と付き合わないか?」

 そう言って、匂い立つような大人の色気に満ちた眼差しを向けてくる。
 もちろんそれは、一夜の戯れを示しているのだろう。
 これまで舞菜香は、男性と誠実な交際を心がけてきた。浮気はもってのほかだし、行きずりの誰かと、一夜限りの関係を楽しもうと思ったことなどない。
 でも今日の自分はいつもとなにかが違う。
 さっき別れ際に莉子が『失恋の傷は、新しい男に癒やしてもらうのが一番だよ』なんて言っていたことを思い出す。
 別に、栄一の手ひどい裏切りで自暴自棄になっているわけではない。純粋に、裕弥の人柄を好ましく思い、舞菜香の感情が動いたのだ。
 不遜でが強く、謙遜なんて言葉を知らない。そんな彼に甘い言葉をささやかれて、女性として自尊心が満たされていく。
 ――榛原さんは、甘い毒みたいな人だわ。
 強烈な存在感で人を引き付けて、甘い言葉で心を鷲掴みにする。
 そんな彼だからこそ、自分らしくないと思いつつ、一夜の夢におぼれたいと考えてしまう。
 舞菜香は裕弥を上目遣いで見つめると、口を開く。

「今日は、家に帰りたくないんです。一緒に私の誕生日を祝ってくれますか?」

 遊び慣れしている彼に、扱いにくい初心うぶな女性と思われたくない。そんな思いから、精一杯の色気を出した舞菜香の様子に、彼が一瞬息を呑む。
 でもすぐに勝者の笑みを浮かべて「仰せのままに」と、宣言した。



   3 一夜の劣情と、その後始末


 バーを出た裕弥は、そのままそのホテルの部屋を取った。
 週末の急な予約で他に空きがなかったのか、彼に肩を抱かれて入った部屋がスイートルームで驚いた。
 チェックインする時に注文したのだろう。部屋に入ってほどなくして、ルームサービスのシャンパンとフルーツが運ばれてきた。

「もう少し飲める?」

 入り口でそれらの品を受け取ると裕弥はリビングスペースに運び、窓辺に立っていた舞菜香に声をかけた。
 そしてそのままソファーに腰を下ろし、自分の隣をポンッと叩く。
 あまりにラグジュアリーな内装に圧倒され、身の置きどころを定められずにいた舞菜香は、おずおずと彼の隣に腰を下ろした。

「そんなに警戒しなくても、いきなり取って食ったりしない」

 裕弥が、からかうような口調で言う。

「警戒しているわけじゃないですけど、ちょっと圧倒されていて」
「圧倒?」

 裕弥が不思議そうに首を傾けるので、舞菜香は室内に視線をめぐらせた。
 それで説明は足りたようだ。

「こう見えて、惚れた女には尽くす主義なんだ」

 裕弥はそう言って、舞菜香にグラスを持たせると、ナプキンでボトルの口元を押さえてシャンパンの栓を抜き、グラスにそそぐ。
 細身のグラスを透明感のある黄金色こがねいろの液体が満たしていくのを、舞菜香は見るとはなしに眺めていた。
 裕弥は腕を伸ばしてテーブルに置いてあったもう一つのグラスにもシャンパンをそそぐと、ボトルを置き、それを手に取る。

「まずは、二人の関係に」

 裕弥は舞菜香が手にしているグラスに、自分が手にしているそれを軽く触れさせた。
 “チンッ”と澄んだ音が、耳に心地良く響く。

「ありがとうございます」

 たった一晩の関係の相手に幾ら使うのだと呆れたくなるが、彼はハイバラ電気の御曹司なのだ。庶民の舞菜香とは経済感覚が違うのだろうから、その辺は考えないことにした。
 この夜を楽しむと決めたのだから、余計なことを考えるのはやめてグラスを口に運んだ。
 舞菜香はあまりお酒の銘柄に詳しくないが、おそらく上質な品なのだろう。癖のない芳醇な液体が、炭酸の刺激と共に喉を撫でていく。

「美味しい」

 グラスの半分ほどを一気に飲み干して、舞菜香が言う。

「気に入ってもらえて良かった」

 シャンパンを注ぎ足しながら、裕弥が嬉しそうに目を細めた。
 なんとなく飼い主にめられて、シッポをブンブン振る犬を思い出させる表情だ。
 完璧といっていいほど魅力的な男性である彼が、自分の発した一言にそんな表情を見せることが面白くて、舞菜香がクスリと笑う。

「なにを笑ってる?」
「秘密です」

 こんなイケメンを捕まえて、『犬みたいで可愛い』なんて、さすがに言えるわけがない。
 舞菜香はシャンパンの残りを飲むことで、彼の質問をはぐらかす。
 そうやってゆっくり二人でアルコールを楽しんでいると、裕弥が舞菜香の頬に手を触れさせた。

「顔が赤くなってきたな」

 優しく自分の頬を撫でる裕弥の手は思いのほか冷たくて、舞菜香の肩が跳ねる。

「冷たい」

 呟くと、裕弥が「舞菜香の体温で温めて」と返す。
 そして舞菜香の手からグラスを取り上げると、それをテーブルに戻して、舞菜香の体を自分の方へ引き寄せる。

「あっ」

 思わず小さな声が漏れたけど、それは彼の行為をこばんでのことじゃない。
 それは裕弥にもわかっているのだろう。そのまま舞菜香の華奢な腰に腕を回すと、自分の膝の上に跨がるようにして座らせる。
 向き合う姿勢で大きく脚を広げたせいで、めくれ上がったスカートから太ももがさらされ恥ずかしい。
 それに、密着している下半身に感じる彼のたかぶりも、舞菜香の緊張を誘う。

「榛原さん」

 にこやかにアルコールと会話を楽しんでいた彼の体が、いつからこんな欲望をたぎらせていたのか全くわからない。

「この状況で、苗字で呼ぶのはやめてくれないか」

 クスリと笑い、裕弥は舞菜香が着ているブラウスのすそをたくし上げ、その中に手を滑り込ませてきた。

「きゃっ」

 アルコールで火照る体には、彼の手がことさら冷たく感じる。
 舞菜香は、裕弥の肩に手をついて背中をらせることで、その手から逃れようとした。だけど彼の膝の上にいるのだから、そんな抵抗はなんの意味もない。

「俺のこと、名前で呼んで」

 甘い声でささやきながら、裕弥は冷たい手で舞菜香の体を抱きしめる。

「はっ、裕弥さん」

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