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1巻
1-1
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プロローグ プロポーズは星の瞬く下で
「水谷乃々香、俺と結婚しないか?」
仕立てのいいスーツに身を包んだモデルかと見紛うような見目麗しい男性が、真っ直ぐに自分を見つめ、プロポーズの言葉を口にする。
年頃の女性として、そんな状況に心ときめかないわけがない。
――だけど、これは違う……
乃々香は、そっと自分のこめかみを揉んだ。
食品販売メーカーに勤務する乃々香は、今年で二十四歳になる。
この年齢になるまで恋愛経験のない自分を残念に思うところはあるが、心がときめく相手に出会えていないのだから仕方ない。
ただそんな乃々香にも結婚願望はあるし、プロポーズは、是非とも最高のシュチュエーションでお願いしたいと思っている。
例えば、夕陽で水面が煌めく海岸、もしくは百万ドルの夜景や満天の星が輝く丘といった美しい景色の中で、運命の恋人が自分に跪き生涯の愛を誓ってくれるとか。
もしくは、数年間付き合った恋人に、自然な感じで「そろそろどう?」とアプローチされるのも悪くない。
ただ、どちらのパターンにたどり着くにしても、自分の願いを叶えるためには、まずは恋人を作るところから始めなくてはいけない。それを承知しているだけに、一足飛びに見目麗しい男性にプロポーズの言葉を囁かれても対応に困る。
「で、アンタの返事は?」
受け入れ難い状況に頭を抱える乃々香の向かいで、優雅にソファーに背中を預ける男性が問いかけてきた。
長い脚を持て余すようにして座る彼を、乃々香は上目遣いに観察する。
スーツの袖口から覗く腕時計は、知識の薄い乃々香でも知る、最低価格で七桁から始まる高級ブランド品だ。
豊かな黒髪をワックスで無造作に遊ばせている前髪の下から覗く眉は形良く整えられていて、瞳には傲慢さを隠さない強気な情熱が滲み出ている。
スッキリと形のいい鼻筋に、薄い唇、意志の強さそのままの切れ長の瞳。色気を感じさせるそれらのパーツが、バランス良く配置されている。そんな彼の顔には、理知的な輝きと共に、野心的な我の強さが見え隠れして、男性的な魅力が溢れていた。
――なるほどあの莉緒が熱を上げるわけだ。
三國享介。今年三十三歳になる、大手医療機器メーカーMKメディカルの御曹司である彼を間近で観察して、乃々香はそう納得する。
でも彼に熱を上げて結婚を熱望しているのは、従姉妹の木崎莉緒であって自分ではない。
乃々香は大きく息を吐いて姿勢を正すと、膝の上で拳を握り締めて口を開く。
「仰っていることがよくわからないです」
凜とした姿勢でそう返す乃々香に、享介は癖のある笑みを浮かべた。
魅力たっぷりな表情であるが、乃々香は胡散臭いものを眺めるように目を細める。
そんな自分の表情を真似るように、享介も目を細めた。癖のあるその笑い方を見るに、たぶんこちらの反応を楽しんでいるのだろう。
「言ったとおりだ。俺と結婚しないかと提案している」
冗談としか思えない彼の言葉に、乃々香は再びこめかみを揉んだ。
「三國さんとは、昨日お会いしたばかりだと思いますが……」
冷静に考えてほしいと、感情を抑えた声を絞り出す乃々香に、享介はイヤイヤそんなことはないだろうと首を振る。
「初対面ってことはないだろ。木崎総合病院の孫娘である君とは、これまでに何度かパーティーで顔を合わせている」
確かにそうだ。
普段は一会社員として質素で堅実な暮らしをしている乃々香だが、母方の祖父が総合病院の院長を務めている関係で、華やかなパーティーに出向くこともある。そうした場所で、彼と顔を合わせたことはあるが、本当にただ面識があるだけといった感じで言葉を交わしたことはない。
それに、問題はそこではないのだ。
乃々香は痙攣する頬を押さえ、穏やかな口調で確認する。
「三國さんは、私の従姉妹の婚約者ですよね?」
そうなのだ。
昨日、早くに両親を亡くした乃々香の親代わりを務める伯父の木崎盛隆夫妻に、従姉妹である莉緒の婚約者を紹介したいと呼び出された。その食事会で、乃々香は享介を紹介されたばかりだ。
今日の彼からの呼び出しに応じたのだって、従姉妹の婚約者として話があると思い込んでのことだった。
それなのに、彼は運ばれてきたコーヒーに口をつける暇も与えず、「俺と結婚しないか」と宣った。
――なにを考えているのだか。
じっとりと物言いたげな眼差しを向けていると、享介が不満げに目を細めて尋ねてくる。
「じゃあ聞くが、アンタには昨日の俺が結婚を受け入れているように見えたか?」
乃々香は虚空を見上げ記憶を巡らせる。
確かに昨日の食事会で、彼は終始不機嫌で莉緒と目を合わせることすら避けている様子だった。
「まあ確かに、でも家同士の結婚としては、珍しくないことですから」
大きな総合病院の院長の孫娘と、大手医療機器メーカーの御曹司。明らかに政略結婚のようなので、二人の間に温度差があっても仕方がない。
