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1巻
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そんな苛烈な性格の伯母が、拒絶の言葉を口にしたくらいであっさり引き下がってくれるはずもなく、食事会の直後から感情任せなメッセージが数多く届いている。
そんな中、連絡先を教えた覚えのない享介から、乃々香のスマホに「今回の縁談について相談があるので時間をもらえないだろうか」とメッセージが届いた。伯母の差し金かもしれないと思いつつ会うことにしたのは、伯母と顔を合わせるより、彼に伝言を頼んで断った方がマシだと判断したからだ。
そうして仕事終わりに指定されたカフェに赴いたところ、唐突に結婚を申し込まれたから訳がわからない。
もしかしたら自分は、なにか壮大なドッキリに巻き込まれているのではないか……
常識を逸脱した展開に、そんなことを思わなくもないが、あれだけ嫌がる姿を見せてしまえば、伯母は乃々香の縁談を冗談では終わらせてくれないだろう。
どうしたものかとため息を吐く乃々香は、自動販売機で買ったホットのカフェラテを口に運ぶ。
冷房で冷えた体を飲み物で温めていると、休憩スペースに上司の田渕輝弘が顔を覗かせた。
チーフという肩書きで社内では年長者の扱いを受けている田渕だが、それは社員の平均年齢が若いだけで、まだ三十二歳だ。爽やかな見た目で物腰の柔らかな彼は、社内や取引先の女性から非常に人気が高い。
「水谷さん、聞いたよ」
そんな田渕の血相を変えた姿に、乃々香はなにか大きなミスをしてしまったのだろうかと緊張して腰を浮かせる。だけどその後に続く田渕の言葉に、目を瞬かせた。
「おじいさん大丈夫?」
「え?」
最近会っていないが、一昨日の食事会で年齢を感じさせない祖父の手術の回数が話題に上っていたから、もちろん元気だろう。
なにを言われているのかわからず首をかしげる乃々香に、田渕は、神妙な面持ちで言う。
「さっき家の人から電話をもらったんだけど、おじいさんの介護のために会社を辞めるしかないというのは本当かい?」
想像もしていなかった言葉に、乃々香はキョトンとする。
そんな乃々香に、田渕は、先ほど乃々香の親族を名乗る女性から電話があり、体調を崩した祖父の介護のために仕事を辞めたいと思っているが、それを職場に打ち上げられずにいると相談を受けたので、彼女に代わり退職の意思を伝えるために電話した、と話したと言う。
乃々香の個人情報を詳細に把握していたことから、ただの悪戯電話とも思えず詳しく話を聞いたところ、その女性は乃々香が随分前から仕事を辞めたくて悩んでいたと話したのだとか。
「……」
電話の主は、間違いなく伯母だろう。
田渕の話を聞きながら、乃々香の顔から血の気が引いていく。その表情を見た田渕が、心配そうに眉を寄せて提案してくる。
「色々大変かもしれないけど、僕としては水谷君には仕事を続けてほしいと思っているんだ。この会社には家族休暇というシステムもあるし、相談してもらえれば勤務時間の調整もできる。そうしたシステムをうまく利用してみてはどうだろう……」
乃々香に椅子に座り直すよう勧めつつ、田渕は優しい口調で会社の福利厚生について説明してくれる。
しかし乃々香は、そんな配慮は不要と田渕の話を途中で遮り、それはただの悪戯電話なので気にしないでほしいと説明したのだった。
その後、どうにか田渕には、祖父は健在で電話は悪質な悪戯電話であると理解してもらえたが、そこに至るまでにかなりの労力を要した。
そのため、一日の仕事を終えた頃には憔悴しきっていた。
仕事の合間に、伯母にこんなことは二度としないでほしいとメッセージを送ったが、言うことを聞かない乃々香が悪いと一方的な返事があっただけで、二度としないという約束はしてもらえなかった。
もちろん伯母だって、嘘を並べた電話一つで乃々香に仕事を辞めさせられるとは考えてないはずだ。おそらくは、会社での居心地を悪くして自主退職に追い込む算段なのだろう。
そんな嫌がらせに屈するつもりはないが、こういうことを続けられれば、職場での立場がまずくなるのは確かだ。
今後の対応策を考え、暗澹たる思いで廊下を歩く乃々香は、ため息をついてエレベーターに乗り込んだ。
一階まで移動して、ソレイユ・キッチンのオフィスが入る総合ビルを出ようとした時、玄関ホール前に人だかりができていることに気が付いた。
――なんだろう?
