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30.とある雨の日
しおりを挟む式から数週間が経ち、屋敷で働く人たちから「奥様」と呼ばれることにも慣れてきた。今日は朝からずっと雨がしとしとと降り続いていて、庭園への散歩はない日だ。
食堂で昼食をとったあと、ハンフリーに手を引かれて向かった先は、オリヴィアの私室だった。チャンスだと思い、彼がソファに向かわず紅茶を淹れに行くのに、ついていった。
「うん? オリヴィア、座ってていいよ」
「私が淹れてもよろしいですか? マーサに習ったんです」
「分かった、火傷に気をつけて」
「ありがとうございます」
「……後ろから、見ていてもいいかな」
「はい」
紅茶を淹れると言っても、茶葉を計り沸いた湯をポットに注いでトレーで運ぶだけではあるのだが、ハンフリーはオリヴィアの動作から目を離さなかった。心配される目線すらあたたかく、その優しさが心に広がっていく。
室内で、紅茶を飲みながらゆっくり話せる時間だ。視界に入るのはいつも通りの家具と穏やかな瞳で、最近の疑問を尋ねるにはちょうどよかった。
「夜会には、もう出られないのですか」
「珍しいね、出たい?」
「そういうわけでは……」
オーウェン公爵になってからは、夜会の出席を減らすと言っていた。挨拶や結婚式も終わり、順調に頻度が落とせていると考えていいのか確認したかっただけだが、出たがっていると思われてしまった。
「なら、どうして聞いたの?」
「……ドレスを選ばれるところを、見たくて」
テッドからの話をよく聞き出してくれるマーサによれば、ハンフリーは何かを参考にすることもなく、的確にオリヴィアのドレスや普段着を注文するらしい。新しいデザインがあれば、マーサに確認を取ることもあるが、ほぼハンフリーの独断のようだった。
「オリヴィアにも、好みができた?」
「『好み』、ですか」
「僕が一方的にたくさん贈ってきたからね。好きなものがあれば、それを頼むといいよ。服飾費の決裁権、あげようか?」
「いえ、選びたいわけではなくて……」
言葉を選んでいる間を、当たり前に待ってもらえる。意見の相違があれば、伝える時間をくれる。
「ハンフリー様が選んでくださるところを、見たいと思って」
「ん、僕?」
「はい」
「僕の好みは、オリヴィアに贈ったドレスで分かるけど、そういうことじゃないんだね?」
「はい」
ハンフリーが気まずそうに、口を手で隠した。瞳の色は薄く穏やかなままで、怒らせたわけではないのは感じ取れる。
「オリヴィア、今まで言ってなかったけど……、僕たちは一応、初夜を迎えたことになってる。そのあとは懐妊の報告があるはずで、結婚してすぐの女性はしばらく社交に出ないんだ」
「存じております」
既婚男性は、ひとりでも夜会に出られる。父や兄が、そうだった。
どうやらハンフリーは、オリヴィアが夜会に出たいと思っているらしい。そう受け取られるほど、ハンフリーがオリヴィアを夜会に連れて行ってくれることが当たり前になっていることに気付き、少し恥ずかしくなった。
「うん? だからしばらく夜会には僕だけが出席するつもりで、オリヴィアはしばらく社交には出られない予定だったけど、オリヴィアはどうしたい?」
「『どう』、とは?」
「夜会に出たいなら、連れて行ってあげるよ。初夜が済めば確かに女性の体調は不安定になるし、出席すれば変な噂も出るだろうけど、僕が隣にいる。出たいなら守ってあげる」
「いいえ、夜会に出たいわけではないのです」
「そう? じゃあ、ドレスじゃなくても普段着とか、選んでみる?」
「はい」
貴族の結婚はどこも政略が絡むのだろうが、ハンフリーとオリヴィアの関係は元王族と罰を免れた令嬢で、政略結婚というよりは見せしめの意味もあっただろう。あの視線を浴びに行きたいとオリヴィアが言うとは、きっとハンフリーも思っていない。
数回対面した王太子からも歓迎されたため、そういう面を考えてしまうことはマーサにも話していない。ハンフリーに尋ねたところできっと否定されるから、口に出すことは選択肢になかった。
