いろどりの追憶〜星森の大陸の生きとし生けるものの安寧を強く願った人々〜

裕邑月紫

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月の皇子徒桜とならん

中の院の主は

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 和やかな昼食が終わりこれで東宮・東の院に戻れれば、父との二人きりの昼餉も悪いものではないなと思っていた小聿しょういつだがそう簡単にはいかなかった。
 
 たまにはお前の箏を聴かせておくれと父にせがまれ、彼はこっそりため息を漏らす。
 連れて行かれた部屋は、帝が普段一人でくつろぐ私室で大きな窓から美しい秋の庭が見えた。
 
 初めから父は、小聿に箏を弾かせるつもりだったのだろう。
 部屋には十三弦の箏が用意されていた。
 小聿は箏の前に座し、袂にしまってあった小さな巾着を取り出す。
 巾着を開けて手のひらの上でひっくり返すと、中から使い慣れた箏爪が現れる。
 それを見た帝は、ふふふと小さく笑った。

「さすが小聿。私が箏を弾くようせがむとわかっていたのだね」
「ええ。……父上は箏の音が大層お好きですから…」

 今ひとつ歯切れの良くない返事を返しながら、爪をつけ、手早く調弦をする。
 そして、緩やかな秋の曲を奏で出す。
 父帝はしばらく庭を愛でながら、息子の箏の音に耳を傾ける。
 さすが、都一の箏の名手と謳われる湘子しょうしの息子である。その腕前はとても幼子とは思えぬほどであった。

「ときに、小聿」

はい、と小聿は箏を奏でる手を止めることなく返事をする。

「そろそろ、お前の弟宮である阿優あゆうを東宮に移そうと思ってな」

 ーーーー来た……

 予想通りの展開に、小聿はわずかに身を硬くする。

「それにあたって、東宮の中の院に誰かを入れねばならないのだ」
「そう…ですか…」
「お前もわかっていると思うが、東宮の中の院は皇太子の第一候補に通常入ってもらう。無論、例外はあるが」

 小聿は父帝を見ず、ひたすらに箏の弦を見つめた。

 ーーーー今、目を合わせたくはない。

 そう思った。

わたしは、お前に中の院に入ってもらおうと考えている」


 その言葉に、不覚にも指が震えた。
 滅多に音を外さぬ彼が、珍しく音を違える。
 そのまま、ふつりと華やかな音曲が止む。

 「申し訳ございませぬ」

 音を止めてしまったことを、恥じるように小聿は謝罪を口にする。
 慌てて続きを弾こうとする彼の小さな手を帝が包むように握った。
 びくりと肩を震わせ、小聿は下を向いた。
 帝はそんな小聿を覗き込む。

 「頼む、小聿。朕の跡を継いではくれぬか。幼いお前にはまだ早い話かも知れぬが、朕はお前以外考えられぬのだ。その類い稀なき才を国の主として民のために生かしてほしい」
「ご冗談を……。父上は、わたくしを買い被りすぎです。わたくしは凡庸でございます」

 するりと父の手から己の手を外し、困ったように微笑んだ。

 「将来は、どこかの院の一官吏にでもなれれば良いのです。父上の実弟である普賢ふげんどののように。無論それは、宮官ぐうかんためしに受かればの話ですが。非才ながら父上のため、いずれは兄宮さまのため、精一杯お支え申し上げます」
「凡庸なものか!」
 
 帝は再び息子の手をとり、強く小さな手を握りしめる。

「お前は、建国以来の奇才の主だ。その歳にして、そうまで学を修め、武術魔術を学び、芸にも優れている者は未だかつていない。そんなお前を私は心の底から誇りに思うし、だからこそ、次の世を託したいと思うのだ」
「父上……」

 その熱い視線に、小聿は困ってしまう。

 ーーーーこのままだと、押されてしまう。それだけは、避けたい。

「父上。兄宮さまこそ、国の主たる才と器をお持ちです。わたくしには、その才と器はございません」
 
 小聿の言葉に、父帝はそんなことはないと首を振った。
 小聿は小さくため息をついた。

「父上とてお分かりでしょう……兄宮さまの外祖父は、百官の実質の長である左相どのです。かの御仁の不興を買うことは父上にとってよきことではございません」
「なれば、お前の外祖父の源彩芝げんさいしを枢密院に移動させ、百官の長に据えよう。彩芝は今は司法院にいるが、行政にも明るい。現に上聖治殿じょうせいじでんの上級官僚として、国政でも大いにその才を奮っている。百官の長を務むるに十分な人物だ。何より、一条源家の当主は、建国のつるぎ源彩恩げんさいおんの末裔。その素質も血筋も十二分だ。お前の祖父が百官の長となれば、お前も心安らかに未来の国の主として在れるのであればそうしようではないか」

