放課後、月の裏で逢いましょう

羽蟲蛇 響太郎

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第1章 転入生は、月の匂いがした

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 春の風はまだ冷たく、校門前の桜は満開には少し早かった。
 それでも、花びらは気まぐれに舞い落ちて、月影学園の朝を淡く染めている。

 私は靴箱の前で立ち止まり、胸元のリボンを指で整えた。
 理由はわからない。ただ、今朝は心が落ち着かなかった。

 昨夜、夢を見たからだ。

 満月の夜。
 誰もいない校舎。
 冷たいはずの夜風の中で、誰かが私の手を握っていた。

 ――大丈夫。次の満月に、また逢える。

 声だけが、やけに鮮明だった。

「……和泉さん?」

 呼ばれて、はっと我に返る。
 同じクラスの子が、不思議そうにこちらを見ていた。

「あ、ごめん。ぼーっとしてた」

 そう笑って靴を履き替える。
 胸の奥に残ったざわめきは、春のせいだと思うことにした。

 ***

 教室は、新学期特有のざわつきに満ちていた。
 席替えの話、部活の話、春休みの出来事。
 私、和泉しずくは、窓際の席でその空気を静かに眺めていた。

「しずく、おはよー!」

 元気な声とともに、親友の柊まどかが隣の席に座る。

「おはよう」
「ねえねえ、聞いた? うちのクラス、今日転入生来るらしいよ!」
「転入生……?」

 まどかの言葉に、胸がわずかに跳ねた。
 理由はわからないのに、心が先に反応してしまう。

「なんかね、東京から来たらしい。しかも男子!」
「そうなんだ……」

 それ以上の言葉が続かなかった。
 視線を窓の外に逃がすと、雲一つない青空が広がっている。
 なのに、なぜか夜の気配が混じっている気がした。

 ホームルームが始まり、担任が教壇に立つ。

「静かにー。今日は転入生を紹介する」

 ざわ、と教室の空気が揺れた。
 扉が開く音がして、ひとりの男子生徒が入ってくる。

「朝凪です。よろしくお願いします」

 その声を聞いた瞬間、心臓が強く脈打った。

 視線が絡む。

 黒髪。
 落ち着いた表情。
 なのに、どこか懐かしいと感じてしまう、不思議な瞳。

 ――知ってる。

 そんなはずはないのに、確信めいた感覚が胸を満たした。

 朝凪くんは、私の斜め後ろの席に案内された。
 距離は近いのに、触れてはいけない境界線が引かれたみたいに感じる。

「ね、ね、しずく。めっちゃ雰囲気あるよね」
「……うん」

 返事はしたけれど、意識はずっと背後にあった。
 彼の存在が、空気ごと変えてしまったみたいだった。

 昼休み、人の流れに押されて廊下を歩いていたときだった。

「あ――」

 足がもつれて、身体が前に傾く。
 次の瞬間、誰かの手が私の腕を掴んだ。

「危ない」

 低くて、優しい声。

 その手に触れた瞬間、世界がひっくり返った。

 満月。
 夜の校舎。
 私と、彼。

 ――約束だよ、しずく。
 ――次の満月に、放課後、ここで。

 知らないはずの記憶が、涙の気配を伴って流れ込んでくる。

「……っ!」

 私は思わず手を振り払った。
 息が苦しい。

「ご、ごめんなさい……!」

 朝凪くんは驚いたように目を見開いたあと、すぐに困ったように微笑んだ。

「ううん、こっちこそ急に掴んでごめん」

 その笑顔に、胸が痛くなる。
 優しいのに、どこか遠い。

 彼は、私だけに聞こえる声で、そっと呟いた。

「……やっと、見つけた」

 その言葉は、春風よりも柔らかくて。
 それなのに、どうしようもなく切なかった。

 私は知ってしまった。
 この出会いは、ただの偶然じゃない。

