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十二年の孤独な両片思い――解けない愛の無理関数 全章記録(本編)
第4章:虚構宣誓(イカサマ・ステートメント)真の名前 石小路 煌人(いしこうじ きらと)――解答欄に血を吐くような執念で刻みつけた。
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夜8時。
星野煌人は、依然としてバスタブの脇に力なくもたれかかっていた。どうすれば真翠を取り戻せるか、それだけが頭の中を空回りしている。気が狂いそうで、魂がゆっくりと肉体から剥離していくような錯覚に陥っていた。
(……いっそのこと、このまま死んでしまおうか)
そんな暗い悦びに浸りながら、彼はふと考えた。自分が死んだ後、真翠がかつての情に免じて、「未亡人」として葬儀を取り仕切ってくれる姿を。彼女の心に一生消えない罪悪感を刻み付け、死をもって彼女を縛り付ける――。その幼稚で陰惨な妄想に耽った瞬間、脳内に雷鳴のような閃きが走った。
「……はは、ははははっ!」
不意に笑い声が漏れた。それは次第に大きくなり、静まり返った浴室で不気味に反響する。 「真翠……君の負けだ。君は一生、俺から逃げることなんてできない」
彼は立ち上がり、鏡に映る自分の無様な姿を凝視しながら、狂気に満ちた瞳で囁いた。 「……だって、俺の名前の正しい書き方は、**『石小路 煌人(いしこうじ きらと)』**なんだからな。これ以外、地獄がひっくり返ってもあり得ねえんだ」
その声は、もはや震えてなどいなかった。極めて静かで、それでいて岩をも穿つような、どす黒いまでの確信に満ちている。
一年前、金沢のあの冷たい畳の上で、本家の族長が、そして彼女の父と母が、俺を『石小路』の男として認めたのだ。あの日、外は春だというのにひどく冷え込み、雨が氷のように肌を差していた。あの日からだ。俺が君を繋ぎ止めて逃がさないための『鎖』を手に入れたのは。
金沢から戻った直後、勝利を確信した煌人は、都内でも有数の高級レストランを予約した。今日こそ、正式にプロポーズして名実ともにすべてを手に入れるつもりだった。だが、重厚なエントランスを前に、真翠は足を止めた。一歩も中に入ろうとせず、求婚の言葉を飲み込んだ煌人を冷ややかな一言で突き放した。 「煌人、勘違いしないで。私たち、二人でこんな場所に来るような関係じゃないわ」
その言葉は、煌人の胸を鋭利なナイフで抉り抜いた。どれほど外堀を埋めようと、真翠の心だけは、あの金沢の冷雨の下に埋もれたまま微塵も動かない。身体も、姓名も、戸籍さえも手中に収めたというのに、彼女の「心」だけが、どうしても手に入らない。
煌人は自嘲気味に口角を上げた。所詮、自分はイカサマでここまでのし上がってきた男だ。今さら「心」なんて綺麗なものを欲しがったのが、そもそも間違いだったのだ。
だが、この家を手放す気はさらさらない。愛だの心だの、そんな不確かなものよりも、もっと重くて逃げられない「何か」で彼女を縛り付け、この石小路という居場所に食らいついてやる。二度と引き返せないところまで、彼女を、そして自分を追い込むための決定的なチップが、今の俺には必要なんだ。
(……ああ、そうか。それなら、もう『心』なんていらない。彼女の優しさと、彼女の親たちが抱く『期待』というチップが、俺にはあるじゃないか)
彼は手早く仕立ての良いスーツに身を包んだ。閉店間際の店で高価な土産を選び、車に乗り込んだ。目的地は、石小路邸。焦燥感で心臓がはち切れそうになりながらも、彼は慎重にハンドルを握った。
石小路邸の門前に立ち、煌人は深く息を吸い込んだ。内側の焦りと恐怖を押し殺し、インターホンを押す。 『……はい、どなたですか?』 スピーカーから流れてきたのは、真翠の母親の、あの聞き慣れた穏やかで上品な声だった。その響きに触れた瞬間、煌人の内側のドロドロとした不安が、わずかに安定を取り戻す。
