旦那様と僕

三冬月マヨ

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ころがって

【十四】旦那様と夢の中

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 おひさまが眩しくて閉められた薄いかあてんが、開けられた窓から入り込む風で揺らめいています。

「…ゆかり君が、今の仕事に就いた切っ掛けって、聞いた事ある?」

 丸い椅子に座ったまま、一点を見詰めます僕の横に立つ相楽さがら様が、静かな声で話し掛けて来ました。普段の間延びした話し方とは違い、とても落ち着いた話し方です。
 無言で僕は静かに首を振ります。

「…未だ、僕と出会う前の話なんだけどね。紫君が、十二の時だったかな…? その時に、あやかしに襲われた事があるんだって。その頃って、未だ、今みたいに街の警備が万全では無かったんだよね。昼間でも、暗がりに妖が潜んでいる事が、多々あったんだよ。それに、たまたま、紫君が遭遇して。で、それを助けてくれたのが、杜川もりかわのおじさんなんだって。あ、杜川のおじさんの話は聞いた事ある?」

「…いいえ…。…奥様の…お通夜の時に…お見掛けは致した気がしますが…その時はお名前も何も…」

「うん。紫君の叔父と云っても、杜川のおじさんが、そう言っているだけだしね。…鞠子まりこちゃんの母親の妹の夫君ふくんのお兄さんなんだよね」

「…………ええと…?」

「まあ、血の繋がりなんて無い、他人だよねえ~」

 困惑する僕に、相楽様が苦笑しました。

「…はあ…」

「まあ、助けられた事が切っ掛けで、自分も人を助ける仕事をしたいと思ったんだって。まあ、その頃は漠然と、そう思っていただけでね。けど、それが変わったのは、紫君が二十歳の時。…紫君の両親が、妖に襲われてね…」

「え…?」

 …その様なお話は、これまでにお聞きした事がありません。
 旦那様のご両親は事故で亡くなられたと…そうお聞きしていました…。

 思わず、相楽様を見上げますと、眼鏡の奥の目を細めて優しく笑って下さいました。

「…うん。雪緒ゆきお君が妖に襲われた時の事を思い出さない様にって、黙ってて欲しいって、頼まれてたんだ」

 相楽様のその言葉に、僕は俯いてしまいます。
 妖に襲われた時の事など、怖くはありませんのに…。
 昨日も、あの様なお怪我の中で、酷く心配されていましたね…。
 旦那様が謝る必要なんてありませんのに…。

「…僕は…大丈夫ですのに…。…そんなに…僕は…頼りないのでしょうか…。…そんなに…僕は…信用出来ないのでしょうか…。…僕は…そんなに…弱いのでしょうか…」

 ぎゅっと、膝の上に置いていた両手で着物を握り締めます。
 このような事は言うべきではありませんのに。
 せい様にお話しした時と同じです。
 僕はどうしてしまったのでしょうか?
 これでは、本当に聞き分けの無い子供です。
 それでも、ただ、黙っているだなんて居られませんでした。

「…僕は、雪緒君は強いと思うよ。…紫君も、そう思っている筈だよ。…ただ、雪緒君を守りたいだけなんだよ」

 俯いたままの僕の耳に、お優しい相楽様の声が届きます。
 沈む僕を慰めて下さっているのでしょう。

「…そんなのは…嫌です…。…子供だからと云うだけで…ただ…守られるだけだなんて…嫌です。…僕は…僕だって…旦那様をお守りしたいです…。…僕に…出来る事なんて…何も…無いのでしょうけど…それでも…何も出来ずに、ただ守られて…唇を噛み締める事しか出来ないなんて…嫌です…。…子供だなんて…嫌です…」

 "はい"と"そうですね"と、そう答えられたら良いのですが…悔しくて…情けなくて…言葉が止まりません。
 旦那様がお怪我をされているのに、何も出来ずに、ただただ、待つだけしか出来ないなんて。
 僕に何か出来たのなら。
 旦那様のお隣に立って居られたのなら。
 そうしたのなら、きっと…この様な思いはせずに済んだのでしょうか…。

「…うん…。紫君が起きたら、良く話すと良いよ。こう云う機会でもないと、話せない事もあるだろうしね。…処で、寝てて良いよって言ったのに、眠ってないよね? ご飯も食べていない。そんなんじゃ、紫君が起きた時に怒られてしまうよ?」

「…怒られたいです…。…そして…また…鼻を摘まんで欲しいです…」

 僕は俯いていた顔を上げて、その先にありますべっどにてお眠りになります、旦那様のお顔を見ます。顔色が良いとは決して言えません。
 昨日、旦那様は直ぐに、お勤め先であります付属の大きなこの病院へと運ばれまして、そこで治療を受けました。
 血をかなり流されていたので、輸血も受けました。
 その旦那様を治療して下さった医師の一人が、相楽様でした。
 あの様な事態で、かなりの怪我人が出たそうです。
 医師の数が足りなくなり、個人の治療院等に応援をとの要請があったとの事です。
 星様も、星様の父君様も、天野様も、旦那様の治療が終わるまでお傍に居て下さいました。
 治療が終わり、星様や天野様が『家へ来るか?』と、声を掛けて下さいましたが、僕は首を横へと振りました。そんな僕に、相楽様が病院の方へとお話をして下さいまして、予備のべっどを御用意して下さいましたが、僕はそれを使う事は無く、ただ、こうして、丸い椅子に座って、べっどでお眠りになります旦那様を見ていました。