肩をすくめてそう話すと、享介は「家族にはめられたんだ」と唸った。
「俺は訳あってMKメディカルを辞めたいんだが、そのことについて話し合おうとしても、家族はのらりくらりと話をかわし、代わりに俺に見合いを進めてくるばかりだ。そんな埒が明かない話し合いが続く中、家族にレストランに呼び出されてみれば、木崎総合病院の院長家族がいたんだ」
そこで享介がこちらを見てくるので、乃々香は「ふむ」と頷いておく。
「すぐに家族にはめられたとわかったが、見合いかと思ったら一足飛ばしでアンタの従姉妹の婚約者として紹介されたんだよ」
ソファーの肘かけに頬杖をついてため息を吐く享介は、うんざりした顔をしている。
なるほど、それは確かに気の毒だ。でもだからといって、それが乃々香にプロポーズする理由にはならない。
あの日、莉緒は、享介のことを自分の未来の夫として誇らしげに紹介してきた。
子供の頃から虚栄心が強く、気位の高い莉緒は、生まれ持っての傲慢な女王様気質で、なかなか底意地が悪い。そして従姉妹である乃々香を目の敵にしている。
だからそんな莉緒が熱を上げている男性にプロポーズされたなんて知られたら、なにをされるかわかったものではない。
――関わらないのが一番。
くるりと思考を巡らせてそう結論付けた乃々香は、儀礼的に頭を下げる。
「先ほどのお話は、お断りさせていただきます。話がそれだけでしたら、私はこれで」
話を早々に切り上げ、乃々香は自分のコーヒー代を置いて立ち上がろうとした。でも乃々香がテーブルについた手に、享介は素早く自分の手を重ねてテーブルに縫い付ける。
プロポーズの場には不似合いな、剣呑な視線を互いに送り合うこと数秒、享介が目を三日月にして微笑む。
「俺と結婚すれば、アンタも面倒な縁談から解放されて助かるんじゃないのか? それとも、いい年して親の脛を齧っているようなバカ息子と結婚したいのか?」
「う……っ」
その言葉に昨日から続く悪夢を思い出してしまう。
昨日の食事会で結婚の話が持ち上がったのは、莉緒だけではない。何故か伯母の和奏から、莉緒のついでに乃々香の縁談も決めておいたと言われたのだ。
しかも相手は、三十を過ぎても就職することなく、親の財産で遊び歩いているような人間で、堅実に生きる乃々香とは相容れるタイプではない。
「その件に関しては、きちんとお断りをしてきました」
どう考えても好感を持てない相手との縁談を「乃々香にピッタリの縁談だ」と言い張り、結婚に向けて退職まで勧めてくる伯母にも、その尻馬に乗ってはしゃぐ莉緒にも嫌悪の念を持ってしまう。
こちらの気持ちを無視して好き勝手に縁談を進められては堪らないので、乃々香は「結婚なんてする気はない」「結婚するにしても、相手は自分で決めるからほっといてほしい」と宣言して、食事会を途中退席したのだった。
思い出すのも不愉快である。
その話には触れてほしくないと睨む乃々香に、享介がやれやれといった感じで首を振って意地悪く笑う。
「あの親子が、アンタにどれだけの敬意を払ってくれる? それを考えずに、あんな過剰反応を見せたら、かえってあの二人の加虐心を煽ったんじゃないのか?」
「……」
その言葉に血の気が引き、視界がぐらりと揺れた。
確かにそのとおりだ。
下手に反応しては相手の思う壺。普段は自分にそう言い聞かせて、無反応を貫いているのに、昨日のあれはまずかったかもしれない。
中途半端に腰を浮かしていた乃々香が脱力して椅子に腰を落とすと、享介は手を離してテーブルの注文票を持って立ち上がる。
「今日はとりあえずの挨拶だ。次に来る時は、もっとアンタの興味を引ける交渉条件を用意してこよう」
突拍子もない申し出をしてきた上に、余裕しゃくしゃくな態度が腹立たしい。
「三國さんは、女心というものをもっと勉強した方がいいと思います」
苛立ちからそんな台詞を吐いてしまうが、それさえも彼を楽しませるだけだったようだ。
「未来の花嫁のために善処しよう」
悪びれる様子もなくそう返した享介は、悔しいが華のある大変な男前である。
そう感じたのは乃々香だけではないらしく、周囲の女性がざわめいた。
注目されることに慣れている様子の享介は、周囲のざわつきを気にすることなく大股でレジへ向かい、二人分の会計を済ますとそのまま店を出ていってしまった。
取り残された乃々香は、ちらほら聞こえてくる「プロポーズされてた」「いいな」といった周囲の無責任な囁きに、「あり得ない」と心の中で叫びつつ首を振るのだった。
1 プロポーズ・take2
ゲリラ攻撃のようなプロポーズの翌日、いつもどおり黙々と仕事をこなしていた乃々香は、朝から取り掛かっていたデータ整理にキリのついたタイミングで、大きく伸びをした。
乃々香が勤めるソレイユ・キッチンは、旬の食材をメインにしたレシピをデジタル配信すると共に、バリエーションに富んだ料理のミールキットを製造販売している。
そのため社員は、デスクワークの他に調理室で料理法を撮影していたり、仕入れ先の新規開拓で地方に出張していたりと忙しく動き回っている上、今はちょうど分散して夏季休暇を取り始める時期に入っているので、オフィスはいつも以上に人がまばらだ。