「……はい。お母さま、煌人です。夜分に申し訳ありません。開けていただけますか?」 その声は、消え入りそうなほど弱々しかった。
玄関が開くと、外灯の下で照らし出された生々しい指の痕を見て、母親は言葉を失った。リビングへ通されると、父親もその惨状を見るなり立ち上がった。 「煌人、それは……真翠がやったのか? 何があったんだ」
煌人は慌てて顔を伏せ、痕を隠すように頭を下げた。「……っ、申し訳ありません。僕が至らないせいなんです。今、彼女と連絡がつかなくて。こちらに戻っているかと思ったのですが……」
「……まあ、今は後のことにしましょう。あなた、氷を。煌人さん、まずは手当てをしましょうね」
真翠は、鉛のように重い足取りで家へと向かって歩いていた。 頭が割れるように痛い。二年前、高級な振袖に身を包み、両親と石小路一族が用意した「30人の相姻候補者リスト」という逃げ場のない期待に押し潰されながら、「最初の相応しい相手」を待っていたあの時間から、彼女の吐き気は止まらなかった。
気がついた時には、逃げ出すようにして、持っていた煌人のマンションの鍵で自分で開けていた。 中に入ると、煌人はソファに座り、膝の上でノートパソコンを開いて商談用の資料を精査していた。突然、豪華な振袖姿で現れた真翠に、煌人は嫌な予感を覚えた。その完璧に「お嬢様」として整えられた姿が、自分を置いてどこかへ消えてしまうのではないかという恐怖に襲われ、彼は不安を隠すために硬い表情で卑屈な虚勢を吐いた。
「……なんだよその格好。成人式をやり直すつもりか? 残念だけど、君はもう超過年齢だ」 ノートパソコンを閉じ、無理やり平静を装う。真翠は言い返さなかった。ただ、煌人の鋭い言葉の裏にある孤独が、自分と同じ色をしていることに気づき、不知火のように揺れる瞳で彼を見つめていた。
「……真翠。おいで、抱きしめてやる」 それが初めての抱擁だった。温もりなどない。煌人は彼女の耳元で最も無慈悲な救いを囁いた。 「俺の女になれ。そうすれば、助けてやる」
そのままベッドへと運ばれ、結び目が解かれ、高価な振袖が音もなく床に崩れ落ちていく。それは、少女としての真翠が消滅していく儀式のようだった。
玄関の前に立ってもなお、真翠はどう切り出すべきか分からずにいた。
(……もし、あの人の本当の姿を話してしまったら) そうなれば、十四年もの間、自分の人生にこびりついていた男が消えてしまう。自由になりたい。あんな地獄、二度とご免だ。なのに。今さら、あの男がいない世界をどう歩けばいいのか分からない。その『取り返しのつかなさ』に、真翠の足はすくんでいた。
「……ただいま」 上がり框(がまち)に、見覚えのある黒い革靴が、寸分の狂いもなく揃えられて置いてある。嫌な動悸が彼女を襲った。廊下を進み、リビングの扉を開けた真翠は、その場で息を呑んだ。
厳しい顔の父と、心配そうな母。その中心で、頬の痕をあえて隠さず、痛みに耐える顔をした煌人が座っていた。
「真翠、ちょうどよかった。……説明しなさい。煌人くんに、一体何があったんだ」
父の低い声が響く。煌人は一瞬だけ目を合わせ、すぐに弱々しく視線をそらした。その瞳には
「俺を捨てるのか?」という無言の問いが宿されていた。
「座りなさい」
父の冷徹な声に、真翠は萎縮したまま煌人の隣へ座った。
「説明しなさい。一体、どういうことだ」
思考が混濁する真翠。煌人は焦っていた。絶対に逃げられないチップを晒さなければならない。 二人は、ほぼ同時に声を上げた。
「煌人が……同僚と浮気をしたんです!」
「真翠が、妊娠したんです」
