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36.新年会②

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 高永雛鬼ヒナキは吸血種だ。現在117歳。正確には元人間の非純血種であり、明治39年(1906年)に東京都で生まれた。
 大正12年(1923年)の関東大震災の後、両親の地元であった岐阜県に転居した。しかし、同年9月30日に強盗に襲われ瀕死の重傷を負ってしまった。
 その際、偶然付近を通りかかった吸血種の男・高永伽藍カレンがヒナキの命を救った。それ以来、ヒナキは人間であった頃の名を捨て、東海地方で最も長い歴史を持つ吸血種一族・高永家の五男として生きていくこととなったのである。

 以上の記録は、ヒナキ自身知識としてしか把握していない情報だ。実際に人間であった頃の記憶はない。
 吸血種になった際、生命の危機に瀕していたことから、カレンの血液を大量に体内へ取り込むこととなった。そのため、本来の人間としての血がほとんど失われ、それに伴い記憶もなくしてしまったのだ。
 その後およそ90年間、ヒナキは山奥の屋敷に閉じ込められて生きてきた。高永の家は基本的に人と関わることを禁じていたのである。娯楽は読書と楽器、そして森に迷い込んだ人間の血を飲むこと。そんな日々はヒナキの心を麻痺させたが、確実に精神をすり減らしていた。
 ヒナキが高永家を離れる決意をし、東京に1人出てきたのは、平成24年(2012年)のことだった。東京を選んだ理由は、単純に数年前に出て行った、人間好きの妹を頼ってのことだった。
 ヒナキが現代日本の言葉や文化に慣れるには、少なくとも2年以上の時間を要した。その後、無事に人間社会に溶け込んだ彼が芸能プロダクションにスカウトされたのは、平成27年(2015年)の出来事だった。17歳の業界未経験俳優としてデビューしたヒナキは、書類上は現在25歳となっている。


 それらの事実を、洗いざらいでなくとも、今日潤に話そうと思っていた。それなのに。
 ヒナキはいま、酷く苛立っていた。それは、1時間ほど前から突然目の前で繰り広げられ始めた、忌々しい光景のせいに他ならなかった。

