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本編
30.白百合の婚約者
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初めて彼と出会ったのは、六歳の頃だったか。
両親や兄と参加したお茶会で、父の旧知の仲である男の息子として紹介されたのだ。穏やかな男とは違って、彼は無愛想にリリィを睨み付けていた。
でもきっと、リリィの方も同じような表情で彼を見ていたと思う。その頃から、特異体質が原因で周りの子供達からいじめられていたから。どうせ彼も同じだろう、なんて思っていたのだ。
初対面の時、二人の間に会話は一切なかった。正直、その時は聞いていた名前をすっかりと忘れてしまっていて。
二度目に会ったのは、その数ヶ月後。風邪を拗らせてしまったクリスティーを診るために、彼が父親と共にルヴェール邸を訪れた時だ。
暇を持て余して書斎で本を読んでいれば、彼が入ってきたのだ。離れた場所で同じように本を読み始めた彼のことを、〝お父様が許可を出したのなら、それでいいか〟くらいにしか思わず、気にもとめなくて。
言葉を交わすことなく、同じ空間で本を読む。そんな日々が三日四日と続き、クリスティーの体調もだいぶん回復してきた頃。
リリィから彼の方へと近付いたのだ。理由はなんてことない、長時間静かに本棚を見回していた彼の目的の本が、今自分が持っているものだと気が付いたからで。
「……これ」
思えばそれが、彼と初めて言葉を交わした瞬間だったと思う。
「…………いいのか?」
「うん。もう、何回も読んだから」
一度目の会話も、それだけしか続かなかった。
それだけ言って持っていた本を渡し、代わりに適当な本を手に取り元の位置に戻って、それでおしまい。
もう喋ることはないだろうと思っていたけれど、二度目に会話を交わす瞬間は意外にも早く訪れた。
その時の自分の背の高さでは届かない位置に置いてあった本を取ろうとしていたのは、どうしてだっただろう。覚えていないけれど、どうしてもその本が読みたくて、取ろうとしていて。それでもどうやったって取れなかったその本を、後ろから伸びてきた手が抜き去っていった。
「あっ……」
後ろを振り向けば、彼がいて。
「ほら」
「えっ……あ、ありがとう……?」
つっけんどんに差し出された本を受け取れば、彼はそそくさと去って元いた場所へと戻ってしまう。
それが二度目の会話で。
そこから後、三度目以降の会話は少しずつ増えていった。とはいってもやっぱり短いもので、本の場所を教えたり、本を譲ったりというものばかりだ。
でも、それでもそんな空間が心地良いと思い始めたのは、そんなやり取りも悪くないと思い始めたからで。
そんなある日のことだ。
「お前、いつもそれを読んでいるな」
唐突に、彼の方から話しかけてきた。
「え……う、うん」
「飽きないのか?」
「……好きだから、飽きない」
どうしてそんなことを聞いてくるのだろう。意図が読めないながらも答えていれば、何か考え込んでいた彼はしばらくして口を開く。
「……その続きの本が、俺の家にある。母上が買ってくれたものだが、俺は読まないから……読むか?」
「えっ……でも、いいの……?」
「ああ。持て余している者のところよりも、繰り返し読んでくれる者のところにあった方がいいだろう?」
「あ、う、うん……! ありがとう! あ、ええと……」
リリィが、彼の名前を覚えていないことに気が付いたのはこの時だ。ここまで親睦を深めることになるとは予想外のことだったし、それまでは興味すらなかったのだから当然と言えば当然か。
「名前、は……なんていうの……?」
「ああ、やはり覚えていなかったか」
そんなリリィの情けない質問に、彼はくすりと笑う。それが初めて、彼の笑顔を見た瞬間で。
「クラーク伯爵家子息、ジュード・クラーク。よろしく頼む、リリィ・ルヴェール嬢」
そこでようやく、リリィは彼の名前を知った。
「あ……ええと、ジュード……?」
「………………怒らないのか?」
「えっ……何が?」
