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第一章
夕げとレシピ
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夕暮れには、町全体が静かになる。
祖母の家も例外ではなかった。
こよりが風呂から上がる頃には、茶の間には煮物と味噌汁、白いごはんが静かに湯気を立てていた。
「食べな。冷める」
祖母の声は低く、乾いている。
けれど、それがどこか優しかった。
こよりは「いただきます」と言って箸を取った。
出汁の香りがふわりと鼻をくすぐり、心の奥までじんわりと染み込んでいく。
「おいしい……」
気づけば、小さく声が漏れていた。
だが祖母は何も返さない。
ただ、黙々と自分の分を食べている。
昔から変わらない、寡黙で律儀なその姿。
こよりは少し逡巡してから、湯呑みに手を伸ばしながら口を開いた。
「……春まで、こっちにいようと思ってる。東京は、ちょっともう……」
「ふん。逃げ帰ってきたってわけだ」
それは責めるような声ではなかった。
ただ事実として、彼女の迷いを言い当てただけの調子だった。
「うん。逃げた。……だけど、少し休んだら、また頑張らなきゃって思ってる。だから、それまで……ここで少しだけ、働かせてほしい」
そう言うと、祖母は箸を置き、ふうと息を吐いた。
そして、茶箪笥の引き出しから一冊のノートを取り出してこよりの前に置いた。
「……何これ?」
「店のレシピ帳。あたしとじいさんが若い頃から書き溜めてきたもの。もう古いけどね。見るなら、見な」
表紙はくすんだ和紙で包まれていて、「ふじのや 菓子帳」と筆で書かれている。
角は擦れて丸くなっており、ページの隙間には何枚かの押し花が丁寧に挟まれていた。
こよりはそっとページをめくる。
“水まんじゅう”、“葛きり”、“栗むし羊羹”、“雪うさぎ”——
どれも、祖母の手から生まれた季節の菓子たち。
ページには、淡い色の挿絵や、材料の分量、火加減のコツまでが丁寧に書き込まれている。
レシピ帳は季節ごとに章が分かれていた。
《夏》——水菓子の透明感に、涼しげな葛の使い方。
《秋》——栗や芋、木の実を使った練り切り。
《冬》——蒸し物や焼き餅、温かい甘味の数々。
ページを繰るうちに、ふと、こよりは首をかしげた。
《春》が、どこにもない。
目次にもその章は記されておらず、春にあたるはずの前後には、数ページ分の余白がぽっかりと空いていた。
(……春だけ、抜けてる?)
白紙ではなかった。
ただ、他の章のようにまとめられた構成が、そこにだけ存在しない。
こよりはページをなぞりながら、理由を探すように視線を彷徨わせた。
だが、祖母は何も言わなかった。
湯呑みに口をつけて、ただ静かに茶をすするだけだった。
こよりはそっとページを閉じた。
訊かずにしまっておこう。
今はまだ、触れてはいけない気がした。
それきり、祖母はそれ以上何も語らなかった。
こよりが眠りについたのは、夜の十一時を過ぎてからだった。
布団にくるまりながら、レシピ帳に挟まれていた一枚の押し花を思い出す。
桜の花びらを薄く押したものだった。
あれはたしか、小学生のとき、祖母と一緒に散歩した河原で拾った花を、しおり代わりに挟んだものだったはず。
それが、まだ残っていた。
捨てられていなかった。
そう思うだけで、胸が少しだけ温かくなった。
祖母の家も例外ではなかった。
こよりが風呂から上がる頃には、茶の間には煮物と味噌汁、白いごはんが静かに湯気を立てていた。
「食べな。冷める」
祖母の声は低く、乾いている。
けれど、それがどこか優しかった。
こよりは「いただきます」と言って箸を取った。
出汁の香りがふわりと鼻をくすぐり、心の奥までじんわりと染み込んでいく。
「おいしい……」
気づけば、小さく声が漏れていた。
だが祖母は何も返さない。
ただ、黙々と自分の分を食べている。
昔から変わらない、寡黙で律儀なその姿。
こよりは少し逡巡してから、湯呑みに手を伸ばしながら口を開いた。
「……春まで、こっちにいようと思ってる。東京は、ちょっともう……」
「ふん。逃げ帰ってきたってわけだ」
それは責めるような声ではなかった。
ただ事実として、彼女の迷いを言い当てただけの調子だった。
「うん。逃げた。……だけど、少し休んだら、また頑張らなきゃって思ってる。だから、それまで……ここで少しだけ、働かせてほしい」
そう言うと、祖母は箸を置き、ふうと息を吐いた。
そして、茶箪笥の引き出しから一冊のノートを取り出してこよりの前に置いた。
「……何これ?」
「店のレシピ帳。あたしとじいさんが若い頃から書き溜めてきたもの。もう古いけどね。見るなら、見な」
表紙はくすんだ和紙で包まれていて、「ふじのや 菓子帳」と筆で書かれている。
角は擦れて丸くなっており、ページの隙間には何枚かの押し花が丁寧に挟まれていた。
こよりはそっとページをめくる。
“水まんじゅう”、“葛きり”、“栗むし羊羹”、“雪うさぎ”——
どれも、祖母の手から生まれた季節の菓子たち。
ページには、淡い色の挿絵や、材料の分量、火加減のコツまでが丁寧に書き込まれている。
レシピ帳は季節ごとに章が分かれていた。
《夏》——水菓子の透明感に、涼しげな葛の使い方。
《秋》——栗や芋、木の実を使った練り切り。
《冬》——蒸し物や焼き餅、温かい甘味の数々。
ページを繰るうちに、ふと、こよりは首をかしげた。
《春》が、どこにもない。
目次にもその章は記されておらず、春にあたるはずの前後には、数ページ分の余白がぽっかりと空いていた。
(……春だけ、抜けてる?)
白紙ではなかった。
ただ、他の章のようにまとめられた構成が、そこにだけ存在しない。
こよりはページをなぞりながら、理由を探すように視線を彷徨わせた。
だが、祖母は何も言わなかった。
湯呑みに口をつけて、ただ静かに茶をすするだけだった。
こよりはそっとページを閉じた。
訊かずにしまっておこう。
今はまだ、触れてはいけない気がした。
それきり、祖母はそれ以上何も語らなかった。
こよりが眠りについたのは、夜の十一時を過ぎてからだった。
布団にくるまりながら、レシピ帳に挟まれていた一枚の押し花を思い出す。
桜の花びらを薄く押したものだった。
あれはたしか、小学生のとき、祖母と一緒に散歩した河原で拾った花を、しおり代わりに挟んだものだったはず。
それが、まだ残っていた。
捨てられていなかった。
そう思うだけで、胸が少しだけ温かくなった。
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