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しおりを挟む一 ボンボン・ショコラ
「やだ、もうこんな時間! 急がなきゃ!」
洋菓子科の実習授業が終わって時計を見たら、授業の終了予定時間をかなり越えていた。早く着替えて学校を出ないと、遅刻しちゃう。
こういう日に限って授業が延長するのは、どうしてだろう。今日の実習内容はよりにもよって、手の込んだボンボン・ショコラの制作だった。チョコレートは大好きだけど、後片付けが大変なのよね。
時計を気にしつつ急いで片付けていると、同じ班の木下君が声をかけてきた。
「佐藤さん急いでるね。デート?」
「デートよりもっと大事な用かな」
私は答えながら、洗い終えた調理器具を棚に仕舞うべく手に取る。
すると木下君は思い出した、という調子で声を上げた。
「ああ、パティシエ風間の実演会って今日だっけ。それ、もう仕舞うだけで終わり? ならついでに片付けておくから早く行きなよ。そのかわり、今度感想聞かせてね」
「いいの? ……じゃあ、お言葉に甘えようかな。ありがとう。ゴメンね、お先に!」
申し訳ないと思いつつも、私は調理器具を木下君に託す。急いで私服に着替えると学校を飛び出した。
だって私にとっては人生の一大事! 憧れのあのお方を生で見られるんだもの!
私、佐藤愛美は、小さい頃から『将来の夢は?』と聞かれると、決まってこう答えた。『ケーキ屋さん』と。十九歳になった今は、『食べた人が幸せになれるお菓子を作るパティシエール』になるのを目指している。
身寄りのない私は、高校を出てすぐに、両親が遺してくれたお金で製菓学校に入った。
数年前に家族を事故で亡くした時は、生きるのさえつらくなるほど悲しくて、夢を諦めかけたこともあった。それでも前に進んでこられたのは、あるお菓子に出会ったから。
それは数々の国際コンクールで名を馳せた、若い人気パティシエが作ったお菓子。
当時、しゃべらず、笑いもせず、塞ぎこむばかりだった私のために、同級生が遠くの町で何時間も並んで、買ってきてくれた物だった。
それを一口食べた瞬間に、頬がゆるんでいた。暗く沈んで凍りついていた心が、ふわっと溶けて軽くなったのだ。たった一つのお菓子で、こんなにも心が癒やされるなんて、とものすごく感動した。そして私も、こんなお菓子を作れる人間になりたいと思った。
そのお菓子を作った人――パティシエ風間に、今日これから会える。ホテルで開かれる実演会の抽選に当たったのだ。実演会では、彼がお菓子を作るところを生で見られて、お菓子作りの重要なポイントや作業のコツを教えてくれるらしい。木下君には、今度お礼しよう。
「風間さん、もうすぐ会えますね」
命の次に……ううん、命よりも大事な一冊の本を抱きしめて道を急ぐ。
この本、『笑顔のルセット』は私の宝物。スーリールもルセットもフランス語で、ルセットはレシピのことだ。パティシエ風間が作ったお菓子の写真とレシピに、エッセイを少し添えた本。パティシエを志す者として勉強になる。
そして私は、本の最後に載っている著者紹介の顔写真に恋している。彼が作ったお菓子も美しいけれど、本人も王子様風の超イケメンさんなのよね。なんでも、フランス人とのハーフらしい。
それほどすごくてカッコイイ人なのに、あまり目立つのが好きじゃないみたい。取材や顔出しは滅多にないことで有名だから、今日は本当に貴重な機会。
話せる時間ってあるのかな? この本にサインしてもらえないかな。
そんなことを考えているうちに、実演会の会場であるホテルの前に到着していた。
――私はたぶん、舞い上がっている。なにせ、ここまで歩いてくる間のことをほとんど覚えていない。よく途中で車に轢かれなかったものだ。落ち着け、私!