真翠は耳を疑った。煌人の吐いたあまりに卑劣で巨大な嘘に、全身の血が逆流するような衝撃を受ける。一方の煌人は、内側で猛烈な歓喜に震えていた。真翠が逆上して「浮気」という、この場においては些細な嘘で対抗してきたこと。それは、彼女が二人の「本当の関係」を暴露する度胸がなかったことを意味する。 勝った。煌人は興奮を抑え込み、あくまで「追い詰められた誠実な男」の顔を維持した。
「何言ってんのよ、このデタラメ野郎!」
真翠はクッションを煌人に叩きつけた。煌人は防戦一方を装い弁明した。「真翠、聞いて。違うんだ!」
「二人とも、やめなさい!」
父の雷鳴のような一喝。
「真翠。……お前、妊娠しているのか」
「……いいえ、お父様。していません、絶対にしていません」
返ってきたのは、乾いた衝撃音だった。――パァン、と。 真翠の頬が跳ね上がる。「座っていろ!」父の怒号が、庇おうとする煌人を制した。
「真翠。お父様に謝りなさい」 母の逃げ場のない声。真翠は泣き出しそうな声で頭を下げた。
「……はい。お父様、申し訳ありません。石小路の家名を汚すような真似をいたしました」
煌人はもう耐えられなかった。
「お父様、お母様、僕のせいなんです! 僕が強いたんです!」
しかし、母は静かに首を振った。
「星野煌人さん。あなたにはもう、石小路を名乗る資格はありません。石小路の娘は結婚まで純潔を守らねばならない。あなたは承諾したはずです」
「……はい。お母様、いえ、おば様。すべて僕の過ちです」
「ならば、今日限りで、私たちはあなたの家族ではなくなります」
煌人の顔から血の気が引いた。耳鳴りが響く。真翠は彼の悲惨な生い立ちを思い出し、たまらず叫んだ。
「……っ、お母様! そんな言い方、しないで。お願い、やめて!」
涙が溢れ出した。両親も煌人の境遇を思い出したのか、重苦しい沈黙が場を支配した。
「……この話は、後だ。星野くん、君は本当に浮気をしたのか」
「いいえ。誓って、そのようなことはありません」
真翠は震える声を絞り出した。
「……相手の方に言われたの。私はあなたの出世の邪魔だって。私さえ身を引けば、あなたは望むものすべてを手に入れられるって」
煌人は唖然とした。
「初耳です。そんなこと、僕は……」
父はそれ以上の追及を飲み込んだ。
「……では、君は石小路の家を去るつもりか」
「いいえ! お願いです、ここにいさせてください。どんな償いでもします。どうか、真翠のそばにいさせてください。彼女との結婚を、お許しください」
父は真翠に向き直った。
「真翠、お前はどうしたい」
「……お父様、私は、煌人さんと別れたい」
真っ向から食い違う二人。父は苦笑いを浮かべた。「……二人とも、立ちなさい」 玄関へと促される隙に、煌人は真翠の手をぎゅっと握りしめた。
「今日は帰りなさい。煌人くん、この子を連れて行ってくれ。明日までに二人で結論を出して、また来なさい」
父の声に、わずかながら柔らかさが戻った。煌人の瞳に、歓喜の火が灯った。
「はい、お父様! 必ず、必ず話し合います。……それから、結婚するまで、彼女には二度と不実な真似をしないと、この命に代えて誓います!」
煌人は真翠の腕を引くようにして、玄関へと向かった。上がり框で靴を履く際、煌人は義父母の視線が背中に突き刺さっているのを感じていた。彼はあえて、痛々しく赤く腫れた頬を隠さず、真翠を気遣うように彼女の肩を抱き寄せた。その姿は、傍目には「傷ついた夫が、迷える妻を連れ帰る」献身的な光景にしか見えなかっただろう。
静かになった家の中で、父は母の手をそっと握った。
「ママ。すまなかったな、大事な娘を叩いたりして。だが、ああでもしないと、あの子は本心を言わない」
「いいんですよ、パパ。あの子が悪いんですから。……でも、あんなに必死な煌人さんを見たのは初めてね。あんなに震えながら、真翠を求めて……」
「あの子は、幸せになれるかな」
