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関係
◎彼は振り返る
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月が綺麗な、金曜日の夜。
風呂を済ませ、ぼーっとテレビを見ていたら、スマホがメッセージの受信を知らせた。
馴染みのないアイコンからで、何かと思えば、それは彼女の友人で。
『久しぶり。加藤です。若菜が酔っ払っちゃって、一人で帰すの心配なんだけど、今からお迎えに来られたりする?』
「加藤です」と言われて、一瞬誰だかぴんとこなかった。しかし、彼女の名前を出されて、記憶が繋がる。
加藤って、あの加藤さんか。
高校時代、彼女を通じて話をしたことはあったけれど、個別にやり取りをしたことはほとんどなかったから驚いた。
誰にでもにこにこと穏やかな若菜と比べると、割とさばさばしていてクールな印象ではあった。タイプが違うから仲がいいのは意外で。
ただ、あまり親しくはないけれど、俺に連絡を寄越したのは正しい判断だと思う。さすが、彼女が親友というだけある。
着ていたTシャツにカーディガンを羽織り、下は部屋着のスエットのまま、スニーカーをつっかける。最近急に冷えるからと念の為パーカーを持って家を出たその10分後、まさか尋問のようなことをされるとは思っていなかった。
「織井くんって結局若菜とどうなりたいの?」
加藤さんに言われたその言葉に、なんと答えるべきか一瞬迷う。
「高校時代、若菜が誰かからアプローチかけられそうになっても、いつの間にかその話がなくなってたのって、織井くんが牽制してたからだよね?」
「…牽制というほどのことはしてないよ」
「若菜は自分がモテないと思ってるみたいだけど、あの頃から結構狙ってる男子はいたでしょ。織井くんなら知ってるはずだよ」
もちろんそれは知っている。
ものすごく目立つタイプではないけれど、可愛くて優しくて。困っている人を放っておけない面倒見のいい彼女には、実は所謂「隠れファン」が多かった。
しかし、ファンにはファンのままでいてもらわないといけない。そのために陰でいろいろした。仲を深めるとか、告白するとか、間違っても付き合うとか、そんな恐ろしいことが起きないように根回しを怠らずにここまでやってきたのは事実だ。
「織井くんがうかうかしてる間に 若菜、今自分で出会い求め始めてるんだからね。…今回はよくなかったみたいだけど」
「出会い?若菜が?」
聞いていない。
何それ詳しく、と言いたいところだが、なんとなく加藤さんに聞いても教えてくれないような気がした。
小中高大と同じ学校に通っていた学生時代は、交友関係の把握が比較的簡単だったのに、就職してからそれが難しくなった。だから、隣の部屋に引っ越してきたというのに。
「織井くんがちゃんとしないなら、私が若菜にいい人紹介しちゃうかも」
「それは…幼馴染みとしても断固阻止しなくちゃ」
俺が平静を装ってそう答えると、加藤さんは小さく溜息をつく。
「早くくっついちゃえばいいのに。二人ともいろいろ拗らせ過ぎだよ」
「二人とも?」
「若菜も若菜で、何かっていうと織井くんのことばっかり話すのに、『宏隆は幼馴染みだから』って自分のことを無理矢理納得させてるみたい。はたから見てると無理があるよ」
若菜がそんなに俺の話をしているとは思っていなかったが、無理があるというのはごもっともな意見だと思う。
元々家族ぐるみで仲がよかった彼女は、幼い頃から誰に対しても分け隔てなく気さくだった。
大人になった今でこそ、初対面の人ともうまく話すことができるけれど、かつてはひどい人見知りで、いつも輪の中に入れずにいた俺に、心配した両親があてがったのが若菜だった。
面倒見がよく、一方で距離感も大切にしてくれる彼女に、文字通り救われる日々で。
信頼が、いつの間にか愛情に変わり、愛情は執着に変わった。
…自分が彼女を必要としてきたように、彼女に必要とされる自分でありたい。なんなら、自分がいないと生きていけないくらいに思っていてくれてもいい。願ったり叶ったりだ。
しかし、そんなことを思いながらも幸いなことにだんだんと社交性が育まれていった俺は、歪んだ感情を隠して、常に彼女を追いかけ続けた。