深呼吸して少し落ち着いたが、今度はきらびやかな高級ホテルの入り口を見て、あらためてビビる。だって私は根っからの庶民。余程のことがない限り、こんなホテルとは無縁だからね。
緊張を和らげるように、もう一度ぎゅっと宝物を抱きしめる。
服装にこだわらない私にしては珍しく、今日は一張羅のワンピースでそこそこオシャレをしてきた。だけど、テキストや愛用の泡立て器などの調理器具、今日作ったお菓子が入った鞄をそのまま持ってきてしまったことに、今更気がつく。駅の近くのロッカーに入れてこようと思っていたのに、すっかり忘れていた。実用性重視の帆布のトートバッグとワンピースとの相性は最悪だ。こんな恰好で来てよかったのかな、と思わず入るのを躊躇する。
そんな私に、入り口に立っている人が声をかけてくれた。濃いグリーンと渋い赤の服に金のボタン、帽子のクラシカルな制服がカッコイイ。このホテルのドアマンかな?
「ようこそ。お客様はお菓子の実演会にお越しですね?」
私が実演会の主役の本を大事そうに抱きしめていたから、わかったみたい。うんうんと頷くと、ドアマンはにっこり笑った。
「招待状はお持ちですか?」
「は、はい。ここに」
本に挟んでいた招待状を出して見せると、ドアマンはさらに笑みを深くした。
「会場は八階です。ロビー奥の白い扉のエレベーターでどうぞ。それでは、旅のご無事を」
優雅なお辞儀と共に奥を示され、私も頭を下げて通り過ぎる。
でも、ロビーに入ってからふと気がついた。ドアマンの人、『旅のご無事を』って言ったよね? ホテルで行われるイベントに来た客だってわかってるのに? それともホテルの宿泊客はほとんど旅行者だから、口癖みたいになってるのかな?
振り返ったけど、あのドアマンはもういなかった。
前に向き直ったところでスマホを見ると、実演会まであと五分もない。
私は、チン、と音を立てて開いたエレベーターに飛び込む。
「えーと、八階だったよね」
さすがは高級ホテル。エレベーターの中までなんとなくゴージャス。壁なんかベルベットみたいな布が貼ってあるし、花の形の照明も素敵だ。
それにしても……
「このエレベーター遅いな」
なんか、時間かかりすぎじゃない? 途中の階で止まらないし、目的の階にもなかなか着かない。もう乗って三分も経った。ひょっとして故障? でも、動いているのはわかる。
心細くなってきたとき、やっとエレベーターが止まった。階数の表示はちゃんと八階。
もう始まってたら嫌だな。チンという音と共に扉が開いた瞬間、私はエレベーターから飛び出した。
途端に頬に感じたのは、冷たい風。そして視界を占めるのは、緑の木々。しかもやや薄暗い。
あれ? ホテルの中じゃない?
「降りるところを間違ったのかな?」
いやいや。間違えるも何も、そもそもエレベーターって建物の中を移動するものであって、外に着くなんてありえない。そうだ、高級ホテルだから、癒やしを演出するためにリアルに森を再現したフロアを作った――――なんてことはないよね?
引き返そうと振り返っても、今出てきたばかりのエレベーターのドアが見当たらない。そこには大きな木があるだけだ。
「え……」
きぃきぃ、と鳥だか獣だかわからない甲高い声がこだまする。草いきれ、靴底越しでもわかる土の感触、かすかに聞こえる虫の羽音、風が木の葉を揺らす音。周囲を見渡すと、樹齢何百年かもわからない高い木々に囲まれた薄暗い森。それに少し肌寒い。どう考えても人工の森じゃない。
「ここ、どこ?」
これは夢なんだろうか? 私、エレベーターで疲れて寝ちゃった? いや、そんなわけない。だって抱きしめてる大事な本の感触もあるし……
ん? ちょっと待て。
ふとひっかかりを覚えて、慌てて招待状を確認すると――実演会の会場は『七階大広間』と書かれている。
七階? そもそもドアマンの案内と違うじゃない!
