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第四章
空白の春
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外の寒さに反して、厨房にはかすかな春の気配が漂っていた。
道明寺粉を蒸す音、小豆がふつふつと踊る音。
香りはまだほんのりと、けれど確かに春を告げていた。
——あの年の冬も、同じだった。
八重は、白湯を啜りながら、ふと記憶の中へ沈んでいく。
まだ若く、希望と焦りばかりが先走っていた頃。
八重の妹である千佳は、寒さで赤くなった手をこすりながら、蒸籠の湯気に顔を突っ込んできた。
「姉ちゃん。あたし、今年のあんこに肉桂入れてみたい」
「……また変なこと言って。そんなの誰が食べるの」
「いいの。今年は“ふじのやの春”に、ちゃんと名前つけたいんだ。誰かが思い出す味を作ってみたいの」
笑っていた。
まっすぐで、目を逸らさない子だった。
八重はしぶしぶ頷いた。
けれど心のどこかでは、妹の無謀さが羨ましくもあった。
ふたりで深夜まで残り、何度も味を直し、桜葉の塩梅を変え、あんの炊き方を練り直した。
あれほど一緒に笑った季節は、ほかにない。
——そして、春を迎える前に、千佳はいなくなった。
八重は、あえてレシピ帳の春のページを空白にした。
書かなかった。
いや、書けなかった。
もし書いてしまえば、あの春が終わってしまう気がしたから。
空白は、喪失ではなかった。
あの春を、忘れないための、記憶の器だった。
今でも匂いがよみがえる。
道明寺粉がふくらむ音、桜葉の香り、千佳の手の温もり。
何も語らずとも、その全てが、確かにここにある。
——その夜は、いつになく冷え込んだ。
こよりはいつものように、閉店後の店内を片づけ、鍋を洗い終えた後で、茶の間へと戻った。
そこには、急須を抱えて座ったままの祖母の姿。
「ばあちゃん、今日の分、片付けたよ」
こよりが声をかけると、八重はうっすらと笑みを浮かべて頷いた。
だが、その笑みはどこか弱々しかった。
「……ちょっと、頭が痛いねえ。今日は、早めに休むよ」
そう言って立ち上がろうとしたそのときだった。
八重の身体が、ふらりと傾いた。
「あっ、ばあちゃん!」
こよりは慌てて駆け寄り、その小さな身体を支えた。
八重の額は熱く、呼吸は浅かった。
(まずい、これは……)
こよりは迷わず救急車を呼んだ。
搬送先の病院の白い天井。
機械の音と、消毒の匂いが遠くから漂ってくる。
こよりは、待合室の長椅子に座ったまま、何も考えられずにいた。
「ご家族の方」
名を呼ばれて立ち上がると、医師が落ち着いた声で言った。
「軽い脳貧血のようです。幸い、すぐに安静にされたので大事には至りません。
ただ、ご高齢ですからしばらく入院していただき、経過を見ましょう」
——大事には至らなかった。
その言葉に、こよりは力が抜けたように深く息を吐いた。
見舞いの面会時間。
病室のベッドで、八重はいつものように眉をひそめ、管につながれた腕を見ては不満げに顔をしかめていた。
「……店は、大丈夫かい」
「うん、なんとかなる。私がやるよ。ちゃんと、教わってきたし」
「教えた覚えはないよ」
「ううん、ばあちゃんは、見せてくれてた。……だから、見て覚えた」
八重は小さく笑い、天井を見上げた。
「見て覚えた、か。あんたも、あの子に似てきたよ……」
そう呟いた声に、「あの子」という言葉が引っかかった。
こよりは何も言わず、そっと祖母の手を握った。
——もうすぐ、春が来る。
祖母の春を、空白のままにしておくわけにはいかない。
(今度は、あたしが、作るんだ)
道明寺粉を蒸す音、小豆がふつふつと踊る音。
香りはまだほんのりと、けれど確かに春を告げていた。
——あの年の冬も、同じだった。
八重は、白湯を啜りながら、ふと記憶の中へ沈んでいく。
まだ若く、希望と焦りばかりが先走っていた頃。
八重の妹である千佳は、寒さで赤くなった手をこすりながら、蒸籠の湯気に顔を突っ込んできた。
「姉ちゃん。あたし、今年のあんこに肉桂入れてみたい」
「……また変なこと言って。そんなの誰が食べるの」
「いいの。今年は“ふじのやの春”に、ちゃんと名前つけたいんだ。誰かが思い出す味を作ってみたいの」
笑っていた。
まっすぐで、目を逸らさない子だった。
八重はしぶしぶ頷いた。
けれど心のどこかでは、妹の無謀さが羨ましくもあった。
ふたりで深夜まで残り、何度も味を直し、桜葉の塩梅を変え、あんの炊き方を練り直した。
あれほど一緒に笑った季節は、ほかにない。
——そして、春を迎える前に、千佳はいなくなった。
八重は、あえてレシピ帳の春のページを空白にした。
書かなかった。
いや、書けなかった。
もし書いてしまえば、あの春が終わってしまう気がしたから。
空白は、喪失ではなかった。
あの春を、忘れないための、記憶の器だった。
今でも匂いがよみがえる。
道明寺粉がふくらむ音、桜葉の香り、千佳の手の温もり。
何も語らずとも、その全てが、確かにここにある。
——その夜は、いつになく冷え込んだ。
こよりはいつものように、閉店後の店内を片づけ、鍋を洗い終えた後で、茶の間へと戻った。
そこには、急須を抱えて座ったままの祖母の姿。
「ばあちゃん、今日の分、片付けたよ」
こよりが声をかけると、八重はうっすらと笑みを浮かべて頷いた。
だが、その笑みはどこか弱々しかった。
「……ちょっと、頭が痛いねえ。今日は、早めに休むよ」
そう言って立ち上がろうとしたそのときだった。
八重の身体が、ふらりと傾いた。
「あっ、ばあちゃん!」
こよりは慌てて駆け寄り、その小さな身体を支えた。
八重の額は熱く、呼吸は浅かった。
(まずい、これは……)
こよりは迷わず救急車を呼んだ。
搬送先の病院の白い天井。
機械の音と、消毒の匂いが遠くから漂ってくる。
こよりは、待合室の長椅子に座ったまま、何も考えられずにいた。
「ご家族の方」
名を呼ばれて立ち上がると、医師が落ち着いた声で言った。
「軽い脳貧血のようです。幸い、すぐに安静にされたので大事には至りません。
ただ、ご高齢ですからしばらく入院していただき、経過を見ましょう」
——大事には至らなかった。
その言葉に、こよりは力が抜けたように深く息を吐いた。
見舞いの面会時間。
病室のベッドで、八重はいつものように眉をひそめ、管につながれた腕を見ては不満げに顔をしかめていた。
「……店は、大丈夫かい」
「うん、なんとかなる。私がやるよ。ちゃんと、教わってきたし」
「教えた覚えはないよ」
「ううん、ばあちゃんは、見せてくれてた。……だから、見て覚えた」
八重は小さく笑い、天井を見上げた。
「見て覚えた、か。あんたも、あの子に似てきたよ……」
そう呟いた声に、「あの子」という言葉が引っかかった。
こよりは何も言わず、そっと祖母の手を握った。
——もうすぐ、春が来る。
祖母の春を、空白のままにしておくわけにはいかない。
(今度は、あたしが、作るんだ)
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