男性より若い女性が多く、なにかを見て興奮したように騒いでいる。興味本位で背伸びして女性たちの視線の先を確認した乃々香は、愕然として息を呑んだ。
「三國享介っ」
もとより目立つ存在ではあるが、今日の彼は粋な光沢のある細身のスーツを着こなし、大きな薔薇の花束を抱えている。
昨日の今日で彼がこの場所で待つ相手は、自分くらいしか思い浮かばない。
姿勢を低くして、そのまま人混みに紛れてこの場を離れようとしたが、目ざとく乃々香を見つけた享介に名前を呼ばれる。
「乃々香」
「――っ!」
名前を呼ばれただけなのに、乃々香はその場で硬直してしまう。
その隙に、享介が優雅な足取りで乃々香へと歩み寄ってきた。
海を渡る聖者の如く人垣が二手に別れ、その間を薔薇の花束を抱えた彼が堂々と歩いてくる光景は、なかなかの悪夢だ。
――人の職場の前でなにをしてくれる……
薔薇の花束を抱えたイケメンの目指す先を見守ろうと、周囲の視線が自分に向けられるのを感じて、乃々香は心の中で毒づいた。
未だかつて経験したこともない状況にみまわれ、どう反応するのが正解なのか迷っているうちに、乃々香の前に立った享介に花束を差し出される。
「仕事お疲れ様。早く昨日の返事が聞きたくて、君を迎えにきた」
一瞬甘さを含んでいるように聞こえた享介の声が、実は笑いを噛み殺しているとわかる。
昨日は散々乃々香のことを「アンタ」と呼んでいたのに、今は「君」と呼ぶあたりに、彼の企みを感じてしまう。
そんなことなど知らない周囲の野次馬は、好き勝手な想像を巡らせ大きくどよめく。
チラリと視線を向ければ、両手を組み合わせてうっとりしている女性までいる。
「……」
勝手に乙女チックな妄想を膨らませている野次馬には悪いが、疲弊しきっている乃々香には、彼のおふざけに付き合う心の余裕はない。
無言で相手を睨み、拒絶の意思表示をする。
だけど敵も負けていない。
どこか芝居がかった表情で首を大きく横に振る。
「反省しているから、そんなに怒らないでくれ。確かに君が言うとおり、昨日のプロポーズはストレート過ぎてムードに欠けていた。だけど俺は、本気で君と結婚したいと思っているんだ」
色気たっぷりの微笑みを添え、申し訳なさそうに眉尻を下げる享介は、薔薇の花束を持ったまま両手を広げる。
咄嗟に警戒して身を引こうとしたが、それよりも早く享介に抱きしめられて動きを封じられた。
「お願いだから、もう一度俺にプロポーズするチャンスをくれないか」
抱擁から逃れようともがく乃々香を強く抱きしめ、享介はこれ見よがしに懇願する。その陰で声を落とし、乃々香にだけ聞こえるように囁いた。
「アンタのご意見を参考に、乙女心とやらを踏まえた演出をしてみたが、満足したか?」
「なんの嫌がらせですか?」
彼に合わせて小さく言い返すと、享介が楽しそうに喉を鳴らす。
それに苛立ち、乃々香が「ふざけないでくださいっ!」と胸を強く押したところで、彼の体はびくともしない。
それどころか抱きしめる腕にさらに力をこめてくる。
「明日もこれをされたくなかったら、素直に俺と来い」
「なっ!」
あり得ないと彼の胸を強く押すと、享介は腕を解いて乃々香の体を解放する。
「俺は本気だ」
真顔でそう告げられれば、この男は本気でヤルと理解できた。
しかもなにを勘違いしたのか、周囲から拍手が沸き起こり、享介がそれに「応援ありがとう」といった感じで、軽く手を上げて応えていた。
そんな周囲の盛り上がりを追い風に、享介は乃々香に挑戦的な笑みを向ける。
「どうしてもお気に召さないと言うなら、何度でも出直してくるよ」
「う……っ」
これはもう脅しでしかない。
無駄に心臓が丈夫なこの男は、本気で明日もやってくる。そうなれば、恥ずかしい思いをするのは乃々香一人だ。
呆然と立ちつくす乃々香に花束を押し付け、享介は「ちゃんと話し合おう」と微笑んで肩を抱きながら歩き出す。
――無茶苦茶だ。
そう思うのに、彼の行動力が乃々香の常識の範疇からあまりに逸脱していて、なにをどう返していいのかわからない。
抵抗する意欲を失った乃々香は、彼に肩を抱かれたまま素直にその場を離れることしかできなかった。
「どうだ、俺と結婚する気になったか?」
非常識極まりない待ち伏せの結果、彼の車の助手席に座る羽目になった乃々香は、盛大に顔をしかめた。
「するわけないですっ! なにを考えているんですかっ!」
拳を握って即答する乃々香に笑うと、享介はサングラスをかけて車を発進させた。
「俺としては昨日のお詫びも兼ねて、女心を踏まえたプロポーズとやらをさせてもらったつもりだが?」
「こんなの、ただの嫌がらせです」
怒りを込めて彼を睨んではみたものの、押し付けられた大きな花束が視界の邪魔をする。
享介は涼しい顔で「女性を怒らせたのなら、とりあえず花束を持って謝りに行け」という友人の助言に従っただけだと主張した。
笑いを堪えるその声を聞けば、それが詭弁に過ぎないのは明確だ。
「三國さんと結婚するのは、従姉妹の莉緒のはずでしょ」
これ以上この男を楽しませてなるものかと、冷めた口調で返す。そんな乃々香の言葉に、享介はくだらないと息を吐く。
