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影 6

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「今何と言った?」
「ですから、風呂は如何ですかと。
 氾濫対策に従事する者ら用のものとなりますし、リカルド様には少々不敬かとも思ったのですが……お身体を冷やされたまま、長い話に付き合わせてしまいました。
 このままでは、体調を崩される可能性もあります。
 ですから、温まって頂けたらと、思いまして」

 にこりと笑って言う俺の言葉に、リカルド様をはじめ、配下三名も意味が分からないといった顔をする。
 風呂。なのに、氾濫対策に従事する者ら用。という言葉の意味が、理解できないのだと思う。
 まあ、上級貴族の娯楽的な要素が強いものなぁ……と、内心では思うのだが、顔には出さない。にこにこと愛想よく笑っておく。

「この片田舎の男爵家に、風呂だと?」
「今利用されているのは近衛の方々だけです。新設したばかりですし、水が一瞬で湯に変わるので、結構見応えもあると思いますよ。なかなかに画期的で、私としては気に入っているのですが」

 更に一同が妙な顔になった。
 これはわざとそうしている。中途半端に意味不明の情報を提供して、気になって仕方がないと思わせる作戦である。
 もうひと押しかな?と、様子を見て分析しつつ、追加情報を加える。

「一度見て頂くと、面白いと思うのですが。
 なにせ、この国初の、直接沸かす風呂でしょうし。軍事にも利用して頂けるかと思います。
 行軍時の衛生管理、学舎でも課題としてよくあげられてましたから」

 出征中の軍隊において、最も苦労するのが衛生管理だ。
 なにせ、持ち運べるものに限りがある。
 サヤによると、不衛生な状態は身体に菌を繁殖させる。それがの傷口等から体内に入ると、傷が膿み、最悪命を失うことになるという。
 我々にそこまでの知識は無かったが、戦の折は小さな傷などからでも悪魔が入り込むという認識はあり、戦場の呪いと受け止めていた。
 だから軍隊は、行軍中でも出来うる限り、村や町を利用する。無い場合は、不衛生なままでの行動を余儀なくされる。
 学舎では、そんな状態の行軍に慣れさせる為に、一週間、山間や草原を、装備一式を背負って歩き続ける試験があったくらいだ。
 不衛生な状態でただ延々歩き続けるのは、精神と体力両方を消耗する。それは大きく士気に影響するので、看過できない。
 だが、良い解決方法は無いままだった。持ち運べる荷物の限界。というものが、定まっているがゆえに。
 しかし、水に焼いた石を投下するという方法なら、川縁などの環境さえ確保すれば、特別なものを持ち歩かずとも、出向いた先で簡易的な風呂が作り出せる。
 濡らした手拭いで顔や身体を拭う程度の付け焼き刃ではなく、もう少しまともな体調管理が出来るだろう。

「小隊から軍隊まで、規模も自由に拡張できます。ひとつ、見てみませんか?」
「ふん、貴様は何かと小賢しいな」
「お褒めに預かり光栄です。田舎ですから、色々創意工夫を凝らさなければ生活もままならないのですよ」

 リカルド様の瞳は、言葉に反して冷静そのものだ。
 背後に立つ三人の配下には見えないからか、表情をあまり取り繕ってはいらっしゃらない。だから、思考に揺れる瞳が、まざまざと見える。
 暫く見つめ合った後、俺の挑発に乗るかたちで立ち上がるが、配下の二人が止めに入った。

「お止め下さい。風呂など、無防備すぎます!」
「軍事利用出来ると言うのだ。見せてもらおう。つまらんものであったら容赦せぬ」
「しかし……!」

 そこでゆらりと、リカルド様が動いた。
 振り返り、制止しようと声を上げていた配下の一人に向き直る。

「貴様は、この私が、剣も握れぬこの男に、遅れをとるとでも言うのか?」

 配下の方が、びくりと身を竦ませる。圧倒的なその迫力に、「いえ……」と、口にするのがやっとであった様子だ。
 そうしておいてから別の一人に「支度をしろ」と命ずる。

「少し離れた場所となるので、馬車で移動します。
 歩いてもすぐそこなのですが、なにぶん雨が酷いので。
 手拭いはこちらで用意致しますから、着替えだけで大丈夫ですよ」

 支度を任された配下の方にそう声を掛けると、ギッと睨まれた。フフフと笑って誤魔化しておく。まあ想定外だろう。こんな田舎で風呂とか言われるなんて思わない。
 馬車は四人乗りの為、申し訳ないが、配下のうちのお一人は留守番して下さいと伝えると、また睨まれた。

「私を信用して下さいと言っても無意味でしょう?この部屋に何か仕掛けないとも限りませんから、お一人は見張りに残っておく方が無難かと思いますよ」

 そう言うと、更に睨まれる。

「遊ばれるな。
 ……そんな気持ちがあるなら、もうとうに仕掛けておるに決まっておろうが。ここはこやつの館だぞ」

 リカルド様がそう言ってのしのし歩き、一番年下らしき一人に留守を言い渡す。
 そのまま外に向かうので、俺もそれに従った。
 部屋を出るとサヤが、雨除けの外套を纏って待機していた。
 そのまま促されて、玄関広間に向かう。
 玄関前にはハインが二頭立ての馬車に乗り、待機していた。サヤがそのまま進み、馬車の扉を開く。

「大丈夫ですよ。私も中です。人質とでも思って下されば、心穏やかでいられると思います」

 渋面な配下二人にそう言うと、また睨まれた。ちょっと楽しくなってくるな。こんなに反応が返ってくると。
 そのうちの一人が馬車の中を入念に点検していき、乗り込む。それに続きリカルド様。俺は最後にと思っていたのだが、配下の方にせっつかれ、三番目に乗り込む。何も仕掛けたりしないけどなぁと思い、つい苦笑が溢れた。

「まあ、こう言って安心して頂けるかどうか、分かりませんが……俺は妾腹の二子です。ここで俺に与えられた権限なんて無いに等しいですよ。
 この別館を与えられていますが、ようは厄介払いの様なものです。
 部下も、サヤとハインの二人きり。人手不足の為、懇意の商家から女中を一人借り受けているほどですよ」

 進み出した馬車の中で、時間潰しと惑乱の為に口を開く。
 正直、姫様という後ろ盾がある為、調子に乗っていると思われているのだろう。配下の二人は常に警戒が最大出力といった様子だ。
 それに対し、リカルド様は泰然とされている。大物だ。
 俺の斜め向かいに座るリカルド様に、手荷物の中から紙束を取り出し渡す。

「私が不信でしょうがないでしょうから、ここで一体何をしているかの資料をお渡ししておきますよ。ヴァーリン家ご出身の方とは、学舎で縁が無かった為、こちらの資料はお送りしておりませんし、ご存知無いでしょう?また、暇なときにでも、目を通してみて下さい」

 土嚢壁で何をどうするか、知り合いにマルが送った資料を一部お渡しする。
 敵に囲まれた様な状態で、飄々と表情を維持しているが、内心はドキドキしっぱなしだ。
 次の瞬間にでも首を絞められたら俺は終わる。だが、そういった手には出てこないだろうと思うから、平気なふりをしていた。
 何かあれば、御者台にサヤも、ハインもいるんだと、自分に言い聞かせて。
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