まあ、ちゃんと自分で確かめなかった私が悪い。でも、階が違おうが、同じ建物の中ならまだよかったのに、なぜ外に出たの? これはどういうこと? ワケがわからない。
戻ろうにも出てきたエレベーターの扉はもうない。戻れないってことは――
「風間さんに会えない……?」
それどころじゃない気もするけど、なんだかそれが一番悔しかった。あれだけ楽しみにしていたのに。昨夜眠れないほどワクワクしてたのに。
エレベーターを降りたら、見知らぬ場所でした……って、洒落にならないでしょ!
本を抱きしめて、私はその場に立ちつくすしかなかった。
――しかし、ボーッとしていても何も解決しない。それに、ただでさえ薄暗かった辺りが、さらに暗くなってきた気がする。実演会は夕方の五時半からの予定だった。どこかもわからないところで夜を迎えるなんて、ごめんだ。
私はバッグからスマホを取り出した。地図アプリで現在地がわかるはず! そうだ、助けも呼べるのでは……と思ったが、電源が落ちており、起動すらしない。実演会で写真を撮らせてもらうつもりだったので、充電はバッチリだったはずなのに……
しかし、しょんぼりしても仕方がない。なんと言っても、夜が迫ってきているのだ。
とにかく少し辺りを見てみよう。ここがどこなのかわかれば、帰れるかもしれない。それに人に会えたら、道を聞くこともできるだろう。案外、街のど真ん中だったり? 公園だとか……などと、なんとか気持ちを持ち上げつつ、私は少しでも開けた方へ歩き出した。
しばらく森の中を歩いてみて、わかったことがいくつかある。ここが街のど真ん中でも公園でもなく、日本かどうかも怪しい針葉樹の森であること。私は植物に詳しくはないけど、ここに生えている草の葉っぱも大きな木も、一度も見たことがないと思う。
しかも、まさに大自然バンザイって感じで、行けども行けども人っ子一人出会わない。建物はおろか、整備された道もない。誰の気配もないし、静かすぎる。
いや……視線っぽいものを後ろから感じる気がする。それになんか、ハッハッ、って荒い息遣いも聞こえる。やだ、変質者? ――違うな、このハッハッっていう音、聞いたことがある。
あまり確かめたくはないけど、そーっと振り返って……
「ひっ!」
目が合った。怪しい息遣いの主は犬だ。二メートル近い体で私を見下ろす、角を持った赤紫色の犬である。
そうそう。ほら、暑いときなんかに犬が舌を出して、ハッハッてしてる音。だから聞いたことがあったんだ……って、違う! 犬はこんなに大きくないっ! 狼? いや、狼だってここまで大きくないし、角は生えてないはず。それに、赤紫色の毛ってありえないと思う!
しかも何頭も私を取り囲んでいた。ガルルルって唸ってるし、獣臭い息を吐きながら、ヨダレを垂らして私のことを見てる。どう見たって、肉食獣だよね。
私って獲物? 獲物認定なの? 食べる気?
「こ、来ないで……」
とにかく逃げようと思うけど、足が竦んで動けない。第一、この犬の方が私より強くて足が速いと、本能でわかる。こんな時だけ生き物の本能に目覚めなくていいから、私!
噛まれたら痛いだろうな。たとえこれが夢でも、どこなのかもわからないところで獣に食べられて死ぬなんて、最悪だ。
巨大な狼もどきの群れは、まだ襲ってこない。しかしじりじりと間合いを詰めてきていて、その牙も舌も目も怖い。
夢なら今すぐ覚めてよ!
がっ、という声と共に、大きな獣の群れが動き出した。
「いやああぁーーーー!!」
悲鳴を上げて目を閉じ、本を抱きしめる腕に力をこめる。直後、その場に丸くなって伏せた。
「――――!」
誰かの叫び声が聞こえた気がする。金属がこすれ合うような音、そしてきゃうん、という甲高い声も。
身構えてたけど一向に噛みつかれないので、そーっと目を開けてみた。
地面に伏せている私の目の前に靡いているのは、カーテン……じゃないね。マント? そのひらひら越しに見えるのは足。銀色に輝いてるのは、金属の防具的なのをつけているから?