「ええ、きっと。煌人さんはとても優秀で、お仕事も完璧ですし、何よりあの子のことをずっと大切に想ってくれていますから。石小路の家にとっても、彼以上の婿養子は望めませんわ。私たちの娘ですもの、きっと世界で一番幸せになりますよ」
星野煌人は、依然としてバスタブの脇に力なくもたれかかっていた。どうすれば真翠を取り戻せるか、それだけが頭の中を空回りしている。気が狂いそうで、魂がゆっくりと肉体から剥離していくような錯覚に陥っていた。
(……いっそのこと、このまま死んでしまおうか)
そんな暗い悦びに浸りながら、彼はふと考えた。自分が死んだ後、真翠がかつての情に免じて、「未亡人」として葬儀を取り仕切ってくれる姿を。彼女の心に一生消えない罪悪感を刻み付け、死をもって彼女を縛り付ける――。その幼稚で陰惨な妄想に耽った瞬間、脳内に雷鳴のような閃きが走った。
「……はは、ははははっ!」
不意に笑い声が漏れた。それは次第に大きくなり、静まり返った浴室で不気味に反響する。 「真翠……君の負けだ。君は一生、俺から逃げることなんてできない」
彼は立ち上がり、鏡に映る自分の無様な姿を凝視しながら、狂気に満ちた瞳で囁いた。 「……だって、俺の名前の正しい書き方は、**『石小路 煌人(いしこうじ きらと)』**なんだからな。これ以外、地獄がひっくり返ってもあり得ねえんだ」
その声は、もはや震えてなどいなかった。極めて静かで、それでいて岩をも穿つような、どす黒いまでの確信に満ちている。
一年前、金沢のあの冷たい畳の上で、本家の族長が、そして彼女の父と母が、俺を『石小路』の男として認めたのだ。あの日、外は春だというのにひどく冷え込み、雨が氷のように肌を差していた。あの日からだ。俺が君を繋ぎ止めて逃がさないための『鎖』を手に入れたのは。
金沢から戻った直後、勝利を確信した煌人は、都内でも有数の高級レストランを予約した。今日こそ、正式にプロポーズして名実ともにすべてを手に入れるつもりだった。だが、重厚なエントランスを前に、真翠は足を止めた。一歩も中に入ろうとせず、求婚の言葉を飲み込んだ煌人を冷ややかな一言で突き放した。 「煌人、勘違いしないで。私たち、二人でこんな場所に来るような関係じゃないわ」
その言葉は、煌人の胸を鋭利なナイフで抉り抜いた。どれほど外堀を埋めようと、真翠の心だけは、あの金沢の冷雨の下に埋もれたまま微塵も動かない。身体も、姓名も、戸籍さえも手中に収めたというのに、彼女の「心」だけが、どうしても手に入らない。
煌人は自嘲気味に口角を上げた。所詮、自分はイカサマでここまでのし上がってきた男だ。今さら「心」なんて綺麗なものを欲しがったのが、そもそも間違いだったのだ。
だが、この家を手放す気はさらさらない。愛だの心だの、そんな不確かなものよりも、もっと重くて逃げられない「何か」で彼女を縛り付け、この石小路という居場所に食らいついてやる。二度と引き返せないところまで、彼女を、そして自分を追い込むための決定的なチップが、今の俺には必要なんだ。
(……ああ、そうか。それなら、もう『心』なんていらない。彼女の優しさと、彼女の親たちが抱く『期待』というチップが、俺にはあるじゃないか)
彼は手早く仕立ての良いスーツに身を包んだ。閉店間際の店で高価な土産を選び、車に乗り込んだ。目的地は、石小路邸。焦燥感で心臓がはち切れそうになりながらも、彼は慎重にハンドルを握った。
石小路邸の門前に立ち、煌人は深く息を吸い込んだ。内側の焦りと恐怖を押し殺し、インターホンを押す。 『……はい、どなたですか?』 スピーカーから流れてきたのは、真翠の母親の、あの聞き慣れた穏やかで上品な声だった。その響きに触れた瞬間、煌人の内側のドロドロとした不安が、わずかに安定を取り戻す。
「……はい。お母さま、煌人です。夜分に申し訳ありません。開けていただけますか?」 その声は、消え入りそうなほど弱々しかった。