それが何に対しての確認かわからず首を傾げれば、彼は呆れたように溜息を吐いて肩を竦める。
「俺は出会ってから今まで、無礼な態度を取り続けていたはずだが? 仮にも公爵家の令嬢だろう?」
「あ……それもそっか」
父親同士が爵位関係なく打ち解けたように話していたものだから、ついつい同じように話してしまっていた。まあ、今の今まで彼が伯爵家の子息だということすら忘れてしまっていたから仕方のないことで。
それに、何より。
「このままでいいよ。今更気にされる方が落ち着かないし……こうしてジュードと話せるの、楽しかったから」
家族含めた屋敷の者達以外に、普通に接してもらえて、一緒に居ても平穏な時間が流れる……なんて初めてのことだったからだろうか。彼といる時間が、リリィの中で手離したくないと思い始めていたのは確かだ。
……だから。
「特異体質者、か……」
自分の特異体質が彼に知られてしまった瞬間は、今までにない程の絶望感に襲われたのだ。
彼もあの子達と同じように自分と接するようになるのだろうか。それとも、気持ちが悪いと拒絶されてしまうのだろうか。そう思うと怖くて、逃げたくなって。
「どんな体質を持っていようと、お前はお前だ」
だから、そんな彼の言葉が。
「乗れ」
差し出された彼の背中が。冷たい性格のくせに温かく感じて、傍にいてほしくて、離れてほしくないと思うようになって。
思えばもう、その時点で彼への想いは咲き始めていたのかもしれない。
それ以降どこに行くにしても、何をするにしても、彼と一緒にいるようになっていた。彼はそれを嫌な顔ひとつせず受け入れてくれたものだから、更に嬉しくなって引っ付いて。
その後の狩猟大会中、誰かに池へと突き落とされ溺れてしまった時に助けてくれたのも、その時のトラウマから屋敷の外へ出られなくなった時傍にいてくれたのも、彼だった。
彼との婚約が決まったとデイビッドから告げられたのは、そんな出来事が落ち着いてしばらく経ってからのことで。
───ああ、私のせいで。
真っ先に感じたのは嬉しさではなく、彼の人生を思わぬ形で縛り付けてしまうことになった罪悪感だった。
「どうして断らなかったの? だって、こんな……」
「違うんだ。俺の話を聞いてほしい、リリィ」
予想外にも、その時の彼に浮かんでいた悲しみの理由は自分が思っていたのとは別のもので。親同士が話し合って決めてしまった婚約に対してではなく、そのことに後ろめたさや罪悪感を持っているリリィに対して向けられたものだった。
「この婚約は……確かにルヴェール公爵と父上の話し合いで決められたものだ。でも拒否権がないわけじゃなかった。父上からお前との婚約者を打診された時、迷わず頷いたよ……俺がお前を、一番近くで守りたかったから」
彼のその言葉が、握ってくれたその手が、嬉しく感じてしまったのもまた事実だ。
彼も自分と同じ気持ちを向けてくれていて、それを伝えてくれたのも嬉しくて。
きっとこの先、彼とならなんだって乗り越えられるだろうと。きっと幸せな人生を歩んでいけるだろうと……そう、思っていたのに。
~*~*~*~
胸に強い痛みを感じて、リリィの意識は少しずつ浮上していく。強い力で何度も胸を押され、その度に酷い痛みを感じているらしい。
(痛い……)
我慢できずに逃れようとしたのだけれど、指1本動かせず、瞼を開けることすらできないことに気が付いた。それどころか、呼吸すら上手くできない。どうしても肺を動かすことができなくて、息を吸うことも吐くこともできなくて。その苦しさと痛さに、恐怖を感じ始めた。
「リリィ……! リリィ!!」
どこか……あまり遠くないところで、ジュードが自分の名前を呼んでいる声が聞こえる。ひどく怯えているその声に答えてやりたいのに、やっぱり体は動いてくれない。
「言っただろう! お前がそこに行くには、まだ早すぎると……!」
(ああそうだ、前にも……)
ずっと、前にもそんなことを言われた気がする。同じ状況で、同じような声色の彼に。
あの時も同じように体が動かなくて、呼吸ができなくて、痛くて、怖かった。
そんな暗闇の中で、今みたいにジュードの声が聞こえてきて。
───リリィ……リリィ……! ダメだ、死ぬな……!