「冗談じゃない。アンタの従姉妹と結婚して、まっとうな結婚生活を送れると思うか?」
大学卒業後、家事手伝いという名目のもと、遊び歩いている莉緒の姿を思い出して微妙な顔をする乃々香に、享介はそういうことだと頷く。
「アンタも昔からパーティーに参加しているから、うちの家族の噂を聞いたことはあるだろう?」
さっきまでの悪戯好きの悪ガキといった雰囲気を引っ込め、享介が落ち着いた声のトーンで問いかけてきた。
乃々香は記憶を巡らせて、パーティーで耳にした噂話を思い出す。
三國家の人々は実力より年齢の序列を重んじる傾向にあり、兄より秀でた弟の享介を持て余しているというのは有名な話だった。
「俺は長男信仰と呼んでいるが、我が家の人間は未だに才能や実力に関係なく、最初に生まれた男子が偉く、敬うべきものと考えている。そんな家では、俺みたいな奴は異端児扱いさ」
「はあ……」
当事者にとっては煩わしい話なのかもしれないが、乃々香はどう反応していいかわからない。
曖昧な返事をする乃々香に、享介が続ける。
「それならそれで、俺を会社から追い出せばいい。訳あって、俺も会社を辞めたいと思っていたところだし、それで全て丸く収まるのに……」
そこで一度言葉を切った享介は、口にするのも不快といった感じに顔を顰めて言う。
「そこから話がこじれて、どういうわけか、仕事を辞めるなら家の利益に繋がる家柄の女性と結婚してからにしろと言い出した。……俺が独身主義と知っていて、なんの嫌がらせだよ」
つまらなさそうに息を吐く享介の横顔を見ていると、昨日、彼が「家族にはめられた」と話していたことを思い出す。
つまり彼は、会社を辞める条件として莉緒との結婚を迫られているのだろう。
しかし事情が呑み込めたからといって、乃々香のスタンスは変わらない。
「莉緒との結婚が嫌だからって、どうして私にプロポーズするんですか?」
自分には関係のない話なので巻き込まないでほしいと、距離を取ろうとする乃々香に、享介はこともなげに告げる。
「アンタだって、木崎院長の孫娘だろ?」
そう言われて一瞬キョトンとしてしまったが、すぐに彼の言わんとすることがわかった。
「私と結婚しても三國家にメリットはないですよ」
「誰が家のために結婚するか」
吐き捨てるような口調の享介は、一瞬だけ乃々香に視線を向ける。
「……?」
彼の視線を感じるが、花束が邪魔をしてその表情を窺い知ることはできない。
享介は軽く首筋を揉んで不機嫌そうに言う。
「どちらかといえば、俺はアンタのためにこの結婚を提案しているつもりだが?」
その声は不満げではあるが、さっきまでの破天荒な雰囲気がない。そんな声で話す彼の思惑が気になり、乃々香は花束越しにじっと彼を見つめて次の言葉を待つ。
そんな乃々香の視線を受け止めつつ思考を巡らせていた享介は、考えるのが面倒になったのか、首筋から手を離してハンドルを握り直した。
「詳しい話は、俺のオフィスでしよう」
それだけ言うと、享介は乃々香の返事を待たずにアクセルを踏む足に力を入れ、車を加速させた。
彼に「会社で話そう」と言われた時、てっきりMKメディカルに連れて行かれるのかと思ったのだが、享介が乃々香を案内したのは、幾つもの企業が入る総合ビルだった。
車を降りる際、乃々香の抱えていた花束を預かった享介は、花束を右肩に預けて左手でエレベーターの階数ボタンを押す。
彼が押した三十五階のフロアに入っているのは、GSNTという会社のみ。
――グリーンサーフネットワーク?
GSNTと書かれたロゴの下に小さく書かれた文字を見ても、聞いたことのない社名だ。
乃々香を伴ってエレベーターを降りた享介は、フロアの正面にあるオフィスの電子ロックを慣れた動きで解除する。
「どうぞ」
扉を大きく開いた享介が、そう言って乃々香に先を譲る。
MKメディカルの系列会社だろうかと考えながら中に入ると、そこは、機能性とデザイン性の両方にこだわりを感じさせるデスクとパソコンが並ぶ洒落たオフィスだった。
ぐるりと視線を巡らせると、床と天井は明るい色目の木材で統一され、メザニンラックを利用した休憩スペースらしき場所の床は、芝生を連想させる鮮やかな緑色のカーペットが敷かれている。
全体的に解放感があり、ナチュラルで活気を感じさせるオフィスだ。
そんなオフィスの奥には、透明なアクリルガラスで仕切られた部屋があり、そこに数台のスーパーコンピューターが並んでいるのが見えた。
「ここ、なんの会社ですか?」
アクリルガラスの向こうで、絶えず光を明滅させるスーパーコンピューターへ視線を向けた乃々香が聞く。
近くのテーブルに無造作に花束を置いた享介は、乃々香の視線をたどるようにオフィスの奥まで歩いていくと、こちらに向き直った。
「企業の依頼を受けて、情報システムの構築や運用を生業としている。いわゆるシステムインテグレーターと言われる分野の会社だな」
そう説明する享介は、拳の背中でアクリルガラスをコツンと叩いて誇らしげな表情を浮かべる。
「俺の城だ」
「え?」
彼がなにを言っているのかわからずキョトンとしていると、近くのドアが開き、男性の低い声が聞こえてきた。
