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31.ハンフリーの戸惑い 前 ◇
しおりを挟む頼んでいたオリヴィアの、普段着としても使える横乗り用の乗馬服が届いた。オリヴィアは気付いていないだろうが、彼女が身にまとう服は全て、オーウェン公爵家の家紋が刺繍されている特注品だ。
ひとりで敷地外に出ることのないオリヴィアが、屋敷に帰り着けなくなることはない。ただ、ここは属国領に最も近い領土で、万一もある。オルブライト国の中にさえいれば、騎士など軍事関係者なら絶対に分かる紋章だ。
有事がないのが最善なのは当然だが、オーウェン公爵家の紋章をまとったオリヴィアと外を歩くとハンフリーの顕示欲が満たされるため、辞めることはない。
オリヴィアの予定と希望を聞いてから、ハンフリーは休養日をいつにするか決めた。「本を読んでいるだけなので、お気になさらず」と言われるのはいつものことだが、彼女が熱心に勉強してくれているのはマーサからも聞いているし、「頑張りすぎて体調を崩すのは見たくないんだよ」と答えれば、彼女は引いてくれる。
その困り顔見たさにハンフリーがそう言って甘えていることに、オリヴィアは気付いていないだろう。
せっかくだから、「少し遠出をしよう」と誘った。オリヴィアは、ハンフリーの希望を断らない。
行った先で何かあっても、ハンフリーが守るだけだ。元王族を狙う輩は多くないが、オリヴィアが罪人の娘であることには変わりない。警戒はしすぎるくらいでちょうどいい。
領地内にある牧場には、馬車で移動する。ハンフリー自身、あまりしたことのない横乗りでの道のりは不安だったし、オリヴィアの体力的な問題もある。いつもの護衛騎士三人も一緒で、レナルドには軽食の準備も頼んだ。
◇
「以前の領主様はこちらまで来られたことはありませんでしたので、とてもありがたいです」
「そうか、こんなにいいところなのに」
「お褒めの言葉まで、ありがとうございます」
ハンフリーは、冷ややかに牧場主を見続けた。言葉の上ではこの景色を褒めたが、王家の瞳を崩しはしない。
牧場主は、オリヴィアのほうを向かない。他人のいるところへ行くと決めたときから、予想していたことではある。
ハンフリーがオーウェン公爵として、この地を治め始めて半年ほど経つものの、いまだに領民のオリヴィアへの目は厳しい。いっそハンフリーに向いてくれればと思うが、元王族には向けられない。
何よりハンフリーが心を痛めるのは、それをオリヴィアが感じ取っていることだ。夜会や結婚式で、彼女はハンフリーから離れようとした。決して許しはしなかったが。
領地内は自然も豊かで、オリヴィアが好きそうなスポットがいくつもあるものの、おそらく彼女が足を踏み入れた場所はない。
あのティールームや湖畔を気に入ってくれている。ハンフリーが好む場所はきっと、オリヴィアも気に入る。
だからあえて、この目が向けられると分かっていても、連れて来たかった。牧場であれば、他人と関わるのは馬を借りるときと返すときだけで済む。
「オリヴィア、馬に乗るのは初めてだよね?」
「はい、申し訳ありません」
「いや、ごめん。ひとりで乗れる貴族令嬢は少ないと思うよ。僕と一緒に乗るんだ。ふたりで乗れる、おとなしい子を用意してくれるかな」
「……かしこまりました」
牧場主が目を細め、オリヴィアを睨んだように見えた。さっと目を逸らしたオリヴィアは、遠くの山を眺めているだろうか。
今日のオリヴィアは、無理に目を合わせようとしてこない。夜会に出席するときと同じように、ハンフリーが警戒していることに気付いている。大事な人を貶されたくはなく、牧場主の気持ちも分からなくはないものの、瞳は濃いだろう。