ずずずーっと視線を上に移すと、私を庇うように広げられた手には、これまた銀色に輝く長い……剣のような物が握られていた。そのさらに上には、後ろで一つに束ねられた赤銅色の髪が揺れている。髪は長いけど、相当背が高くて大きい……男の人?
彼の向こうには先ほどの獣が一頭倒れているのが見える。この人が倒したのだろうか? 助けてくれた?
それでもまだ、獣たちは唸り声を上げながら周りを囲んでいる。
目の前の人は、ちらりと私の方を振り返った。その顔に胸がドキッと鳴る。
こんな時だけど、見たこともないほどイケメン。日本人じゃない。外国人の若いお兄さん?
その人は巨大狼もどきを自分に引きつけるように、群れの方へ駆け出した。
長い剣に銀色に輝く鎧。白いマント。その姿は昔ゲームやアニメで見た騎士そのもの。
彼は飛びかかってきた獣をひらりひらりとかわす。そして剣を振るう度に、獣がきゃうんと声を上げて飛んでいく。
カ、カッコイイ――――! って、見惚れてる場合じゃない!
食べられそうで怖かったし、彼が助けてくれているのはわかってる。だけど動物のものであろうと血を見たくはない。できるだけ傷つけないであげてほしいな……。そう思っていたら、どうも斬っているわけではなく、峰で叩いているだけみたいだ。峰打ちってやつ? よく見ると、彼の剣は西洋の両刃のタイプでなく、日本のお侍さんが持ってる刀のような片刃で細身の剣。
狼もどきたちはヨロヨロと起き上がったけど、男の人が追い払うように剣を振るうと、一斉に逃げていった。
助かった……。そう思うと、体の力が抜けて立ち上がれなかった。
騎士風の男の人は剣を腰の鞘に収めて、私の方に向き直る。
う、うわぁ、正面から見たら、ホントに美形。それにすごく背が高くて、百九十センチ近くありそう。体つきもがっしりしてる。結わえてある髪は長いけど、彫りが深くて男らしい顔。
でもキリッとしてるっていうか、すごく難しい顔をしてるな。眉間に皺が寄ってるけど、怒っているのかな?
とにかくお礼を言わなくては。しかし私が口を開く前に、騎士様はへたり込んだままの私の目線に合わせて身を屈めて、何か早口で言った。
「○△※――――?」
とても渋くていい声だけど、内容がまったく聞き取れない。見た目からして人種が違いそうだから当たり前だが、彼の言葉は日本語ではなかった。
ううーん、どこの国の言語なんだろう? すごく得意というわけではないけど、英語なら聞けばなんとかわかる。将来お菓子の勉強のために留学するつもりで、フランス語も少し勉強している。だけど、どちらとも違うし、欧州系の言語じゃなさそう。かといって中国語や韓国語などのアジア系言語とも違う。まったく聞いたこともない響きの言葉。
困った。こちらの言葉も通じない可能性が高い。
それでもお礼は言わないと。命の恩人だもの。
「あ、あの、本当にありがとう……ございました」
ぺこぺこと頭を下げながら言った。言葉はわからなくても仕草で通じるかな?
でもやっぱり微妙な顔をされた。向こうも言葉が通じないと悟ったらしい。
ほんの少しの沈黙の後、騎士様が私の方に手を伸ばしてきた。本を抱きしめている私の腕を、がっしり掴んでくる。うわ、なになに?
体がびくっとしてしまう。彼が強く引っ張った勢いで、私は立ち上がり、本を落としそうになる。もしかして、この本が目当て?
