駒扱いの令嬢は王家の駒に絆される

垣崎 奏

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32.ハンフリーの戸惑い 後 ◇

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 執務室の扉がノックされ、「どうぞ」と返すと、「失礼いたします」とマーサが入ってきた。

「どうぞ、掛けて」
「ありがとうございます」
「オリヴィアはお昼寝?」
「ええ、初めての乗馬を『楽しかった』とおっしゃっていました」
「気をつけたつもりだったが……」
「純粋に楽しんだようでしたよ、当主様。緊張を伴うようなことをされたあとは『疲れた』とおっしゃるので」
「そうか」

(オリヴィアの身体が近くて意識したのは、僕だけだったんだな……)

 マーサがひとりでハンフリーの執務室に来たということは、間違いなくオリヴィアについての相談がある。

 テッドが席を外しているため、ハンフリーが紅茶を出して執務机に戻る。一口啜って、緊張した面持ちのマーサが話し始めるのを待った。

「あの、当主様。お伝えするのは迷いましたが、私ひとりが抱えているのも辛く……」
「オリヴィアには言わないよ。そんなふうに言い掛けて『やっぱり話さない』って言われたら、誰でも気になる」

 どうやら、以前オリヴィアが寝込んだときとは違って、急ぎではないらしい。穏やかに笑いかけると、マーサは一息吸ってから、ゆっくり言葉を選んだ。

「……先日、奥様が『閣下に応えたい』と」
「いっ……っ!」

 驚いて、立ち上がろうとした結果、書斎机の角に足をぶつけた。相当な音がして、マーサにもその衝撃は伝わっているだろう。

「当主様!」
「大丈夫、そのまま掛けて」

 近寄ろうとしたマーサを留め、ゆっくりと深く腰掛け直し、姿勢を戻した。痛みは続くものの、それを気にしている場合ではなかった。

(大問題だな……、いい意味で。いや、自惚れか?)

 オリヴィアのハンフリーに対しての敬語は、段々と柔らかくなってきていた。それだけでも、嫌われているわけではないと満足していたが、欲は留まるところを知らない。

「……それで?」
「どうしたら良いか分からないとおっしゃっていたので、当主様にされたことをそのまま返してみたらと助言しました」
「ああ、それで……」
「すでに、何か?」
「紅茶を淹れてもらった。教わったと言っていたから、何かきっかけはあったんだろうと思ってたよ」

(なるほど、そういう経緯があったわけか)

 オリヴィアは、ハンフリーが砕いてきた心に気付いて、返そうとしてくれている。それがどんな語彙で表されるものなのか、他人との関わりが極端に少なかったオリヴィアは、きっとまだ知らないのだろう。

「当主様……、使用人として、出過ぎているのは承知しています。お許しください」
「うん。どうぞ、続けて」

 マーサも、ハンフリーが滅多に怒らないのは分かっている。ただ、マーサは使用人で、当主であるハンフリーには許しを請わなければならない。

「奥様は学院へも行けず、メイナード様に与えられたものはほぼ全て、奥様には与えられず、長きにわたって、好意や愛情を受け取ることを諦めてきました。家庭教師とは名ばかりに、私が文字や食事のマナーをお伝えしたこともあります。貴族社会の常識を持ち合わせていないと自覚され、それを踏まえた上での言動をよくよく考えていらっしゃいます」
「うん、そうだね」
「っ……」

 ハンフリーがプレスコット家について調べた内容がどこまでの範囲かなど、ハンフリー以外の人間が考えるだけ無駄だ。ほぼ全て、王家の権限で調べ尽くしている。
 内部に居る人間には細かくどうでもいいことでも、外部のハンフリーには有用な場合も多々あって、今回は間者の経験がよく活きた。

「大丈夫、オリヴィアは僕が守るよ」
「ありがとう、ございます」
「少し落ち着くまで、ここにいるといい。僕はしばらく席を外す。テッドを呼ぼうか?」
「いえ……」
「そう」

(ふたりとも、もういい年だろう? いや、労働者階級の婚姻適齢はとっくに過ぎてるな)

 ハンフリーが接する限り、明らかに恋仲のふたりだが、マーサはテッドを呼ばれたくないらしい。仕事中は、できる限り関わらないのかもしれない。


 ◇


 先にベッドで待っているオリヴィアの隣に入ると、少し話したあと、頬に手を当て額にキスをする。
 結婚式を終えてからはこうして、同じベッドで眠る日々を続けている。キスは眠る合図だ。ハンフリーはいつものように、オリヴィアを抱え込んで目を閉じた。

(…………)

 額に、何か当たった。気がするだけだからと、何もしないでいると、唇をなぞられる。

(……っ!)

 唇にあたたかくて柔らかいものを感じ、慌てて目を開けた。オリヴィアが、微笑みを浮かべてハンフリーを見ていた。

「……オリヴィア?」

 小さな両手が、ハンフリーの頬を挟んでくる。

「お嫌でなければ、もう一度したいです」

(っ、っ……!)

 ゆっくりと、オリヴィアの頬に手を伸ばし、ハンフリーから唇を重ねた。

 ずっと、欲しかった。一度許されてしまえば、止められない。目を閉じているオリヴィアに、何度も吸い付いた。息をするタイミングが分からず苦しくなって開いた隙間に、舌を捻じ込む。
 
 柔らかくて薄いオリヴィアの舌を絡め取るように味わって、はっとして距離を取った。こんな場面だからこそ、瞳を見たがっているのも感じるが、オリヴィアの頭を抱え込んでしまう。

(部屋は暗いし分からないと思うけど、君が嫌う男にはなりたくないんだよ)

「ごめん」
「いいえ、意味は分かっています。私がこの距離を取る男性は、ハンフリー様だけです」

(……分かってるって? 僕だけって?)

「……それは、どういう意味?」
「お慕いしています、ハンフリー様。あなたには、もっと触れられたい」
「それは……」

(『お慕いしています』? 本当に?)

 ずっとオリヴィアの心を求めてきたが、いざ気持ちを素直に口に出されると受け止められず、彼女を引き寄せる腕の力を緩められない。ハンフリーの肩口から、少しくぐもった声が聞こえてくる。

「気軽に触れてきた男性の手には、ずっと鳥肌が立っていました。ハンフリー様には、初めからそれがなくて……。初めは高位の方だからと思いました。でも邪魔な人たちが消えてから、ハンフリー様の優しさが染みるようで……、申し訳ありません、上手く言葉にできなくて。伝わって、いますか?」
「うん」

 ハンフリーには、オリヴィアをぎゅっと抱き締め、彼女から発せられた言葉を噛み締めることしかできなかった。

「ハンフリー様?」
「うん」

 ハンフリーが何も話さないことを不安がるオリヴィアを、唇で塞いだ。ちゅっと啄んで離れると、オリヴィアが再度口を開いた。

「あの日、あの仮面舞踏会以来、ハンフリー様に守られてきました。父や兄から、肩すら触れられなくなって、気付けば公爵夫人に収まっていました。もっと、ハンフリー様に寄り添っていたいです」

 続けられた告白をハンフリーが噛み砕くには、やはり数秒必要だった。

(そう仕向けたのは僕だけど……、本当に?)

「……ねえ、オリヴィア。今日が初夜でもいい? 子どもを授かれるように、君を味わいたい」
「はい、お望み通りに」

 柔らかく笑いながら言うオリヴィアに、ハンフリーはゆっくりと息をひとつ吐き出した。高位だからと、遠慮されている感じはしなかった。
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