いろどりの追憶〜星森の大陸の生きとし生けるものの安寧を強く願った人々〜

裕邑月紫

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月の皇子徒桜とならん

月の皇子の秘密

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 目を開けると、五大精霊が描かれた見慣れた天蓋の絵が視界に入った。

「小聿!」

 名を呼ばれて、小聿はぼんやりと声の主を見た。
 声の主は母の湘子しょうしであった。

「はは、う……え……」

 掠れた声で呼ぶと、湘子は心底安堵したような顔をして寝台に身を横たえる小聿に抱きついた。

 「ああ、よかった……目を覚まして。肝を冷やしたぞ……」

 自分を抱きしめる母の声が震えているのを聞き、小聿は申し訳なく感じた。

「申し訳……ございま……せん」

 母は身を離し、ため息をついた。

「とにかく意識が戻ってよかった」

 その言葉に、はい、ご心配をおかけしました、と小さな声で応じる。

「あの……露華つゆかどのは……?」

 意識を失う前に、あの幼馴染みは大声で泣いていたから大丈夫であるとは思うが、心配だった。

「ご心配には及びませぬ。露華さまは大事ありませんでした」

 彼の問いに、奥に控えていた汝秀じょしゅうが答えた。

「宮さまが仰った通りに、あの後すぐに聖医療館へお連れして、医官に診てもらったそうですが大事なかったと。すでに、澪さまたちとお屋敷にお戻りになっております」

そうか、よかった……と安堵のため息を小聿は漏らす。

「それよりも、お前の方が大問題だったのだよ。なんと言う無茶をしたことか……」

湘子の後ろから別の声が上がる。小聿はその声の主を見て、ぎょっとした。

「ち……父上……」

 母の後ろに立っていたのは、父帝であった。
 本来、皇帝が息子の起居する場所とはいえ東宮に訪れることはありえない。それなのに、舜棐しゅんひ帝はこうして東宮の東の院の小聿の寝室に来ていた。
 なにゆえ…父上が東宮においでになるなんて……と呟くと、皇帝は湘子の隣まで来て寝台の縁に腰掛けると小聿の頭を優しく撫でた。サラサラと絹のような黒髪が帝の指をすり抜ける。
 
「大切なお前が池におち、魔術を使ったせいで意識不明と聞いてな……」
 
 居ても立っても居られず飛んで来たのだよ、彼は泣きそうな顔をする。

「とにかく目を覚ましてくれてよかった。お前はわたしと湘子のたからものなのだよ。どうか、こんな無理はしないでおくれ。お前にもしものことがあれば、朕は耐えられない」
 
 小聿の白い柔らかな頬を壊れ物を扱うかのように撫でて、帝はいう。
 隣にいる湘子も深く頷いた。

「舜棐の言う通りじゃ。小聿、もうこんな無茶はしないようにの」

 揃って心配してみせる両親に、小聿は本当に申し訳ありませんと謝る。
 
「陛下」

 部屋の奥に控えていた太医令たいいれいが、一歩前に進み出て帝を呼ぶ。

「よろしければ、小聿さまを診ても?」
「うむ、そうだな。頼むぞ、太医令」

 帝は頷き場所を空ける。湘子も立ち上がって、少し寝台から離れた。
 聖医療館のトップである太医令は、帝とその皇子たちの診察を担当する。病弱な小聿はこの太医令には大変世話になっている。小聿は太医令に助けられながら身を起こした。汝秀が小聿の細い肩に濃い緑の羽織をかけ、背中に大きなクッションを置いてくれたのでそれにもたれる形で体勢を維持する。
 
 太医令は慣れた手つきで診察をする。

「ふむ。今のところ、身体面では問題はなさそうですな。ただ、体も随分冷やされておいでです。小聿さまのことです。熱が上がってくるかも知れませぬ。魔術を行使したゆえの気への負担はいかがでしょうか……」
 
 そう言って、太医令は奥に控える者の一人に視線を投げる。

させていただきましょう」

 太医令の言葉に、魔術省長官にして小聿の魔術の師である央茜おうせんが寝台の側までやってくる。
 宮さま、失礼致します、と言って央茜は小聿の肩に触れ瞳を閉じた。
 気の流れ、魔力の気配、精霊の力の気配とは、目に見えぬものだ。だが、央茜のように魔術の才があり、長年鍛錬を積んだ者ならば、こうした気配を感じ取れることができる。小聿には、まだそうした力はない。

