【完結】虐げられてきた白百合が、その一途な溺愛に気付くまで

五蕾 明日花

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本編

24.傷心中の白百合

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 「マイン。紹介しよう、君の婚約者だ」

 ある日、あの男爵が地下室に連れてきたのは一人の少年だった。

 「アルバート・フォークナーと申します。よろしくお願いします、マイン嬢」

 にこやかに恭しく頭を下げて名乗る少年に、彼女の頭は混乱する一方で。

 「婚約者……? 何を言っているの? だって私には……」

 他にいるはずなのだ。どうしてだか顔も名前も思い出せなくなってしまったけれど、しかしそれでも離れ難い、生涯の伴侶になると決めた婚約者がいたはずだ。いたはずなのに。

 「何を言っているんだい、マイン。君の婚約者は彼だけだ」
 「でも……」
 「言うことを聞きなさい、マイン!」

 一言でも抵抗しようと声を出せば、男爵は彼女を蹴り上げた。
 転がる彼女を、男爵は冷たく見下ろす。

 「まったく……出来損ないを娶ってくれると言うのに、ごちゃごちゃごちゃごちゃと……むしろ感謝してほしいものだね」
 「まあまあ、落ち着いてください。いきなり知らない男を連れてきて婚約者だと紹介されたら、誰もが混乱して受け入れられないものですよ」

 怒りを顕にする男爵を、アルバートと名乗った少年は穏やかに諌めた。穏やかな笑顔は、この屋敷に来てから出会った人々がマインには見せないもので。

 「それにほら、マイン嬢が怖がってしまいます。ねえ、マイン嬢」

 彼はそれを彼女の方に向けてくれる。しかしどうしてだろう。本来であればそれに安心感を覚えてもいいはずなのに、彼女が真っ先に抱えたのは恐怖の感情だった。

 「うむ……アルバート様が言うなら……」
 「男爵、マイン嬢と二人きりにしていただけますか? 心を通わせるには、二人だけの時間も大切ですので」
 「ええ、勿論ですとも」

 男爵は少年に向けて丁寧に頭を下げると、一瞬彼女の方を睨み付けて地下室を出ていく。
 一番の脅威は去っていったはずなのだ。この場に残ったのは、穏やかに笑う少年ただ一人で。
 しかし何故だろう。どうしてだか、嫌な予感は消え去ってくれない。

 「大丈夫でしたか、マイン嬢。痛かったですよね?」

 心配そうな少年が一歩一歩と近寄ってくる度、彼女は恐怖心から少しずつ後退っていく。

 「ああ、怖がらないで。僕はただ、君を愛したいんだ」

 狭い地下室だ。彼女の背中が冷たい壁へと着いてしまったのは、思ったよりも早かった。
 壁際に追いやられて小さくなりながら震える彼女に、少年はあくまでも穏やかな笑顔を浮かべて近付いてくる。しかしそんな少年が彼女に追い付いた時、その手はゆっくりと彼女の首へと伸ばされた。

 「男爵達みたいに痛いことはしないよ。僕はね、ただただ君を愛したいんだ」


~*~*~*~


 首を絞め付けてきたあの手の感触は、夢から覚めても消えてはくれなかった。
 息が出来ない感覚が怖くて、必死になって空気を取り込もうとするけれど。しかしそうすればそうするほどに、息が出来なくなって更に恐怖心は募っていく。

 「たす、け……」

 いつもこの恐怖心から救い上げてくれる声は聞こえない。優しく撫でてくれる温かい手の感触は、ない。
 遠ざけたのは誰でもない、自分じゃないか。

 (これ以上、迷惑をかけたくない……)

 隣にいていいのは自分じゃない。
 自分は、彼を縛り付けていい存在じゃない。
 それを知った昨日、しばらく彼には会いたくないとシンシアに泣き付いたのは、誰でもないリリィだ。

 それを今更後悔して、でも後悔しているからこそこれでよかったとも思えてしまうのだ。今踏ん切りをつけてしまわないと、この先ずっと彼を頼ってしまいそうだったから。

 「リリィ。僕だ、アンドリューだ。入るよ」

 扉をノックする音が聞こえ、向こう側からアンドリューの声が聞こえる。

 「おにい、さま……」
 「っ……今行くからね」

 大丈夫だと言いたかったのに、そんな返答をする前に彼は部屋へと入ってきてしまった。
 早足に、しかし恐怖に怯える自分に刺激を与えないようにと近付いてくるその気遣いを感じとってしまって、申し訳なくなってしまう。

 「今日も、思い出してしまったかな」
 「おに、い、さま……」

 最近思い出すのは、あの男爵の家へと連れ去られた後の記憶ばかりだ。昨日もこうして、アンドリューを起こしてしまった。
 彼の腕がそっとリリィを抱き起こし、優しく抱き締める。