 今朝、側近たちが言っていたことと寸分違わぬことを父が言い出し、小聿は辟易した。

 ーーーーああ、これは父上には申し上げたくないのだけれど。

 それでも、言わねばこのまま中の院に入れられてしまう。そうなれば、国が乱れるのは火を見るよりも明らかだ。そして、彼の周りの人間に危険が及ぶことも。
 小聿は父の手から逃れ、平伏した。

「後生でございます。わたくしが中の院に入れば、必ずや聖都は乱れ、ひいては国が乱れます。すでにわたくしが命狙われ、周りの者に危険が及んでいることを父上もわかっておいででしょう?中の院に入れば、わたくし自身、今以上にこの身を危険に晒すことになりましょう。わたくし自身はそれでも良いのです。けれども、わたくしを思い側にいてくれる者たちに今以上の危険が及ぶことを、この小聿、到底受け入れられませぬ。臆病なわたくしを笑って下さってかまいませぬ。ですが、どうか……どうか、中の院に入ることはご容赦くださいませ」

 ーーーー私は、狡い。こういえば、父上は引かざるを得ないのを知って言っている。

 言葉を継ぎながら、小聿は己の狡さを恥じる。

「小聿……」

 父帝は心底、悲しそうな顔をした。

「すまぬ。お前を苦しめようと思って言っているわけではないのだ」

 帝は震える息子を抱きしめ、その小さな背をさすった。

「お前をもっと守れてやれたら……。他の兄弟たちはお前のような思いをしていないと言うのに……」

 彼は幼い息子を膝の上に座らせて、愛らしい顔を覗き込む。覗き込むと、紫の瞳が頼りなげに揺れていた。

「どうか、そのような悲しげな顔をしないでおくれ。無理を言ってすまなかった。東の院にはお前専用の書庫もあるし、もう三年も起居しているのだから愛着もあろう。これからも、東の院にいなさい」

 その言葉に、小聿はほっとしたような顔をする。
 それを見て、父は優しく微笑み、それから小首を傾げて息子の顔を見つめる。

「けれど、将来はただの一官吏に、などと言わないでくれ。先ほども申した通り、中の院に入ってなくとも立太子の儀を経て、お前を皇太子にすることはできるのだ。まだ幼いお前を中の院に入れて恐ろしい思いをさせるのは、朕も避けたい。だが、成長しお前が強くなった暁には、お前を皇太子として据えたいと思う。それだけの才をお前は持っているし、その優しい心根も民を照らす光となると思う」

 だからね、と父帝は膝の上にちょこんと座るかわいい幼子の膝をぽんぽんと叩いた。

 「たくさん食べて、たくさん寝て、たくさん遊んで、たくさん学びなさい」

 いいね?と問われ、小聿は困ったように微笑みながらも最後は小さく頷いた。

 
 聖都皇宮内にある聖星森堂せいほしもりどうは、星を造ったとされる星森の申し子ステラ・ナトゥーラを最上神とする聖国の国教・星森教の教会である。星森教は、星森の申し子の末裔とされる皇帝を教皇とし、聖星森堂院が管理している。聖星森堂院は星森教の一切のことを管理し、その信仰が滞りなく続くよう守っている。所属する聖職者たちは、すべて地方の星森ほしもりみやで修行を積み推薦と試験を経て、帝に任官された者たちであった。

 聖星森堂は、皇宮内にある星森の宮で皇族と一部の貴族・皇宮内で官職を持つ官吏たちが、入ることが許されている。
 なお、総本山は聖都から北に広がる星森山脈の麓にある。

 今宵もまた美しき満月であった。
 すでに明かりが落とされた聖星森堂の礼拝堂には、月明かりが差し込み、見事なステンドグラスが輝き、礼拝堂の床にその紋様を映し出していた。
 
