100日後に〇〇する〇〇

Zazilia

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4 映画撮影

22日目 東欧の空気

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9時3分


 広々としたホームには、なにもなかった。
 線路を渡り、駅舎に向かうも、そこにもなにもなかった。
 売店どころか、チケット売り場すらない。
 駅舎を出れば、そこにもなにもない。
 ロータリーの役割をこなせそうなくらいの、ちょっとした空間があるだけだ。
 農耕すらも困難な土地が広がる東欧だけれど、土地だけはある。
 東欧の道路が広々としていて、彼らの運転が荒っぽいのには、そういう理由があるのかもしれない。ぼくはあまり運転をしない。年に1度するかどうか。なのでわからない。
 鼻腔を通り抜ける空気は爽やかで軽やか。一方で少しばかり埃っぽい。脳味噌を凍らせるほどに冷たい。
 あちらこちらには枯れた雑草が見受けられる。
 太ったおばあさんが、杖を突き、とぼとぼと道を歩いていた。
 ぼくは、おばあさんに意識を傾けた。
 おばあさんは人間。
 その身に宿る魔素は、緑色の光の魔素。
 彼女が赤色の影の魔素を宿していれば、ぼくにはなにも出来なかった。
 ぼくは指を振るった。
 指先から放たれたシャンパンゴールド色の生命の魔素が、宙を泳ぎ、おばあさんの肌に溶け込んだ。
 途端に、おばあさんの全身から漂っていたしょぼくれた雰囲気が消えた。
 おばあさんは、立ち止まり、胸を抑えた。
 おばあさんは背筋を伸ばし、深呼吸をした。
 天を仰ぎ、両手を掲げ、ひざまずいた。
「あの」ぼくは、おばあさんの下に駆け寄り、彼女の手を握った。「大丈夫ですか?」ぼくは、現地語で言った。あえて下手なイントネーションで、英語訛りを加えて。
 おばあさんは、脂肪に埋もれた緑色の目で、ぼくを見上げた。「なんでもないよ。急に腰が軽くなったんだ」
 ぼくは、手の平から魔力を流し込み、おばあさんの体内と心の状態を探った。
 緩やかな鼓動、心臓も肝臓も肺も、あらゆる臓器が弱っている。
「お迎えが来たのかねぇ。人は、死にそうになると、痛みを感じなくなるというから。旦那もそうだった」
 ぼくは曖昧に微笑んだ。「神を信じるなら、死の前触れではなく、神の気まぐれと思っては? たぶん通りすがりに見かけたあなたをお救いになられたんですよ。あなたの日頃の行い故です」ぼくは、簡単な単語と、短いフレーズを並べて言った。
 おばあさんは、良いことばかりをしているわけではないだろうけれど、こんな感じに言っておけば、元気になった身体を神の恵みとでも思い、隣人とかを助けるようになるんじゃないだろうか。
 ぼくは、生命の魔素をおばあさんの皮膚から体内に流し込んだ。こうすれば、おばあさんの身体は生命の魔素によって活性化し、残りの余生を楽しめるようになる。
『人間相手に神様気取りなんて、きみらしくないな。この街の全員にそうするつもりかい?』
 脳内に、シェルナーさんの声が響いた。優しく、温かみのある口調だ。
『出来ることをやっているだけですよ。ごめんなさい。そんな暇はありませんね』ぼくは、脳内で返事をした。ぼくは、おばあさんの手を取り、ゆっくりと立ち上がらせた。「じゃあ、行きますね。良い一日を」
「ありがとねぇ、お嬢ちゃんも」
「ぼくは男ですよ」
 おばあさんは、ぼくの胸を見た。「おやまぁ、ごめんねぇ、お坊ちゃんも良い一日を」
「ありがとうございます」
 おばあさんは、背筋を伸ばして、軽やかな足取りで、通りを進んでいった。
 白い乗用車が、騒がしいエンジン音とともに、ぼくのそばに横付けされた。
「ここからは車で向かうぞ」運転席に座るステファノさんが言った。