「リリィ! 俺の声が聞こえているか!? 絶対に死なせない! だから、戻ってくるんだ!!」
聞こえてくる声はあの頃よりはだいぶん大人になっているけれど、しかし変わらず怯えるようにリリィの名前を呼び続ける。
ふと、何度も続いていた胸への圧迫が止まって。次いで、顔が強い力で掴まれた。鼻を摘まれ唇が何かに覆われて、口から勢いよく空気が流れ込んでくる。それは、動かなくなっていたリリィの肺を満たして膨らませて。
「……ん……」
動くことをやめていた肺が、思い出したかのように動き出した。
「ッ、リリィ……!」
唇を覆っていた何かが離れ、不自由だった肺の動きもさらに活発になって。おぼつかない呼吸をむせながらも整えている中で、何度も名前を呼ばれる。
呼吸ができるようになったからだろうか。ぎこちないながらも、体が動かせるようになっていて。だから、まだ重い瞼を持ち上げて、自分を呼ぶ声の主を見た。
「じゅ、ぅ、ど……」
そこにいたのは、あの時と同じで泣きそうな顔をしていた彼だった。あの時に比べて大人になっているけれど、その表情は今でも変わらない。
「リリィ、俺の声が聞こえるか? どこか痛むか?」
「ぅ、あ……」
どうして忘れてしまっていたのだろう。ずっとずっと、大切にしたかった人のはずだったのに。
「じゅー、ど……」
彼に向かって、重い体に鞭打って手を伸ばす。彼の服を掴むことさえもやっとのことで。でも離したくなくて、離れてほしくなくてその体にしがみつく。
「無理に動くな。呼吸が止まって、心臓も止まりかけた。すぐ蘇生したが、まだ予断は───」
「ごめ、っ……わすれてて、ごめん……」
「あ……」
耳元で、ジュードの息を呑む声が聞こえた。
背中に回ってきてくれた腕は、やっぱり優しくて温かい。
「ッ……いいんだ、リリィ……おかえり」
「う、ん……ただいま……」
ほろりほろりと落ちていく宝石は、傷一つなく綺麗に輝いていた。
両親や兄と参加したお茶会で、父の旧知の仲である男の息子として紹介されたのだ。穏やかな男とは違って、彼は無愛想にリリィを睨み付けていた。
でもきっと、リリィの方も同じような表情で彼を見ていたと思う。その頃から、特異体質が原因で周りの子供達からいじめられていたから。どうせ彼も同じだろう、なんて思っていたのだ。
初対面の時、二人の間に会話は一切なかった。正直、その時は聞いていた名前をすっかりと忘れてしまっていて。
二度目に会ったのは、その数ヶ月後。風邪を拗らせてしまったクリスティーを診るために、彼が父親と共にルヴェール邸を訪れた時だ。
暇を持て余して書斎で本を読んでいれば、彼が入ってきたのだ。離れた場所で同じように本を読み始めた彼のことを、〝お父様が許可を出したのなら、それでいいか〟くらいにしか思わず、気にもとめなくて。
言葉を交わすことなく、同じ空間で本を読む。そんな日々が三日四日と続き、クリスティーの体調もだいぶん回復してきた頃。
リリィから彼の方へと近付いたのだ。理由はなんてことない、長時間静かに本棚を見回していた彼の目的の本が、今自分が持っているものだと気が付いたからで。
「……これ」
思えばそれが、彼と初めて言葉を交わした瞬間だったと思う。
「…………いいのか?」
「うん。もう、何回も読んだから」
一度目の会話も、それだけしか続かなかった。
それだけ言って持っていた本を渡し、代わりに適当な本を手に取り元の位置に戻って、それでおしまい。
もう喋ることはないだろうと思っていたけれど、二度目に会話を交わす瞬間は意外にも早く訪れた。
その時の自分の背の高さでは届かない位置に置いてあった本を取ろうとしていたのは、どうしてだっただろう。覚えていないけれど、どうしてもその本が読みたくて、取ろうとしていて。それでもどうやったって取れなかったその本を、後ろから伸びてきた手が抜き去っていった。
「あっ……」
後ろを振り向けば、彼がいて。
「ほら」
「えっ……あ、ありがとう……?」