乃々香は近くの席で作業していた同僚で友人の石原里奈にひと休みすると伝えて、休憩スペースへ足を向ける。
社会人二年目の乃々香は、まだまだ半人前扱いされることも多いが、会社自体が若いことと料理の手際のよさを買われて、色々な経験を積ませてもらっている。
そのおかげで、かなり充実した日々を送っていた。
――だから、結婚して仕事を辞めるなんてあり得ない。
握り拳を作って下唇を噛んだ乃々香は、一昨日の木崎家での食事会を思い出した。
◇ ◇ ◇
就職を機に実家を離れ一人暮らしを始めた乃々香に、疎遠になりつつあった実家の伯母から電話があったのは、食事会当日の朝のことだった。
子供の頃に両親を交通事故で亡くした乃々香は、大きな総合病院を営む母方の祖父母の家に引き取られた。そこには伯父家族も同居していたのだが、伯母の木崎和奏とその娘である従姉妹の莉緒には随分と辛辣な扱いを受けてきた。できることなら、家を出てまで関わり合いになりたくなかったが、招待を受けて応じないのもそれはそれで面倒なことになる。
とりあえず食事会の場所が、前々から行ってみたいと思っていたレストランだったので、料理を楽しめばいいと自分を納得させて出かけたのだ。
「遅れて申し訳ありません」
あまり早く行って絡まれるのも面倒と、わざと少し時間を遅らせて指定されたレストランを訪れた乃々香は、案内してくれたスタッフが椅子を引いてくれるのを待ちながら小首をかしげる。
レストランの個室を貸し切っての食事会、乃々香が座る木崎家の側には、乃々香の他に伯父の盛隆と妻の和奏、その娘の莉緒が座っている。もう一人の従兄弟である拓実と祖父の姿はない。
二人とも医師をしていて、その多忙さを口実に和奏との関わりを最小限にとどめているので、こういった会を欠席するのは珍しくはない。
――おじい様には会いたかったな……
椅子が用意されていないということは、最初から出席する予定がなかったのだろう。
もしかしたら、そのどちらかが急に欠席することになって頭数を揃えるために、急遽乃々香を呼び出したのかもしれない。
「本当に、色々とだらしない娘でお恥ずかしい限りです」
木崎家の一番末席の椅子に腰を下ろした乃々香が膝にナプキンを広げていると、伯母が言う。
その言葉に乃々香の隣の莉緒が嘲りの笑みを漏らした。それで、「だらしない」と評されたのが遅刻してきた自分だと理解してため息を吐く。
無我の境地で、乃々香は長いテーブルを挟んだ向かい側を見る。そこには年配の男女が二人だけで、莉緒のフィアンセとやらの姿はなかった。もう一人分のセッティングがされているので、遅れてくるのだろう。
「私の夫になる人は、アンタと違って忙しくて遅れているの」
周囲を窺う乃々香に気付き、莉緒が尖った声で囁く。
その声につられて視線を向けると、手の込んだ派手なメイクの莉緒と目が合った。
ほっそりとした首筋を強調するVネックのドレスは、彼女のボディーラインを強調するタイトなものだ。人目を引くデザインだが、結婚に向けての両家の顔合わせの席で着るには官能的すぎるのではないだろうか。
そんなこと思いつつ視線を巡らせると、意地悪な笑みを浮かべた伯母と目が合った。この伯母は、美容に対する意識が高く、同世代の女性よりもかなり若い印象を受ける。そして莉緒同様、こういう席には不向きな派手なドレスを身に纏っていた。
こちらの視線に気付いた伯母が、乃々香に向けてニッと口角を持ち上げる。
子供の頃から散々自分を目の敵にしてきた彼女のその意地の悪い笑い方に、背筋に冷たいものが走り、なにやら悪だくみをされているのではないかと警戒してしまう。
その時、扉をノックする音が響き、「お連れのお客様が見えました」というスタッフの声が続く。
そして扉の向こうから姿を見せた男性の顔を見て、乃々香は少しだけ驚きを覚えた。
三國享介。パーティーなどの席で時折顔を合わせる彼は、噂話に疎い乃々香でもその名前を知っているほど、人の目を引く存在である。
莉緒が彼に熱を上げていたのは知っていたが、いつの間に婚約まで漕ぎ着けたのかと素直に驚いた。
もしかしたら今日の食事会に乃々香を呼び出したのは、欠員補充のためではなく、意中の彼を手に入れたことを自慢するためなのかもしれない。
「これは……」
パーティーで見かける時に比べると洒落っ気のないスタンダードなスーツを品よく着こなす彼は、個室の入り口で驚いた様子で目を瞬かせ、乃々香と莉緒を見比べた。
そして怪訝な表情のまま空いている席に腰を下ろす。
彼と向き合う形になった莉緒は、ご機嫌な様子で姿勢を正してよそいきの微笑みを浮かべる。だが、その微笑みを向けられた享介は、相変わらずなんともいえないような顔で乃々香と莉緒を見比べていた。
「……?」
享介の表情に、乃々香もなんとなくだが違和感を覚えた。
今日は両家の顔合わせのはずなのに、当の享介がこの状況を把握できていないように見える。
なんだか、自分の婚約者がどちらなのかすらもわかっていないみたいだ。
