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ころがって
【八】旦那様とふわふわ
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今、僕の目の前にあります小さな卓袱台の上には、土鍋に入ったお粥と、梅干しの入った瓶、大根おろしが入った器、炒り卵の塊の様な玉子焼きが置いてあります。処々に焦げ目が見えます。
「…あの…この玉子焼きは旦那様がお作りになられたのですか?」
「違う。星だ。お前が寝てる間に見舞いに来てくれた。お前が熱を出したのは、自分が玉子焼きを取ったせいだと思っていたぞ。ほら、食え」
僕の言葉に、僅かにですが旦那様の眉間に皺が寄りましたが、お茶椀にお粥をよそう手は止めずに、よそったそれを僕の前に差し出して下さいました。
玉子焼きを? と、思いましたが、それよりも、です。
「星様が居らしたのですか? 起こして下されば…」
うろ覚えですが、熱を出してしまった僕を、星様と倫太郎様がお二人で医務室まで運んで下さった筈です。起こして下されば、そのお礼と御迷惑をお掛けしたお詫びを口に出来ましたのに。
「星に風邪を移す訳には行かないだろう。休み明けに、また来る。その時に熱が下がっていれば、その時に言えば良い。…その玉子焼きは無理に食べなくて良いぞ…恐らくだが、初めて作ったのだろう」
「…初めて…」
その言葉に、再び玉子焼きに目を向けました。
とても不格好で、失礼ですが美味しそうには見えません。お焦げが多いのは、火が強過ぎたのか、お砂糖のせいなのかは、見ただけでは解りませんが。
「…失礼します…」
「ん」
お箸を両手の指に挟む様に横に持ち、僕は頭を下げます。
旦那様より先にお食事をするのは心苦しいですが、僕が食べない限り、旦那様はここから動かないと思われます。ですから、旦那様にお食事を摂って戴く為にも、我儘を言わないでおきましょう。
玉子焼きに箸を入れて一口分を取り、口の中へと入れます。
…甘いです…。少々…いえ…かなり、お砂糖が多めですね…。
「…甘いのか?」
思わず眉を寄せてしまったのでしょう。旦那様の苦笑が零れました。
大根おろしは、それを見越して御用意されたのでしょうか?
「…ですが、美味しいです…」
はい。
少々、僕の苦手な甘さですが、星様が初めて作られたと思われます玉子焼きは、美味しかったです。
何故か、胸の奥が温かくなった気がします。何処かくすぐったい様な気がします。
不思議です。
あの快活な星様が、どの様なお顔をしながら作って下さったのでしょうか?
それを想像しましたら、星様には申し訳無いのですが、自然と笑みが零れてしまいます。
「そうか」
そんな僕を見ながら、旦那様が静かに優しく微笑みました。
その微笑みがとても温かくて、何故だかまた胸がくすぐったくなりました。
そんな穏やかな時間の中で、総ては食べられませんでしたが、旦那様が無理して食べなくても良いと言って下さいましたので、申し訳無いと思いながら、御食事を終えました。
少々苦いお薬を飲みまして、横になりましたら、また旦那様が眠るまでお傍に居て下さいました。
申し訳ないですと思いながらも、身体がふんわりとした温かさに包まれていまして。
それが、心地良くて。
それが、嬉しくて。
こんな贅沢をしていても良いのでしょうか?
…たまには良いですよね?
ふわふわとした気持ちで、僕は眠りに付きました。
◇
「………何をしているんだ?」
旦那様のお声がとても低いです。
僕は今、鼻を摘ままれています。
場所は台所です。
僕の手には包丁が握られていますので、危ないのですが。
「…ふが…朝餉の支度をと思いまして…」
はい。
昨夜はとても気持ち良く眠れましたので、すっきりと目が覚めました。お薬が効いたのでしょうね。
ですから、こうして居るのですが…何がいけなかったのでしょうか?
「お前な。熱が下がったのかも知れんが、だからと言って直ぐに動こうとするな。こんな事をしてたらぶり返すだろうが。熱が下がったとしても、様子見が必要なんだ。相楽から安静にしろと言われている。後は俺がやるから、部屋で寝ていろ」
「本当に調子が良いのです。これまで怠けていた分を取り戻しませんと」
旦那様が目を細めて僕を睨んで来ますが、退く訳には行きません。少しでも動いて調子を戻しませんと。
「お前は、怠ける事を覚えろ!」
「ふわああああ!? あぶ、危ないですっ!」
しかし、退かないのは旦那様も同じ様でして。
鼻を摘まんでいた手が離れたと思いましたら、何と云う事でしょう。僕は旦那様に持ち上げられ、横抱きにされてしまいました。僕の手には、依然として包丁があります。驚いた拍子に、切り付けていたとしたら、大惨事です。振り回さない様に、僕は両手でぎゅっと包丁の柄を握り締めました。
「全く。布団に縛り付けて簀巻きにしてやろうか? あ?」
ふえっ!
「そ、それは御勘弁を…」
その様な事をされたら、何も出来なくなってしまいます。
「なら、最低でも、あと二日は大人しくしていろ。いいな?」
「ふぁ、ふぁい…」
じとりと睨まれてしまいました。
これは、脅迫でしょうか?
