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44.動揺①

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※嘔吐の表現があります。ご注意下さい。


 リハーサルが終わったのは、予定より随分早く、20事を過ぎた頃だった。会場に着いたのが昼で、その頃にはすでに楽器類の搬入が完了していたのも助けたのだと思う。現地スタッフのお陰もあって、ツアーの幕開けに相応しいステージになりそうだ。セットリストを決めるのに4人で悩んだ甲斐もあって明日からのライブが楽しみで仕方がなかった。
 ホテルへ向かう車内で、潤はスマホを取り出した。仙台に着いてからヒナキにメッセージを送ったのだが、まだ既読がつかない。仕事が忙しいのだろうかと心配になる反面、寂しくもあった。すぐには会えない距離にいると思うと、余計に気になってしまう。
「ジュンちゃん、話聞いてた?」
 飛び込んできた入間の声に、ハッとして顔を上げた。入間はニヤリと口角を上げて、潤の様子を面白がっているようだった。
「ごめん」
「いーんだよぉ、ヒナキくんでしょ? ラブラブだねぇ」
 入間は随分楽しそうだ。今回のツアーに合わせて年明けすぐにベースを新調したと言っていたので、機嫌がいいのかも知れない。
「ヒナキくん元気?」
「うん。……だと思う」
「どしたん。お前の方が元気ないじゃん」
「……うーん」
 たった半日返事が来ないだけで落ち込んでいるなど、入間に言ったら鼻で笑われそうだ。潤が何か別の話題を探していたところ、突然目黒が口を挟んできた。
「ジュン、ずんだ餅って食ったことある?」
「え? 無いよ。なんで?」
「嫁さんがさぁ、買って来いって。俺食ったこと無ぇからどこのがいいとかわかんねぇよ」
 目黒はスマホを眺め、ため息をついていた。彼は昨年、メジャーデビューの少し前に高校の同級生と結婚したのだが、相変わらず奥さんに振り回されているようだ。普段メンバーに対しては強気な彼が、奥さんの前ではおとなしく何でも言うことを聞くのだから、面白い。
 潤は少しだけ考え込む素振りをしてから、足を組み直した。
「母さんが好きだと思うから、聞いてみようか。明後日に買えればいいんだろ?」
「うん、聞いといて」
「あっ、俺も知りたい。和菓子好き~」
 ずっと眠そうにしていたニックが顔を覗かせた。和やかになった雰囲気に安心して、潤はそのまま入間の視線をかわし続けた。彼はきっと「何か」に気づいている。そんな予感がしてならない。

 それから程なくして、滞在先のホテルに到着した。潤は部屋に入るなり、再びスマホを開いたが、依然としてヒナキからの連絡はなかった。今日はもう寝るだけだが、こちらからさらにメッセージを送るのは気が引ける。
 どうしたものか。とりあえず、化粧を落とし、風呂の準備をした。もしかしたら、何かの仕事が長引いているだけかも知れない。まだ21時過ぎだ。ヒナキは己の休む暇など気にせず潤に時間を割いてくれているが、実のところかなり多忙なはずだ。あまり負担になるようなことはしてはいけない。
「気長に待つべきだよな」
 浴槽に湯が溜まって行く音を聞きながら、潤はベッドに腰掛けた。明日からに備えて、体を休めなければならない。
——そうだ。ちゃんとバンドの活動に集中しないと。
 恋愛が初めてだからといって、馬鹿になるわけにはいかない。音楽を疎かにするなんて論外だ。きちんと、切り替えないと。特に、今回はバンド史上最大規模のツアーなのだ。これからの活動にも大きく影響するに違いない。
——頑張らなきゃ。これが最後になるかもしれないんだから。
 そう思うと落ち着かず、立ち上がろうとした。その瞬間だ。
「うっ……」
 潮が引くように、頭から血液が抜け落ちていくのが分かった。悪寒がする。そうして間も無く、内臓がひっくり返ったかと思う程の、強烈な痛みを覚えた。
——死ぬ。
 初めての感覚だった。いつもの、ただひたすらに熱く、首が締め付けられる感覚とは全然違う。体の中が、頭の先から爪先まで全て、無秩序にかき回されているような気分だ。立っていることさえままならない。
 潤はその場に倒れ込んだが、床に手をついているかどうかさえよく分からなかった。平衡感覚がおかしい。目を閉じて、ゆっくり息を吐こうとしたが、上手くできなかった。呼吸は乱れ、心拍数が上がっていく。額が熱い。なんとか壁に手をついて、足に力を込めた。
——気持ち悪い。
 潤は思わず口元を押さえ、バスルームへ向かった。足元がおぼつかない。蹴るように扉を開き、便器の前で崩れ落ちた。
 咳き込みながら、迫り上がってきたものを吐き出した。寒気がした。頭の中がぐるぐる渦を巻いているかのように、思考があやふやになる。瞼の裏を覗いているような感覚がした。
 心臓がバクバクと破裂しそうなほど激しく鳴っている。体が壊れていく感覚は、途轍もない恐怖を伴った。
 数度めに咳き込んだ時、金属の混じったような味がした。吐瀉物の上に赤黒いものが落ちたので、潤は何度も瞬きを繰り返した。焦点が合わない。目に映ったものが信じられない。吐血は止まらず、しばらく続いた。
 何度も便器を洗浄したが、その場を離れられない。
——本当に死にそう。
 苦しさで、自然と涙が溢れ出す。体のあちこちから汗が噴き出していた。浴槽の蛇口から湯が流れ続ける音だけが、なんとか潤に現実感を与えている。おそらく、すでに湯量は満杯になっているだろう。それでも、潤は空っぽになった胃から血の混じった液体を吐き続けていた。

