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第35話
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蓮に向かって喚き、目を充血させ、山姥のように醜い表情で腰を折る琴音を、二人は冷静に眺めていた。
もうそろそろ美沙はコンビニに着いた頃だろう。
携帯を取り出し、美沙の居場所を確認するとポケットに仕舞う。
「じゃ、帰るから。慰謝料とかそういうのはまた後日」
「あ、あぁ」
帰ろうとする蓮に縋りつき、琴音は手を離さない。
みっともない姿をいい加減に止めてくれ。
ここで止めに入ると面倒になると分かっているので、智之は玄関から少し離れて静観する。
「待ちなさい!まだ話は終わってないのよ!ねえ!私でいいじゃない、私の方が好きなのよ!?あんな女よりも使える女よ!蓮、蓮!」
蓮は尋常じゃない琴音を見下ろし、耳元で囁く。
「でも俺、お前のこと嫌いだし。お前の旦那だって美沙に惚れてるし。お前はこの先、ずっとあの旦那と暮らして劣等感を持って生きるんだ。最愛の弟からも、旦那からも愛されていないと嘆きながらな」
琴音は固まる。
二人が何を話しているのか、智之からは口元が見えないし聞こえない。
美沙の本命である蓮を長い間視界に入れたくないので、早く帰れと舌を鳴らす。
「旦那を見る度にお前は思い出すだろ。教会で誓いを立ててまで結婚したのに、俺と結婚できないからと妥協して結婚したのに。お前を裏切った旦那が傍で生きている限り、今みたいに醜い姿で生き続ける。お前は結局何も得ていない。惨めだな」
半笑いで蓮が家を出ると、琴音は脱力してその場に座り込んだ。
床に足が打ち付けられる大きな音がして、智之は心配になり琴音に近寄った。
「だ、大丈夫か?」
琴音の逆鱗に触れないよう、か細い声を出す。
この後、美沙との浮気を咎められるのだ。無駄に怒らせたくはない。
と、思ったがよく考えればお相子だ。
琴音だって弟に気持ち悪い好意を寄せていたのだから、それも浮気だ。お互い様である。
弟への愛は異常だ。それに比べ、美沙への愛は小さいものだ。琴音と離婚し、美沙と一緒になるつもりはなかったし、あと数年で終わる関係だと思っていた。
美沙を手放すのは惜しいと思ったが、縋りつくようなことはしない。美沙は確かに良い女だが、若くて良い女は他にもいる。他を探せばいいだけだ。
だから弟への愛と、美沙への愛は重さが違う。
相殺できないくらい、弟への愛は大きいと感じた。
「い、言っておくが、琴音がしたことも浮気になるんだからな…お、俺だけが悪いとか言わないでくれよ」
言ってやった。
怒号が飛んでくるかも、と警戒していたが琴音の精神は想像以上に崩れている。
放心状態で、魂が抜けているようだ。
これなら、それほど責めてこないだろう。
弟の件が露呈し、逆に良かったかもしれない。
夫婦としての罪を背負っていたのは自分だけではなかった。お陰で智之の気持ちはいくらか楽になった。
「そんなところに座ってないで、リビングに行くぞ」
智之の手が肩を叩く。
その手は熱く、厚く、指は太い。
蓮の手はどうだったか。
しなやかで、けれど骨ばっていた。指は長く、爪の形は女のように綺麗で、指毛が目立つおっさんの手ではなかった。
あの手で触れられてみたかった。
きっと蓮の温もりを心地よく感じられるのだろう。
汗ばんでじっとりした、この感じでは決してないはずだ。
あの手で頭を撫でられ、頬に添えられ、首筋を触られ、そこからずっと下へ続く。どんな感じだろう。
あの腕で強く抱きしめられたかった。あの顔を近くでずっと見つめていたかった。触られたかった。セックスしたかった。
いつも見てばかりで、触ってばかり。一度だって蓮から触れてこなかった。
本当は蓮と幸せになりたかった。蓮と一緒にいたかった。蓮に触れられたかった。
だけど弟とは結婚できない。
隣を見れば蓮とは比較できない顔の夫。
この人の、何が好きだったのか。奈津江に嫌がらせをしてまで、どうして奪いたかったのか。二番目に好きだったから結婚したけれど、何が好きだったのか、今となっては遠い記憶となり、霧がかかっている。