彼女が『彼氏とか面倒臭そうだし、それよりも気心知れた人といる方が幸せ』と言うから恋愛感情を悟らせないようにしたし、『宏隆みたいな幼馴染みがいるのは私の自慢』と言うから、ありとあらゆることに努力を惜しまなかった。
…こんな拗らせ方をしておいて、自慢なんて、されるような人間じゃないけれど。
でも、出会いを求めているというのは聞き捨てならない。俺を差し置いて、どこの誰と出会うというのだ。
そのとき、若菜が身じろぎをしたかと思ったら、もぞもぞと膝を抱え直し、体を丸める。
「あ、寝そうになってる!こら、若菜!」
終電の時刻が近いと言う加藤さんが「じゃ、よろしく!」と言い残して足早に出ていくのを見送ると、彼女は目を擦りながら、ゆるゆると立ち上がろうとするから、腕を掴んで支えた。
声を掛けると、小さく唸ってから素直に頷く。そんな、ある意味では見慣れた様子も、やっぱり変わらず愛しかった。
店の外は暗くて、少し風が冷たかった。
夜は冷えるからと思い、持ってきたパーカーを肩にかけると「ありがと」とふにゃふにゃ微笑みかけてくる。
しかし、飲み過ぎた理由を聞くと、マッチングアプリなんてとんでもないワードが飛び出すし、わけのわからない相手に不快な思いをさせられたと言うではないか。
俺は一体何をしているのだろう。
見守るばかりで、誰よりも大切な彼女にこんな思いをさせるなんて。
俺でいいじゃないか。
俺にしなよ。
むしろ俺以外の誰かの隣で笑っている彼女の姿なんて、想像するだけで膝から崩れ落ちそうになるくらいなのに。
それならもういっそのこと、俺を選んでもらえばいい。絶対に幸せにする。
だから。
「…代わりといってはなんだけど、ちょっと試してみてほしいことがあって」
本当は試してみるなんて気軽なものじゃない。
「私でいいならなんでもするけど」
ほら、そうやって詳しく聞く前に簡単に引き受ける。信用してくれているのだろうということはわかるけれど、ちょっと心配だ。
しかし、人のことは言えない。かくいう自分も、彼女のそんなところに、多少なりとも今から付け込もうとしているのだから。
帰り道を歩く間に、酔いは覚めてしまったようだった。そう、彼女は簡単に酔うくせに割と短時間で冷めるのだ。
だから。
「飲み直さない?」
「え?」
「これ、この前仕事仲間が美味しいって教えてくれたんだ」
珍しく職場の飲み会を開催した時に、話の流れで「片想いの相手は、甘い酒が好きで」と言ったら教えてもらったもの。まるでジュースのようなそれは、すいすい飲めてしまうのに、度数は結構高いことで有名らしく、一部では「お持ち帰りドリンク」なんて物騒な呼び方をされているという。そんな酒の瓶を傾け、とぷとぷとグラスに注ぐ。
昔から変なところで妙に考え込むところのある彼女のことだ。俺が急に自分の思いを伝えても、「ちょっと考えさせて」となってしまいそうだから、多少酔っておいてもらった方がいい。
すると。
「涎垂らさないように、気を付けなきゃ…ほんと私、宏隆いないと野垂れ死にそう……」
既に結構な量を飲んでいたところへ、酔いが醒めたとはいえ また酒を入れたのだ。ちびちびではあるが、案の定グラス一杯を飲み干したあたりで、彼女の瞳はとろんとして、体がゆらゆらと船を漕ぎ始める。体が傾いだところに、頭の下にクッションを用意しながら屈んで、わざと話し掛け続ける。多分もう、彼女は半分寝ている。
「…若菜が野垂れ死ぬときは、きっと俺も一緒だよ」
「うふふ…何それ」
酒気を帯びた吐息。
その額にかかった髪をかき上げると、気持ちよさそうに笑う。
ーああ。好きだ。
もうずっと、ずっと前から。
自分以外の誰かが、この気の抜けた笑顔を向けられるなんて耐えられない。
だから、やや懇願するような思いで伝える。
「…だからさ、付き合うのも結婚するのも、俺でいいんじゃない?」
「宏隆と…?」
酔わせて言質をとるなんて、卑怯だということも重々承知だ。でも、普通に思いを伝えて断られたら、やっていける自信がない。
だから。
「…俺、若菜のこと、誰よりも大事にできる」
意を決して伝えた言葉は、自分で思っていたよりも実感を伴って響いた。
しかし その直後、思いもよらないことが起きた。
彼女が横になったまま首を傾げてから、微笑み、こちらへ手を伸ばしてきたのだ。