「俺たちの。なっ」
「なっ」の部分にことさら力を入れて宣言しつつドアの影から顔を出したのは、長身の男性だ。
享介同様、均整の取れた体つきに薄いソバカスが目立つ色白の肌をしていて、癖のある長めの髪を無造作に纏めている。享介とはまた違った種類の存在感を持つ男性だった。
「えっと……」
てっきり無人と思っていたオフィスに人が現れ、乃々香は驚いて男性と享介を見比べた。
そんな乃々香に構わず、男性は放置されている花束へ視線を向け、不満げに顎を摩る。
「なんだ、花束で殴られなかったのか。つまらないなぁ」
「やっぱりあのアドバイスは、悪意があってのことか」
享介が男性にそう返すと、二人は互いに癖のある笑みを浮かべ合った。
友達の助言を悪意と知りつつ実践した享介の行為の方に、よほど悪意を感じるのだが、それをツッコむと面倒なことになりそうなので黙っておく。
そこでようやく男性が乃々香に視線を向けた。
「ここにいるってことは、三國と結婚するの?」
「違……っ」
慌てて否定しようとする乃々香の言葉を遮るように、男性は「荒川ケイといいます」と名乗り、握手を求めてくる。質問され慣れているのか、ついでといった感じで日本人の父とカナダ人の母を持つハーフであることも教えてくれた。
「……水谷乃々香です」
握手に応じつつ乃々香が自己紹介すると、荒川は「知っています」と意味深な笑みを浮かべて享介に視線を向ける。
「ついでに言うと、そこの三國の共同経営者だから」
「えっと……ここは、MKメディカルの系列会社じゃ?」
享介が三國家の一員として、MKメディカルの中心的役割を果たしていることは広く知られている。ここがMKメディカルの系列会社であれば、共同経営者という荒川の言葉が理解できない。
アクリルガラスから離れた享介は、荒川の隣に立つと、不思議そうに二人を見比べている乃々香に言った。
「このグリーンサーフネットワークは、俺と荒川が学生時代に立ち上げた会社だ」
スーパーコンピューターを背景に強気な顔をする彼を見ていると、なるほど、こここそが彼の居場所なのだと納得がいった。
そんな乃々香の表情に満足そうに顎を動かし、享介は得意げに語り始める。
「次男って理由だけで、ずっと押さえつけられて家の犠牲になる筋合いはない」
大学で知り合った荒川と学生時代に起業したが、一応は家族の希望を聞き入れてMKメディカルに就職したのだという。
先に就職していた兄をサポートするかたわら、副業としてグリーンサーフネットワークの仕事を続けてきたが、会社の業績が上がるにつれMKメディカルとの兼務が難しくなってきた。
それで三十歳を迎えたのを機にMKメディカルを退職することにしたが、家族の猛反対に遭い、三年経った今も退職できずにいるのだという。
「コイツは口が悪いだけで人はいいから、なんだかんだ言いつつ家族を見捨てられずにいたんだよ。それでも今回のことで、本当に堪忍袋の緒が切れたそうだ」
乃々香への唐突なプロポーズに関して、享介にも享介なりの言い分があるといったことをゴニョゴニョと説明した荒川は、享介の肩に手を乗せて乃々香の方に押し出すと、「徹夜続きで眠いから帰る」と二人の間をすり抜けて入り口へと向かった。
「お疲れさん。あまり無理せずに休めよ」
享介の言葉に、半分ドアを開けてオフィスを出て行こうとしていた荒川が振り向く。
「そう思うなら、早くMKメディカルを辞めて、こっちの仕事に専念してくれ」
享介を指差し、その指をくるくると回した荒川は、それだけ言うと手をヒラヒラさせて帰っていった。
荒川が出ていくと、ドアが自動ロックされる音が響く。
その音を合図にしたように、享介は荒川が出てきた部屋の隣のドアを開け、乃々香に中に入るように促した。
小さく会釈して中に入ると、そこは享介個人のオフィスらしい。執務用デスクの他に接客用のソファーセットが設置されている。
乃々香にソファーを勧めた享介は、サイドチェストのコーヒーメーカーで二人分のコーヒーを用意すると、乃々香の向かいに腰を下ろした。乃々香の側のコーヒーには砂糖とポーションクリームが添えられているが、彼の方にはなにもなかった。
一応気遣ってくれているようだ。
「さて、多少の事情は理解できたと思うが、俺は近々MKメディカルを辞める。そのために、三年かけて過去のリコールで経営が大きく低迷していたMKメディカルの収益を引き上げ、俺が抜けても大丈夫なように道筋を作ってきた」
熱さに顔を顰めつつコーヒーを啜り、享介は苛立った様子で続ける。
「俺としては、それで十分義理を果たしたつもりだったが、家族はそれだけでは満足せず、『会社を辞めるなら、家の利益に繋がる結婚をしろ』『お前の代わりに、将来のMKメディカルの助けになる子供を育てろ』と言い出した」
家族とのやりとりを思い出したのか、享介は天井の隅を見上げてため息を吐く。
そして心底苦いものを口にしたような顔でコーヒーの入ったカップに視線を落とす。
「ただでさえ忙しいのに、俺の都合などお構いなしに山ほど見合い話を持ってきて、それを断り続けていたら、あの騙し討ちの食事会での婚約発表。しかも家に帰ってから文句を言えば、家族の顔合わせも終わったのに断るなんて世間体の悪いこと三國家としてはできないときた」