 「リリィ、ここにはもう君を害する存在はいないよ。もう君を、傷付けさせたりなんてしないさ」

 リリィ、リリィ、と。名前を呼んでもらう度、少しずつ息がしやすくなってくる。

 「おにいさま……」
 「うん。なんだい、リリィ」
 「もっと、なまえを……よんで、ください……」

 あの悪夢から覚めたばかりの今、〝リリィ〟と〝マイン〟の境目がまた曖昧になってしまっている。自分はリリィだ。でも夢の中であの男爵達が幾度も自分をマインと呼び、過去を否定し、自分を否定してくるから少しずつ揺らいでしまうのだ。

 「リリィ……リリィ。君は、リリィ・ルヴェールだ。デイビッド・ルヴェールとクリスティー・ルヴェールの娘で……そして僕の、たった一人の、可愛い可愛い妹だよ」

 アンドリューに名前を呼ばれることで、マインへと引き戻そうとしてくる悪夢の気配が少しずつ遠ざかっていく。

 「ぁ……は……っ……はぁ……」

 ある程度落ち着くまでの数十分。アンドリューは辛抱強く声をかけ続け、背中や頭を撫でてくれていた。

 「少しは落ち着いたかな」
 「はい……ごめんなさい、お兄様……」

 ちらりと横目で時計を確認すれば、随分と夜の深い時間だった。起こしてしまったのだろうと、申し訳なくなってしまう。

 「気にしなくていいんだよ。リリィの心の平穏を取り戻せるなら、僕はなんだってしてあげるから」

 アンドリューは、どこまでも優しく笑って受け入れてくれる。

 「ああ、でも……」

 彼は、困ったように眉を下げて笑った。

 「ジュードのようには上手く出来ないかな」
 「あ……」

 今この状況で一番聞きたくはなかった、でもそれでも一番すがりたくなっていた人の名前に、リリィは思わずアンドリューから目を逸らしてしまう。そうすれば、困ったような笑い声がくすりと聞こえて。

 「ジュードと何があったのか、僕に教えてくれないかな?」

 優しいようで、諭すような口調。きっとジュードと、アンドリュー本人ではないもののやり取りはあったのだろう。
 考えてみれば当たり前のことだ。
 リリィはしゅんとしながらも、首を横に振る。

 「……ジュード様は、何も。全部全部、私が弱いだけなんです」

 そうだ、ジュードとの間には何もなかった。自分が勝手に恋をして浮かれて、勝手に事実を知って、勝手に失恋してショックを受けて避けてしまっているだけで。

 「またしばらく経てば……ちゃんとジュード様とお会い出来るようになると思うので……」
 「うーん……それだと何もかもが手遅れになってしまいそうな気がするし……なによりね、リリィ。それではいつまで経っても解決しないと思うんだ」

 何もかもを見透かしているようなアンドリューの言葉に、それは、とリリィは言い淀んでしまう。
 彼女だってわかっているのだ、それは。

 「……リリィ」

 優しく、それでいて答えを促すようなアンドリューの視線を受け止めるしか出来なくて。

 「…………召使い達の会話を聞いてしまったんです。ジュード様に、婚約者がいることと……最近、その方と過ごせていないことを……」

 ぽつぽつと、そんな言葉を紡いだ。それでどうして自分が落ち込んでいるかとか、それでどうしてジュードを避けるようになったかは伝えなかったけれど。しばらくじぃっと見つめてきたアンドリューは、察してしまったのかもしれない。

 「うーん……」

 そうして彼はまた、困ったように眉を下げて笑った。

 「その召使い達がどんな話をしていたのか僕にはわからないし、これは君とジュードの問題だから僕が口出しすることは出来ないんだけど、そうだね……一人で自己完結してどうにかしようとしても、解決なんて出来ないよ。あと、人の話は最後までしっかりと聞くこと」
 「は、い……?」

 その助言を受けて、自分はどう行動するべきなのか。わかるような気もするし、少しよくわからないような気もする。

 「僕から言えることはそれだけかな。さあリリィ、ゆっくりお休み」

 ぽろぽろと落ちていた宝石を拾い上げたアンドリューは、リリィをそっとベッドへと寝かせ直した。
 彼の手が、リリィの髪を優しく撫でる。

 「眠るまでここにいるよ。僕はジュードの代わりにはなれないけれど、それでも君の、たった一人の兄だからね」
 「でも、お兄様……」
 「しーっ」

 アンドリューは、人差し指を唇へとあてがい優しく笑ってみせた。

 「八年間、注いであげられなかった家族としての愛情を受け取ってはくれないかな。きっと、今からでも遅くはないから」

 温かい手が、そっとリリィの目を覆う。

 「ゆっくりお休み。明日は父上も母上も僕も、出掛けなければいけないんだ。でもすぐに帰ってくるから、少しの間だけ待っていてくれないかな?」
 「心配し過ぎではないですか……? そこまで子供じゃないですよ、私は」

 今そう言ったところで説得力はないかもしれないけれど。

 「うん……そうだね。何も起こらない。起こしはしないさ」

 一瞬、本当に一瞬。アンドリューの柔らかい声が少しだけ強ばったように聞こえたのは、果たして気のせいなのだろうか。
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