――さすがにそれはないよね……
なんにせよ、自分にとっては他人事。
今日の自分は、伯母の機嫌を損ねないよう隅でおとなしくしていればいいのだ。そのついでに、人気店の料理を楽しもうと気持ちを切り替える。
もともと料理は好きだし、食品関係の仕事をしていることもあり、美味しいものを前にすればそれだけで心が弾む。乃々香はそのまま黙々と食事を進めた。
二つ向こうの席から自分を好き勝手に貶す伯母の声が聞こえてくるが、美味しい料理の代金変わりと割り切って右から左に聞き流した。
突き出しを意味するアミューズから始まったコース料理がソルベに差しかかったタイミングで、莉緒の婚約者として紹介された享介がギョッと目を見開き、次の瞬間、自分の両親を睨んでいたが、それも乃々香には関係のないこと。
――つまりは政略結婚なんだろうな……
乃々香は食事を進めつつ、享介と莉緒の関係にそう当たりをつける。
彼の家――三國家は、大手の医療機器メーカーなので、医師会で一目置かれる祖父との繋がりを得るためにこの縁談が調ったのかもしれない。
そう考えると、二人の温度差や、享介のよそよそしい態度にも納得がいく。
それなりに恋愛や結婚に憧れを抱く乃々香には理解し難い考え方だし、莉緒の性格を知っている身としては、結婚した享介の苦労が目に見えているだけに気の毒に思う。
価値観は人それぞれ、もちろん乃々香が口を挟むようなことではない。だけど……
――ご愁傷様です。
「クッ」
ついなんとなく、享介に視線を向けて合掌してしまう。すると、彼が思わずといった感じで噴き出した。
その動きに周囲の視線が集まると、享介は拳を口元に添えて咳払いで誤魔化すが、拳の陰から覗く口元は笑ったままだ。
周囲には「失礼」と詫びつつ、乃々香に視線を向けてくる。
「――っ」
意志が強そうな彼の眼差しに、乃々香の心に奇妙な漣が走った。
何気なく見せるその表情は確かに魅力的で、彼に熱を上げる莉緒の気持ちが少しだけ理解できた。
――ズルいと思ってしまうくらい、魅力的な人だな……
思わずそのまま見つめ合っていると、咳払いをした伯母が「そうそう、忘れていたわ」と、声を上げる。
そのまま伯母は、テーブルに手をついて乃々香に視線を向けてきた。
乃々香を見る眼差しは意地悪く、前屈みの姿勢も相まって、獲物をなぶる猫を連想させる。
嫌な予感を覚えて身構える乃々香に、伯母は両方の口角を持ち上げてニヤリと笑った。
「乃々香の結婚相手も、見つけておいてあげたから」
「はい?」
意味がわからない。
青天の霹靂――その一言に尽きる伯母の発言に乃々香の思考が停止する。その間に、伯母は嬉々として評判のよろしくない不動産成金のバカ息子の名前を口にした。そして結婚に向けて、今すぐにでも退職しろと言ってきたのだ。
「あら、乃々香にはお似合いじゃない」
そうはしゃいだ声を上げたのは、莉緒だ。
一番奥に見える伯父が驚きの表情を浮かべているので、この縁談は伯父も聞かされていなかったらしい。
「冗談じゃないですっ!」
一瞬遅れて思考が追いついた乃々香は、テーブルに手をついて勢いよく立ち上がった。
その拍子に座っていた椅子がひっくり返ったが、そんなことには構っていられない。
「まあ、品のない子」
口元を手で隠して大袈裟に呆れる伯母に同調して、「そんなんだから、ママが世話を焼かなきゃ結婚相手も見つけられないのよ」と、莉緒がこちらを嘲笑う。
普段、伯母と莉緒の理不尽な嫌がらせは、極力聞き流すようにしている乃々香だが、さすがにこれは無理だった。
「私はまだ、結婚する気はありません。もし結婚するとしても、相手は自分で見つけます」
そう宣言しても、「そんなワガママ、私が許さないから」と言うだけで、伯母に聞き入れてくれる気配はない。
それどころか、感謝の意を示さない乃々香を非難するような言葉まで口にする。
――これでは話にならない……
彼女の底意地の悪さを理解しているだけに、瞬時にそれが理解できてしまう。
「失礼します」
ここで感情的に騒いでも、無駄に彼女たちを喜ばせるだけだ。乃々香はせめてもの意思表示として、そのまま部屋の出入り口へ向かう。
乃々香の態度を非難する伯母の声にチラリと後ろを向くと、面白そうな顔をしてこちらに小さく手を振っている享介と目が合った。
人の不幸を面白がる享介にムッとして、乃々香は伯母に見えないように注意しながら彼にあかんべーをして扉を閉めた。
◇ ◇ ◇
扉を閉めても聞こえてきた自分を罵る声を思い出し、乃々香は耳朶を揉んでため息を漏らした。
「いい加減、私を目の敵にするのはやめてほしいな」
結婚前は木崎総合病院で看護師として働いていた伯母は、未来の院長である伯父の盛隆に見染められて結婚した。
結婚当初は、献身的な良妻であった伯母は、息子の拓実を産んだ頃から徐々に豹変していったのだという。
病院の跡取り息子を産んだという自信か、仕事第一主義で家庭を省みない夫に腹を立てたのか、第二子である莉緒を産む頃には、亡くなった祖母に代わり家庭内を掌握するにとどまらず、病院の経営方針にまで口を出すようになった。今では陰で木崎総合病院の女帝と囁かれるほど傲慢な振る舞いを繰り返しているらしい。