お手上げだと言いたげに、享介はカップを持っていない方の手を高い位置でヒラヒラと遊ばせる。
「だから、もう終わらせるんだ。家族への義理や情ってのは確かに俺にもある。だが、それは一方が一方から永遠に搾取し続けるものじゃない。俺は三國家の便利グッズで終わる気はないし、俺という存在を尊重しない家族にこれ以上義理を果たすつもりもない」
力強くそう宣言した享介は、ソファーの肘掛けに頬杖をついて乃々香を見る。
「それは、アンタにも言えることだ」
「え?」
不意に話の矛先が自分に向けられ、ドキッとする。
「育ててもらった恩があるのかもしれないが、いつまでもあの家族に義理立てする必要はないさ。アンタの縁談は、どう考えてもただの嫌がらせだ。散々疎まれてきた挙句、理不尽な縁談まで押し付けてくる木崎夫人に、一泡吹かせるのも面白いと思わないか?」
訳知り顔で話す享介に怪訝な視線を向けると、肩をすくめられる。
そんな中、連絡先を教えた覚えのない享介から、乃々香のスマホに「今回の縁談について相談があるので時間をもらえないだろうか」とメッセージが届いた。伯母の差し金かもしれないと思いつつ会うことにしたのは、伯母と顔を合わせるより、彼に伝言を頼んで断った方がマシだと判断したからだ。
そうして仕事終わりに指定されたカフェに赴いたところ、唐突に結婚を申し込まれたから訳がわからない。
もしかしたら自分は、なにか壮大なドッキリに巻き込まれているのではないか……
常識を逸脱した展開に、そんなことを思わなくもないが、あれだけ嫌がる姿を見せてしまえば、伯母は乃々香の縁談を冗談では終わらせてくれないだろう。
どうしたものかとため息を吐く乃々香は、自動販売機で買ったホットのカフェラテを口に運ぶ。
冷房で冷えた体を飲み物で温めていると、休憩スペースに上司の田渕輝弘が顔を覗かせた。
チーフという肩書きで社内では年長者の扱いを受けている田渕だが、それは社員の平均年齢が若いだけで、まだ三十二歳だ。爽やかな見た目で物腰の柔らかな彼は、社内や取引先の女性から非常に人気が高い。
「水谷さん、聞いたよ」
そんな田渕の血相を変えた姿に、乃々香はなにか大きなミスをしてしまったのだろうかと緊張して腰を浮かせる。だけどその後に続く田渕の言葉に、目を瞬かせた。
「おじいさん大丈夫?」
「え?」
最近会っていないが、一昨日の食事会で年齢を感じさせない祖父の手術の回数が話題に上っていたから、もちろん元気だろう。
なにを言われているのかわからず首をかしげる乃々香に、田渕は、神妙な面持ちで言う。
「さっき家の人から電話をもらったんだけど、おじいさんの介護のために会社を辞めるしかないというのは本当かい?」
想像もしていなかった言葉に、乃々香はキョトンとする。
そんな乃々香に、田渕は、先ほど乃々香の親族を名乗る女性から電話があり、体調を崩した祖父の介護のために仕事を辞めたいと思っているが、それを職場に打ち上げられずにいると相談を受けたので、彼女に代わり退職の意思を伝えるために電話した、と話したと言う。
乃々香の個人情報を詳細に把握していたことから、ただの悪戯電話とも思えず詳しく話を聞いたところ、その女性は乃々香が随分前から仕事を辞めたくて悩んでいたと話したのだとか。
「……」
電話の主は、間違いなく伯母だろう。
田渕の話を聞きながら、乃々香の顔から血の気が引いていく。その表情を見た田渕が、心配そうに眉を寄せて提案してくる。
「色々大変かもしれないけど、僕としては水谷君には仕事を続けてほしいと思っているんだ。この会社には家族休暇というシステムもあるし、相談してもらえれば勤務時間の調整もできる。そうしたシステムをうまく利用してみてはどうだろう……」
乃々香に椅子に座り直すよう勧めつつ、田渕は優しい口調で会社の福利厚生について説明してくれる。
しかし乃々香は、そんな配慮は不要と田渕の話を途中で遮り、それはただの悪戯電話なので気にしないでほしいと説明したのだった。
その後、どうにか田渕には、祖父は健在で電話は悪質な悪戯電話であると理解してもらえたが、そこに至るまでにかなりの労力を要した。
そのため、一日の仕事を終えた頃には憔悴しきっていた。
仕事の合間に、伯母にこんなことは二度としないでほしいとメッセージを送ったが、言うことを聞かない乃々香が悪いと一方的な返事があっただけで、二度としないという約束はしてもらえなかった。
もちろん伯母だって、嘘を並べた電話一つで乃々香に仕事を辞めさせられるとは考えてないはずだ。おそらくは、会社での居心地を悪くして自主退職に追い込む算段なのだろう。
そんな嫌がらせに屈するつもりはないが、こういうことを続けられれば、職場での立場がまずくなるのは確かだ。
今後の対応策を考え、暗澹たる思いで廊下を歩く乃々香は、ため息をついてエレベーターに乗り込んだ。
一階まで移動して、ソレイユ・キッチンのオフィスが入る総合ビルを出ようとした時、玄関ホール前に人だかりができていることに気が付いた。
――なんだろう?