 放課後。
 満月。
 そして、月の裏側。

 私たちの恋は、もう始まってしまっていた。

 あの日から、朝凪くんの存在が、私の日常に静かに溶け込んだ。

 同じ教室。
 同じ時間割。
 それなのに、彼がいるだけで、世界の輪郭が少しだけ変わる。

 席は斜め後ろ。
 授業中、黒板に向かいながらも、ふと気配を感じてしまう。
 振り向いてはいけないと分かっているのに、意識はどうしても彼に引き寄せられた。

「和泉」

 昼休み、名前を呼ばれて肩が跳ねる。

 朝凪くんが、少しだけ距離を空けて立っていた。
 近づきすぎない、その立ち位置が、なぜか胸に刺さる。

「ノート、ここ写し忘れてたから」

 差し出されたノート。
 指先が触れないよう、慎重に受け取る。

「……ありがとう」
「うん」

 短いやり取り。
 それだけなのに、心臓がうるさかった。

 触れたら、分かってしまう。
 彼の心の奥にあるものを。

 それが、怖かった。

 ***

 放課後。
 校舎に残る生徒は少なく、廊下には夕暮れの光が長い影を落としている。

 私は帰り支度を終えながら、何度も時計を見ていた。
 理由は分からない。
 けれど、胸の奥がざわついて仕方がなかった。

「……和泉」

 振り向くと、朝凪くんが教室の入口に立っていた。

「一緒に帰らない?」
「え……?」

 突然の誘いに、言葉を失う。
 まどかは既に部活へ向かっていて、教室には私たちだけだった。

「無理なら、いいけど」

 そう言いながらも、彼は逃げ道を用意するみたいに一歩引く。
 その優しさが、切ない。

「……大丈夫。帰る」

 口に出してから、少しだけ後悔した。
 それでも、断れなかった。

 校舎を出ると、空は茜色に染まっていた。
 風が吹くたび、桜の花びらが地面を転がっていく。

 並んで歩く。
 肩と肩が触れそうで、触れない距離。

「放課後、静かだね」
「……うん」

 会話はそれだけ。
 沈黙が気まずいはずなのに、不思議と嫌じゃなかった。

 昇降口を抜けたところで、朝凪くんが足を止める。

「和泉」

 名前を呼ばれる。
 今度は、さっきよりも低い声だった。

「昨日……手、振り払わせてごめん」

 胸がきゅっと締め付けられる。

「私こそ、ごめんなさい。急に」

 本当の理由は言えない。
 触れたら、彼の心を覗いてしまうから。

 しばらく沈黙が落ちる。
 夕焼けが、二人の影を長く伸ばしていた。

「……俺ね」

 朝凪くんが、言葉を選ぶみたいに視線を逸らす。

「君に触れない方がいいって、分かってる」

 息が止まった。

「でも、それでも……」

 彼は一歩だけ、近づく。
 触れない。
 けれど、距離は確実に縮まる。

「放課後だけでいい。少しだけ、話そう」

 それはお願いだった。
 拒めないほど、切実な。

「……放課後、どこで?」

 私がそう聞くと、朝凪くんはほんの少し笑った。

「図書室。人も少ないし」

 図書室。
 静かな場所。
 触れずに、話せる距離。

 それなのに、胸が騒いだ。

「分かった……」

 約束してしまった、と心のどこかで思う。

 別れ際、朝凪くんは振り返り、私を真っ直ぐ見た。

「ありがとう、しずく」

 名前を呼ばれただけで、胸が熱くなる。
 それが、恋だと気づくには、もう十分だった。

 夕暮れの校舎を背に、私は立ち尽くす。

 ――触れてはいけない。
 ――近づきすぎても、いけない。

 それなのに。

 次の放課後を、待ってしまっている自分がいた。

 月はまだ、昇っていない。
 けれど確かに、世界の裏側は、もうすぐそこまで来ていた。

(つづく)
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