「水谷乃々香、俺と結婚しないか?」
仕立てのいいスーツに身を包んだモデルかと見紛うような見目麗しい男性が、真っ直ぐに自分を見つめ、プロポーズの言葉を口にする。
年頃の女性として、そんな状況に心ときめかないわけがない。
――だけど、これは違う……
乃々香は、そっと自分のこめかみを揉んだ。
食品販売メーカーに勤務する乃々香は、今年で二十四歳になる。
この年齢になるまで恋愛経験のない自分を残念に思うところはあるが、心がときめく相手に出会えていないのだから仕方ない。
ただそんな乃々香にも結婚願望はあるし、プロポーズは、是非とも最高のシュチュエーションでお願いしたいと思っている。
例えば、夕陽で水面が煌めく海岸、もしくは百万ドルの夜景や満天の星が輝く丘といった美しい景色の中で、運命の恋人が自分に跪き生涯の愛を誓ってくれるとか。
もしくは、数年間付き合った恋人に、自然な感じで「そろそろどう?」とアプローチされるのも悪くない。
ただ、どちらのパターンにたどり着くにしても、自分の願いを叶えるためには、まずは恋人を作るところから始めなくてはいけない。それを承知しているだけに、一足飛びに見目麗しい男性にプロポーズの言葉を囁かれても対応に困る。
「で、アンタの返事は?」
受け入れ難い状況に頭を抱える乃々香の向かいで、優雅にソファーに背中を預ける男性が問いかけてきた。
長い脚を持て余すようにして座る彼を、乃々香は上目遣いに観察する。
スーツの袖口から覗く腕時計は、知識の薄い乃々香でも知る、最低価格で七桁から始まる高級ブランド品だ。
豊かな黒髪をワックスで無造作に遊ばせている前髪の下から覗く眉は形良く整えられていて、瞳には傲慢さを隠さない強気な情熱が滲み出ている。
スッキリと形のいい鼻筋に、薄い唇、意志の強さそのままの切れ長の瞳。色気を感じさせるそれらのパーツが、バランス良く配置されている。そんな彼の顔には、理知的な輝きと共に、野心的な我の強さが見え隠れして、男性的な魅力が溢れていた。
――なるほどあの莉緒が熱を上げるわけだ。
三國享介。今年三十三歳になる、大手医療機器メーカーMKメディカルの御曹司である彼を間近で観察して、乃々香はそう納得する。
でも彼に熱を上げて結婚を熱望しているのは、従姉妹の木崎莉緒であって自分ではない。
乃々香は大きく息を吐いて姿勢を正すと、膝の上で拳を握り締めて口を開く。
「仰っていることがよくわからないです」
凜とした姿勢でそう返す乃々香に、享介は癖のある笑みを浮かべた。
魅力たっぷりな表情であるが、乃々香は胡散臭いものを眺めるように目を細める。
そんな自分の表情を真似るように、享介も目を細めた。癖のあるその笑い方を見るに、たぶんこちらの反応を楽しんでいるのだろう。
「言ったとおりだ。俺と結婚しないかと提案している」
冗談としか思えない彼の言葉に、乃々香は再びこめかみを揉んだ。
「三國さんとは、昨日お会いしたばかりだと思いますが……」
冷静に考えてほしいと、感情を抑えた声を絞り出す乃々香に、享介はイヤイヤそんなことはないだろうと首を振る。
「初対面ってことはないだろ。木崎総合病院の孫娘である君とは、これまでに何度かパーティーで顔を合わせている」
確かにそうだ。
普段は一会社員として質素で堅実な暮らしをしている乃々香だが、母方の祖父が総合病院の院長を務めている関係で、華やかなパーティーに出向くこともある。そうした場所で、彼と顔を合わせたことはあるが、本当にただ面識があるだけといった感じで言葉を交わしたことはない。
それに、問題はそこではないのだ。
乃々香は痙攣する頬を押さえ、穏やかな口調で確認する。
「三國さんは、私の従姉妹の婚約者ですよね?」
そうなのだ。
昨日、早くに両親を亡くした乃々香の親代わりを務める伯父の木崎盛隆夫妻に、従姉妹である莉緒の婚約者を紹介したいと呼び出された。その食事会で、乃々香は享介を紹介されたばかりだ。
今日の彼からの呼び出しに応じたのだって、従姉妹の婚約者として話があると思い込んでのことだった。
それなのに、彼は運ばれてきたコーヒーに口をつける暇も与えず、「俺と結婚しないか」と宣った。
――なにを考えているのだか。
じっとりと物言いたげな眼差しを向けていると、享介が不満げに目を細めて尋ねてくる。
「じゃあ聞くが、アンタには昨日の俺が結婚を受け入れているように見えたか?」
乃々香は虚空を見上げ記憶を巡らせる。
確かに昨日の食事会で、彼は終始不機嫌で莉緒と目を合わせることすら避けている様子だった。
「まあ確かに、でも家同士の結婚としては、珍しくないことですから」
大きな総合病院の院長の孫娘と、大手医療機器メーカーの御曹司。明らかに政略結婚のようなので、二人の間に温度差があっても仕方がない。
肩をすくめてそう話すと、享介は「家族にはめられたんだ」と唸った。
