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五葉紋

ジェラルドは屋敷の外に出たことがない

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 ジェラルドは屋敷の外に出たことがない。屋敷には母と自分、そして最低限の使用人たちがいて、時折、父とされる男性がやって来る。
 立派な体格の父は国を守る軍人で、素晴らしい人だと家令が教えてくれた。しかし、父は家に訪れると母を連れ去ってしまうし、二人が籠もった部屋からは時折泣き声が聞こえてくるため、印象は良くなかった。それを愚痴ると家令は「仲が良いから、そのような事もあるのです」と微妙な笑顔で父を擁護していたが、ジェラルドには理解しがたいことだった。

「ジェリー」
「どうしましたか、

 庭の温室で本を読んでいたジェラルドのもとへ母がやって来た。彼女を〝母上〟と呼びたいが、それをジェラルドは許されていない。なんでも母はジェラルドを産んだ記憶がなく、それを突きつけると恐慌状態に陥るそうだ。なので、ジェラルドは〝弟〟として彼女のそばにいる。必要以上に母を苦しめたくないし、姉としての彼女は優しいから、それで満足だった。
 〝ジェリー〟というのはジェラルドの愛称だ。そういった呼び方も愛されている――と思えてよかった。ジェラルドも幼いなりに彼女の中で自分の存在がタブーとなっていることを理解していたが、愛情の欠片にすがらないと心が保てない。虚構でしかない家族愛であっても、愛は愛だと受け入れている。

「クッキーを焼いたのよ、一緒に食べましょう」

 ニコニコと無邪気に笑う母は童女のように愛らしい。右腕に下げた藤籠はお茶の時間のお供か、被せてある花柄の布に顔を近づければ、鼻をくすぐる甘く良い香りに、うっとりとしてしまう。母はその布を得意げに取り去り、胸を張った。

「どう? 今回は一人で作ったの!」
「それは凄い……姉上、味見はしましたか?」
「したわよ! もう、信用無いんだから」

 母は頬を膨らませて怒るも、テーブルに布を敷いてから皿を置き、そこへクッキーを並べる。ジェラルドも彼女が持ってきた保温瓶に入っている紅茶をカップに注いで準備を手伝った。

「あ……」

 ジェラルドはふと見上げた頭上に小鳥たちを見つけた。温室のガラスを支える枠にくっついて止まっている。

「姉上、あの小鳥は兄弟でしょうか?」

 ジェラルドは母に教えるように、小鳥たちを指さした。ピッタリと押し合う様子は仲が良さそうで微笑ましい。

「ふふっ、違うわ! 恋人同士なの。ああやってくっついて、秘密の恋を語るのよ」
「でも姉上、恋と言っても小さいのでまだ子供ですよ?」
「もう、ジェリーったら。そういうものなのよ。だって、そう教わって……」

 そこで、母の様子が変わる。明るく幼げだった顔や声がまるで本来の年齢に戻っていくような……。

「姉上?」
「……誰か、大事な人に教わったの。でも、誰だったかしら……思い出せないわ……」

 どこか遠くを見るようにして母はいつもより低い声で呟いた。ジェラルドは不安に胸がギュッと締まる。母はジェラルドが生まれたことを拒絶しているから、彼女が〝母〟に戻れば今の穏やかな愛情はなくなってしまうかもしれない。

(……いけない。母上がきちんと自分を取り戻せるなら……それはいいことなのに)




 そんな泣きそうになるジェラルドに追い打ちをかける出来事が起きたのは、それから間もなくの晩。
 母は暗い寝室で半狂乱になって暴れた後、部屋の隅でシーツにくるまって震えていた。

「姉上……」
「あなたは誰なの……⁉ 兄はいたけど、私に弟はいないわ……‼ な、なんで私と同じ顔をして……‼」
「私、は……」
「出て行って‼ 出て行ってよ‼」

 宥めようとするジェラルドの手を振り払い、母はゴーストでも見るような恐怖に満ちた顔で拒絶の言葉を投げかけた。ジェラルドはそのまま後ずさり、脚が上手く動かずペタンと尻もちをつく。そこへ騒ぎを聞きつけた家令と使用人がやって来て、二人を引き離し騒ぎを一旦収めた。ジェラルドは家令に抱かれて寝室の外へ出る。

「ジェラルド様、今日は客間で休みましょう」
「はい……」
「大丈夫です。奥様は恐ろしい夢を見ただけです」
「……」

 家令はジェラルドを安心させようと微笑んでくれるが、母の恐ろしい夢とは自分の存在なのだと理解している。ぽろり、と零れた涙は一度落ちれば止まることなく次々に流れて家令の上等なスーツにシミを作った。ジェラルドが「ごめんなさい」としゃくり上げながら謝れば、彼はポケットから出したハンカチを目に当ててくれた上に、優しく頭を撫でてくれる。

「快方に向かっていたんです。きっと、よくなりますから……」

 家令の言葉は彼自身の願いであるように感じた。あくまで〝願い〟であり、えてしてそれは叶わない。この場合も例外ではなく、翌朝やって来た医者の診断で母は入院することとなった。




 そこから先は地獄でしかない。

 ジェラルドはクイン家の本邸で騒いだという母の兄――伯父に引き取られたが、養育はされず、横流しするように研究所へ売られてしまう。

 第二性の発現を操作する実験体にされると告げられ、殺風景な部屋に閉じ込められた。
 週に一度打たれる薬は、成長を遅らせる効果があると聞かされたが、これは肝心の〝薬〟が完成する前に第二性が目覚めてはいけないということだろうか。
 直接その実験に関わるものでないとはいえ、副作用は大きく、ジェラルドは顔面や舌が動かしにくくなり、話すことも覚束なくなった。

(……でも話す相手ももういない)

 ジェラルドはベッドに横たわり、天井を眺める。すっかり伸び切った髪と白い病衣姿で、母が怯えたゴーストらしい姿だと鏡を見るたびに思う。

(私はいつまでここで拘束されるのだろう……)

 薬は実験段階で見直されることとなり、ジェラルドはただ留め置かれている状態だ。地中にある研究所は自然な光が入らず、その閉塞感は徐々にジェラルドの心を蝕んでいた。

(おかしくなってしまう前に、空が見たい……)

 視線を動かすと通気口があった。地中ゆえに大きい間口で作られた通気口は、今のジェラルドの体格であれば通れそうである。

「……」




 ジェラルドは傷つきながらも、研究所内のをくぐり抜けた。光に包まれ、目を開けばそこはどこかも分からない外の世界。

(ここは……ああ)

 大きな建物と深い森に挟まれるようにして、雲一つない青空が広がっている。久しぶりに浴びた光は目を焼くような痛みを伴うものの、その美しさには敵わない。涙をにじませながらただ、青を見上げた。

「そ、ら」

 ジェラルドはたどたどしく言葉を発し、覚束ない足取りで花畑を歩いていく。光に満ちた世界で死ねるなら、それでいいと数歩進んだ先でぐしゃりと崩れ落ちた。
 死を感じた。
 というのに意識は消えず、機能する耳からは慌てふためく子供の声が聞こえる。なんなのだ、と言葉にしようとして、咳き込んで身体が覚醒した。飛び退いて目にしたのは自分より背の高い、金髪碧眼の美しい子供で、心配そうな顔をしてこちらを見ている。

(天使……ではないか。人間だ)

 それがジェラルドの初めて見たレオンの姿だった。
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