牧場主が連れてきた馬は、黒毛や白に近い色の馬もいる中で、オリヴィアの髪色と似た茶色だった。今から、ハンフリーがその馬に跨る。馬の色すらも嫌味に思えた。彼女に関してどんな噂が流れていたのか、覚えていないはずがない。
この牧場主の嫌味に、オリヴィアは気付かなくていい。緊張することのないよう、彼女に接するときの仕草をできる限り普段のまま、穏やかに保つ努力をする。瞳の色は変わらないだろうが、口角や首の角度などで伝わるものもある。
「オリヴィア、怖くなければ、背中とか首の辺りを撫でてあげて」
オリヴィアが手を伸ばす間、ハンフリーは自分を確かめさせるように、馬の顔に身体を近づけた。初めて会う人間に対して嫌がることはなく、本当におとなしくいい子らしい。
(振り落とされて怪我なんて、絶対嫌だしね……、ここの選択は間違いたくない)
ふたりで背中に乗るための鞍は、形状も特殊で少し大きく重いが、この馬は従順に着けさせてくれた。オリヴィアが触れ続けていたのも、安心材料だったのだろう。
「オリヴィア、ここに腰掛けるイメージはつく? いつもソファで、僕に身体を向けてくれるのに似てるんだけど」
「…………」
想像がつかないのだろう、戸惑ったオリヴィアの背中にそっと触れ、鐙を指した。
「ここに足を掛けて。一緒に上がるよ」
「え?」
ハンフリーは先に足を掛けてから、オリヴィアの腹部に手を回し、彼女を抱き上げると同時に跨った。
「わっ……」
「痛くない? ごめん、乗り方を上手く説明できなくて」
「いえ、思ったより高くて……」
「怖い?」
「いえ、平気です」
自然の景色が好きなオリヴィアなら、高さは気にならないと思っていた。もし怖がっていたとしても、進み始めてしまえば周囲の景色に目線を奪われるはずだ。
横乗りのオリヴィアを支えつつ、もう片方で手綱を引いて、ゆっくりと牧場内を進み始める。レナルドやサミュエル、ドリーも護衛をしつつ、ここまでの移動とは別の馬を走らせ楽しんでいるようだ。
ここは牧場で、建物はあっても入口近くにひとつと、その先にはいくつか東屋が見える。多少丘にはなっているが、景色を遮るような大木もなく、草原が続いている。どこに腰を下ろしても、きっと快適に過ごせるだろう。
ハンフリーは、前を向いたままのオリヴィアの様子を探りながら、軽食を食べる場所を考えた。ときおり、護衛三人からアイコンタクトが飛んできて、候補を出してくれる。
湖にピクニックへ行ったときは、いつも木陰を選んでいた。日向は体力を奪われる。
オリヴィアはただでさえ慣れない乗馬に付き合ってくれている。ハンフリーは、オーウェン公爵邸にあるような東屋で、サンドウィッチを食べることを選んだ。
◇
ダンスと仮面舞踏会での一夜以外で、ここまで身体の距離が近くなったことはない。抱き締めたり額や眉間へのキスはしているものの、長時間触れていることはなかった。
(ふう……)
王家には夜伽の練習相手もいたし間者をやっていた関係もあって、ハンフリーの経験は一般的な貴族より多いのだろう。実際の色欲には淡白で制御に長けるハンフリーだが、感情を伴うとこんなにも乱れるものかと、混乱してしまう。
しかも、オリヴィアの身体は一度体験している。コルセットほど大掛かりで硬いものでなくても、体型に合う補正下着を着けるようになったオリヴィアが近くにいて、余計に抑えることに苦労するのは当然だ。
(乗馬にするんじゃなかったな……)
オリヴィアに、ハンフリーが好むことを知ってほしかったし、いつもとは違う景色を見せたいだけだった。
この距離の近さを幸運だと思うのは、オリヴィアが嫌う男と同じになる。嫌がらないオリヴィアの気持ちを、大切に育てたかった。
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