そして、そのままお布団へと逆戻りです。
うう…少し怠いぐらいで、もう大丈夫ですのに。
旦那様は心配が過ぎると思います。
「いいな? 次に何かしようとしたら、本当に簀巻きにするからな?」
「…はい…」
僕の手から取り上げた包丁の背で肩を叩きながら、旦那様が言います。その御姿は、まるで何処かのならず者みたいです。
ええ、決してその御姿が様になっている等とは口が裂けても言えません。
その代わりに、お布団を頭の上まで引き上げながら思いました。
僕には、やっぱり贅沢な時間なんて必要ありません、と。
昨日までの事は夢だったのでしょう、きっと。
「…あの…この玉子焼きは旦那様がお作りになられたのですか?」
「違う。星だ。お前が寝てる間に見舞いに来てくれた。お前が熱を出したのは、自分が玉子焼きを取ったせいだと思っていたぞ。ほら、食え」
僕の言葉に、僅かにですが旦那様の眉間に皺が寄りましたが、お茶椀にお粥をよそう手は止めずに、よそったそれを僕の前に差し出して下さいました。
玉子焼きを? と、思いましたが、それよりも、です。
「星様が居らしたのですか? 起こして下されば…」
うろ覚えですが、熱を出してしまった僕を、星様と倫太郎様がお二人で医務室まで運んで下さった筈です。起こして下されば、そのお礼と御迷惑をお掛けしたお詫びを口に出来ましたのに。
「星に風邪を移す訳には行かないだろう。休み明けに、また来る。その時に熱が下がっていれば、その時に言えば良い。…その玉子焼きは無理に食べなくて良いぞ…恐らくだが、初めて作ったのだろう」
「…初めて…」
その言葉に、再び玉子焼きに目を向けました。
とても不格好で、失礼ですが美味しそうには見えません。お焦げが多いのは、火が強過ぎたのか、お砂糖のせいなのかは、見ただけでは解りませんが。
「…失礼します…」
「ん」
お箸を両手の指に挟む様に横に持ち、僕は頭を下げます。
旦那様より先にお食事をするのは心苦しいですが、僕が食べない限り、旦那様はここから動かないと思われます。ですから、旦那様にお食事を摂って戴く為にも、我儘を言わないでおきましょう。
玉子焼きに箸を入れて一口分を取り、口の中へと入れます。
…甘いです…。少々…いえ…かなり、お砂糖が多めですね…。
「…甘いのか?」
思わず眉を寄せてしまったのでしょう。旦那様の苦笑が零れました。
大根おろしは、それを見越して御用意されたのでしょうか?
「…ですが、美味しいです…」
はい。
少々、僕の苦手な甘さですが、星様が初めて作られたと思われます玉子焼きは、美味しかったです。
何故か、胸の奥が温かくなった気がします。何処かくすぐったい様な気がします。
不思議です。
あの快活な星様が、どの様なお顔をしながら作って下さったのでしょうか?
それを想像しましたら、星様には申し訳無いのですが、自然と笑みが零れてしまいます。
「そうか」
そんな僕を見ながら、旦那様が静かに優しく微笑みました。
その微笑みがとても温かくて、何故だかまた胸がくすぐったくなりました。
そんな穏やかな時間の中で、総ては食べられませんでしたが、旦那様が無理して食べなくても良いと言って下さいましたので、申し訳無いと思いながら、御食事を終えました。
少々苦いお薬を飲みまして、横になりましたら、また旦那様が眠るまでお傍に居て下さいました。
申し訳ないですと思いながらも、身体がふんわりとした温かさに包まれていまして。
それが、心地良くて。
それが、嬉しくて。
こんな贅沢をしていても良いのでしょうか?
…たまには良いですよね?
ふわふわとした気持ちで、僕は眠りに付きました。
◇
「………何をしているんだ?」
旦那様のお声がとても低いです。
僕は今、鼻を摘ままれています。
場所は台所です。
僕の手には包丁が握られていますので、危ないのですが。
「…ふが…朝餉の支度をと思いまして…」
はい。
昨夜はとても気持ち良く眠れましたので、すっきりと目が覚めました。お薬が効いたのでしょうね。
ですから、こうして居るのですが…何がいけなかったのでしょうか?
「お前な。熱が下がったのかも知れんが、だからと言って直ぐに動こうとするな。こんな事をしてたらぶり返すだろうが。熱が下がったとしても、様子見が必要なんだ。相楽から安静にしろと言われている。後は俺がやるから、部屋で寝ていろ」
「本当に調子が良いのです。これまで怠けていた分を取り戻しませんと」
旦那様が目を細めて僕を睨んで来ますが、退く訳には行きません。少しでも動いて調子を戻しませんと。
「お前は、怠ける事を覚えろ!」
「ふわああああ!? あぶ、危ないですっ!」
しかし、退かないのは旦那様も同じ様でして。
鼻を摘まんでいた手が離れたと思いましたら、何と云う事でしょう。僕は旦那様に持ち上げられ、横抱きにされてしまいました。僕の手には、依然として包丁があります。驚いた拍子に、切り付けていたとしたら、大惨事です。振り回さない様に、僕は両手でぎゅっと包丁の柄を握り締めました。
「全く。布団に縛り付けて簀巻きにしてやろうか? あ?」
ふえっ!
「そ、それは御勘弁を…」
その様な事をされたら、何も出来なくなってしまいます。
「なら、最低でも、あと二日は大人しくしていろ。いいな?」
「ふぁ、ふぁい…」
じとりと睨まれてしまいました。
これは、脅迫でしょうか?
そして、そのままお布団へと逆戻りです。
うう…少し怠いぐらいで、もう大丈夫ですのに。
旦那様は心配が過ぎると思います。
「いいな? 次に何かしようとしたら、本当に簀巻きにするからな?」
「…はい…」
僕の手から取り上げた包丁の背で肩を叩きながら、旦那様が言います。その御姿は、まるで何処かのならず者みたいです。
ええ、決してその御姿が様になっている等とは口が裂けても言えません。
その代わりに、お布団を頭の上まで引き上げながら思いました。
僕には、やっぱり贅沢な時間なんて必要ありません、と。
昨日までの事は夢だったのでしょう、きっと。
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