「俺は訳あってMKメディカルを辞めたいんだが、そのことについて話し合おうとしても、家族はのらりくらりと話をかわし、代わりに俺に見合いを進めてくるばかりだ。そんな埒が明かない話し合いが続く中、家族にレストランに呼び出されてみれば、木崎総合病院の院長家族がいたんだ」
そこで享介がこちらを見てくるので、乃々香は「ふむ」と頷いておく。
「すぐに家族にはめられたとわかったが、見合いかと思ったら一足飛ばしでアンタの従姉妹の婚約者として紹介されたんだよ」
ソファーの肘かけに頬杖をついてため息を吐く享介は、うんざりした顔をしている。
なるほど、それは確かに気の毒だ。でもだからといって、それが乃々香にプロポーズする理由にはならない。
あの日、莉緒は、享介のことを自分の未来の夫として誇らしげに紹介してきた。
子供の頃から虚栄心が強く、気位の高い莉緒は、生まれ持っての傲慢な女王様気質で、なかなか底意地が悪い。そして従姉妹である乃々香を目の敵にしている。
だからそんな莉緒が熱を上げている男性にプロポーズされたなんて知られたら、なにをされるかわかったものではない。
――関わらないのが一番。
くるりと思考を巡らせてそう結論付けた乃々香は、儀礼的に頭を下げる。
「先ほどのお話は、お断りさせていただきます。話がそれだけでしたら、私はこれで」
話を早々に切り上げ、乃々香は自分のコーヒー代を置いて立ち上がろうとした。でも乃々香がテーブルについた手に、享介は素早く自分の手を重ねてテーブルに縫い付ける。
プロポーズの場には不似合いな、剣呑な視線を互いに送り合うこと数秒、享介が目を三日月にして微笑む。
「俺と結婚すれば、アンタも面倒な縁談から解放されて助かるんじゃないのか? それとも、いい年して親の脛を齧っているようなバカ息子と結婚したいのか?」
「う……っ」
その言葉に昨日から続く悪夢を思い出してしまう。
昨日の食事会で結婚の話が持ち上がったのは、莉緒だけではない。何故か伯母の和奏から、莉緒のついでに乃々香の縁談も決めておいたと言われたのだ。
しかも相手は、三十を過ぎても就職することなく、親の財産で遊び歩いているような人間で、堅実に生きる乃々香とは相容れるタイプではない。
「その件に関しては、きちんとお断りをしてきました」
どう考えても好感を持てない相手との縁談を「乃々香にピッタリの縁談だ」と言い張り、結婚に向けて退職まで勧めてくる伯母にも、その尻馬に乗ってはしゃぐ莉緒にも嫌悪の念を持ってしまう。
こちらの気持ちを無視して好き勝手に縁談を進められては堪らないので、乃々香は「結婚なんてする気はない」「結婚するにしても、相手は自分で決めるからほっといてほしい」と宣言して、食事会を途中退席したのだった。
思い出すのも不愉快である。
その話には触れてほしくないと睨む乃々香に、享介がやれやれといった感じで首を振って意地悪く笑う。
「あの親子が、アンタにどれだけの敬意を払ってくれる? それを考えずに、あんな過剰反応を見せたら、かえってあの二人の加虐心を煽ったんじゃないのか?」
「……」
その言葉に血の気が引き、視界がぐらりと揺れた。
確かにそのとおりだ。
下手に反応しては相手の思う壺。普段は自分にそう言い聞かせて、無反応を貫いているのに、昨日のあれはまずかったかもしれない。
中途半端に腰を浮かしていた乃々香が脱力して椅子に腰を落とすと、享介は手を離してテーブルの注文票を持って立ち上がる。
「今日はとりあえずの挨拶だ。次に来る時は、もっとアンタの興味を引ける交渉条件を用意してこよう」
突拍子もない申し出をしてきた上に、余裕しゃくしゃくな態度が腹立たしい。
「三國さんは、女心というものをもっと勉強した方がいいと思います」
苛立ちからそんな台詞を吐いてしまうが、それさえも彼を楽しませるだけだったようだ。
「未来の花嫁のために善処しよう」
悪びれる様子もなくそう返した享介は、悔しいが華のある大変な男前である。
そう感じたのは乃々香だけではないらしく、周囲の女性がざわめいた。
注目されることに慣れている様子の享介は、周囲のざわつきを気にすることなく大股でレジへ向かい、二人分の会計を済ますとそのまま店を出ていってしまった。
取り残された乃々香は、ちらほら聞こえてくる「プロポーズされてた」「いいな」といった周囲の無責任な囁きに、「あり得ない」と心の中で叫びつつ首を振るのだった。
1 プロポーズ・take2
ゲリラ攻撃のようなプロポーズの翌日、いつもどおり黙々と仕事をこなしていた乃々香は、朝から取り掛かっていたデータ整理にキリのついたタイミングで、大きく伸びをした。
乃々香が勤めるソレイユ・キッチンは、旬の食材をメインにしたレシピをデジタル配信すると共に、バリエーションに富んだ料理のミールキットを製造販売している。
そのため社員は、デスクワークの他に調理室で料理法を撮影していたり、仕入れ先の新規開拓で地方に出張していたりと忙しく動き回っている上、今はちょうど分散して夏季休暇を取り始める時期に入っているので、オフィスはいつも以上に人がまばらだ。
乃々香は近くの席で作業していた同僚で友人の石原里奈にひと休みすると伝えて、休憩スペースへ足を向ける。
