ちゃんとしたい私たち

篠宮華

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それから

7.気付き

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「お疲れ様です」
「おつかれー」

 あっという間に退勤時刻だ。
 我ながら、今日もよく働いたと思う。最近は働き方改革の一環で、あまりにも残業が続くと注意を受ける。その日の分量をちゃんと終えて、終わらなくても丁度よく明日に回せるように進捗管理も大切なのだ。
 多くの社員がデスク周りを整理整頓し始めている中、私もパソコンをシャットダウンすると、山崎くんから声を掛けられた。

「ごめん 野々村、ちょっと話せない?」
「今?何か相談事?」
「うん、まあ…相談事と言われれば相談事かな」
「ここでは話しづらい?」
「…ああ、ちょっと…。確かミーティングルーム空いてたよな」

 歯切れの悪い様子なのがやや気になったけれど、すぐに終わると言うので、一番近くのミーティングルームに連れ立って向かう。
 宏隆が駅で待っているはずだから、さっさと終わらせたい。山崎くんの後に続きながら、「帰りがけに呼び止められちゃったので、ちょっと遅れるかも。ごめんなさい」とメッセージを送る。
 ミーティングルームに入ってすぐに話を切り出す。

「話って?」
「あのさ…野々村って今 彼氏いるんだよな?」

 またその話か、と、お昼休みのことを思い出して若干うんざりした気持ちになる。

「付き合ってどのくらい?うまくいってんの?」
「…そんなこと、山崎くんにわざわざ言わないよ」

 私がきっぱりそう告げると、山崎くんは表情を曇らせ、言葉に詰まってから、「そうだよな」と呟く。
 一体なんなのかと思っていたその時だった。彼が急に私の手首を掴んで、引っ張った。
 突然のことによろめくと、あろうことか私の背中に手を回そうとしてくる。

「ちょ…っ!」
「俺、野々村のこと、入社してからずっと好きだったんだ。付き合ってほしい」
「や、離して…っ!」

 思い切り腕を突っ張って、掴まれた手首を振り払う。ギリギリ触れられない位置まで後退りしてから「それ以上近付かないで」と伝えると、さすがに山崎くんの動きは止まった。

 既に相手がいると明言している人間に、そっちと別れて自分と付き合わないか誘うなんて、どういう思考回路なのか。その時点で呆れ果てているのに、あろうことか抱き締めようとしてくるなんて。
 それに、生憎もう結婚している。付き合いの長さで言っても宏隆に勝てる人はいない。
 突然のことに驚きながらも、はっきり伝えなければとどうにか言葉を続ける。

「私、山崎くんのことそういう風に見たことは一度もない」
「……そっか…」
「それと…余計なお世話かもしれないけど、相手がいる人に付き合ってっていうのはやめた方がいいと思う。なんていうか…は、ハグとかもありえないし、そんなこと…絶対無理」
「絶対無理、か……ははっ…そうだよな」
「これからも仕事は普通にしていきたいけど、気持ちには応えられない。今後こういうことがあったら、部長に相談させてもらうと思う」

 私がそう言うと、山崎くんはしばらく黙ったまま、それでも「わかった」と言ってから俯いた。
 申し訳ないけれど、同期であるということ以外、山崎くんと共通点や重なる部分がない。ついでに言うと、恋人として一緒に過ごすイメージなど、欠片も出来なかった。
 この際、言ってしまった方がいいと思い、「それと…」と声を掛けると、山崎くんは顔を上げる。

「私、結婚したんだ。今度発表あると思う」
「え、結婚…」
「うん、だからごめん。…もう行くね」

 あまり長く話し込んでいると変な噂になりそうだ。申し訳ないが、驚いたように目を見開いて、ぽかんとしている彼をその場に残して、荷物を置いたままのデスクに戻ることにする。
 ミーティングルームの扉を開けて、足早に自分のデスクに戻る。まだ何人か残業している人がいたけれど、みんな集中していて、私のことなど気付きもしないようだった。

「お先に失礼します」

 誰に言うともなく言ってから、部署の扉を開ける。
 突然のことだった割には、隙を見せないように、極めて落ち着いて伝えたつもりではある。でも、コートを羽織り、ストールと通勤鞄を手にしてエレベーターのボタンを押すと、急に心臓がばくばくしてくる。

「びっ…くり、した…」

 …というより、怖かった。
 抱き締められた時に嬉しいと感じるのは、ちゃんと自分も好意をもった相手にだけなのだと思い知る。好きでもない相手にされても迷惑なだけ。

 それと同時に、日々一緒に過ごしている彼の顔が頭に浮かぶ。それとないスキンシップはたくさんあるけれど、どれも嫌だと感じたことは一度もなかった。
 握り締めたスマホが震えたので画面を見ると、「改札前にいるね。焦らなくていいよ」というメッセージ。

 早く会いたい。

 エレベーターを降りて、エントランスの扉を焦ったように出る。

 最近、日が落ちるのが早くなってきた。並木道に植えられた銀杏の葉が風でさわさわと揺れている。

 会社から駅までは歩いて10分。そこから家までは徒歩15分くらい。最寄駅は一緒だけど、職場と家はちょうど反対側に位置しているのだ。
 今まで、会社から駅まで遠いと感じたことはなかった。でも今は、彼に早く会いたくて ほぼ小走りするように歩みを進める。

 駅が近付いて来ると、改札近くの柱に寄りかかってスマホを弄る彼を見つけた。背が高いからすぐにわかる。
 車が来ないか注意しながら横断歩道を渡って駆け寄ると、彼もこちらに気付いて手を振ってくれた。

「おつかれ」
「宏隆も、おつかれ」

 ふわりと頭を撫でられて、高い位置にある顔を見上げる。
 …ああ、やっぱりこの人のは嫌じゃない。

「焦らなくていいって言ったのに。息上がってる」
「だって…」
「ん?」

 …早く会いたかったから。抱き締めてほしかったから。

 それを言おうか言うまいかちょっと迷う。昔から一緒にいるのに改まって言うのは少し恥ずかしい気もする。
 いつも私のことを考えて行動してくれる彼に、私も少しずつでも伝えていかなくてはいけない。けれど、素直に言葉にするのはすぐには難しくて。
 代わりに彼の着ていた上着の袖をきゅっと引っ張ると、「まだ職場の人いるんじゃない?」と言いつつもそっと手を繋いでくれる。

「この間、誰かに見られていろいろ詮索されるの面倒だから 外ではくっつかないって言ってなかった?」
「…言ってた」
「手、繋いでて大丈夫?俺は嬉しいけど」

 いつもと変わらない宏隆の声や穏やかな話し方に、さっきまで冷えていた心が少しずつあたたまってくるようで。

「いいの。早く帰ろ」

 繋いだ手を自分から引いて、私は彼と歩き始めた。
 

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