 ほわりと温かな気に包まれ、小聿はほぅと思わず息を吐く。
 しばらくそうして、小聿の中の気の流れを視ていた央茜は小さく息を吐いて目を開けた。

「随分無茶をなさいましたな……。これまでになく気が乱れておいでです。しばらくは安静になさってください」

 央茜の言葉に、小聿は素直に頷いた。
 央茜は寝台の脇に膝をつくと、少し厳しい顔で小聿を見た。

「宮さま。日頃から、魔術の使い方にはご注意くださいと申し上げているはずです。いくら露華さまをお助けするためとはいえ、こうまで気が乱れるほどご自分を削ってはなりません。聞けば、あの場には大人もたくさんいたとか。あなたさま自ら池に飛び込み、かような無茶をするべきではありませんでした」
 
 もっともな言葉に小聿は小さくなる。
 悪かった、もうしない……と謝る彼に央茜は深く頷いた。

「それにしても、一体なにをなさったのです?あの場にいた者に聞いたところ、池に落ちた露華さまと共に風に乗って飛び出してきたとか。風の精霊さまのお力をお使いになったのですか?」

 師の言葉に、小聿は小さく頷いた。

「はじめは古代魔術の反重力の魔法陣を池の底に敷こうと思ったのだ。けれど、濡れてしまった着物、露華どの体重がわからなくて、おまけに浮力も加味しなくては、と思った時点で計算できないと諦めた。だから、現代魔術の風の精霊の力で飛び出すことにしたのだ」
 
 小聿の説明に、その場にいた大人たちはふむふむと頷く。

「しかし、宮さま。古代魔術にしろ、現代魔術しろ、お力をお貸しくださる申し子さまや精霊への呼びかけのことばが必要なはず。呼びかけなければ、契約はできず力の行使ができませんからな。水の中では呼びかけの詞を紡ぐことは無理でございましょう?どうなさったのですか?」

 央茜の問いに、小聿は顔を顰めた。
 聞かれるとは思っていたが、正直に答えれば怒られそうだ。彼は央茜から視線を外し、ついと紫の瞳を右上に動かした。

「えーと……池に飛び込む前に呼びかけの詞を唱えて……」
「嘘でございますな?」
「本当だっ!」
 
 思わず声を上げると、央茜は半眼になった。

「お目目がまた右上を見ておいででした」

 その指摘に、しまったと言う顔を小聿はする。

「正直におっしゃいなさい。どうしたのですか?」

 うー……と珍しく小聿は情けない声を出す。

「申せ、小聿。お前は、一体なにをしたのだ?」
 
 後ろにいた父帝が、腕を組みながら聞いてくる。
 その場にいる大人たちに睨まれて、小聿は観念した。

「……その、風が舞い上がるイメージを頭の中で作って、心の中に在る風の精霊さまに呼びかけたのです」

 彼の説明に、央茜以外の大人たちは意味がわからないのか首を傾げた。

「どう言うことだ?」

 帝が央茜に問う。
 央茜は小聿の説明を聞いてしばらく呆然としていたが、帝に尋ねられてハッとしたような顔をした。

「つまり……無詠唱で風の魔術をお使いになったということですね?」

 央茜の言葉に、小聿は緩慢に頷く。

「無詠唱魔術だと?さようなこと、可能なのか!?」

 舜棐帝は目を丸くした。

「理論上は可能です」

 ため息混じりに央茜は答える。

「先ほども申しました通り、現代魔術は、星森の申し子に仕える五大精霊に呼びかけ契約を結び、その力を行使します。ですが、そもそも古代魔術が今以上に使われていた時代ーーつまり、建国の祖・舜堯しゅんぎょうや建国のつるぎ源彩恩げんさいおんの時代は、五大精霊たちの力を呼びかけの詞なく使役できる者がいたとの文献が残っております。舜堯帝たちは、星森の申し子同様、信仰する五大精霊たちの存在も己の心に宿しておりました。それゆえ、無詠唱でも心の中の精霊たちに語りかけ、その力を借りて構築したイメージを具現化したのです。小聿さまがなさったことは、それかと」

 央茜の説明にその場にいた大人たちは千三百年以上も昔の人々のことが想像し難いのか黙り込む。
 
「宮さまは常日頃から、聖星森堂せいほしもりどうにて熱心に祈りを捧げ、大変信心深くあらせられる。それゆえ、御心に五大精霊も宿っておいでなのでしょう。そうして心に宿した五大精霊にお心の中で呼びかけ、力を行使した……そう言うことですね?」

 央茜の言葉に、小聿は緩慢に頷き、おずおずと語り始めた。

「央茜じいのいう通り、古代魔術のことを調べているときに、いにしえの人々がどのように五大精霊の力を使役しているのかを知ったのです。それで、心に五大精霊を宿すというのを大変興味深く感じました。熱心に聖星森堂に行っていたのは、そうした下心があったわけではなく……。純粋に、星森の申し子さまのご加護をこの聖国にと願ってとのことです。ですので、今回も一か八かではありました」
 