男性より若い女性が多く、なにかを見て興奮したように騒いでいる。興味本位で背伸びして女性たちの視線の先を確認した乃々香は、愕然として息を呑んだ。
「三國享介っ」
もとより目立つ存在ではあるが、今日の彼は粋な光沢のある細身のスーツを着こなし、大きな薔薇の花束を抱えている。
昨日の今日で彼がこの場所で待つ相手は、自分くらいしか思い浮かばない。
姿勢を低くして、そのまま人混みに紛れてこの場を離れようとしたが、目ざとく乃々香を見つけた享介に名前を呼ばれる。
「乃々香」
「――っ!」
名前を呼ばれただけなのに、乃々香はその場で硬直してしまう。
その隙に、享介が優雅な足取りで乃々香へと歩み寄ってきた。
海を渡る聖者の如く人垣が二手に別れ、その間を薔薇の花束を抱えた彼が堂々と歩いてくる光景は、なかなかの悪夢だ。
――人の職場の前でなにをしてくれる……
薔薇の花束を抱えたイケメンの目指す先を見守ろうと、周囲の視線が自分に向けられるのを感じて、乃々香は心の中で毒づいた。
未だかつて経験したこともない状況にみまわれ、どう反応するのが正解なのか迷っているうちに、乃々香の前に立った享介に花束を差し出される。
「仕事お疲れ様。早く昨日の返事が聞きたくて、君を迎えにきた」
一瞬甘さを含んでいるように聞こえた享介の声が、実は笑いを噛み殺しているとわかる。
昨日は散々乃々香のことを「アンタ」と呼んでいたのに、今は「君」と呼ぶあたりに、彼の企みを感じてしまう。
そんなことなど知らない周囲の野次馬は、好き勝手な想像を巡らせ大きくどよめく。
チラリと視線を向ければ、両手を組み合わせてうっとりしている女性までいる。
「……」
勝手に乙女チックな妄想を膨らませている野次馬には悪いが、疲弊しきっている乃々香には、彼のおふざけに付き合う心の余裕はない。
無言で相手を睨み、拒絶の意思表示をする。
だけど敵も負けていない。
どこか芝居がかった表情で首を大きく横に振る。
「反省しているから、そんなに怒らないでくれ。確かに君が言うとおり、昨日のプロポーズはストレート過ぎてムードに欠けていた。だけど俺は、本気で君と結婚したいと思っているんだ」
色気たっぷりの微笑みを添え、申し訳なさそうに眉尻を下げる享介は、薔薇の花束を持ったまま両手を広げる。
咄嗟に警戒して身を引こうとしたが、それよりも早く享介に抱きしめられて動きを封じられた。
「お願いだから、もう一度俺にプロポーズするチャンスをくれないか」
抱擁から逃れようともがく乃々香を強く抱きしめ、享介はこれ見よがしに懇願する。その陰で声を落とし、乃々香にだけ聞こえるように囁いた。
「アンタのご意見を参考に、乙女心とやらを踏まえた演出をしてみたが、満足したか?」
「なんの嫌がらせですか?」
彼に合わせて小さく言い返すと、享介が楽しそうに喉を鳴らす。
それに苛立ち、乃々香が「ふざけないでくださいっ!」と胸を強く押したところで、彼の体はびくともしない。
それどころか抱きしめる腕にさらに力をこめてくる。
「明日もこれをされたくなかったら、素直に俺と来い」
「なっ!」
あり得ないと彼の胸を強く押すと、享介は腕を解いて乃々香の体を解放する。
「俺は本気だ」
真顔でそう告げられれば、この男は本気でヤルと理解できた。
しかもなにを勘違いしたのか、周囲から拍手が沸き起こり、享介がそれに「応援ありがとう」といった感じで、軽く手を上げて応えていた。
そんな周囲の盛り上がりを追い風に、享介は乃々香に挑戦的な笑みを向ける。
「どうしてもお気に召さないと言うなら、何度でも出直してくるよ」
「う……っ」
これはもう脅しでしかない。
無駄に心臓が丈夫なこの男は、本気で明日もやってくる。そうなれば、恥ずかしい思いをするのは乃々香一人だ。
呆然と立ちつくす乃々香に花束を押し付け、享介は「ちゃんと話し合おう」と微笑んで肩を抱きながら歩き出す。
――無茶苦茶だ。
そう思うのに、彼の行動力が乃々香の常識の範疇からあまりに逸脱していて、なにをどう返していいのかわからない。
抵抗する意欲を失った乃々香は、彼に肩を抱かれたまま素直にその場を離れることしかできなかった。
「どうだ、俺と結婚する気になったか?」
非常識極まりない待ち伏せの結果、彼の車の助手席に座る羽目になった乃々香は、盛大に顔をしかめた。
「するわけないですっ! なにを考えているんですかっ!」
拳を握って即答する乃々香に笑うと、享介はサングラスをかけて車を発進させた。
「俺としては昨日のお詫びも兼ねて、女心を踏まえたプロポーズとやらをさせてもらったつもりだが?」
「こんなの、ただの嫌がらせです」
怒りを込めて彼を睨んではみたものの、押し付けられた大きな花束が視界の邪魔をする。
享介は涼しい顔で「女性を怒らせたのなら、とりあえず花束を持って謝りに行け」という友人の助言に従っただけだと主張した。
笑いを堪えるその声を聞けば、それが詭弁に過ぎないのは明確だ。
「三國さんと結婚するのは、従姉妹の莉緒のはずでしょ」
これ以上この男を楽しませてなるものかと、冷めた口調で返す。そんな乃々香の言葉に、享介はくだらないと息を吐く。
「冗談じゃない。アンタの従姉妹と結婚して、まっとうな結婚生活を送れると思うか?」
大学卒業後、家事手伝いという名目のもと、遊び歩いている莉緒の姿を思い出して微妙な顔をする乃々香に、享介はそういうことだと頷く。
「アンタも昔からパーティーに参加しているから、うちの家族の噂を聞いたことはあるだろう?」