「えっ」
細い腕が、しがみつくように首裏に回される。
「じゃあ、一緒にいようよ…」
「…え?」
「宏隆となら、なんでもできるよ…宏隆より私のことわかってる人、どこにもいないもん…」
おまけに寝惚けているのか、猫のように首筋に額を擦り付けながらそんなことを言うから、爆発しそうな心臓を抑えて尋ねる。
「付き合うのも結婚するのも、俺とでいいの?」
「うん…いいよぉ…そうしよー…」
「え…」
思わぬ返答に、言葉に詰まった俺を見つめてから、彼女はそのまま目を閉じて、すぅすぅと規則正しいリズムで寝息を立て始めた。本当に眠り込んでしまったようだ。
俺は一体今、何を聞いたのだろう。
時が止まったような気さえするほど。とてつもない高揚感に包まれて、俺は腕の中の彼女を起こさないように、壊れ物を抱えるように抱き締める。
やばい。
長年思い、焦がれていたのである。酔っ払っている状態の彼女と話を進めてしまったのと、どういう種類の「好き」なのか確認できていないのが気にかかるが、一番近くで愛を伝える許可を得たと言っていいだろう。
恋人なんてまどろっこしい関係はすっ飛ばしてしまえばいい。どんな関係であれ、俺の方から別れを切り出すわけがないのだから。
ー付き合うのも結婚するのも、俺とでいい。
彼女をそっと抱き上げてベッドに運ぶ。頭をふわりと撫でてから、棚に向かう。抽斗にしまっておいた指輪を取り出すと、それは購入した時と変わらず煌めいていた。
彼女のイメージに合うと思い、かなり前に一方的に購入したそれを、まさか本人の薬指に通せる日が来るなんて思っていなかった。
彼女は酔うと記憶をなくすタイプだから、このやりとりのことも、おそらくあまり覚えていないだろう。だからこそ、証拠作りのために、今指輪を納めておく必要がある。
我ながら相当気持ちが悪い。なんなら犯罪じみている。でも今はそんなこと考えていられなかった。
彼女の手をとり、指先を自分の額に当てて、目を閉じる。
「絶対に幸せにするから…」
するから…なんなのだろう。
でも、そう誓うことしかできない自分の不甲斐なさを、これからの日々で払拭していくために彼女を改めて丁寧に愛していこうと誓う。
そうして俺の、俺達の新婚生活は始まった。
風呂を済ませ、ぼーっとテレビを見ていたら、スマホがメッセージの受信を知らせた。
馴染みのないアイコンからで、何かと思えば、それは彼女の友人で。
『久しぶり。加藤です。若菜が酔っ払っちゃって、一人で帰すの心配なんだけど、今からお迎えに来られたりする?』
「加藤です」と言われて、一瞬誰だかぴんとこなかった。しかし、彼女の名前を出されて、記憶が繋がる。
加藤って、あの加藤さんか。
高校時代、彼女を通じて話をしたことはあったけれど、個別にやり取りをしたことはほとんどなかったから驚いた。
誰にでもにこにこと穏やかな若菜と比べると、割とさばさばしていてクールな印象ではあった。タイプが違うから仲がいいのは意外で。
ただ、あまり親しくはないけれど、俺に連絡を寄越したのは正しい判断だと思う。さすが、彼女が親友というだけある。
着ていたTシャツにカーディガンを羽織り、下は部屋着のスエットのまま、スニーカーをつっかける。最近急に冷えるからと念の為パーカーを持って家を出たその10分後、まさか尋問のようなことをされるとは思っていなかった。
「織井くんって結局若菜とどうなりたいの?」
加藤さんに言われたその言葉に、なんと答えるべきか一瞬迷う。
「高校時代、若菜が誰かからアプローチかけられそうになっても、いつの間にかその話がなくなってたのって、織井くんが牽制してたからだよね?」
「…牽制というほどのことはしてないよ」
「若菜は自分がモテないと思ってるみたいだけど、あの頃から結構狙ってる男子はいたでしょ。織井くんなら知ってるはずだよ」
もちろんそれは知っている。
ものすごく目立つタイプではないけれど、可愛くて優しくて。困っている人を放っておけない面倒見のいい彼女には、実は所謂「隠れファン」が多かった。
しかし、ファンにはファンのままでいてもらわないといけない。そのために陰でいろいろした。仲を深めるとか、告白するとか、間違っても付き合うとか、そんな恐ろしいことが起きないように根回しを怠らずにここまでやってきたのは事実だ。