ハンフリーがいなければ、夜会の場でオリヴィアが受ける視線は、以前よりも酷いものだったに違いない。彼の威圧の視線があるから、オリヴィアは守ってもらえる。社交の場である夜会に、むしろオリヴィアはいないほうが、彼は動きやすいのではないだろうか。
オリヴィアがハンフリーの執務室に入ったのは初めてだった。執事のテッドがいて、会釈をされたため、反射的に返した。
机の配置は父とほぼ変わらないが、何も置かれていなかった空間にはスツールと大きめのテーブルが追加されていた。ハンフリーがよく使う資料は机周りに、それ以外が壁に収納されているのだろう。
この部屋は完全にハンフリーのもので、怖さも威圧もなく、ただ少しだけ、仕事部屋としての鋭さはあった。
「テッド、服飾デザインの一覧はどこにあったかな」
「すぐにお出しします。紅茶はいかがされますか」
「僕が淹れるよ」
「かしこまりました」
「オリヴィア、ここに掛けて。あれ、入ったことなかった?」
物珍しさにぐるっと見回してしまうのを、咎められたことはない。夜会に出るたびに、その会場の豪華さに目を見張っても、ハンフリーの色濃い瞳がオリヴィアに刺さることはなかった。
「……父の代にはあります」
「嫌な思い出? ごめん、連れてきたの、軽率だったね」
「いえ、そうではなく……、随分と過ごしやすそうな部屋だと」
「うん、変えたからね。前までは地図を広げるスペースもなくて、よくこれで領地管理ができてたなって。いろいろと僕がやりやすいように、テッドも従ってくれてありがたいよ」
「当主様ですから、その指示に従うのが私の仕事です」
「確かに」
侯爵家時代からこの屋敷に関わっているテッドとハンフリーの関係も、オリヴィアが知る限りは良好だ。マーサも、新しくやってきたドリーや他の護衛、もちろんハンフリーとも上手くやっている。
屋敷に住む他人同士が話しているのを見たのは初めてに近く、その軽快さが印象的だった。
ハンフリーが、紅茶を丁寧に淹れてくれた。微笑みながら、スツールをオリヴィアの隣へ動かし、腰を下ろす。彼に紅茶を淹れられることにも慣れ、啜りながら待っていると、テッドが本を目の前に並べてくれた。
「分厚い……」
「初めて見る?」
「恥ずかしながら」
奥の本棚から出されたデザインの本は何冊もあり、全てを確認するには時間が掛かりそうだった。
「ここから選んで注文するんだけど、見てないから仕舞い込んでたんだ。オリヴィアに着せたいものは決まってるし、僕の好みももう覚えてもらってるから、一覧を見る必要がなくて」
「そう、ですか」
軽く、ぺらぺらとページをめくってみる。夜会用の礼服だけで、数冊にまとまっているほどにたくさんのデザインがある。
オリヴィアは今まで、ドレスや普段着の装飾に興味が薄く、ハンフリーの好みをまとうことに違和感もなかった。だから、オリヴィアがこの本を眺めたいわけではないのだ。
「あ、そうだ。オリヴィア、馬に興味はある?」
「『馬』、ですか」
「うん。せっかくだし、乗馬用を頼もうか。横乗りしやすいデザインがあったはずだよ」
(っ……!)
ハンフリーの瞳が、少し濃くなった。オリヴィアが見たかったのは、この楽しそうにキラキラと光る瞳だ。感情で瞳の色が変わるのなら、威嚇や警戒だけではなく、興奮や歓喜でも色は濃くなるのではと、期待していた。
(夜会に出たときほど濃いものじゃないから、ある程度気を許している状況ではあると思っていいのよね、きっと)
湖畔へ出掛けたとき、オリヴィアは鞍の着いた馬をじっと見つめてしまった。ハンフリーが覚えていたのかは分からないが、思い出されたとすると気まずい。顔が熱くなるのを誤魔化すように、ティーカップを口元へ当てた。
ハンフリーがページをめくりつつ、オリヴィアにいくつか提案してくれた。汚れてもいいように、スカートの部分は茶色で、テッドが洗いやすいと薦めてくれた素材を選んだ。
「オリヴィアは髪も瞳も茶色だから、何でも似合うね」
「そのようなことはございません」
「本当だよ、選べない色がほぼない。貴族令嬢は青系の色を纏えないしね」
「っ……」
「オリヴィアと義姉様だけの特権だよ?」
「……そう、ですね」
今日一番の輝いた瞳を前に、オリヴィアはハンフリーのほうを向けなくなってしまった。
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