玄関が開くと、外灯の下で照らし出された生々しい指の痕を見て、母親は言葉を失った。リビングへ通されると、父親もその惨状を見るなり立ち上がった。 「煌人、それは……真翠がやったのか? 何があったんだ」
煌人は慌てて顔を伏せ、痕を隠すように頭を下げた。「……っ、申し訳ありません。僕が至らないせいなんです。今、彼女と連絡がつかなくて。こちらに戻っているかと思ったのですが……」
「……まあ、今は後のことにしましょう。あなた、氷を。煌人さん、まずは手当てをしましょうね」
真翠は、鉛のように重い足取りで家へと向かって歩いていた。 頭が割れるように痛い。二年前、高級な振袖に身を包み、両親と石小路一族が用意した「30人の相姻候補者リスト」という逃げ場のない期待に押し潰されながら、「最初の相応しい相手」を待っていたあの時間から、彼女の吐き気は止まらなかった。
気がついた時には、逃げ出すようにして、持っていた煌人のマンションの鍵で自分で開けていた。 中に入ると、煌人はソファに座り、膝の上でノートパソコンを開いて商談用の資料を精査していた。突然、豪華な振袖姿で現れた真翠に、煌人は嫌な予感を覚えた。その完璧に「お嬢様」として整えられた姿が、自分を置いてどこかへ消えてしまうのではないかという恐怖に襲われ、彼は不安を隠すために硬い表情で卑屈な虚勢を吐いた。
「……なんだよその格好。成人式をやり直すつもりか? 残念だけど、君はもう超過年齢だ」 ノートパソコンを閉じ、無理やり平静を装う。真翠は言い返さなかった。ただ、煌人の鋭い言葉の裏にある孤独が、自分と同じ色をしていることに気づき、不知火のように揺れる瞳で彼を見つめていた。
「……真翠。おいで、抱きしめてやる」 それが初めての抱擁だった。温もりなどない。煌人は彼女の耳元で最も無慈悲な救いを囁いた。 「俺の女になれ。そうすれば、助けてやる」
そのままベッドへと運ばれ、結び目が解かれ、高価な振袖が音もなく床に崩れ落ちていく。それは、少女としての真翠が消滅していく儀式のようだった。
玄関の前に立ってもなお、真翠はどう切り出すべきか分からずにいた。
(……もし、あの人の本当の姿を話してしまったら) そうなれば、十四年もの間、自分の人生にこびりついていた男が消えてしまう。自由になりたい。あんな地獄、二度とご免だ。なのに。今さら、あの男がいない世界をどう歩けばいいのか分からない。その『取り返しのつかなさ』に、真翠の足はすくんでいた。
「……ただいま」 上がり框(がまち)に、見覚えのある黒い革靴が、寸分の狂いもなく揃えられて置いてある。嫌な動悸が彼女を襲った。廊下を進み、リビングの扉を開けた真翠は、その場で息を呑んだ。
厳しい顔の父と、心配そうな母。その中心で、頬の痕をあえて隠さず、痛みに耐える顔をした煌人が座っていた。
「真翠、ちょうどよかった。……説明しなさい。煌人くんに、一体何があったんだ」
父の低い声が響く。煌人は一瞬だけ目を合わせ、すぐに弱々しく視線をそらした。その瞳には
「俺を捨てるのか?」という無言の問いが宿されていた。
「座りなさい」
父の冷徹な声に、真翠は萎縮したまま煌人の隣へ座った。
「説明しなさい。一体、どういうことだ」
思考が混濁する真翠。煌人は焦っていた。絶対に逃げられないチップを晒さなければならない。 二人は、ほぼ同時に声を上げた。
「煌人が……同僚と浮気をしたんです!」
「真翠が、妊娠したんです」
真翠は耳を疑った。煌人の吐いたあまりに卑劣で巨大な嘘に、全身の血が逆流するような衝撃を受ける。一方の煌人は、内側で猛烈な歓喜に震えていた。真翠が逆上して「浮気」という、この場においては些細な嘘で対抗してきたこと。それは、彼女が二人の「本当の関係」を暴露する度胸がなかったことを意味する。 勝った。煌人は興奮を抑え込み、あくまで「追い詰められた誠実な男」の顔を維持した。