「織井くんがうかうかしてる間に 若菜、今自分で出会い求め始めてるんだからね。…今回はよくなかったみたいだけど」
「出会い?若菜が?」
聞いていない。
何それ詳しく、と言いたいところだが、なんとなく加藤さんに聞いても教えてくれないような気がした。
小中高大と同じ学校に通っていた学生時代は、交友関係の把握が比較的簡単だったのに、就職してからそれが難しくなった。だから、隣の部屋に引っ越してきたというのに。
「織井くんがちゃんとしないなら、私が若菜にいい人紹介しちゃうかも」
「それは…幼馴染みとしても断固阻止しなくちゃ」
俺が平静を装ってそう答えると、加藤さんは小さく溜息をつく。
「早くくっついちゃえばいいのに。二人ともいろいろ拗らせ過ぎだよ」
「二人とも?」
「若菜も若菜で、何かっていうと織井くんのことばっかり話すのに、『宏隆は幼馴染みだから』って自分のことを無理矢理納得させてるみたい。はたから見てると無理があるよ」
若菜がそんなに俺の話をしているとは思っていなかったが、無理があるというのはごもっともな意見だと思う。
元々家族ぐるみで仲がよかった彼女は、幼い頃から誰に対しても分け隔てなく気さくだった。
大人になった今でこそ、初対面の人ともうまく話すことができるけれど、かつてはひどい人見知りで、いつも輪の中に入れずにいた俺に、心配した両親があてがったのが若菜だった。
面倒見がよく、一方で距離感も大切にしてくれる彼女に、文字通り救われる日々で。
信頼が、いつの間にか愛情に変わり、愛情は執着に変わった。
…自分が彼女を必要としてきたように、彼女に必要とされる自分でありたい。なんなら、自分がいないと生きていけないくらいに思っていてくれてもいい。願ったり叶ったりだ。
しかし、そんなことを思いながらも幸いなことにだんだんと社交性が育まれていった俺は、歪んだ感情を隠して、常に彼女を追いかけ続けた。
彼女が『彼氏とか面倒臭そうだし、それよりも気心知れた人といる方が幸せ』と言うから恋愛感情を悟らせないようにしたし、『宏隆みたいな幼馴染みがいるのは私の自慢』と言うから、ありとあらゆることに努力を惜しまなかった。
…こんな拗らせ方をしておいて、自慢なんて、されるような人間じゃないけれど。
でも、出会いを求めているというのは聞き捨てならない。俺を差し置いて、どこの誰と出会うというのだ。
そのとき、若菜が身じろぎをしたかと思ったら、もぞもぞと膝を抱え直し、体を丸める。
「あ、寝そうになってる!こら、若菜!」
終電の時刻が近いと言う加藤さんが「じゃ、よろしく!」と言い残して足早に出ていくのを見送ると、彼女は目を擦りながら、ゆるゆると立ち上がろうとするから、腕を掴んで支えた。
声を掛けると、小さく唸ってから素直に頷く。そんな、ある意味では見慣れた様子も、やっぱり変わらず愛しかった。
店の外は暗くて、少し風が冷たかった。
夜は冷えるからと思い、持ってきたパーカーを肩にかけると「ありがと」とふにゃふにゃ微笑みかけてくる。
しかし、飲み過ぎた理由を聞くと、マッチングアプリなんてとんでもないワードが飛び出すし、わけのわからない相手に不快な思いをさせられたと言うではないか。
俺は一体何をしているのだろう。
見守るばかりで、誰よりも大切な彼女にこんな思いをさせるなんて。
俺でいいじゃないか。
俺にしなよ。
むしろ俺以外の誰かの隣で笑っている彼女の姿なんて、想像するだけで膝から崩れ落ちそうになるくらいなのに。
それならもういっそのこと、俺を選んでもらえばいい。絶対に幸せにする。
だから。
「…代わりといってはなんだけど、ちょっと試してみてほしいことがあって」
本当は試してみるなんて気軽なものじゃない。
「私でいいならなんでもするけど」
ほら、そうやって詳しく聞く前に簡単に引き受ける。信用してくれているのだろうということはわかるけれど、ちょっと心配だ。
しかし、人のことは言えない。かくいう自分も、彼女のそんなところに、多少なりとも今から付け込もうとしているのだから。
帰り道を歩く間に、酔いは覚めてしまったようだった。そう、彼女は簡単に酔うくせに割と短時間で冷めるのだ。
だから。
「飲み直さない?」
「え?」
「これ、この前仕事仲間が美味しいって教えてくれたんだ」