蓮と一緒になることはないと悟り、仕方がないから脈ありだったこの人を選んだのだ。いけそうだと思ったからだ。
年収一千万円の社長や、外資系のイケメンなどは手に入らないと思った。上には上がいるのだ。大学では、琴音より美人はたくさんいた。自分はそこに行けないと思った。特上の男は特上の女が持っていた。奪うことなんてできない。特上の女ではないと自覚していたから。身の程は弁えていた。
だから智之にした。
働きたくなく、結婚して専業主婦になりたかった。
話していて、仕事ができそうな男だと思った。人当たりは良いし、よく周りを見ている。まあまあ稼いでくれそうで、尻に敷けそう。この男でいいやと狙いを定めた。
奈津江と交際していたが、そんなことは関係ない。
言い寄れば彼女になれそうだったから、奈津江を引き離した。
自殺するとは思わなかったが、自分のせいで自殺したからこそ、自分が智之と結婚しなければとより火がついた。
最初こそ智之を好きだと思っていたが、愛してはいなかった。蓮だけを愛していた。
その蓮は、智之の浮気相手と交際している。
あの女は許せない。
蓮を奪ったあの女は絶対に許さない。
「琴音?」
それよりも、智之。
蓮からあの女を引き剥がすくらい、してくれたっていいのに。
浮気をするのなら、そのくらいしろよ。
どうして蓮とあの女がくっ付いているのだ。
それに、そもそも、智之の分際で浮気なんてしやがって。
結婚してあげたのに、浮気だと。
家事も育児もこなした。お前は稼いでくるだけだろう。ATMのくせに調子に乗るな。
蓮の言葉が蘇る。
お前はこの先、ずっとあの旦那と暮らして劣等感を持ちながら生きるんだ。最愛の弟からも、旦那からも愛されていないと嘆いてな。
今もそうだ。智之を見ると、何とも言えない感情が渦巻く。
この男は若い女と浮気をした。古いものは要らないとでも言わんばかりに、あの女と愛を育んだ。
これは劣等感か。
智之も蓮も、こっちを見ない。
智之は旦那だ。結婚したのだ。それなのに、自分ではない女を想っている。
こいつでいいや、と妥協して結婚したというのに、その妥協した相手から妥協されている。
琴音はゆらりと立ち上がった。
もうそろそろ美沙はコンビニに着いた頃だろう。
携帯を取り出し、美沙の居場所を確認するとポケットに仕舞う。
「じゃ、帰るから。慰謝料とかそういうのはまた後日」
「あ、あぁ」
帰ろうとする蓮に縋りつき、琴音は手を離さない。
みっともない姿をいい加減に止めてくれ。
ここで止めに入ると面倒になると分かっているので、智之は玄関から少し離れて静観する。
「待ちなさい!まだ話は終わってないのよ!ねえ!私でいいじゃない、私の方が好きなのよ!?あんな女よりも使える女よ!蓮、蓮!」
蓮は尋常じゃない琴音を見下ろし、耳元で囁く。
「でも俺、お前のこと嫌いだし。お前の旦那だって美沙に惚れてるし。お前はこの先、ずっとあの旦那と暮らして劣等感を持って生きるんだ。最愛の弟からも、旦那からも愛されていないと嘆きながらな」
琴音は固まる。
二人が何を話しているのか、智之からは口元が見えないし聞こえない。
美沙の本命である蓮を長い間視界に入れたくないので、早く帰れと舌を鳴らす。
「旦那を見る度にお前は思い出すだろ。教会で誓いを立ててまで結婚したのに、俺と結婚できないからと妥協して結婚したのに。お前を裏切った旦那が傍で生きている限り、今みたいに醜い姿で生き続ける。お前は結局何も得ていない。惨めだな」
半笑いで蓮が家を出ると、琴音は脱力してその場に座り込んだ。
床に足が打ち付けられる大きな音がして、智之は心配になり琴音に近寄った。
「だ、大丈夫か?」
琴音の逆鱗に触れないよう、か細い声を出す。
この後、美沙との浮気を咎められるのだ。無駄に怒らせたくはない。
と、思ったがよく考えればお相子だ。
琴音だって弟に気持ち悪い好意を寄せていたのだから、それも浮気だ。お互い様である。
弟への愛は異常だ。それに比べ、美沙への愛は小さいものだ。琴音と離婚し、美沙と一緒になるつもりはなかったし、あと数年で終わる関係だと思っていた。