さっきまでの悪戯好きの悪ガキといった雰囲気を引っ込め、享介が落ち着いた声のトーンで問いかけてきた。
乃々香は記憶を巡らせて、パーティーで耳にした噂話を思い出す。
三國家の人々は実力より年齢の序列を重んじる傾向にあり、兄より秀でた弟の享介を持て余しているというのは有名な話だった。
「俺は長男信仰と呼んでいるが、我が家の人間は未だに才能や実力に関係なく、最初に生まれた男子が偉く、敬うべきものと考えている。そんな家では、俺みたいな奴は異端児扱いさ」
「はあ……」
当事者にとっては煩わしい話なのかもしれないが、乃々香はどう反応していいかわからない。
曖昧な返事をする乃々香に、享介が続ける。
「それならそれで、俺を会社から追い出せばいい。訳あって、俺も会社を辞めたいと思っていたところだし、それで全て丸く収まるのに……」
そこで一度言葉を切った享介は、口にするのも不快といった感じに顔を顰めて言う。
「そこから話がこじれて、どういうわけか、仕事を辞めるなら家の利益に繋がる家柄の女性と結婚してからにしろと言い出した。……俺が独身主義と知っていて、なんの嫌がらせだよ」
つまらなさそうに息を吐く享介の横顔を見ていると、昨日、彼が「家族にはめられた」と話していたことを思い出す。
つまり彼は、会社を辞める条件として莉緒との結婚を迫られているのだろう。
しかし事情が呑み込めたからといって、乃々香のスタンスは変わらない。
「莉緒との結婚が嫌だからって、どうして私にプロポーズするんですか?」
自分には関係のない話なので巻き込まないでほしいと、距離を取ろうとする乃々香に、享介はこともなげに告げる。
「アンタだって、木崎院長の孫娘だろ?」
そう言われて一瞬キョトンとしてしまったが、すぐに彼の言わんとすることがわかった。
「私と結婚しても三國家にメリットはないですよ」
「誰が家のために結婚するか」
吐き捨てるような口調の享介は、一瞬だけ乃々香に視線を向ける。
「……?」
彼の視線を感じるが、花束が邪魔をしてその表情を窺い知ることはできない。
享介は軽く首筋を揉んで不機嫌そうに言う。
「どちらかといえば、俺はアンタのためにこの結婚を提案しているつもりだが?」
その声は不満げではあるが、さっきまでの破天荒な雰囲気がない。そんな声で話す彼の思惑が気になり、乃々香は花束越しにじっと彼を見つめて次の言葉を待つ。
そんな乃々香の視線を受け止めつつ思考を巡らせていた享介は、考えるのが面倒になったのか、首筋から手を離してハンドルを握り直した。
「詳しい話は、俺のオフィスでしよう」
それだけ言うと、享介は乃々香の返事を待たずにアクセルを踏む足に力を入れ、車を加速させた。
彼に「会社で話そう」と言われた時、てっきりMKメディカルに連れて行かれるのかと思ったのだが、享介が乃々香を案内したのは、幾つもの企業が入る総合ビルだった。
車を降りる際、乃々香の抱えていた花束を預かった享介は、花束を右肩に預けて左手でエレベーターの階数ボタンを押す。
彼が押した三十五階のフロアに入っているのは、GSNTという会社のみ。
――グリーンサーフネットワーク?
GSNTと書かれたロゴの下に小さく書かれた文字を見ても、聞いたことのない社名だ。
乃々香を伴ってエレベーターを降りた享介は、フロアの正面にあるオフィスの電子ロックを慣れた動きで解除する。
「どうぞ」
扉を大きく開いた享介が、そう言って乃々香に先を譲る。
MKメディカルの系列会社だろうかと考えながら中に入ると、そこは、機能性とデザイン性の両方にこだわりを感じさせるデスクとパソコンが並ぶ洒落たオフィスだった。
ぐるりと視線を巡らせると、床と天井は明るい色目の木材で統一され、メザニンラックを利用した休憩スペースらしき場所の床は、芝生を連想させる鮮やかな緑色のカーペットが敷かれている。
全体的に解放感があり、ナチュラルで活気を感じさせるオフィスだ。
そんなオフィスの奥には、透明なアクリルガラスで仕切られた部屋があり、そこに数台のスーパーコンピューターが並んでいるのが見えた。
「ここ、なんの会社ですか?」
アクリルガラスの向こうで、絶えず光を明滅させるスーパーコンピューターへ視線を向けた乃々香が聞く。
近くのテーブルに無造作に花束を置いた享介は、乃々香の視線をたどるようにオフィスの奥まで歩いていくと、こちらに向き直った。
「企業の依頼を受けて、情報システムの構築や運用を生業としている。いわゆるシステムインテグレーターと言われる分野の会社だな」
そう説明する享介は、拳の背中でアクリルガラスをコツンと叩いて誇らしげな表情を浮かべる。
「俺の城だ」
「え?」
彼がなにを言っているのかわからずキョトンとしていると、近くのドアが開き、男性の低い声が聞こえてきた。
「俺たちの。なっ」
「なっ」の部分にことさら力を入れて宣言しつつドアの影から顔を出したのは、長身の男性だ。
享介同様、均整の取れた体つきに薄いソバカスが目立つ色白の肌をしていて、癖のある長めの髪を無造作に纏めている。享介とはまた違った種類の存在感を持つ男性だった。
「えっと……」
てっきり無人と思っていたオフィスに人が現れ、乃々香は驚いて男性と享介を見比べた。
そんな乃々香に構わず、男性は放置されている花束へ視線を向け、不満げに顎を摩る。
「なんだ、花束で殴られなかったのか。つまらないなぁ」
「やっぱりあのアドバイスは、悪意があってのことか」
享介が男性にそう返すと、二人は互いに癖のある笑みを浮かべ合った。
