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Zazilia

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3 出張

11日目 深夜のサン・マルコ広場

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0時12分


 こつ、こつ、こつ、と、ブーツで石畳を鳴らしながら、ぼくは細い路地を歩いていた。
 時折、幸せそうに腕を組むカップルとすれ違う度に、深夜のこの街が醸し出す独特の雰囲気を好むのはぼくだけではないのだと思い、なんだか安心してしまう。
 細い路地を進むうちに、明かりが増えていき、目的の場所が近いことを感じる。
 周囲の景色は、いつからか薄暗い路地から明るい通りへと変わっていった。
 周囲の人影も増えていく。
 ぼくは、通りの端に寄り、歩みを進めた。
 それから少しして、たどり着いた先は、サン・マルコ広場。
 四角い広場の端にあるカフェでは、正装に身を包んだオーケストラが演奏をしていた。
 広場のあちらこちらには、薄い水たまりがあった。
 アックア・アルタだ。
 水たまりには、夜空に浮かぶ星々が映っていた。
 ぼくは、人混みに紛れて広場の真ん中を進んだ。
 みんな、カメラやスマホで写真や動画を撮ったり、恋人と腕を組んで、楽しそうな顔でどこかを指さしたりしている。
 ぼくは、カフェに入った。「すみません、コーヒーをお願いします」
 正装に身を包んだヒゲの店員さんは、ゆったりと頷いた。
 すぐにコーヒーが出てきた。
 コーヒーは、当然のように料金表の値段よりもちょっとだけ高かった。
 ぼくは、チップボックスに1ユーロ硬貨を落として、コーヒーとともにテラス席に腰を下ろした。
 オーケストラの紡ぎ出す曲に耳を傾ける。
 ゆったりとしたテンポ、壮大さを感じさせる、奥行きのある音の渦。
 ぼくは、コーヒーを啜り、これと言って特徴のないコーヒーの香りを堪能しながら、瞳を閉じた。
 皮膚を撫でる音に包まれ、音の渦に吸い込まれていくような感覚。
 演奏の善し悪しはわからない。
 ただ、この音楽に耳を傾け、音の世界に吸い込まれていく感覚が心地良い。
 ぼくがそう思っているのだから、おそらくこのオーケストラは、ぼくのようにこの音楽に心を奪われている人たちにとっては、上質な演奏をしていると言えるのだろう。
 この街が好きだ。
 幸せが満ちている。
 住んでいる人たちは、この街に住んでいることの幸せもそれほど強くは感じていないようだ。
 冬になれば、満潮が来る度に海の中に浅く沈み、悪臭が漂う。
 夏になれば運河から湧いた蚊がそこら中に溢れる。
 そんなことを知らないただの観光客たちは、ただただ、この街の美しさだけに目を向けて、将来沈むと言われているこの街を歩けることの幸せを堪能している。
 万物には、魔素が宿っている。
 生命の細胞の一つ一つ、元素の一つ一つ、大気中に漂う空気の中にも。
 魔素は生命の源の1つであり、生命の魔法を扱うぼくは、万物に宿る魔素という生命力に敏感だった。
 生命の身に宿る魔素には、感情や意思や意図や思考が薄っすらと宿っている。
 幸せを感じている命が多いところでは、軽快で温かい幸せが満ちており、それを強く感じられる。
 逆に不幸を感じている命が多いところでは、重厚で湿っぽい、冷たい感情が満ちており、冷たい空気が肌を凍らせる。
 生命の魔法を扱うぼくは、周囲を漂う魔素から得られる情報に敏感だった。
 だから、ぼくは、ぼくを包みこんでいた音楽の世界から抜け出すようにまぶたを上げ、首をひねって右側を見た。
 そこには、今まさに背もたれに手をかけ、椅子を引こうとしていたハリエットさんがいた。
 手にはビールのジョッキを2つ持っている。
「良い?」
 ぼくは小さく微笑んで頷いた。「どうぞ」
 ハリエットさんは、ぼくの前にジョッキを置いた。
「いただきます」ぼくは、ジョッキを取り、ハリエットさんと乾杯をした。「気づかれちゃいました?」
「なにが?」
「抜け出したこと」
「偶然よ。オーケストラの演奏に見惚れてたら、きみを見かけた」ハリエットさんは、唇の泡を舐め、メニューを開きながらぼくを見た。リラックスした眼差し。取り繕っている感じはない。まだ出会ってから1日も経っていないけれど、ハリエットさんはいつも自然体で、たぶんいつも素の自分をぼくや周囲に見せている。「1人が好きなの?」