「これはダメ!」
そう叫んで、思わず手を乱暴に振りきってしまった。しかし彼は本を取り上げようとしたのではなく、座り込んだままの私を立たせてくれたのだ。すぐに理解できて申し訳なくなった。
私の足や手を確かめるように見てから、彼はまた何か言ったが、例によってわからない。雰囲気から察するに、多分怪我はないかと聞いてくれたのだと思う。
「け、怪我はないです。手を振り払ったりしてごめんなさい」
言葉が通じていないのはわかってるけど、そう言ってみる。手足を動かして見せると納得してくれたみたい。
しかし、せっかく男前なのに無愛想な人だ。でも、口調は厳しくないので怒ってはいないのだろう。彼はまた一言二言話しかけてくるが、やっぱり何を言っているのかわからない。
「……アメル……」
かろうじて聞き取れたのがその単語だった。自分を指して言ったところから、名前か苗字なのではないかと推測する。
「アメル……さん?」
失礼かと思いつつも彼の方を指さして首を傾げると、彼はうんうんと頷いた。やっぱり名前なんだ。この騎士様風イケメンはアメルさんというのか。
今度は自分を指さして言ってみる。
「私は愛美です。エミ」
「エミ?」
「そう。私の名前。エミ、アメル」
私と彼を交互に手で指し示すと、また彼が頷く。
言葉が通じないなりに、交流が図れたかな、と思っていたのに――
「エミ、△※○――――?」
ぽんぽん、と私の肩を軽く叩くと、アメルさんは遠くを指さして歩き始めた。
ええっ、行っちゃうの? まだ怖い獣がいるかもしれないところで、一人になるのは嫌だ。
この人だってこんな森の中に住んでいるわけでなく、人がいる街や村に帰るだろう。もしかして、私が元の場所に帰る方法を知ってる人を見つけられるかもしれないじゃない。
「待って! 私も一緒に……」
慌ててマントに縋ると、彼は足を止めて振り返った。その次の瞬間――
ぐきゅるるうっ。
とても情けない音が、アメルさんから聞こえた。アメルさんは難しい顔のまま、かすかに照れたような仕草でお腹を押さえている。
「お腹が空いてるんですか?」
命の恩人だし、何かお礼ができたらいいんだけど……あ、そうそう。
バッグに大事な本を仕舞い、かわりに小さな箱を取り出す。
「こんなのでもよかったら」
今日の実習で作った、ボンボン・ショコラ。ただし、形がよくなくて提出できなかった物だ。反省もかねて自宅で食べようと持って帰ってきていた。フランボワーズ風味のホワイトチョコムースをビターチョコでコーティングしたのと、プラリネ入りのミルクチョコの二種類。しかも二個だけ。ちなみにプラリネとは、焙煎したナッツとカラメルをまぜ合わせて、ペースト状にしたもののこと。
お腹が空いてるのにこんな物しかなくて、申し訳ない気持ちになる。せめてサブレだったらお腹の足しにもなっただろうな。
チョコの小箱を差し出して蓋を開けると、アメルさんはびくりと身構えた。
「食べ物です。大丈夫」
あーんと口を開けて、食べ物を入れる動作をしてみた。わかるかな? 食べ物。そうしていると、彼の大きな手が伸びてきた。
元々三センチほどで小さなチョコだけど、アメルさんが摘むとさらに小さく見える。
アメルさんはおもいきり匂いを嗅いでいる。ひょっとしてチョコレートを知らない?
彼は難しい顔でしげしげと見つめた後、ボンボン・ショコラをぽいと口に放り込んだ。
もぐもぐもぐと口を動かす騎士様。味わってるねぇ。そこまで噛み締めなくても。
アメルさんは眉間に皺を刻んでいる。うーん、微妙に甘すぎたとは思ってたし、成形に失敗したのと艶が悪いのは、温度がよくなかったのが原因だろう。舌触りもイマイチと思われる。
やっぱり私はまだまだだな……そう思っていると、アメルさんは突然目を見開いた。実際に音がするわけではないんだけど、『カッ!』って感じで。
「うっ! □△※……!」
何やら拳を握りしめて呻いているアメルさん。
もしかして怒ってる? 助けたのにマズイ物を食わせやがって、という怒りなのだろうか。それとも初めて食べる物で、驚いているとか?
