【R18】十二年の孤独な両片思い――解けない愛の無理関数

夜子

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十二年の孤独な両片思い――解けない愛の無理関数 全章記録(本編)

最終章:至高正解(フルスコア・アンサー)ライラックブルーの凱旋 ――白紙の解答欄に刻んだ十四年目の正解

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四日目の朝、ようやく雲の隙間から陽光が差し込んだ。
ライラックブルーのSUVが、鋭い稲妻のごとき勢いで滑り込んでくる。甲高いブレーキ音を響かせ、正面玄関の特等席へ鮮やかに横付けされた。

ドアが開き、まず降り立ったのは煌人だ。今日の彼は、どこか浮き足立ったような派手さが際立っていた。オフホワイトの仕立ての良いスーツに、わざとらしく緩められたシャツの襟元。そこから覗く紫色のキスマークは、この三日間がいかに甘美なものだったかを、冷ややかな空気の中でこれ見よがしに言い放っている。
だが、彼はそのままオフィスへ向かうつもりなど毛頭ないらしい。彼はわざわざ助手席側へと回り込むと、まるで一番の宝物を扱うかのように、幸せな色を隠そうともしない、どこか献身的な仕草でうやうやしく腰をかがめた。

その瞬間、笑いぐさを期待していた全社員が息を呑んだ。
正面玄関に現れたのは、泥沼の修羅場などではなく、眩いほどの「愛」の形だった。
車から降り立った真翠は、薄く絶妙なメイクを施し、シルエットの美しいオフホワイトのワンピースを纏っている。それは隣に立つ煌人と、まるで誂えたかのような完璧なペア・ルックだった。普段は無造作に束ねていた髪は、今は柔らかな光を湛え、しなやかに肩へと流れている。その佇まいは、朝露に濡れたばかりの木蓮のように清らかで、凛としていた。

煌人は、石化した周囲の視線など一顧だにしない。彼は堂々と真翠の腰を引き寄せ、愛おしそうに指先でその曲線に触れた。二人は一言も交わさないが、穏やかな微笑みを分かち合っている。煌人はそのまま彼女をエスコートし、人事部へと直行した。

「捨てられた女」や「自傷騒動」という下俗な見世物を期待していた連中は、一瞬で言葉を失った。彼らが狼狽しながら「審判」を待っていたその時――。

人事部の麗子次長が、刷りたての人事異動通知を手に、各部署の掲示板を回り始めた。古参の社員たちが手を止め、その通知を凝視する。彼らの表情は、困惑から疑念へ、そして逃げ場のない衝撃へと変わっていった。

【人事異動通知】
営業部 係長 星野 煌人
本日付を以て、以下の通り改姓を届け出た。
【新氏名:石小路 煌人(いしこうじ きらと)】
※石小路家への入婿(むこいり)に伴う変更。

麗子は、八卦の魂を宿したいつもの笑みを浮かべ、独り言のような、あるいは誰かに聞かせるような絶妙なトーンで話し始めた。

「……信じられないでしょ? 石小路係長……そう、もう『石小路さん』ね。今頃、うちの本部長に『幸せすぎて仕事が手につきません』なんて惚けをぶちまけてるわよ。あんたたち、何も分かってないわね。彼が今の地位にいるのは、全部真翠さんのおかげよ。高校時代、身寄りのない彼を拾って育てたのは彼女なんだから。」

同僚A:「えー!じゃあ、ずっと付き合ってたんですか?」

麗子:「いいえ、真翠さんはずっと拒否。でも彼は執着心が凄くてね。大学時代はランチのためだけに片道2時間チャリを飛ばし、入社試験も土下座して受けさせたのよ。2年前のお見合いも、彼が会場に乗り込んで相手を追い払って、泣きながらご両親に許しを請うたの。」

同僚A:「……重すぎる。でも、職場で彼女の悪口言ってたのは? それに煌人君って、たしか『超絶美人しか愛せない』って公言してませんでした?」

麗子:「そんなの、照れ隠しの自爆よ。あの子、本気で言ってるんだから。『全世界で真翠が一番美しい。他の女は全員ブロッコリーにしか見えない』って。……重症でしょ? しかも、裏では泣きながらフォローしてるわ。 入籍だって『石小路の墓に入らせろ!』って義父の足にしがみついて、強引に婿入りしたんだから。」