16時50分


 雪原の真ん中に伸びる長い道路。
 その先に、カラディシアの街が見えた。
「見えるか?」ヨハンナさんが言った。
 ぼくは頷いた。
 カラディシアの街が、光っている。
 赤色に、緑色に、灰色に、琥珀色に、淡褐色に、藍色に、そして、シャンパンゴールド色に。
 膨大な魔素が、街から漂っている。
「あれは、魔法使いの街ですか?」ぼくは言った。
「連中の残党だ」シェルナーさんが言った。「独立を望む者たちがあの街を作り、そこに目をつけた連中が干渉したのさ。まず始めに、真に平和を望む博愛主義者が友好の笑顔を浮かべて近寄り、それに乗じて自らの利益のみを望む者が入り込む。奴らの侵略のやり方だ。多様性の兵器利用かな」
「善良な馬鹿は利用されるだけか」浄が言った。「善良でありたいなら、強く賢く、孤独じゃないとな」浄はぼくを見た。
 ぼくは、浄を見た。「ここでなにをしてるの?」
「仕事だよ」
 ウルグアイにいると思ってた、そう言おうと思ったけれど、言葉を飲み込んだ。それを言えば、あぁ! あの天使のように可愛い空ちゃんが俺の事を気にかけてくれている! これはもう両想いを通り越して結婚するしかないぜ! とかなんとか舞い上がらせてしまうに決まっている。男って奴はどうして発想を飛躍させるのだろう。たぶん、身体まで男だからだろう。「そっか。普段はなにしてるの?」
 バックミラーの中で、シェルナーさんがこちらを見た。
「俺はインターンの助手をやってたんだ。ウルグアイで」
「そっか」
「俺は仕事をやってるつもりだったんだけど、俺の上司がやってたのは違ったんだ。インターポールの仕事なのは間違いなかったんだけどな」
「っていうと?」
 浄は鼻で深く息を吸った。「まあ、色々あったんだ。色々あって、俺はウルグアイを離れた。空の助手をやらせてくれれば嬉しいんだけど」
「間に合ってるよ」
「そっか」浄は、自分の股間に手を添えた。
 ぼくに蹴り上げられたときのことを思い出しているのかもしれない。
 やめて欲しかった。
「なに、落ち込んでんの?」ぼくは言った。「ストレス溜まってるってわけ? 緊張してる?」
「なんで?」
「なんとなく。なんかあったんでしょ?」
「まあね」
「そういうとき、どうすれば良いか知ってる?」
「空ちゃんに慰めてもらうとか?」
「ちっげーよ」ぼくは、浄のみぞおちを裏拳で殴りつけ、肩を2発殴った。
 相手が人間ならこれだけで死んでしまうほどの力だが、魔法族同士なら、小さな女の手に殴られた程度でしかないだろう。
 それを証拠に、浄は楽しそうに笑っていた。
「そういうときは、殴られて当然のことをしている連中を、思いっきりぶん殴れば良いんだよ」
「マジ?」
「おう」
「っはー」浄は、感心したような声を上げた。「やっぱ戦争帰りは違うな」
「ふふん」ぼくは鼻を鳴らした。
 戦争帰りか。
 ぼくがこれから戦うのは、3年前に戦った連中の残党。
 懐かしい感覚だ。
 あのときのように戦えるだろうか。
 ぼくは相手が人間なら、誰が相手でも、何人いても、どんな武器を持っていても、細い糸の先に垂らした小さな球を振り回すだけで倒せる。
 相手が魔法族なら、そうはいかない。
 相手が魔法族なら、ぼくはただの、156cm、36kgの女の子程度の力しか持たない。
 身体能力だけでは無理だ。
 ぼくは、当時のことを思い出した。
 ぼくはどうやって、戦ったんだっけ。
 ぼくは、まぶたを下ろし、深呼吸をした。
 何度も何度も。
 深呼吸をする度に、意識が深く沈んでいく。
 周囲の音が、徐々に消えていく。
 心臓の鼓動の音だけが、鼓膜の奥に響く。
 徐々に、蘇る。
 あの時の臭いが、音が、味が、光景が、そして、痛みが。
 周囲の時間が止まったかのような感覚。
 世界の中で、動いているのは、ぼくだけという感覚。
 世界を手にしたかのような、そんな高揚感。
 病みつきになりかねない、危うさ。
 だから、はじめはアーヴィンさんからの誘いを断ったのだ。
 これに幸せや喜びを見出してはいけない。
 でも、ぼくはここにやってきた。
 相手が、連中の残党だから。
 ぼくが取りこぼした連中だから。
 自分の皿は自分で洗わなくてはいけない。
 自分の部屋は自分で掃除しなくてはいけない。
 自分に出来ることは、自分でやらなくてはいけない。
 それが、ぼくがここに来た理由だ。
 どうやって戦っていたのか。
 そんなことは、3年ほど乗っていなかった自転車に乗るようなものだ。
 かつて流暢に話していた東欧の言語を、当時を思い出しながら言葉を紡ぎ出していくようなものだ。
 たぶん、そのときになれば思い出すだろう。
 ぼくが心配するべきは、戦うことじゃない。
 その中に、幸せを見出さないこと。
 その中に、居場所を作らないこと。
 それだけだ。
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