「…うん。まあ、でも、本当に少しは休んでね?」

 相楽様はそう言いますと、べっどの脇にあります机の上のお膳を手に、病室から出て行かれました。
 僕は、ただじっと旦那様のお顔を見詰めます。
 こんな風に眠る旦那様を見るのは初めてです。
 僕は椅子を引いて、べっどとの距離を縮めます。
 そして、お布団の中に両手を入れて、旦那様の大きな手を握り締めました。
 僕が熱を出して倒れてしまった時に、旦那様はこうして僕の手を握って下さいました。
 とても温かくて、気持ちが良かったのを覚えています。
 あの時は、旦那様が安心をしたいのだと思いました。
 でも…僕を安心させようとしたのですね…。
 この手のお蔭で、僕は穏やかな気持ちで眠る事が出来たのでした。
 今、僕のこの手は…旦那様にそれを与える事が出来ているのでしょうか?
 少しでも、あの時に感じた気持ちをお返し出来ているのでしょうか?

「…旦那様…」

 …早く…目を覚まして、その声を聴かせて欲しいです…。
 低いけれど、優しくて温かい、その声を。
 そして、僕の名前を呼んで欲しいです。
 そしてそして、鼻を摘まんで欲しいです。もげてしまっても文句は言いません。
 ですから、どうか…。
 …その目を開けて…僕を映して下さい…。

 そう思って、握る手に力を籠めた時です。
 僕の手の中にあります旦那様の手が、ぴくりと動きました。
 そして。

「…ゆき…お…?」

 閉じられていた瞼がゆっくりと開いて行き、その目が僕を映したかと思いましたら、その目は優しく細められ、掠れてはいますが、その形の良い唇から紡がれた言葉は、僕の名前でした。
 その声には、僕を心配する響きがある様に感じました。

「…だ、んな…さ…っ…!」

 僕の心配なんてしないで下さい。
 ご自分のお身体の事だけを考えて下さい。
 そう言いたいのに、喉が痛くて、上手く声が出せません。
 頬を、熱い何かが伝っています。
 旦那様のお顔が、何故か滲んで見えます。

「…情けないな…俺は…」

 その呟きと共に、旦那様の手を包んでいた筈の僕の手が、何時の間にか、大きな温もりに包まれていました。それが、とても優しくて、嬉しくて、胸が熱くて。

「…情けなく、なんて…っ…。それは…僕の方です…っ…! 旦那様や、星様の様に…妖と戦う事も出来な…っ…、守られ…っ…」

 言葉と共に、目から何かが零れて行きます。

「…守らせてくれ…。…守りたいんだ…俺が…お前を…」

 その優しい声と共に、僕を掴む旦那様の手に力が籠ります。

「…旦那様…」

 …それでも…守られるだけなのは…嫌なのです…。

「…俺が…父親だなんて…嫌…なんだろうが…」

「…ちが…っ…!」

 その寂しそうな声と言葉に、僕は首を振りました。

「…すまんな…。星と…お前の話…聞こえてたんだ…俺を…父と呼びたくない…と…」

「ちが…っ…! 違います…っ…!! 旦那様を嫌っている訳ではありませ…っ…!!」

 その様な事がある筈がありません。
 旦那様を嫌うだなんて、天と地がひっくり返ったとしても、ある筈がございません。
 何と言えば良いのでしょう?
 何と言えば、その誤解を解く事が出来るのでしょう?
 その様な悲しい誤解は嫌です。
 だって、僕は…僕は…!

「…僕は…っ…! ずっと…旦那様に、鼻を摘ままれて欲しいのです…っ…! それが、どうしようもなく嬉しく感じるのです…っ…!! それに…っ…!」

「…いや…それはどうかと思うが…」

 旦那様が、目を瞬かせて何かを言い掛けましたが、僕は構わずに言葉を続けます。

「…それに…っ…!!」

「雪緒君~。お握りにして貰ったから~、気が向いたら食べ…」

 出入口の方から、相楽様の何時もの調子の声が聞こえた気がします。

「それに…っ…! 未だ旦那様に、僕のおちんちんを触って貰ってません…っ…!!」

「………………は…………?」

「………………へ…………?」

 呆然とした様な二つの声が聞こえました。

「ですから、どうか…っ…、そんな…悲しい誤解は、しないで、下さ、い…」

 自分でも何を言っているのか解りません。
 何か、大変な事を言ってしまった気がします。
 ですが、旦那様がお目覚めになられて、その声を聞いて安心したせいでしょうか?
 急速に眠気が襲って来てしまいました。
 握られた手が、ぽかぽかと気持ちが良いのもあるのでしょう。

「って、雪緒!? おいっ!?」

「あらら~…言っちゃったねえ~」

 慌てる旦那様の声と、間延びした相楽様の声も、何故だか心地良くて。
 僕は、そのまま身体を倒して、お布団の上に顔を埋めました。

「おいっ! 寝るな、雪緒――――――――っ!!」

 そして、そのままぽかぽかとした気持ちのまま、僕は深い眠りへと入って行ったのです。
 目が覚めたら、美味しいご飯をお作りしますね…と、思いながら。
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