同僚B:「……さらに重すぎる。でも、真翠さんが玉の輿を狙って、薬を盛って妊娠したっていう噂は?」

麗子:「はぁ? 何言ってんの。冗談も休み休み言いなさいよ。 真翠さんに薬を盛りたいのは煌人君の方でしょ。……まぁ、やってることは大差ないけどね。あんたたち、あの『妊娠騒動』の本当の真相、知りたい?」

同僚A・B:「(ゴクリと唾を呑む)」

麗子:「今回の結婚、決め手は彼による『既成事実の強行突破』よ。
新年会の夜、酔った彼女を自分のマンションに連れ込んで、翌日アイアンを振り回して殴りかかるお義父さんに『責任を取らせてください!』って土下座。挙句の果てに、彼女のちょっとした体調不良を『つわりだ!』って大騒ぎして、入籍した瞬間に『実は勘違いだったけど、もう籍を入れたから離婚は絶対しない!』って開き直ったのよ。」

同僚B:「……絶句。じゃあ、子供をダシに結婚を迫ったのって……」

麗子:「そう。迫ったのは真翠さんじゃなくて、煌人君本人よ。」

技術部の廊下は、一瞬にして歓喜の渦に包まれた。
橋本小春は、心の底から溢れ出すような拍手を送る。この四日間、技術部を覆っていた暗雲が嘘のように晴れ渡り、会社中の薄暗い隅々までが、この瞬間から清々しい空気に塗り替えられていくようだった。かつて陰で真翠を「技術部の害虫」と蔑んでいた者たちは、たまらず深くうなずいた。

ただ一人、九条遥はオフィスの窓から、階下に停まるライラックブルーのSUVをじっと見下ろしていた。
人事部が騒いでいる「十四年越しの執念」だの「見合いへの乱入」だの、そんな話は一言も信じていない。ありえない、絶対にだ。……もし煌人が、単に「自分の子」を欲しがっているだけだとしたら? 真翠のような都合のいい女は、利用するには最適の駒だ。そうだ、そうに違いない。
……いや、待て。それならなぜ、あの傲慢な男が入婿(いりむこ)という屈辱を呑んだ? 何かが、決定的に噛み合っていない。何が……。

意識が遠のき、思考が混濁していく中で、九条の目は窓外のあの不快なライラックブルーに釘付けになっていた。
……ライラック、ブルー。
……青の中に、妖しく滲む紫。

その時、彼の脳裏に、自宅の金庫に厳重に保管してある最高級の原石が浮かび上がった。
それは、深い藍色の中から神秘的な紫の光を放つ、極めて稀少な翡翠――。
通常の緑色とは一線を画す、あの無価値な石とは正反対の、無価の宝。

「……あ」

九条の喉から、嗄れた声が漏れた。
あの車の色。あの目に焼き付くライラック、ブルーは、煌人の性的指向(セクシュアリティ)などではなかった。
石小路「真翠」――その名そのものだったのだ。

煌人は七色(なないろ)などではない。一人の女の名を冠した色に身を包み、十四年もの間、その足元に跪き続けてきた狂信者だったのだ。

九条は、煌人から贈られた万年筆を、無意識のうちにへし折っていた。
溢れ出した黒いインクが手のひらを容赦なく汚していく。その洗っても落ちない「黒」は、九条の独りよがりな正義と、浅はかな自惚れを嘲笑っているかのようだった。

「……くそっ……!」

初めて味わう、制御不能な嫉妬と敗北感。
視界が歪み、思考が混濁する。それでもなお、彼は認められなかった。
あんな石ころのような女に、自分が完敗したという事実を。

煌人は真翠を技術部まで送り届けると、数十組の視線が注がれる中で、ためらうことなく、彼女の額にそっとキスを落とした。
「もういいから。みんな見てるし、早く行って」
真翠が困ったように促すと、煌人は揺るぎない、周囲に響き渡るような大きな声で問いかけた。
「ねぇ、奥さん。昨日約束したよね?……みんなも理解してくれるって。そうでしょ?」

「石小路係長、ご安心を!僕たちがしっかり理解してますから!」
技術部の若手たちが、ここぞとばかりに大きな冷やかしの声を上げた。

「いやぁ、皆さん感謝します!今日から僕は、晴れて技術部の『お婿さん』ですからね。お祝いに、技術部の皆さんには丸一ヶ月間、毎日最高級のコーヒーを僕が奢らせてもらいます! 飲みたい銘柄があったら、遠慮なくうちの奥さんに伝えて。義兄(にい)さん、張り切っちゃうからね!」