「必要なんです。1人の時間が」
「昼間の様子でわかったわ。気を使っちゃうのね」
「あとは、警戒心も強いし、心を開くのには時間がかかるんです。相手の色んなことが見えてしまうから」
「生まれつき?」
「子供の頃からですね。気がついたら自分はこういう性格なんだって思うようになってました。頑張って変わろうと思ったけど、結局自分を痛めつけるだけだった。変われませんでした」
「人は変わらないわ。自分や周囲が変えようと思っても、結局は元の自分に戻る。変わったように見えるのは、経験を経て自己表現が洗練されただけのこと。子供の頃は、自分をどうやって表現したら良いかわからないから周囲を傷つけてしまって、変わろうと思ってしまうのよ」
 ぼくは頷いた。「ぼくたちを呼んだのは、本当にただ楽しんで欲しいからですか?」
「そうよ。わたしは違うけれどね。名探偵は事件に目ざとい。だからどこに行っても仕事になる」
「その時は手伝いますよ。出来ることがあれば」
「大丈夫。わたしはいつも1人で仕事をするの」ハリエットさんは、人差し指を立てて、ウェイターさんを呼んだ。「ディナーはまだ大丈夫?」
「はい」ウェイターさんは頷いた。「今夜はラストオーダーを引き伸ばしてあります」
 ハリエットさんは眉をひそめた。「なぜ」
「軽いアクア・アルタの日は、観光客が多いので」
 ハリエットさんは口をすぼめて頷いた。「なに食べたい?」
「メニュー見ても良いですか?」
 ハリエットさんは頷いた。「わたしは、アクアパッツァとムール貝の白ワイン蒸しをもらうわ。白ワインのボトルもお願い」
 ぼくは、400gのタリアータと、赤ワインのグラスを注文した。「ヨハンナさんがあまり得意ではなくて」
 ハリエットさんは笑った。「わたしもよ。だから訓練をさっさと終えたの」
「修了したって聞きましたけど」
「長引かせたくなかったから、さっさと終えたの。あの人、探偵としての腕は確かだからね。おかげで今では1人でのんびり仕事が出来るようになった」
「なるほど。ぼくは一週間で終わりにしました。セクハラが多いから」
「あいつバイだからね」
 ぼくは笑った。「知ってます」
「わたしはね、結婚出来ないタイプなの」
「どうして」
「男の子が好きなのよね」
「ほう」
「ソラみたいな男の子」
 ぼくは、ビールを啜った。自然と視線がハリエットさんから逸れてしまう。「ぼくは、その、心は男なんですけどね、身体は女なので」
「そうね」ハリエットさんはビールを啜った。「ソラはどんな人がタイプなの?」
「わかりません。付き合ったこともないし、たぶん今後もそうなんじゃないかな。素敵だなって人がいたらそうなるかも知れないけど」
「男にモテると思うよ」
「あ、知ってます。うっす」ぼくは、照れ笑いをこらえもせずに、上半身を揺らして小刻みに頷いた。「でもほら、ぼくってどっちかって言うと控えめサイズじゃないですか。自分で言うのもなんだけど、ぼくに声かけてくる男ってちょっと……、ってなっちゃうんですよね」
「大変ね」ハリエットさんは、シャンパンゴールド色の瞳で、ぼくの目を見た。「好きだって言われると、冷めちゃうタイプでしょ。気持ちわるってなる感じ」
「なんでわかったんですか?」
「なんかそんな感じがしたの」
「そうなんですよね。子供の頃、男の子から好きだって言われたんですけど、そっからなんかやだなってなっちゃって。それまでは友達だったし、それからも友達だったんですけど、なんか距離出来ちゃって、これってなんなんですかね」
「子どもってことでしょ」
 ぼくは笑った。「たぶん今もそうですね。好きだって言われたら、同じ反応しちゃうと思います。相手が男でも女でも」
 ハリエットさんは、うんうんと頷きながら、テーブルに運ばれてきた白ワインをグラスに注いだ。「んじゃ、乾杯」
「あ、どうもっす。ありがとうございます」ぼくは、上半身を揺らしながら小刻みに頷いた。「乾杯。その、〇〇〇〇」ぼくは、イタリア語で乾杯をして、小さく笑った。それで笑ってしまう自分がバカバカしく思えてしまい、少し大きめの笑い声が口から漏れた。
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