【R18】十二年の孤独な両片思い――解けない愛の無理関数

夜子

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十二年の孤独な両片思い――解けない愛の無理関数 全章記録(本編)

第7章:認知崩壊(ロジック・ディスラプション)(後編)会社の黒い渦—集団という名の処刑場、そして救済を騙る独占欲

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真翠そう微笑む煌人の手には、力がこもっていた。 これまで煌人は、真翠という存在を自分だけの「秘蔵の宝」として、あえて目立たぬよう、その輝きを大切に覆い隠しておくつもりでいた。世間の無遠慮な視線から守るために、彼女を「箱入り娘」のまま、自分の腕の中という名の箱に閉じ込めておきたかったのだ。 けれど、彼は今日ようやく思い知らされた。 真翠は、磨かれるのを待っている原石などではなかった。 彼女の持つ穏やかな思慮深さ、凛とした芯の強さ、そして石小路家という温かな土壌で育まれた気品。 その内側から溢れ出す光こそが、彼女を最初から完成された「至宝」にしていた。 その光に、自分は十四年もの間、抗うこともできずに惹きつけられ、魂の奥底まで照らされ続けてきたのだ。 (……ああ、僕はこれからも、もっと彼女に狂わされていくんだろうな)

真翠の心も、体も、そのすべてが「石小路煌人」のものとなった今、彼は無上の幸福に包まれていた。これから先、彼女の隣で、その輝きを誰よりも近くで独占し続けることができる。 その事実に、彼はただ、深く、溺れるように酔いしれた。

煌人は笑った。その笑みには、真翠の温かな香りが染み付いていた。 二人が幸福な三日間を過ごしていた頃、会社は真翠にとって、逃げ場のない「刑場」へと変貌していた。

噂は毒蛇のように、音もなくフロアを這い回っている。 「……聞いた? 技術部の石小路さんのこと。あの妊娠の話、結局「狂言」だったみたいよ」 給湯室の隅、誰かが声を潜める。 「係長を繋ぎ止めるために、家で薬を飲んで見せたんですって。わざわざ救急車まで呼んで、大騒ぎしてね……。病院に運ばれる間も、ずっと彼の名前を叫んで泣き喚いてたらしいわよ。大人しそうな顔をして、やることえげつないわよね。正直、卑しいというか……メンヘラ全開でドン引きだわ」

小春は、その凍り付くような空気の中で肩を震わせていた。
真翠のデスクにはわざとコーヒーが零され、書類はゴミのように散乱している。誰もが「自業自得だ」と言わんばかりの沈黙を守り、彼女を無視し続けていた。
この「透明な排除」こそが、この職場の残酷なルール。小春は悔しさに涙をこらえながら、真翠の帰りを信じて、その汚れを黙々と拭き取っていた。

一方、喫煙所に漂う淀んだ煙の向こうで、人事部長が九条遥に耳打ちしていた。 「九条さん、君は星野くんの大学の先輩だったね。……例の騒動、一体どういうことだ? 彼ほどの男が、あんな女性に……」

九条はすぐには答えなかった。ただ、火の消えた吸い殻を、灰皿の縁で静かに、跡形もなく押し潰した。 数秒の沈黙の後、彼は何かひどく不潔なものに触れたような、微かな嫌悪を眉間に滲ませて顔を上げた。 「……部長。あまり、あのような品性を欠く類の話はしたくないのですが」 九条の声はどこまでも穏やかで、思慮深かった。 「星野は根が優しすぎますからね。高校時代の同級生という縁で、彼女の『危うさ』を放っておけなかったのでしょう。あいつもよく私の前で漏らしていましたよ、『手のかかる存在だ』と。……それがまさか、救急車まで呼んで周囲を巻き込むほどの執念に付け入られることになるとは」

九条は、深く、後悔を滲ませるように煙を吐き出した。 「これ以上、彼をこの『淀んだ空気』の中に置いておくのは、彼の未来を潰すことになります。……部長、星野をしばらく海外のプロジェクトへ出しましょう。あんな『ノイズ』の届かない場所へ」 「……九条くんがそこまで言うのなら、それが最善かもしれんな」

九条は部長に軽く会釈し、優雅な足取りで自室へと戻った。 個人オフィスに戻った九条は、煌人から贈られた高級万年筆を指先で弄びながら、この三日間、歪んだ期待に浸っていた。 一日目、彼は「救済者」として煌人を導くシナリオを夢想し、二日目、彼は真翠を金で排除するプランを完璧に練り上げた。彼にとってそれは、醜いシミを洗剤で拭き取るような、至極当然の美化作業に過ぎなかった。

そして三日目。窓の外にあのライラックブルーのSUVが滑り込んでくるのを見た時、彼は「僕の正しさが証明される瞬間」を確信し、満足げに目を細めた。 (さあ、来い。ボロボロになった姿を見せて、僕に縋り付くんだ)

だが、車から降りてきた男を目にした瞬間、九条の思考は白濁した。 そこにいたのは、絶望に打ちひしがれた男ではなかった。まるで重力から解き放たれたかのように、全身から制御不能なほどの生命力と幸福感を放つ煌人だった。 その瞳は、人生のすべてを手に入れた少年のように無邪気に輝き、一分の隙もないほど満たされている。

九条の喉が、拒絶反応のように引き攣った。 (……何だ、あの顔は。僕が期待していた絶望は、どこにある?)

煌人は極めて紳士的な所作でドアを開け、真翠をエスコートした。真翠は、あの頃の面影を残しながらも、石小路家という名の凛とした気品を纏っていた。 ふと、真翠が窓を見上げた気がした。九条は反射的に息を止めた。だが、そこに彼が期待したような「憎しみ」も「怯え」もなかった。 彼女の瞳は、ただそこにある風景を映す硝子玉のように、九条の存在を素通りした。 (ああ……この女の目に、僕は最初から映ってさえいなかったんだ)

九条遥の世界観が、音を立てて崩壊していく。 彼は、自分が今、無様に「祈っている」ことに気づき、愕然とした。 (……そうだ、あれは星野が完璧に処理したから、余裕があるだけなんだ。取引が、うまくいっただけなんだろう? そうだと言ってくれ……!)

彼は失神しそうな心地で、陽光を無慈悲に跳ね返すあのライラックブルーの車体を、ただ呆然と見つめ続けていた。
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