「何言ってんのよ、このデタラメ野郎!」
真翠はクッションを煌人に叩きつけた。煌人は防戦一方を装い弁明した。「真翠、聞いて。違うんだ!」
「二人とも、やめなさい!」
父の雷鳴のような一喝。
「真翠。……お前、妊娠しているのか」
「……いいえ、お父様。していません、絶対にしていません」
返ってきたのは、乾いた衝撃音だった。――パァン、と。 真翠の頬が跳ね上がる。「座っていろ!」父の怒号が、庇おうとする煌人を制した。
「真翠。お父様に謝りなさい」 母の逃げ場のない声。真翠は泣き出しそうな声で頭を下げた。
「……はい。お父様、申し訳ありません。石小路の家名を汚すような真似をいたしました」
煌人はもう耐えられなかった。
「お父様、お母様、僕のせいなんです! 僕が強いたんです!」
しかし、母は静かに首を振った。
「星野煌人さん。あなたにはもう、石小路を名乗る資格はありません。石小路の娘は結婚まで純潔を守らねばならない。あなたは承諾したはずです」
「……はい。お母様、いえ、おば様。すべて僕の過ちです」
「ならば、今日限りで、私たちはあなたの家族ではなくなります」
煌人の顔から血の気が引いた。耳鳴りが響く。真翠は彼の悲惨な生い立ちを思い出し、たまらず叫んだ。
「……っ、お母様! そんな言い方、しないで。お願い、やめて!」
涙が溢れ出した。両親も煌人の境遇を思い出したのか、重苦しい沈黙が場を支配した。
「……この話は、後だ。星野くん、君は本当に浮気をしたのか」
「いいえ。誓って、そのようなことはありません」
真翠は震える声を絞り出した。
「……相手の方に言われたの。私はあなたの出世の邪魔だって。私さえ身を引けば、あなたは望むものすべてを手に入れられるって」
煌人は唖然とした。
「初耳です。そんなこと、僕は……」
父はそれ以上の追及を飲み込んだ。
「……では、君は石小路の家を去るつもりか」
「いいえ! お願いです、ここにいさせてください。どんな償いでもします。どうか、真翠のそばにいさせてください。彼女との結婚を、お許しください」
父は真翠に向き直った。
「真翠、お前はどうしたい」
「……お父様、私は、煌人さんと別れたい」
真っ向から食い違う二人。父は苦笑いを浮かべた。「……二人とも、立ちなさい」 玄関へと促される隙に、煌人は真翠の手をぎゅっと握りしめた。
「今日は帰りなさい。煌人くん、この子を連れて行ってくれ。明日までに二人で結論を出して、また来なさい」
父の声に、わずかながら柔らかさが戻った。煌人の瞳に、歓喜の火が灯った。
「はい、お父様! 必ず、必ず話し合います。……それから、結婚するまで、彼女には二度と不実な真似をしないと、この命に代えて誓います!」
煌人は真翠の腕を引くようにして、玄関へと向かった。上がり框で靴を履く際、煌人は義父母の視線が背中に突き刺さっているのを感じていた。彼はあえて、痛々しく赤く腫れた頬を隠さず、真翠を気遣うように彼女の肩を抱き寄せた。その姿は、傍目には「傷ついた夫が、迷える妻を連れ帰る」献身的な光景にしか見えなかっただろう。
静かになった家の中で、父は母の手をそっと握った。
「ママ。すまなかったな、大事な娘を叩いたりして。だが、ああでもしないと、あの子は本心を言わない」
「いいんですよ、パパ。あの子が悪いんですから。……でも、あんなに必死な煌人さんを見たのは初めてね。あんなに震えながら、真翠を求めて……」
「あの子は、幸せになれるかな」
「ええ、きっと。煌人さんはとても優秀で、お仕事も完璧ですし、何よりあの子のことをずっと大切に想ってくれていますから。石小路の家にとっても、彼以上の婿養子は望めませんわ。私たちの娘ですもの、きっと世界で一番幸せになりますよ」
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