 ドラマ「ラヴァーズ・イン・チェインズ」の俳優メンバーで新年会。年明けに突如決まったその会に、10人近くの俳優が集まった。そして、3次会のカラオケまで残ったのは、そのうちの6人。ヒナキは潤と翌日までデートする約束をしていたので、一緒に最後まで残ろうと口裏を合わせていた。
 時刻は23時。潤の圧倒的な歌唱力が場を支配して、すぐのこと。共演者の仁川ルナという女が、潤に近づこうとし始めた。
——なんなんだよ、あの女。
 ヒナキはなるべく無表情を保ちながら、何杯目かわからないハイボールを飲み干した。人間と同じように飲食を楽しむスタンスであるヒナキは、酒に酔うこともできる。そして、どちらかといえば酒自体好きな方だ。しかし、今日はいくら飲んでもアルコールが回らない。
 2次会までは意図的にあまり飲まないようにしていたとはいっても、今日はカラオケに入ってから、いや正確には仁川に邪魔をされ出してから、3杯以上は飲んでいる。それなのに、気分が良くなるどころか最悪なままだ。
——ったく、潤のやつ。はっきり嫌だって言えよバカ。
 あからさまに嫌がる素振りこそ見せていないものの(彼とてそれくらいは弁えている)、全然2人の会話は盛り上がっていない。それに、時々ヒナキを気にかけるように、潤がこちらをチラチラと見てくる。それが腹立たしくて、ヒナキは目が合うたびに舌を出してやりたい気持ちだった。
——せっかく仲直りできたのに、いきなりこれかよ。ていうか、まだ正確には仲直りしてないし。話し合うのこれからだし!
 力任せにグラスを握り潰しそうになり、なんとか理性で押し留める。こんなところで馬鹿げた真似はできない。
——僕と付き合いたいって言ってたくせに、なんで言い寄られても断らないんだよ。やっぱり女の子の方がいいって思ったのか?
 ずっと不安に思っていたことだ。ヒナキにとっては性別による性愛の差なんてない。吸血種は繁殖をすることがないため、同性愛が当たり前なのだ。けれど、潤は違う。ずっと人間社会で人間として生きてきた男だ。呪いのせいで恋愛自体避けていたというだけで、本当は女性と恋愛をしたいのではないだろうか……。
「ヒナキくんっ」
 突然名前を呼ばれ、ヒナキはハッとした。黒井マリンだった。いつのまに彼女が隣に来ていたのか、全然気が付かなかった。潤と仁川の会話を聞き取るのに意識を集中し過ぎていたらしい。
「大丈夫? 顔色悪いよ」
「いえ……ちょっと飲み過ぎただけです」
「そうなの? お水持ってこようか」
「いいえ! 流石にそんな事させるわけには……自分で取ってきます」
 そう言って、そそくさと部屋を後にした。仁川ルナが可愛らしい声で何かを歌っていたので、ちょうど良かった。こんな空間、あまり長く居てられない。
 ドリンクバーは幸いにも、同じフロアに設置されていた。他の人も必要かどうか聞いておけばよかった、と思いながら、とりあえず人数分のグラスに水を入れ始める。トレーを探し、注いだ水を一つずつ並べていると、背後から人の足音が聞こえてきた。
——一般人かな? 見られたら面倒だな。
 そう思って、急いで水を入れる。6つめのグラスを取ろうとしたところで、その手に一回り大きな手が重ねられた。
「ヒナキさん」
 呼ばれた声に驚いて、ヒナキはハッと振り返った。よく通る、聞き慣れた声。ヒナキが世界で1番好きな声だった。
「潤……」
 思った以上にすぐ近くに顔があって、思わず後ろに転びそうになってしまった。潤は困った顔をして、咄嗟にヒナキの腰を支えた。そういうところだよ、と言いかけて、飲み込む。
「抜けてきてよかったの? 仁川さんが嫌な顔するんじゃない」
「そうかもしれない。でも、どうでもいいです」
——どうでもいい、は言い過ぎだろう。
 思わず笑いそうになったが、堪える。今は怒っていることを伝えなければならないのだ。
「ヒナキさんが出ていくのが見えたから……心配になって」
「なんで?」
「気分悪いのかなって」
——そんなわけあるか。
 確かに気分は悪かったが、言葉のあやだ。酒には少しも酔っていないし、疲労も大したことない。しょぼくれた顔をする潤に、さらに苛立ちが募った。
「別に酔ってもないし、気分悪くもないよ。心配されることはない」
「本当ですか? 顔色が……もしかして、怒ってる?」
「おこっ……、なんでもないから。はい、コレ持ってくの手伝って」
「わかりました。でもヒナキさん」
「なに?」
 潤はヒナキの肩を掴み、まっすぐ顔を覗き込んだ。逃れられない。ヒナキは息を呑んで、彼の両目を交互に見た。
「このまま抜けませんか?」
 潤の瞳が、水面のように綺麗に光った。なぜそんな顔をするのか、と思ったが、そんな目で見つめられたらヒナキは頷くしかできなかった。
「……部屋にスマホ置いてきちゃったよ」
「大丈夫。俺が回収してきました」
「なんで僕のスマホどれか知ってるの」
「なんでもです。ヒナキさんのこと、結構見てるんですよ。俺」
 そう言うなり、潤は勝手にグラスの一つを手に取って水を飲むと、返却台の上に置いた。ヒナキはため息をつき、同じように水を飲む。勿体無いなぁ、と言いながら、残りをトレーごと台に返した。みんなごめん、と思った後で、別に頼まれてはいなかったことを思い出す。
「どこ行くの?」
「どこがいいですか?」
「飲みには行けないし、今日は僕の家に来てもらおうかなって思ってた」
「えっ」
 潤は突然パッと表情を明るくした。その嬉しそうな顔に、ふと以前テレビで共演した大型犬が尻尾を振っていたときの様子が重なった。あの、利口そうでいてちょっとバカなタレント犬……またうっかりにやけそうになってしまい、ヒナキはわざと眉根を寄せた。
「行っていいんですか?」
「だって……2人で落ち着いて話せるところなんて他にないでしょ」
「やった」
 潤はヒナキの両手を握り、にっこりと笑った。久しぶりの満面の笑顔に、思わず胸が苦しくなる。今まで知識としてしか知らなかった「トキメキ」というものを、潤と出会ってからはしょっちゅう思い知らされている。
 やっぱり、大きな犬みたいだ。ヒナキは咳払いをして、俯いた。
「ホントにさぁ……」
「なんですか?」
「なんでもない。早く行こ」
 人目のないうちに行かないと。ヒナキは潤の手を握り返し、外へ向かって歩き出した。いつのまにか、苛立ちはすっかりおさまっていた。




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