 どれくらい時間が経っただろうか。酷い倦怠感から、潤はようやく身動きをとる力を取り戻した。喉がカラカラで、鈍く痛む。
「……あ、ぁ」
 声が出るかどうか不安だった。掠れてはいたが、自分の意思で声を出すことができるだけで、少しだけ気分が安らいだ。
 潤はのそりと立ち上がった。足を使ったのがずいぶん久しぶりのような、不思議な感覚だった。ずっと蹲っていたせいで、膝から下が痺れていた。
 口を濯いで、顔を洗う。まだ喉の奥に不快なものが閊えている気がしたが、あの眩暈がおさまっただけで、かなり気分は落ち着いていた。
——水、飲まないと。
 もう風呂に入る気力は無かった。潤は長い間出しっぱなしにしていた蛇口を止め、部屋に戻った。冷蔵庫にしまっていた水を取り出し、グラスに注ぐ。その動作をスムーズにできたことも、弱った潤の心を慰めた。冷たい水が、荒れた喉に沁みる。
——あ、通知が来てる。
 スマホのロック画面に、いくつか通知が届いていた。驚いたことに、倒れてから1時間ほど経過していたようだ。
「ヒナキさん」
——夜に電話するって約束してたんだ。
 彼の顔を思い浮かべるだけで、涙が滲んだ。死ぬ覚悟はできていると思っていたのに、いざ自分の体が壊れ始めていることを知ったら、急に怖くなってしまった。そんな格好悪い姿を、彼に知られたくはない。けれど、今ほど彼にそばにいてほしいと思ったことは無いかもしれない。
 潤は彼からのメッセージをろくに読むこともせず、アプリを介さず直接電話をかけた。電話帳というものを使うこと自体、ずいぶん久しぶりだった。けれど、今は何も深く考える余裕がなかった。
——お願い、出て。
 しばらく呼び出し音が続く。スマホを握る手が震える。潤はハッとして、バッグからイヤホンを取り出した。この間、ヒナキからもらったワイヤレスイヤホンだ。
 両耳に装着し、Bluetoothが繋がった時、ちょうどヒナキが電話に出た。電子音の途切れる音と、少しの無音の後に、ヒナキの柔らかな声が耳に届いた。
「潤、ごめん! 遅くなっちゃった。いま大丈夫?」
「……ヒナキさん」
 ヒナキの声を聞いた途端、目の奥がじわりと熱くなった。間髪入れず、涙が溢れ出す。止められなかった。
「あれ、どしたの? なんか声嗄れてない?」
「いえ……なにも。もうお仕事終わったんですか?」
「うん。潤は……今何してるの?」
「風呂入ろうと思ってました。でも、明日にする」
「そうなの? 風邪ひかないようにね。大事なツアーなんだから」
「はい」
 鼻を啜って、窓の方を見やった。カーテンは閉め切っているが、細い隙間から少しだけ暗闇が見える。今、外には雪が降っているようだった。
「ヒナキさん」
「ん?」
「このイヤホン、すごくいいよ。ありがとう……」
「ああ、使ってくれてるんだ」
「はい。音楽聴くのにも、電話するのにも……ちょうどいい……」
 なるべく声が震えないようにしたつもりだが、隠し切れなかった。耳のいいヒナキのことだ。おそらく、泣いているのは気づかれているのだろう。だが、理由を聞いてこないのは、彼なりの気遣いなのだろうと思った。
「ね、潤。僕、明日は簡単な打ち合わせだけなんだ。明日ならいつでも連絡取れると思う」
「そうなんですか?」
「うん。まあ、潤の方がライブ本番で忙しいだろうけどさ」
「そんなことないです。……まあ、昼からはゲネがあるから……多少」
「でしょ」
 潤は少しだけ口元を緩めた。笑いながら、頬を拭う。
「寂しくなったらメッセージ送っていいんですか?」
「うん」
「ふふ……ほんとに送っちゃいますよ。俺いま、すごくヒナキさんに会いたくて辛くなってるから」
「そうなの? ……実は僕も」
「本当?」
「うん。カッコつかないから言いたくなかったけど……さっきちょっと、動揺する出来事があって。だから、潤のこと考えてたんだ」
「動揺? トラブルでもあったんですか?」
「ううん、トラブったっていうか……アクシデント的な」
「それで……大丈夫なんですか? ヒナキさん、いま何ともない?」
「もちろん。潤の声聞けたから」
 胸がじんと熱くなる。ヒナキが好きで好きで堪らないと、改めて思った。やっぱり、この人を苦しませるなんてできない。潤1人で、なんとか死を受け入れて——。
「……ダメなんです」
「え?」
「ヒナキさんに会えないのは……怖くて……」
 潤は、気づけば口に出していた。言いながら、また涙に呑まれそうになる。鼻を啜り、唇を噛んでいると、ヒナキが困ったような笑みをこぼした。
「僕もダメだよ。潤がいないと」
 うっ、と嗚咽を漏らしそうになった。息を止めようとするが、うまくいかない。
「ありがと、ヒナキさん……俺、明日すごく上手く歌える気がする」
「ほんと? よかった……僕も聴きたかったな」
「ヒナキさんなら聞こえるでしょ。ヒナキさんがそこにいると思って歌うよ」
「うん。分かった」
「東京帰ったら……会いに行っていいですか?」
「勿論だよ」
 ヒナキが柔らかな笑みを浮かべたことが、声だけで分かった。いま彼が隣にいたら。すぐに会いに行ける距離にいれば。そう思うと、胸が締め付けられるけれど、同時にあたたかさも感じた。





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