「石小路さん、太っ腹ー!」
「一生ついていきます、義兄さん!」

真翠は呆れたように苦笑し、彼を振り返った。
「……ねぇ。昨日の夜、そんな相談一言もしてないよね?」

「いいじゃないか、今日は最高に気分がいいんだ。僕の顔を立ててよ、ね? さぁて、それじゃあ僕は上階に行って、君のために一稼ぎしてくるよ。たっぷり稼いで、もっと君を甘やかさないとね!」

煌人はスキップでもしそうな足取りで、鼻歌を交えながらエレベーターホールへと向かう。
そして、エレベーターが閉まる間際、煌人は真翠に向けて、これでもかというほど大きな指ハートを作ってみせた。真翠は呆れ果て、ただ溜め息をつくしかない。

真翠が自席に戻ると、小春が後を追うようにやってきた。その瞳は真っ赤に腫れている。
「真翠お姉ちゃん……絶対に、幸せになってくださいね……っ」

真翠はふっと表情を緩め、彼女の頭を優しく撫でた。
「よしよし……どうしてハルぴが泣いてるの。ほら、おいで。ぎゅっとしてあげる」
「……ただ、私、本当に嬉しくて……」
「うん、分かってる。この数日間、支えてくれてありがとうね」
真翠が微笑むと、小春の涙がまたボロボロと溢れ出した。
「そんな……私、何も力になれなかったのに……っ」

泣きじゃくる彼女を、真翠はもう一度しっかりと抱きしめた。
「ハルぴは、自分でちゃんと立って、自分を大切にできる素敵な子でしょ?」
「……はい」
「それで十分。それだけで、いいんだよ」

エレベーターが営業部のフロアに到着する。
煌人の顔には新婚の幸福感が滲んでいたが、その奥にはエース営業マンらしい、どこか冷徹で隙のない鋭さが戻っていた。
彼は営業部に足を踏み入れるなり、朗々と宣言した。
「皆さーん! 僕の入婿(むこいり)成功を祝して、今日から一週間、部署全員分のコーヒーを僕が奢らせてもらいます!」

だが、期待していた歓声は上がらない。代わりに飛んできたのは、一冊の分厚いファイルだった。
「この、女にうつつを抜かした裏切り者が! 噂はもうこっちまで届いてるぞ、星野! 下の技術部には一ヶ月分も奢るくせに、俺たち仲間には一週間だと? 舐めてんのか!」

煌人は飛んできたファイルを鮮やかに受け止めると、一瞬で「営業のエース」から「困り顔の夫」に表情を変えておどけてみせた。
「先輩、勘弁してくださいよ! どこにぶつけてもいいですけど、顔だけはやめて。僕が不細工になったら、奥さんに捨てられちゃうじゃないですか! ……分かりましたよ、負けました。営業部も一ヶ月、僕が持ちます!」

「……最初からそう言えよ!」
「現金な奴だな、おめでとう!」

殺気だっていた営業部の空気が、一気に祝福の喧騒へと変わる。煌人が自席に戻ると、隣に座る新人が勇気を振り絞って話しかけてきた。
「星野先輩……あ、いえ、石小路先輩。さっきの噂って……」

煌人はニカッと、眩しいほどの笑顔を見せた。
「ああ、全部マジだ」
「えぇ!? じゃあ、一年前にはもう婿入りするつもりだったっていうのは……?」

煌人は余裕の笑みを浮かべたまま、手元の引き出しを引いた。そこから取り出したのは、大切に保管されていた一箱の真新しい名刺。
そこには、凛としたフォントでこう刻まれている。

【第一営業部 組長 石小路 煌人】

「一年前にはもう刷り上がってたんだ。でも、奥さんが照れ屋なもんで、ずっと出すのを止められててさ。結局、これはただの記念品になっちゃったけどね」

その名刺を見つめる煌人の目は、どこまでも愛おしそうに細められていた。後輩は、その「執念」とも言える深い愛情に、ただただ圧倒されるばかりだった。

営業部の湧き立っていた空気は、九条遥がオフィスから姿を現した瞬間に、真空状態へと引きずり込まれた。九条は胸の内で渦巻く怒りと荒謬なまでの敗北感を押し殺し、自らの失態を隠し通そうとするかのように、硬直した指先でデスクを鋭く叩いた。