 その紋様の上に、小さな人影が一つ。
 顔はまるでお人形のよう。長いまつ毛を伏せがちにし、白い頬に影を落とす。
 白い半着に、濃紺の袴、濃紺の長羽織を纏ったその幼子は、肩まで伸びた黒い絹ような髪を右側に寄せて結い、紫の宝石の髪飾りをつけていた。
 小さな白い両の手の中に水晶をあしらった星森教の聖印を大切そうに握りしめ胸の前で組んだその子は、熱心に星森の申し子と五大精霊に祈りを捧げていた。

「星を創りし、星森の申し子よ
 我が声、我が心に、その傾聴を賜わん

 申し子よ、それに連ねたる精霊よ
 その清き水で我が穢れを流し、
 その清き火で我が宿世の業を焼き
 その清き風で我が罪を舞上げ
 その清き土で我が咎を穿ち
 その清き空で我が過ちを正し
 今、ここに我が在ることを許されん

 星を護りし、星森の申し子よ
 我が心の主よ
 その清き眼差しで、その清き声で、その清き手で、その清き心で
 我が前にあなたの道をお示しください
 その道へ至る小道をお教えください

 星を抱きし、星森の申し子よ
 その御心の愛を遍く人々にお与えください
 この星の安寧が永遠に続かんとお導きください」

 澄んだ愛らしい声が、淀みなく祈りの言葉を紡ぐ。
 そうして、その幼子は長いこと微動だにせず祈りを捧げていた。

「信心深いのは大変結構ですが、あまり遅くまで起きておられるのは感心致しませんよ」

 その小さな背中にかかる温かみのある男の声。
 小さな信仰者は、伏せていた瞼をあげ組んでいた手を解くと、ゆるりと振り返る。
 美しい紫の瞳が声の主の姿を捉えると、ふわりと細められた。

央茜おうせんじい」

 央茜じいと呼ばれた初老の男は優しく微笑み、小さな信仰者ーー小聿の元へと歩み寄った。
 ひょう央茜おうせんーー彼は、魔術省の長官を務め、現在小聿の魔術の師として彼に魔術を教えている。
 魔術に大変長けている彼だが、元はこの聖星森堂に所属する聖職者であった。二年前、魔術省の長官が退任し、央茜の類い稀なき魔術の才を買われ、聖星森堂院からその下位機関である魔術省へその籍を移している。

 そうした流れから、彼は司祭としても小聿に信仰の大切さを説いてきた人物であり、幼くもこの聡い皇子を孫のように可愛がり、慈しんでくれる人だった。実の祖父と滅多に顔を合わせない小聿にしてみれば、この央茜の方がよほど甘えられる人物である。
 
 近くに来た央茜に、今日も大変有意義な魔術の講義をありがとう、と小聿は言う。
 それに央茜はゆるゆると首を振り、とんでもございません、と答えた。

 「初夏から本格的に鍛錬を始められた魔術をもうあそこまで使いこなせるようになるとは、このじい、驚かされてばかりでございます」

 央茜の言葉に、小聿は照れくさそうに笑う。

 「魔術省一の魔術士に褒められると、照れ臭いな」

 央茜はふふふ、と笑い、小聿の小さな頭を撫でる。小聿は嬉しそうに笑った。
 彼らは、礼拝堂のベンチに歩みを進める。央茜はベンチに座ると、ひょいと小聿を抱き上げその膝に小さな皇子を座らせた。小聿は手に持っていた聖印を大切そうに首から下げた。
 