社会人二年目の乃々香は、まだまだ半人前扱いされることも多いが、会社自体が若いことと料理の手際のよさを買われて、色々な経験を積ませてもらっている。
そのおかげで、かなり充実した日々を送っていた。
――だから、結婚して仕事を辞めるなんてあり得ない。
握り拳を作って下唇を噛んだ乃々香は、一昨日の木崎家での食事会を思い出した。
◇ ◇ ◇
就職を機に実家を離れ一人暮らしを始めた乃々香に、疎遠になりつつあった実家の伯母から電話があったのは、食事会当日の朝のことだった。
子供の頃に両親を交通事故で亡くした乃々香は、大きな総合病院を営む母方の祖父母の家に引き取られた。そこには伯父家族も同居していたのだが、伯母の木崎和奏とその娘である従姉妹の莉緒には随分と辛辣な扱いを受けてきた。できることなら、家を出てまで関わり合いになりたくなかったが、招待を受けて応じないのもそれはそれで面倒なことになる。
とりあえず食事会の場所が、前々から行ってみたいと思っていたレストランだったので、料理を楽しめばいいと自分を納得させて出かけたのだ。
「遅れて申し訳ありません」
あまり早く行って絡まれるのも面倒と、わざと少し時間を遅らせて指定されたレストランを訪れた乃々香は、案内してくれたスタッフが椅子を引いてくれるのを待ちながら小首をかしげる。
レストランの個室を貸し切っての食事会、乃々香が座る木崎家の側には、乃々香の他に伯父の盛隆と妻の和奏、その娘の莉緒が座っている。もう一人の従兄弟である拓実と祖父の姿はない。
二人とも医師をしていて、その多忙さを口実に和奏との関わりを最小限にとどめているので、こういった会を欠席するのは珍しくはない。
――おじい様には会いたかったな……
椅子が用意されていないということは、最初から出席する予定がなかったのだろう。
もしかしたら、そのどちらかが急に欠席することになって頭数を揃えるために、急遽乃々香を呼び出したのかもしれない。
「本当に、色々とだらしない娘でお恥ずかしい限りです」
木崎家の一番末席の椅子に腰を下ろした乃々香が膝にナプキンを広げていると、伯母が言う。
その言葉に乃々香の隣の莉緒が嘲りの笑みを漏らした。それで、「だらしない」と評されたのが遅刻してきた自分だと理解してため息を吐く。
無我の境地で、乃々香は長いテーブルを挟んだ向かい側を見る。そこには年配の男女が二人だけで、莉緒のフィアンセとやらの姿はなかった。もう一人分のセッティングがされているので、遅れてくるのだろう。
「私の夫になる人は、アンタと違って忙しくて遅れているの」
周囲を窺う乃々香に気付き、莉緒が尖った声で囁く。
その声につられて視線を向けると、手の込んだ派手なメイクの莉緒と目が合った。
ほっそりとした首筋を強調するVネックのドレスは、彼女のボディーラインを強調するタイトなものだ。人目を引くデザインだが、結婚に向けての両家の顔合わせの席で着るには官能的すぎるのではないだろうか。
そんなこと思いつつ視線を巡らせると、意地悪な笑みを浮かべた伯母と目が合った。この伯母は、美容に対する意識が高く、同世代の女性よりもかなり若い印象を受ける。そして莉緒同様、こういう席には不向きな派手なドレスを身に纏っていた。
こちらの視線に気付いた伯母が、乃々香に向けてニッと口角を持ち上げる。
子供の頃から散々自分を目の敵にしてきた彼女のその意地の悪い笑い方に、背筋に冷たいものが走り、なにやら悪だくみをされているのではないかと警戒してしまう。
その時、扉をノックする音が響き、「お連れのお客様が見えました」というスタッフの声が続く。
そして扉の向こうから姿を見せた男性の顔を見て、乃々香は少しだけ驚きを覚えた。
三國享介。パーティーなどの席で時折顔を合わせる彼は、噂話に疎い乃々香でもその名前を知っているほど、人の目を引く存在である。
莉緒が彼に熱を上げていたのは知っていたが、いつの間に婚約まで漕ぎ着けたのかと素直に驚いた。
もしかしたら今日の食事会に乃々香を呼び出したのは、欠員補充のためではなく、意中の彼を手に入れたことを自慢するためなのかもしれない。
「これは……」
パーティーで見かける時に比べると洒落っ気のないスタンダードなスーツを品よく着こなす彼は、個室の入り口で驚いた様子で目を瞬かせ、乃々香と莉緒を見比べた。
そして怪訝な表情のまま空いている席に腰を下ろす。
彼と向き合う形になった莉緒は、ご機嫌な様子で姿勢を正してよそいきの微笑みを浮かべる。だが、その微笑みを向けられた享介は、相変わらずなんともいえないような顔で乃々香と莉緒を見比べていた。
「……?」
享介の表情に、乃々香もなんとなくだが違和感を覚えた。
今日は両家の顔合わせのはずなのに、当の享介がこの状況を把握できていないように見える。
なんだか、自分の婚約者がどちらなのかすらもわかっていないみたいだ。
――さすがにそれはないよね……
なんにせよ、自分にとっては他人事。
今日の自分は、伯母の機嫌を損ねないよう隅でおとなしくしていればいいのだ。そのついでに、人気店の料理を楽しもうと気持ちを切り替える。