友達の助言を悪意と知りつつ実践した享介の行為の方に、よほど悪意を感じるのだが、それをツッコむと面倒なことになりそうなので黙っておく。
そこでようやく男性が乃々香に視線を向けた。
「ここにいるってことは、三國と結婚するの?」
「違……っ」
慌てて否定しようとする乃々香の言葉を遮るように、男性は「荒川ケイといいます」と名乗り、握手を求めてくる。質問され慣れているのか、ついでといった感じで日本人の父とカナダ人の母を持つハーフであることも教えてくれた。
「……水谷乃々香です」
握手に応じつつ乃々香が自己紹介すると、荒川は「知っています」と意味深な笑みを浮かべて享介に視線を向ける。
「ついでに言うと、そこの三國の共同経営者だから」
「えっと……ここは、MKメディカルの系列会社じゃ?」
享介が三國家の一員として、MKメディカルの中心的役割を果たしていることは広く知られている。ここがMKメディカルの系列会社であれば、共同経営者という荒川の言葉が理解できない。
アクリルガラスから離れた享介は、荒川の隣に立つと、不思議そうに二人を見比べている乃々香に言った。
「このグリーンサーフネットワークは、俺と荒川が学生時代に立ち上げた会社だ」
スーパーコンピューターを背景に強気な顔をする彼を見ていると、なるほど、こここそが彼の居場所なのだと納得がいった。
そんな乃々香の表情に満足そうに顎を動かし、享介は得意げに語り始める。
「次男って理由だけで、ずっと押さえつけられて家の犠牲になる筋合いはない」
大学で知り合った荒川と学生時代に起業したが、一応は家族の希望を聞き入れてMKメディカルに就職したのだという。
先に就職していた兄をサポートするかたわら、副業としてグリーンサーフネットワークの仕事を続けてきたが、会社の業績が上がるにつれMKメディカルとの兼務が難しくなってきた。
それで三十歳を迎えたのを機にMKメディカルを退職することにしたが、家族の猛反対に遭い、三年経った今も退職できずにいるのだという。
「コイツは口が悪いだけで人はいいから、なんだかんだ言いつつ家族を見捨てられずにいたんだよ。それでも今回のことで、本当に堪忍袋の緒が切れたそうだ」
乃々香への唐突なプロポーズに関して、享介にも享介なりの言い分があるといったことをゴニョゴニョと説明した荒川は、享介の肩に手を乗せて乃々香の方に押し出すと、「徹夜続きで眠いから帰る」と二人の間をすり抜けて入り口へと向かった。
「お疲れさん。あまり無理せずに休めよ」
享介の言葉に、半分ドアを開けてオフィスを出て行こうとしていた荒川が振り向く。
「そう思うなら、早くMKメディカルを辞めて、こっちの仕事に専念してくれ」
享介を指差し、その指をくるくると回した荒川は、それだけ言うと手をヒラヒラさせて帰っていった。
荒川が出ていくと、ドアが自動ロックされる音が響く。
その音を合図にしたように、享介は荒川が出てきた部屋の隣のドアを開け、乃々香に中に入るように促した。
小さく会釈して中に入ると、そこは享介個人のオフィスらしい。執務用デスクの他に接客用のソファーセットが設置されている。
乃々香にソファーを勧めた享介は、サイドチェストのコーヒーメーカーで二人分のコーヒーを用意すると、乃々香の向かいに腰を下ろした。乃々香の側のコーヒーには砂糖とポーションクリームが添えられているが、彼の方にはなにもなかった。
一応気遣ってくれているようだ。
「さて、多少の事情は理解できたと思うが、俺は近々MKメディカルを辞める。そのために、三年かけて過去のリコールで経営が大きく低迷していたMKメディカルの収益を引き上げ、俺が抜けても大丈夫なように道筋を作ってきた」
熱さに顔を顰めつつコーヒーを啜り、享介は苛立った様子で続ける。
「俺としては、それで十分義理を果たしたつもりだったが、家族はそれだけでは満足せず、『会社を辞めるなら、家の利益に繋がる結婚をしろ』『お前の代わりに、将来のMKメディカルの助けになる子供を育てろ』と言い出した」
家族とのやりとりを思い出したのか、享介は天井の隅を見上げてため息を吐く。
そして心底苦いものを口にしたような顔でコーヒーの入ったカップに視線を落とす。
「ただでさえ忙しいのに、俺の都合などお構いなしに山ほど見合い話を持ってきて、それを断り続けていたら、あの騙し討ちの食事会での婚約発表。しかも家に帰ってから文句を言えば、家族の顔合わせも終わったのに断るなんて世間体の悪いこと三國家としてはできないときた」
お手上げだと言いたげに、享介はカップを持っていない方の手を高い位置でヒラヒラと遊ばせる。
「だから、もう終わらせるんだ。家族への義理や情ってのは確かに俺にもある。だが、それは一方が一方から永遠に搾取し続けるものじゃない。俺は三國家の便利グッズで終わる気はないし、俺という存在を尊重しない家族にこれ以上義理を果たすつもりもない」
力強くそう宣言した享介は、ソファーの肘掛けに頬杖をついて乃々香を見る。
「それは、アンタにも言えることだ」
「え?」
不意に話の矛先が自分に向けられ、ドキッとする。
「育ててもらった恩があるのかもしれないが、いつまでもあの家族に義理立てする必要はないさ。アンタの縁談は、どう考えてもただの嫌がらせだ。散々疎まれてきた挙句、理不尽な縁談まで押し付けてくる木崎夫人に、一泡吹かせるのも面白いと思わないか?」
訳知り顔で話す享介に怪訝な視線を向けると、肩をすくめられる。
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