 「さて、じいの可愛い可愛い宮さまは、一体何を熱心に祈っておいでだったのですかな?」

 小首を傾げて尋ねてくる央茜に、小聿は少し困ったような顔を見せる。それから、ついと央茜から視線を右上にやり、小さな口を開いた。

 「私が星森の申し子さまにお願いすることは、たった一つだよ。聖国にこれからも末長く安寧の日々が続くように、と」

 その模範解答のような答えに、央茜はほほほと笑う。

 「まったく、宮さまは時々とっても嘘が下手になりますな」
 「!」

 弾かれたように小聿は央茜の顔を見る。

 「嘘では……ないよ」
 「宮さまは、嘘をつかれる時、右上を見る癖がございます」
 「えぇ?」

 無自覚だったのだろう。央茜の指摘に、幼い皇子は紫の瞳を丸くする。
 そうだったんだ……気をつけなきゃ、と呟く童に、央茜は笑みを深くする。

 「して、真に祈っていたのはなんですかな?」

 再度尋ねられ小聿はしばらく黙っていたが、信頼するじいに見つめられ、観念したようだった。

 「今日、父上に呼ばれて昼餉を共にしたのだ」
 「ええ、伺っておりますよ。それゆえ、魔術の稽古の時間を変えたのでしたな」

 うん、と小聿は首を縦に振る。

 「そのとき、阿優どのが東宮に移られるにあたってどの院に入るかについてのお話があったのだよ」

 央茜は黙って頷き、静かに小聿の続きの言葉を待った。小聿は小さく息を吐く。

 「……父上は、私に中の院に入ってほしいと仰せになった。でも……、私には中の院に入るだけの才も器もない。兄宮さまこそ相応しいのだよ。それにね、私は中の院に入るのが怖くて。今以上に、私の周りの者たちが危ない目に遭うかもしれないと思うと……怖くて……」

 央茜の膝の上で小聿は震える。央茜は優しくその小さな肩を抱いた。

 「だから、このまま東の院にいさせてほしい、とお願いしたのだ」
 「さようでございましたか。それで、お父君はなんと?」
 「……父上は、最後はお認めくださった。だから、中の院には兄宮さまがお入りになると思う。でも、私が断った時父上は悲しそうなお顔をなさっていた。父上を悲しませてしまった。それは私の望みではないのに」

 央茜は首を振った。

 「大丈夫でございますよ、宮さま。陛下は宮さまのお心を十分わかっておいでです」

 その言葉に、うん、と小聿は頷く。

「父上も、私に恐ろしい思いをさせたくはないから、と仰せだった。けれど、私がもっと成長して強くなった暁には立太子の儀を経て、皇太子として立ってほしいと仰せになったのだ。そんなこと言われても……私は……」
「お父君も、幼い宮さまに酷なことを仰せになる。けれども、宮さまの類い稀なき才優しいお心を信じてそう仰せになるのでしょう」
 
 央茜が膝の上の小さな宮の顔を覗き込むと、紫の瞳が頼りなげに揺れていた。小さな白い両の手の拳がぎゅっと強く握られているのが見えた。
 
「私には……無理だよ。……私が皇太子になってしまったら、必ず左相どのたちが反対する。そうすれば、聖国は乱れてしまう。それに、私にはこの国を背負う気概も才もない……」
 
 だからね……と言葉が続く。

「星森の申し子さまに、私が皇太子にならなくて済みますように、と祈っていたんだ……」
 
 こんな自分のためだけの祈りではダメだとわかっているのだけれど……と困ったような顔をして幼い皇子は言う。
 央茜はたまらず、幼い宮を抱きしめる。しゃらり、と央茜の首に下げた聖印が鳴る。月明かりに反射して、その聖印の翡翠の石飾りが光った。

「ああ、じいの可愛い宮さま。さようにお心を痛められまするな。あなたさまは何も悪くない。何一つ。大丈夫、宮さまの周りの者は皆強い。負けたり致しません。そして、宮さま、あなたさまも。未来のことは誰にもわかりませぬ。ですから、宮さまは今を大切に生きていけば良いのです。積み重ねていった日々の先にあるのが、答えです。未来を不安に思い震える必要はございません。希望を持って生きなさい」
「希望を持って、今を大切に……」
「そうです。希望を持って、今を大切に生きる者こそが強い。そして、望む未来を手にできるのです」

 抱きしめる腕の力を弱めて、央茜は小聿の顔を覗き込む。

「小聿さまは、お優しい。だからこそ、いろいろなことを不安に思い、人のことを案じすぎて潰れそうになってしまう。優しいことはいいことです。でも、その優しさを心配することや不安に思うことに割きすぎてはいけません。優しい心で希望を描きなさい。そうして、希望に向かって歩いていけば、あなたさまは優しく強い人になる」

 その言葉に、小さな宮は静かに頷く。
 央茜はそんな宮に優しく微笑んで見せた。

「じいは、小聿さまが優しく強い男になっていくのを楽しみに見守っておりますよ」
「うん」

 不安そうにしていた小聿は、最後にはにっこり微笑んで見せた。


 それから、しばらくして。
 東宮の中の院に第一皇子の子虞が、東の院には引き続き第二皇子の小聿が、西の院には第三皇子の阿優が入った。
 そのことは、聖国中に知らされ、第一皇子の子虞が皇太子の最有力候補として皇帝に選ばれたと人々は認識した。
 それは、秋も深まる十一月に入る頃のことであった。ーーーーいろどりの追憶・第一巻・八十七頁
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