春は、ばあばのレシピから香る

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第五章

蓬の香り

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 こよりは無言のまま、桜の葉の塩漬けを水にさらす。
 流れる水の音に、どこか遠くの春の小川を重ねた。
 手のひらの中でひらく桜葉は、懐かしい香りをそのまま閉じ込めている。

 (あの春を、今の手で)
 
 道明寺粉を蒸し、杓文字で丁寧に切るように混ぜる。
 鍋の縁にくっついた生地が、淡く照り返す。

 冷めていた小豆の餡も、ほんの少し手を入れて炊き直す。
 砂糖とともに、最後に加えた塩——ほんのひとつまみ。

 それだけで、味の輪郭が変わるのを知っていた。

 (あたしが思い出したのは、味じゃない。香りと、あのときの気持ちだった)
 
 指先で道明寺を取り、餡を包む。
 ひとつ、またひとつ。形は少し不格好だ。
 けれど、たしかに今のあたしの“春”だと思えた。

 湯気の上がる皿をそっと見つめながら、こよりはふと窓の外に目を向けた。
 青い空の向こうに、わずかに桃色が混じりはじめている。

 春が、近づいている。

 こよりは無言のまま、桜の葉の塩漬けを水にさらす。
 流れる水の音に、どこか遠くの春の小川を重ねた。
 手のひらの中でひらく桜葉は、懐かしい香りをそのまま閉じ込めている。

 (あの春を、今の手で)
 道明寺粉を蒸し、杓文字で丁寧に切るように混ぜる。
 鍋の縁にくっついた生地が、淡く照り返す。

 冷めていた小豆の餡も、ほんの少し手を入れて炊き直す。
 砂糖とともに、最後に加えた塩——ほんのひとつまみ。
 それだけで、味の輪郭が変わるのを知っていた。

 (あたしが思い出したのは、味じゃない。香りと、あのときの気持ちだった)
 
 指先で道明寺を取り、餡を包む。
 ひとつ、またひとつ。

 形は少し不格好だ。
 けれど、たしかに今のあたしの“春”だと思えた。

 湯気の上がる皿をそっと見つめながら、こよりはふと窓の外に目を向けた。
 青い空の向こうに、わずかに桃色が混じりはじめている。

 春が、近づいている。

 こよりは一つ息をついて、ふと笑った。

 (できたら、誰かに食べてもらおう)
 
 その日の午後、店の奥に村田あきよが現れた。
 ふじのやの常連にして、祖母の昔をよく知る人物だった。

 「ようやっとるね、あんた。あのばあさんの血は濃いわ」
 あきよはそう言って笑いながら、こよりの差し出した桜餅を一口食べる。

 しばらく咀嚼したのち、しみじみと呟いた。

 「……千佳ちゃんの味に、よう似とる」
 
 「千佳……って、ばあちゃんの妹さん?」
 
 こよりが思わず問うと、あきよは頷いてから懐かしむように話し出した。

 昔、八重と千佳は“春だけの限定菓子”を一緒に考えていたという。
 桜餅と草餅——どちらも春の訪れを告げる和菓子だ。
 
 桜餅は、千佳が好きだった。
 
 草餅は、八重が得意だった。
 ふたりで作る春の詰め合わせは、町の人たちにとっても季節の風物詩だった。

 ——でも、春を迎える前に千佳は亡くなった。

 「あの人はね、春が来るたびに泣いてたよ。桜が咲くと、決まって厨房にこもる。桜餅だけは作るけど、草餅は絶対に作らなかった」
 
 こよりは言葉もなく、手元の菓子を見つめた。道明寺の中に、あの日の記憶が眠っている気がした。

 「レシピ帳の空白も、あの子のためだったんだよ。

 春を忘れたくない。
 でも、書いてしまえば終わってしまう。
 
 だから、あそこだけは……ずっと、空白のまんまだった」
 空白は、喪失ではなかった。
 記憶を閉じ込めておくための、器だったのだ。

 「……草餅も、ほんとは作ってたんだよ。でも、千佳がいなくなってからは封印しちゃってね」
 あきよの目がふと、窓の外に向いた。

 「よもぎの香りって、不思議だよね。薬にもなるし、道ばたにも生えてる。強くて、優しい匂い。あの頃、千佳と八重が並んで摘んでたよ」
 
 こよりはそっと頷いた。
 厨房に戻り、乾燥よもぎの袋を手に取る。

 草餅は、まだ自分では作っていなかった。
 けれど、その存在が急に近しく感じられた。

 (——ばあちゃんが、ほんとうに閉じ込めていた春の味)
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