もともと料理は好きだし、食品関係の仕事をしていることもあり、美味しいものを前にすればそれだけで心が弾む。乃々香はそのまま黙々と食事を進めた。
二つ向こうの席から自分を好き勝手に貶す伯母の声が聞こえてくるが、美味しい料理の代金変わりと割り切って右から左に聞き流した。
突き出しを意味するアミューズから始まったコース料理がソルベに差しかかったタイミングで、莉緒の婚約者として紹介された享介がギョッと目を見開き、次の瞬間、自分の両親を睨んでいたが、それも乃々香には関係のないこと。
――つまりは政略結婚なんだろうな……
乃々香は食事を進めつつ、享介と莉緒の関係にそう当たりをつける。
彼の家――三國家は、大手の医療機器メーカーなので、医師会で一目置かれる祖父との繋がりを得るためにこの縁談が調ったのかもしれない。
そう考えると、二人の温度差や、享介のよそよそしい態度にも納得がいく。
それなりに恋愛や結婚に憧れを抱く乃々香には理解し難い考え方だし、莉緒の性格を知っている身としては、結婚した享介の苦労が目に見えているだけに気の毒に思う。
価値観は人それぞれ、もちろん乃々香が口を挟むようなことではない。だけど……
――ご愁傷様です。
「クッ」
ついなんとなく、享介に視線を向けて合掌してしまう。すると、彼が思わずといった感じで噴き出した。
その動きに周囲の視線が集まると、享介は拳を口元に添えて咳払いで誤魔化すが、拳の陰から覗く口元は笑ったままだ。
周囲には「失礼」と詫びつつ、乃々香に視線を向けてくる。
「――っ」
意志が強そうな彼の眼差しに、乃々香の心に奇妙な漣が走った。
何気なく見せるその表情は確かに魅力的で、彼に熱を上げる莉緒の気持ちが少しだけ理解できた。
――ズルいと思ってしまうくらい、魅力的な人だな……
思わずそのまま見つめ合っていると、咳払いをした伯母が「そうそう、忘れていたわ」と、声を上げる。
そのまま伯母は、テーブルに手をついて乃々香に視線を向けてきた。
乃々香を見る眼差しは意地悪く、前屈みの姿勢も相まって、獲物をなぶる猫を連想させる。
嫌な予感を覚えて身構える乃々香に、伯母は両方の口角を持ち上げてニヤリと笑った。
「乃々香の結婚相手も、見つけておいてあげたから」
「はい?」
意味がわからない。
青天の霹靂――その一言に尽きる伯母の発言に乃々香の思考が停止する。その間に、伯母は嬉々として評判のよろしくない不動産成金のバカ息子の名前を口にした。そして結婚に向けて、今すぐにでも退職しろと言ってきたのだ。
「あら、乃々香にはお似合いじゃない」
そうはしゃいだ声を上げたのは、莉緒だ。
一番奥に見える伯父が驚きの表情を浮かべているので、この縁談は伯父も聞かされていなかったらしい。
「冗談じゃないですっ!」
一瞬遅れて思考が追いついた乃々香は、テーブルに手をついて勢いよく立ち上がった。
その拍子に座っていた椅子がひっくり返ったが、そんなことには構っていられない。
「まあ、品のない子」
口元を手で隠して大袈裟に呆れる伯母に同調して、「そんなんだから、ママが世話を焼かなきゃ結婚相手も見つけられないのよ」と、莉緒がこちらを嘲笑う。
普段、伯母と莉緒の理不尽な嫌がらせは、極力聞き流すようにしている乃々香だが、さすがにこれは無理だった。
「私はまだ、結婚する気はありません。もし結婚するとしても、相手は自分で見つけます」
そう宣言しても、「そんなワガママ、私が許さないから」と言うだけで、伯母に聞き入れてくれる気配はない。
それどころか、感謝の意を示さない乃々香を非難するような言葉まで口にする。
――これでは話にならない……
彼女の底意地の悪さを理解しているだけに、瞬時にそれが理解できてしまう。
「失礼します」
ここで感情的に騒いでも、無駄に彼女たちを喜ばせるだけだ。乃々香はせめてもの意思表示として、そのまま部屋の出入り口へ向かう。
乃々香の態度を非難する伯母の声にチラリと後ろを向くと、面白そうな顔をしてこちらに小さく手を振っている享介と目が合った。
人の不幸を面白がる享介にムッとして、乃々香は伯母に見えないように注意しながら彼にあかんべーをして扉を閉めた。
◇ ◇ ◇
扉を閉めても聞こえてきた自分を罵る声を思い出し、乃々香は耳朶を揉んでため息を漏らした。
「いい加減、私を目の敵にするのはやめてほしいな」
結婚前は木崎総合病院で看護師として働いていた伯母は、未来の院長である伯父の盛隆に見染められて結婚した。
結婚当初は、献身的な良妻であった伯母は、息子の拓実を産んだ頃から徐々に豹変していったのだという。
病院の跡取り息子を産んだという自信か、仕事第一主義で家庭を省みない夫に腹を立てたのか、第二子である莉緒を産む頃には、亡くなった祖母に代わり家庭内を掌握するにとどまらず、病院の経営方針にまで口を出すようになった。今では陰で木崎総合病院の女帝と囁かれるほど傲慢な振る舞いを繰り返しているらしい。
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