 小さな声で語る皇子を大人たちは見つめる。
 央茜は深く頷いた。

「ええ、そうでしょうとも。無詠唱魔術を使おうという目的で祈りを捧げても、五大精霊は宮さまの御心に宿りはしないでしょう。純粋に、宮さまが星森の申し子を、そして五大精霊を信じ、その加護が聖国にあまねく満たされるようにと祈りを捧げ続けたからこそ、五大精霊は宮さまの御心に宿ったのでございます」

 央茜は優しく小聿の手を両の手で包み込んだ。

「それは、大変素晴らしいことですし、喜ぶべきことです。されど……」
 
 再び、央茜は厳しい顔をした。

「無詠唱魔術を使うということは、この現代において大変危険であることは宮さまならばわかっておいででしょう。この大陸では、魔術のために精神力を疲弊することなく割く術は衰退してしまいました。我々は、生命を維持するための精神力を魔術の行使に回して、五大精霊の力を借ります。だからこそ、呼びかけの詞を介することで精霊との一時的な契約を成立させ、力を行使するのです。呼びかけの詞を思い出してください。どれも、己の精神力ではなく精霊の力に大いに頼ることに許しをう詞がありますでしょう?許しの言葉を音にして、その場に在るすべての精霊たちに証人として聞いてもらっているのです」
 
 もう何度も魔術学の講義で、言って聞かせたことを央茜は再び丁寧に言う。

「手で切る印も、精霊に許しを乞うものなのは覚えておいでですね?」

 央茜の言葉に、無論だよと小聿は深く頷く。

「古代魔術もまた呼びかけの詞が大切となる。古代魔術は現代魔術と異なり、いにしえの言葉で呼びかける。お力を貸してくださるのは、申し子さまゆえ印は現代魔術よりも古代魔術の方が複雑だし、より丁寧に切らなければいけない…」
 
 そうです、その通りですと央茜は小聿の紫の瞳をじっと見つめた。

「ですから、此度宮さまがなされたことは、風の精霊さまの力に大いに頼ることをせず、代わりにご自身の精神力の大部分を魔術の行使に割いたということになります」

 話を黙って聞いていた一同は央茜の説明で今回小聿がしたことの危うさを理解した。
 
「今回は、たまたま……本当に、運よく、宮さまはお目覚めになられました。されど、次同じようなことをすれば、命の保障はございません」
「ああ、小聿!お前はなんてことをっ!」

 耐えられなくなったのだろう。湘子が寝台に駆け寄り、己の息子を強く抱きしめた。

「そなたにもしものことがあれば、母はとても耐えられぬっ!」

 抱きしめてくる母の顔を見上げれば、普段は冷静で心乱す様を一切見せぬ湘子の紫の瞳に涙が浮かんでいた。それを見て、小聿の心はちくりといたんだ。
 父帝も二人の元へやってきて、その胸に妻と息子を抱き込んだ。

「湘子の申す通りだ。なんと恐ろしいことを……。小聿、お前が大変優秀で、星森の申し子や精霊たちのご加護をその身に大いに受けていることはわかったが、それでも……こんな無茶は二度としないと、父と母に約しておくれ」
 
 二人の様子を見て、小聿は申し訳ない思いでいっぱいになる。自分がどれほど両親に愛されているのかを身に沁みて感じた。

「母上、父上……。ご心配をおかけして大変申し訳ございませんでした。この小聿、お二人を心配させるようなことはもうせぬ、とお約束致します」
 
 湘子は息子の綺麗な顔を覗き込んだ。

「必ず、必ずじゃぞ?」

 念を押してくる母に、はい、と小聿は深く頷く。
 それを見て両親はようやくほっとしたような笑顔を見せた。
 親子の様子を優しげな目で見守っていた央茜が、ふっと今までになく真剣な目になり再度小聿を見た。

「宮さま。宮さまの御身はかけがえの無いものです。お父君さま、お母君さまの仰せのように、無茶はなりません。宮さまの魔術の師として、申し上げます。自らの精神力を削るような無詠唱魔術は二度と使うてはなりません。いいですね?」

 そのいつになく真剣な師の眼差しに、小聿は母の腕の中で少し身を硬くして、それから、約束すると答えた。
 幼い宮の返事に、央茜は深く頷き、必ず、必ずですよと再度念をおした。
 
 体も冷えて体力をずいぶん削られておいでです。薬湯をお飲みください、と太医令が自ら薬湯を用意して持ってきた。
 体の弱い小聿は、この薬湯を嫌というほど飲んでいるがその独特の香りと苦味がいまだに得意ではなく、あからさまに嫌そうな顔をする。