つっけんどんに差し出された本を受け取れば、彼はそそくさと去って元いた場所へと戻ってしまう。
それが二度目の会話で。
そこから後、三度目以降の会話は少しずつ増えていった。とはいってもやっぱり短いもので、本の場所を教えたり、本を譲ったりというものばかりだ。
でも、それでもそんな空間が心地良いと思い始めたのは、そんなやり取りも悪くないと思い始めたからで。
そんなある日のことだ。
「お前、いつもそれを読んでいるな」
唐突に、彼の方から話しかけてきた。
「え……う、うん」
「飽きないのか?」
「……好きだから、飽きない」
どうしてそんなことを聞いてくるのだろう。意図が読めないながらも答えていれば、何か考え込んでいた彼はしばらくして口を開く。
「……その続きの本が、俺の家にある。母上が買ってくれたものだが、俺は読まないから……読むか?」
「えっ……でも、いいの……?」
「ああ。持て余している者のところよりも、繰り返し読んでくれる者のところにあった方がいいだろう?」
「あ、う、うん……! ありがとう! あ、ええと……」
リリィが、彼の名前を覚えていないことに気が付いたのはこの時だ。ここまで親睦を深めることになるとは予想外のことだったし、それまでは興味すらなかったのだから当然と言えば当然か。
「名前、は……なんていうの……?」
「ああ、やはり覚えていなかったか」
そんなリリィの情けない質問に、彼はくすりと笑う。それが初めて、彼の笑顔を見た瞬間で。
「クラーク伯爵家子息、ジュード・クラーク。よろしく頼む、リリィ・ルヴェール嬢」
そこでようやく、リリィは彼の名前を知った。
「あ……ええと、ジュード……?」
「………………怒らないのか?」
「えっ……何が?」
それが何に対しての確認かわからず首を傾げれば、彼は呆れたように溜息を吐いて肩を竦める。
「俺は出会ってから今まで、無礼な態度を取り続けていたはずだが? 仮にも公爵家の令嬢だろう?」
「あ……それもそっか」
父親同士が爵位関係なく打ち解けたように話していたものだから、ついつい同じように話してしまっていた。まあ、今の今まで彼が伯爵家の子息だということすら忘れてしまっていたから仕方のないことで。
それに、何より。
「このままでいいよ。今更気にされる方が落ち着かないし……こうしてジュードと話せるの、楽しかったから」
家族含めた屋敷の者達以外に、普通に接してもらえて、一緒に居ても平穏な時間が流れる……なんて初めてのことだったからだろうか。彼といる時間が、リリィの中で手離したくないと思い始めていたのは確かだ。
……だから。
「特異体質者、か……」
自分の特異体質が彼に知られてしまった瞬間は、今までにない程の絶望感に襲われたのだ。
彼もあの子達と同じように自分と接するようになるのだろうか。それとも、気持ちが悪いと拒絶されてしまうのだろうか。そう思うと怖くて、逃げたくなって。
「どんな体質を持っていようと、お前はお前だ」
だから、そんな彼の言葉が。
「乗れ」
差し出された彼の背中が。冷たい性格のくせに温かく感じて、傍にいてほしくて、離れてほしくないと思うようになって。
思えばもう、その時点で彼への想いは咲き始めていたのかもしれない。
それ以降どこに行くにしても、何をするにしても、彼と一緒にいるようになっていた。彼はそれを嫌な顔ひとつせず受け入れてくれたものだから、更に嬉しくなって引っ付いて。
その後の狩猟大会中、誰かに池へと突き落とされ溺れてしまった時に助けてくれたのも、その時のトラウマから屋敷の外へ出られなくなった時傍にいてくれたのも、彼だった。
彼との婚約が決まったとデイビッドから告げられたのは、そんな出来事が落ち着いてしばらく経ってからのことで。
───ああ、私のせいで。
真っ先に感じたのは嬉しさではなく、彼の人生を思わぬ形で縛り付けてしまうことになった罪悪感だった。
「どうして断らなかったの? だって、こんな……」