「来い」

短く放たれたその言葉は、拒絶を許さない冷徹さを帯び、凍てついた氷の隙間から絞り出されたかのようだった。
つい先ほどまで仲間たちと騒ぎ、陽気に笑っていた煌人の口角が、一瞬で凍りつく。その鋭いノック音が響く間に、笑みは跡形もなく消え去った。

煌人はゆっくりと腰を浮かせた。
喜びに満ちた、あの血の通った温かな生活感が、急速に剥がれ落ちていく。代わって立ち昇ったのは、背筋が凍るような静謐な殺気だった。
彼は何も言わず、無造作にオフホワイトのフルオーダー・スーツの襟元を整えた。九条と視線がぶつかった瞬間、その瞳は深淵のように真っ黒に沈み、一片の温情も宿してはいない。

牙を隠し、一瞬で狩りの態勢に入った野獣のごとく。
煌人は無表情のまま九条の後を追い、大股でオフィスを後にした。

二人の背中がエレベーターホールに消えるのを待って、営業部は堰を切ったような騒然とした空気に包まれた。
「九条部長のあの顔……泥を塗ったみたいに真っ黒だったね。煌人くんを連れ出すなんて、嫌な予感しかしないよ」
「ちょっと、例の話聞いた? 一昨日、部長が特別喫煙室で役員相手に、真翠さんのこと『薬を盛った』だの『金目当て』だの吹き込んでたって。全部デタラメだったわけでしょ? 二人は兄弟同然の仲じゃなかったの? 一体何が目的なんだか……」
「決まってるじゃない、人の幸せが面白くないんだよ。九条部長って紳士的だと思ってたけど、裏でやってることは相当エグいね。……最悪」

背後で蠢く囁き声は、不快な羽虫の羽音のように九条の耳をかすめては消えていく。だが、今の彼にはそれを撥ね退ける気力すら残っていなかった。

エレベーターは一切の音を吸い込み、ただ無機質に上昇していく。
行き先は、最上階。
狭い密閉空間の中で、九条の荒い呼吸と、煌人の底冷えするような沈黙が、鋭く火花を散らしていた。

エレベーターの中は、息が詰まるほど冷え切っていた。九条は黙ったまま最上階のボタンを押し、二人は屋上へ出た。
九条は、震えを隠しきれない声で階下の車を指差した。
「……あれは、誰が選んだんだ」

煌人は九条の取り繕った仮面を嘲笑うように、その心臓へナイフを突き立てた。
「四年前、僕がチームリーダーに昇進したばかりの頃ですよ。真翠にしつこくせがんで、もう死ぬほど頼み込んで……無理やりディーラーまで連れて行って、彼女に選んでもらったんです」

煌人はくすりと、自嘲気味に、それでいて至福に満ちた笑みを漏らした。

「真翠は『あ、これ綺麗じゃない?』なんて無防備に笑ってましたけどね。……でも、僕にはわかった。これこそが真翠の名に相応しい、気高くも妖艶な色なんだって。その瞬間に、僕はもうこの色以外愛せなくなった。……それだけですよ。」

九条を支えていた最後のプライドが砕け散った。それでも彼は、現実を拒むように食い下がる。
「四年前……? その時はまだ、付き合ってすらいなかったはずだ。彼女にそんなことをさせる権利なんて、お前にあるはずがない!」

煌人が鼻で笑った。
「九条先輩、忘れたんですか? 大学生の頃から、僕には月に一度は必ず会う高校時代の親友がいたでしょう」
「それが……真翠だというのか。だが、お前たちはただの友達だったはずだ!」

「真翠にとってはそうだったんでしょうね。でも、僕は一度だってそんな風に思ったことはない。十七の時から、僕はあいつを抱くことしか考えていなかった。毎晩、毎晩……彼女を組み敷くことばかり妄想して、疼きに耐える夜を過ごしてきたんですよ」

「……ありえない。そんなはずがない! 彼女はあんなに普通で、冴えない女だ。お前が僕の前で、どれだけ彼女の悪口を言っていたか忘れたのか!」

煌人は一歩下がり、隠そうともしない軽蔑を顔に浮かべた。
「それは、あなたが僕の奥さんに近づく本当の目的を知らなかったからです。九条先輩、あなたは優秀すぎる。格好良くて、金もあって、紳士的だ。あなたと比べたら僕は空っぽだ……だから、怖かったんですよ」