珍しく職場の飲み会を開催した時に、話の流れで「片想いの相手は、甘い酒が好きで」と言ったら教えてもらったもの。まるでジュースのようなそれは、すいすい飲めてしまうのに、度数は結構高いことで有名らしく、一部では「お持ち帰りドリンク」なんて物騒な呼び方をされているという。そんな酒の瓶を傾け、とぷとぷとグラスに注ぐ。
昔から変なところで妙に考え込むところのある彼女のことだ。俺が急に自分の思いを伝えても、「ちょっと考えさせて」となってしまいそうだから、多少酔っておいてもらった方がいい。
すると。
「涎垂らさないように、気を付けなきゃ…ほんと私、宏隆いないと野垂れ死にそう……」
既に結構な量を飲んでいたところへ、酔いが醒めたとはいえ また酒を入れたのだ。ちびちびではあるが、案の定グラス一杯を飲み干したあたりで、彼女の瞳はとろんとして、体がゆらゆらと船を漕ぎ始める。体が傾いだところに、頭の下にクッションを用意しながら屈んで、わざと話し掛け続ける。多分もう、彼女は半分寝ている。
「…若菜が野垂れ死ぬときは、きっと俺も一緒だよ」
「うふふ…何それ」
酒気を帯びた吐息。
その額にかかった髪をかき上げると、気持ちよさそうに笑う。
ーああ。好きだ。
もうずっと、ずっと前から。
自分以外の誰かが、この気の抜けた笑顔を向けられるなんて耐えられない。
だから、やや懇願するような思いで伝える。
「…だからさ、付き合うのも結婚するのも、俺でいいんじゃない?」
「宏隆と…?」
酔わせて言質をとるなんて、卑怯だということも重々承知だ。でも、普通に思いを伝えて断られたら、やっていける自信がない。
だから。
「…俺、若菜のこと、誰よりも大事にできる」
意を決して伝えた言葉は、自分で思っていたよりも実感を伴って響いた。
しかし その直後、思いもよらないことが起きた。
彼女が横になったまま首を傾げてから、微笑み、こちらへ手を伸ばしてきたのだ。
「えっ」
細い腕が、しがみつくように首裏に回される。
「じゃあ、一緒にいようよ…」
「…え?」
「宏隆となら、なんでもできるよ…宏隆より私のことわかってる人、どこにもいないもん…」
おまけに寝惚けているのか、猫のように首筋に額を擦り付けながらそんなことを言うから、爆発しそうな心臓を抑えて尋ねる。
「付き合うのも結婚するのも、俺とでいいの?」
「うん…いいよぉ…そうしよー…」
「え…」
思わぬ返答に、言葉に詰まった俺を見つめてから、彼女はそのまま目を閉じて、すぅすぅと規則正しいリズムで寝息を立て始めた。本当に眠り込んでしまったようだ。
俺は一体今、何を聞いたのだろう。
時が止まったような気さえするほど。とてつもない高揚感に包まれて、俺は腕の中の彼女を起こさないように、壊れ物を抱えるように抱き締める。
やばい。
長年思い、焦がれていたのである。酔っ払っている状態の彼女と話を進めてしまったのと、どういう種類の「好き」なのか確認できていないのが気にかかるが、一番近くで愛を伝える許可を得たと言っていいだろう。
恋人なんてまどろっこしい関係はすっ飛ばしてしまえばいい。どんな関係であれ、俺の方から別れを切り出すわけがないのだから。
ー付き合うのも結婚するのも、俺とでいい。
彼女をそっと抱き上げてベッドに運ぶ。頭をふわりと撫でてから、棚に向かう。抽斗にしまっておいた指輪を取り出すと、それは購入した時と変わらず煌めいていた。
彼女のイメージに合うと思い、かなり前に一方的に購入したそれを、まさか本人の薬指に通せる日が来るなんて思っていなかった。
彼女は酔うと記憶をなくすタイプだから、このやりとりのことも、おそらくあまり覚えていないだろう。だからこそ、証拠作りのために、今指輪を納めておく必要がある。
我ながら相当気持ちが悪い。なんなら犯罪じみている。でも今はそんなこと考えていられなかった。
彼女の手をとり、指先を自分の額に当てて、目を閉じる。
「絶対に幸せにするから…」
するから…なんなのだろう。
でも、そう誓うことしかできない自分の不甲斐なさを、これからの日々で払拭していくために彼女を改めて丁寧に愛していこうと誓う。
そうして俺の、俺達の新婚生活は始まった。
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