そしてアメルさんはもう一個のチョコを摘んで口に入れる。その顔が至近距離に迫ったと思ったら、ぐりん、と視界が回った。
「えっ?」
ふわっと体が宙に浮いて――なんとアメルさんにお姫さま抱っこされていた! 私、日本人的にもかなりチビの部類だし、アメルさんは推定百九十近い長身だけど、そんなに軽々と!
さらに彼は私を抱えたまま走りだした。
何? なんなの、このリアクションは! ひゃああぁ、それに、これイヤーッ! 恥ずかしいー! 近くで見るとカッコよすぎてヤバーイっ! ドキドキして口から心臓が出そうなんですけど!
パティシエ風間さん以外の人にドキドキする日が来ようとは、思ってもみなかった私だった。
しかし……乙女なトキメキは長くは続かなかった。
「あの、歩けます。下ろしてください」
一応何度目かの訴えをしてみるものの、彼は私を離してくれない。
とはいえ、このあたりは知らない場所。せっかく連れてきてもらったのに、ご機嫌を損ねてぽいっと捨てていかれても困るし、帰る方法を見つけるためにも、身を任せるしかない。
私も十九のお年頃。若い男の人……しかも、超イケメンに抱えられているのに、照れや胸キュンを今は一切感じなくなってしまったのは、多分この体勢のせいだろう。
アメルさん、私はバッグじゃないので、小脇に抱えるのはやめていただきたい。ただ、お姫様抱っこの気恥ずかしさに抵抗した結果がこれなので、自業自得なんだけど……
抱えられたまま移動すること数分。周囲の木がまばらになって来た。森を抜けたみたい。
「――――!」
あ、誰か他の人の声がする。そこには数頭の馬と、アメルさんに向かって手を振る人たちがいた。みんな男の人で、金属や革の鎧のような物を身につけて剣を携えている。騎士のお仲間なのかな?
その人たちの近くに寄ると、アメルさんはやっと私を下ろしてくれた。
男の人たちが話している内容は、やはりまったくわからない。だけど他の人はアメルさんの仲間で、ここで彼を待っていたようだ。そして、私の方を見てから肘でアメルさんを突いた人や、咳払いした彼のやや焦ったような仕草で、ツッコミを入れられているのだと推測する。
私も一応女だからね。仲間がいきなり見知らぬ女を抱えて連れてきたら、こうなるよね。
男の人たちの視線が一斉に私に集まってちょっと怖かったので、アメルさんの後ろに隠れてみた。
アメルさんは私を指さしてから、少し話す。それから空を示し、また話した。他の人は頷き、各自、馬の方に向かう。きっと、暗くなる前に移動することにしたのだろう。
どうもアメルさんはこの中で一番偉い人みたい。彼以外の人の鎧は、なんとなく地味だしね。
そんな時、一番近くにいた騎士っぽい人の横顔が目に入った。アメルさんよりは小柄で華奢だけれど、私に比べたら充分大きい。短めの明るい色の髪と涼しげな目元だ。
その人が私の方を……正確に言うとアメルさんの方をちらりと見る。
「えっ?」
その顔を見た途端、思わず目を疑った。
似てる……パティシエ風間さんに。結局会えなかったから実物を見たわけじゃないけど、擦り切れそうなほど毎日見ている本の、あの写真の人に。
ほんの一瞬のことで、その人はすぐに馬に飛び乗って顔が見えなくなってしまった。それでもドキドキと胸が鳴ってるのがわかる。
見間違いかな? こんなところにいるはずがないもの。
混乱してきた時、またもひょいと体を持ち上げられた。犯人はアメルさんである。
「わわっ!」
次の瞬間には、私は馬の背に座らされていた。
馬なんて、小さい頃に動物園でポニーに乗ったきりだ。この馬、かなり大きい! すごく高くて怖さのあまり、誰かさんに似てる騎士のことなど頭から抜けてしまった。
そしてアメルさんも同じ馬に飛び乗って、私の後ろに座る。
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