「これ、そんな顔をしないで飲むのじゃ」

 母に言われて、小聿は渋々渡された薬湯を飲み始める。
 口に含むとなんとも言えない味と香りが広がって、彼は眉を顰めた。

「まったく……そんなに薬湯を飲むのが嫌ならば、かような無茶をしなければ良いものを」

 父帝も呆れたような顔をして言う。
 ちびりちびり、と薬湯を飲んでいた小聿だが、ふとあることが気になって寝台の側に立つ父帝を仰ぎ見た。

「父上」
「いかがした?すべて飲まねばならんぞ」

 その言葉に、うっと呻いて、はい、飲みますけども……と小さく呟き小聿は言葉を続ける。

「そうではなく。露華どのやあの場にいた者たちを咎めないでいただきたいのです」

 小聿の言葉に、父帝は片眉を上げてふむ、と呟いた。
 小聿はいつも側にいてくれる側近二人のうち、蕗隼ろじゅんがこの場にいないことがとても気になっていた。今回のことで、彼が咎められるのはいただけない。帝はため息をついた。

「相変わらず察しがよいな。お前がこのようなことになって、上聖治殿じょうせいじでんの官僚たちの間でも此度その場にいてこのような事態を防げなかった者たちを非難する声が上がっている」

 そんな……と小聿は呟く。

「皆はどうなるのです?」

 帝は眉をハの字にして息を吐いた。

「まだ、何も決まってはおらぬ。が、お前の乳母や乳母子、源家から参っている側仕えやあの場にいた侍従らは、罷免してはどうかという話になっている。また、乳母の夫である篤紫苑とくしえんも傅役の任を解き、地方へと……」
 
 脳裏に自分を大切にしてくれている乳母や傅役、可愛い幼馴染みたちやいつも自分を守ってくれる忠実な側仕えたちの姿が浮かんでは消える。
 
 ーーーー冗談じゃないっ!

「露ちゃんも、澪や蕗隼も、紫苑も他の侍従も誰も悪くありません!私が無茶をしたのがいけなかったのですっ!」

 小聿は薬湯の入った器を太医令に押し付けて、父帝の衣に縋る。

「お願いでございます、父上っ!此度のことは、不慮の事故でございますっ!そして、私が倒れてしまったのは私が自分の力量を見誤り無茶をしたが故。どうかっ、どうかっ、此度のことで誰かを咎めることがしないでくださいませっ!」

 必死の形相で縋ってくる息子を見て、帝はため息を漏らす。
 湘子は小聿の背中をさすりながら、夫を見上げた。

「舜棐……私からもお願いじゃ。露華も澪も水織も蕗隼も……その場にいた侍従や殿上童も、紫苑も……小聿にとっては心の支えじゃ。小聿からどうか心の支えを遠ざけないでやってほしい」
 
 湘子の言葉に、帝は頷き、膝を折ると縋ってきていた愛息子の両頬を手で包んだ。

「小聿の気持ち、湘子の願い、よくわかった。此度のことは、二人に免じて不問にふそう」

 父の言葉に、小聿は心底ほっとしたような顔をして、ありがとうございますと頭を下げた。そんな息子に、良かったのうと湘子は優しく語りかける。
 
「さぁ、皆を咎めるのはやめる故、お前はきちんと薬湯を飲んでゆっくり休みなさい。くれぐれも安静に。いいね?」

 父帝の言葉に小聿は頷き、太医令から器を受け取り残りの薬湯を飲む。
 
 では、あとは任せたよと両親は太医令や魔術省の長官、東宮・東の院の者たちに言うとそれぞれの場所へと戻っていった。

 目を覚ましてから、想像以上にたくさん話し疲れ果てた小聿は、その後すぐに眠りに落ちた。
 太医令の予測通りその日の深夜から小聿は高熱を出し、数日寝込んでしまったのは言うまでもない。

 第二皇子が現代魔術を無詠唱で行使したことは、魔法省で大変な騒ぎとなった。
 それだけ、五大精霊の力を無詠唱で行使するのは現代において大変なことだったのだ。
 魔法省長官で、小聿皇子の魔術の師である俵央茜は、何人たりとも無詠唱で五大精霊の魔術を行使してはならないと通達を出した。また、この件は皇宮内に留め、外部に一切漏らさぬよう緘口令が敷かれた。
 
 しばらくは月の皇子の力の件でざわめいていた魔法省もやがて収束し、誰もそれについて言及することは無くなった。ーーーいろどりの追憶・第一巻・百二十五頁
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