「違うんだ。俺の話を聞いてほしい、リリィ」
予想外にも、その時の彼に浮かんでいた悲しみの理由は自分が思っていたのとは別のもので。親同士が話し合って決めてしまった婚約に対してではなく、そのことに後ろめたさや罪悪感を持っているリリィに対して向けられたものだった。
「この婚約は……確かにルヴェール公爵と父上の話し合いで決められたものだ。でも拒否権がないわけじゃなかった。父上からお前との婚約者を打診された時、迷わず頷いたよ……俺がお前を、一番近くで守りたかったから」
彼のその言葉が、握ってくれたその手が、嬉しく感じてしまったのもまた事実だ。
彼も自分と同じ気持ちを向けてくれていて、それを伝えてくれたのも嬉しくて。
きっとこの先、彼とならなんだって乗り越えられるだろうと。きっと幸せな人生を歩んでいけるだろうと……そう、思っていたのに。
~*~*~*~
胸に強い痛みを感じて、リリィの意識は少しずつ浮上していく。強い力で何度も胸を押され、その度に酷い痛みを感じているらしい。
(痛い……)
我慢できずに逃れようとしたのだけれど、指1本動かせず、瞼を開けることすらできないことに気が付いた。それどころか、呼吸すら上手くできない。どうしても肺を動かすことができなくて、息を吸うことも吐くこともできなくて。その苦しさと痛さに、恐怖を感じ始めた。
「リリィ……! リリィ!!」
どこか……あまり遠くないところで、ジュードが自分の名前を呼んでいる声が聞こえる。ひどく怯えているその声に答えてやりたいのに、やっぱり体は動いてくれない。
「言っただろう! お前がそこに行くには、まだ早すぎると……!」
(ああそうだ、前にも……)
ずっと、前にもそんなことを言われた気がする。同じ状況で、同じような声色の彼に。
あの時も同じように体が動かなくて、呼吸ができなくて、痛くて、怖かった。
そんな暗闇の中で、今みたいにジュードの声が聞こえてきて。
───リリィ……リリィ……! ダメだ、死ぬな……!
「リリィ! 俺の声が聞こえているか!? 絶対に死なせない! だから、戻ってくるんだ!!」
聞こえてくる声はあの頃よりはだいぶん大人になっているけれど、しかし変わらず怯えるようにリリィの名前を呼び続ける。
ふと、何度も続いていた胸への圧迫が止まって。次いで、顔が強い力で掴まれた。鼻を摘まれ唇が何かに覆われて、口から勢いよく空気が流れ込んでくる。それは、動かなくなっていたリリィの肺を満たして膨らませて。
「……ん……」
動くことをやめていた肺が、思い出したかのように動き出した。
「ッ、リリィ……!」
唇を覆っていた何かが離れ、不自由だった肺の動きもさらに活発になって。おぼつかない呼吸をむせながらも整えている中で、何度も名前を呼ばれる。
呼吸ができるようになったからだろうか。ぎこちないながらも、体が動かせるようになっていて。だから、まだ重い瞼を持ち上げて、自分を呼ぶ声の主を見た。
「じゅ、ぅ、ど……」
そこにいたのは、あの時と同じで泣きそうな顔をしていた彼だった。あの時に比べて大人になっているけれど、その表情は今でも変わらない。
「リリィ、俺の声が聞こえるか? どこか痛むか?」
「ぅ、あ……」
どうして忘れてしまっていたのだろう。ずっとずっと、大切にしたかった人のはずだったのに。
「じゅー、ど……」
彼に向かって、重い体に鞭打って手を伸ばす。彼の服を掴むことさえもやっとのことで。でも離したくなくて、離れてほしくなくてその体にしがみつく。
「無理に動くな。呼吸が止まって、心臓も止まりかけた。すぐ蘇生したが、まだ予断は───」
「ごめ、っ……わすれてて、ごめん……」
「あ……」
耳元で、ジュードの息を呑む声が聞こえた。
背中に回ってきてくれた腕は、やっぱり優しくて温かい。
「ッ……いいんだ、リリィ……おかえり」
「う、ん……ただいま……」
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