「……嘘だ、そんなの嘘だ、星野! そんなことをすればお前自身をダメにする。あんな三流大卒のプログラマーとのお前に、未来なんてないんだ! 結婚なんてどうでもいい、僕と一緒に来い。海外へ行こう。僕についてくれば、望むものは何だって手に入る!」

そう叫びながら、九条は煌人の手にすがろうとした。
煌人はその手を、冷ややかに振り払った。

「九条先輩、言葉が通じませんか? ……なら、もう一度だけ言います。
僕、石小路煌人は、十七歳の時から石小路真翠だけを愛してる。
金を稼ぐのは彼女に使わせるため、車を買うのは彼女を乗せるため、家を買うのは彼女を住まわせるためだ。
……わかっていただけましたか、九条部長?」

九条は、完全に壊れた。
煌人は一歩、また一歩と屋上の縁から遠ざかっていく。
彼と九条の世界は、今この瞬間、二度と交わらないほどに引き裂かれた。

屋上の扉を押し開け、エレベーターに飛び乗った彼は、営業部へは戻らずに技術部へと直行した。
技術部の面々が「何事だ」と、再び現れた彼に戸惑う中、煌人は流れるような動作で真翠のデスクのそばに跪いた。プロポーズを彷彿とさせる、完璧な片膝立ちで。

真翠は慌てて彼を支えようとする。「ちょっと、何してるのよ。みんな見てるじゃない」
周囲から悲鳴に近い歓声が沸き起こる。だが、今の煌人の瞳には真翠しか映っていない。十七歳の時からずっと、ただの一夜も欠かさず想い続けてきた、彼だけの少女。

「真翠さん……僕に奪われてくれませんか、今すぐ」

一瞬、フロアが静まり返るほどの、あまりにも濃密な「禁忌」の香り。

「バカなこと言わないで……」真翠の顔が真っ赤に染まる。「仕事が残ってるの、続きは夜に家で……」
煌人はもう、一刻たりとも待つつもりはなかった。彼は立ち上がると、真翠の頬を愛おしげに撫で、フロア中に響き渡る声で宣言した。

「皆さん! 差し入れのティータイムは、一ヶ月分追加だ! 真翠は今すぐ僕が連れて行く。……文句はないよな!」

隣で目を丸くしていたはるぴが、その尋常じゃない熱量に圧倒されながらも、茶目っ気たっぷりに声を上げた。
「真翠お姉ちゃん、旦那さんと行ってください! 後の仕事は私がやっちゃいますから!」

真翠ははるぴの頭を優しく撫でた。「……ありがとね、はるぴ。助かるわ」
技術部の喝采と、どこか当てられたような溜息を背に、煌人は真翠を連れ出した。
助手席に真翠をエスコートし、自らも運転席に乗り込むと、彼は獲物を手に入れた獣のような、危うい微笑みを浮かべた。

「奥さん、どこへ行きたい?」

真翠は眩いばかりの笑顔を向けた。
「舞浜の夢の国。……メリーゴーランドに乗りたいな」
「了解。……二度と、誰にも見つからない場所へ行こうか」

エンジンが力強く鼓動を始め、ライラックブルーのSUVは高速道路へと向かって走り出した。
車窓を流れる景色の中、道沿いに並ぶ遅咲きの桜が、いつの間にか満開を迎えていた。夕陽を浴びて淡く輝く花びらは、まるで十四年越しに届いた祝福のようだ。

春の馨わしい風が、車内まで入り込み、二人の魂を洗い流していく。
十七歳の頃の、青く、そして互いに通じ合うことのなかった拙い恋心。
曖昧な季節の中で、プライドゆえにどちらも下げられなかった、あの傲慢な頭。
そしてこの二年間、混濁したベッドの上で互いを縛り付け、蝕んできた、歪んだ独占欲と執着という名の痛み。

それらすべてが、今、この春の香りに溶かされ、浄化されていく。

「楽園」へと続く道は、どこまでも真っ直ぐに伸びていた。
舞い散る花吹雪の向こう側で、二人の物語は新たな章へと、そのページをめくろうとしている。

ライラックブルーの車影が、桜のトンネルに消えていく――。

本編、これにて「完」
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