美沙を手放すのは惜しいと思ったが、縋りつくようなことはしない。美沙は確かに良い女だが、若くて良い女は他にもいる。他を探せばいいだけだ。
だから弟への愛と、美沙への愛は重さが違う。
相殺できないくらい、弟への愛は大きいと感じた。
「い、言っておくが、琴音がしたことも浮気になるんだからな…お、俺だけが悪いとか言わないでくれよ」
言ってやった。
怒号が飛んでくるかも、と警戒していたが琴音の精神は想像以上に崩れている。
放心状態で、魂が抜けているようだ。
これなら、それほど責めてこないだろう。
弟の件が露呈し、逆に良かったかもしれない。
夫婦としての罪を背負っていたのは自分だけではなかった。お陰で智之の気持ちはいくらか楽になった。
「そんなところに座ってないで、リビングに行くぞ」
智之の手が肩を叩く。
その手は熱く、厚く、指は太い。
蓮の手はどうだったか。
しなやかで、けれど骨ばっていた。指は長く、爪の形は女のように綺麗で、指毛が目立つおっさんの手ではなかった。
あの手で触れられてみたかった。
きっと蓮の温もりを心地よく感じられるのだろう。
汗ばんでじっとりした、この感じでは決してないはずだ。
あの手で頭を撫でられ、頬に添えられ、首筋を触られ、そこからずっと下へ続く。どんな感じだろう。
あの腕で強く抱きしめられたかった。あの顔を近くでずっと見つめていたかった。触られたかった。セックスしたかった。
いつも見てばかりで、触ってばかり。一度だって蓮から触れてこなかった。
本当は蓮と幸せになりたかった。蓮と一緒にいたかった。蓮に触れられたかった。
だけど弟とは結婚できない。
隣を見れば蓮とは比較できない顔の夫。
この人の、何が好きだったのか。奈津江に嫌がらせをしてまで、どうして奪いたかったのか。二番目に好きだったから結婚したけれど、何が好きだったのか、今となっては遠い記憶となり、霧がかかっている。
蓮と一緒になることはないと悟り、仕方がないから脈ありだったこの人を選んだのだ。いけそうだと思ったからだ。
年収一千万円の社長や、外資系のイケメンなどは手に入らないと思った。上には上がいるのだ。大学では、琴音より美人はたくさんいた。自分はそこに行けないと思った。特上の男は特上の女が持っていた。奪うことなんてできない。特上の女ではないと自覚していたから。身の程は弁えていた。
だから智之にした。
働きたくなく、結婚して専業主婦になりたかった。
話していて、仕事ができそうな男だと思った。人当たりは良いし、よく周りを見ている。まあまあ稼いでくれそうで、尻に敷けそう。この男でいいやと狙いを定めた。
奈津江と交際していたが、そんなことは関係ない。
言い寄れば彼女になれそうだったから、奈津江を引き離した。
自殺するとは思わなかったが、自分のせいで自殺したからこそ、自分が智之と結婚しなければとより火がついた。
最初こそ智之を好きだと思っていたが、愛してはいなかった。蓮だけを愛していた。
その蓮は、智之の浮気相手と交際している。
あの女は許せない。
蓮を奪ったあの女は絶対に許さない。
「琴音?」
それよりも、智之。
蓮からあの女を引き剥がすくらい、してくれたっていいのに。
浮気をするのなら、そのくらいしろよ。
どうして蓮とあの女がくっ付いているのだ。
それに、そもそも、智之の分際で浮気なんてしやがって。
結婚してあげたのに、浮気だと。
家事も育児もこなした。お前は稼いでくるだけだろう。ATMのくせに調子に乗るな。
蓮の言葉が蘇る。
お前はこの先、ずっとあの旦那と暮らして劣等感を持ちながら生きるんだ。最愛の弟からも、旦那からも愛されていないと嘆いてな。
今もそうだ。智之を見ると、何とも言えない感情が渦巻く。
この男は若い女と浮気をした。古いものは要らないとでも言わんばかりに、あの女と愛を育んだ。
これは劣等感か。
智之も蓮も、こっちを見ない。
智之は旦那だ。結婚したのだ。それなのに、自分ではない女を想っている。
こいつでいいや、と妥協して結婚したというのに、その妥協した相手から妥協されている。
琴音はゆらりと立ち上がった。
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