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第6話 終わらせてなるものですか!
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その知らせは、まさに雷に打たれたようでした。
公爵様が執務室で倒れられた――その侍女からの報せを耳にした瞬間、私は全身の血が引くような感覚に襲われ、気づけば病室へと駆け込んでいました。
「ダリオン様!」
震える声が、自分の喉から迸りました。
寝台には、あまりに蒼白な顔をしたダリオン様が横たわっていました。閉じられた瞼の下からは息遣いすら感じられず、ただ蝋燭の灯が映す影ばかりが不安を煽ります。
その手を固く握り締めていたのは、エルリーゼ様でした。夫人は凛とした表情を保とうとしていましたが、その瞳には涙が滲み、指先はわずかに震えていました。
「セレイナ……」
呼ばれただけで胸が詰まりました。
「……執務中、突然頭を押さえてそのまま椅子から崩れ落ちられました。机の書類が散らばりすぐに介抱いたしましたが……お声は戻らず」
後方に控えていた執事が低い声で補いました。
エルリーゼ様が視線を伏せ、苦渋に満ちた声で告げられます。
「主治医の見立てでは――脳に腫瘍があるのではないか、とのことです。回復は、奇跡でもなければ望めない。いつ目覚められるかは……誰にも分からないのだそうです」
「……そんな……」
言葉はそこで途切れました。胸の奥に冷たい穴が開くような感覚。
横に立つヴァレフ様は、父君を凝視したまま動きません。蒼い瞳がわずかに揺れ、結ばれた唇には力がこもっています。
「……父上が、このような……」
声は震えていましたが、それでも叫ぶことも取り乱すこともなく、必死に耐えているのが伝わってきます。
ですがその姿に、私は余計に胸が締め付けられる思いがしました。
公爵の席は空席のままではいられません。帝都の政務も、各地の折衝も、誰かが受けねば動かない。慣例では、家門の職は家の権利として引き継がれるとはいえ、実際の執務は能力と実績が問われます。
――つまり、父の名の重みごと若すぎる肩にのしかかる。
私自身も必死に心を繋ぎ止めていました。涙に視界が滲みそうになるのを堪え、呼吸を整えようとしても、胸の奥で不安が膨れ上がるばかりです。
帝国の未来において、ダリオン様がいかに大きな存在であるかは、私でも理解しています。
皇帝陛下の右腕として幾度も政争を勝ち抜き、領地経営でも数多の功績を上げてきた方。その威光があるからこそ、ヴァルケスト家は他の大貴族から安易に侮られずに済んでいる。
ですが、それは逆に言えば――。
ヴァレフ様が小さく息を吐きました。
「帝宮の月例会議……父上の席は、どうなるのだろうか」
「当面は代理を、と申し出ることはできるはずです」
私は思わず答えていました。
けれどすぐに首を横に振ります。
「……ですが、今は答えを急がない方がよろしいでしょう。喫緊のご予定だった領内の税率改定の請願は延期の手続きを。その他の進行中の案件についても、書式に従って『当主不在中の確認』を挟めば、ある程度の日数は稼げます」
そう、それで当面の時間稼ぎはできるはず。
有事だからこそ、今はなんとか冷静に対処しなければ。
「ヴァレフ様、今日のところは我々も休みましょう。今後の段取りは明日の朝に決めましょう。私も手伝いますから」
「……ああ、そうだな。ありがとう、師匠」
エルリーゼ様もベッド脇で「心配しないで。この人には私がついているから」と頷かれました。今夜はこのまま病室でダリオン様のお傍で過ごされるそうです。
そうして、その日はそれで解散となりました。
私はエルリーゼ様にもくれぐれもお体にお気をつけくださいと申し上げ、ヴァレフ様とともに病室を後にしました。
――けれど、そんな私たちに訪れたのはさらなる嵐でした。
***
翌朝からの屋敷は、空気そのものが変わっていました。
廊下を行き交う侍女の足音は落ち着きを失い、下働きの従僕たちは視線を合わせることなく小声で囁き合っている。厨房からも「どうなるのだろう」という不安の声が漏れ聞こえました。
加えて、さらにはこんな声も。
「他の貴族が動き始めているそうですよ」
「若すぎる当主では務まらぬと……皆が言っているとか」
「直談判しようと皇帝陛下に謁見を求める家もあるそうです」
ダリオン様がお倒れになった二週間も経った頃には、もうそんな噂話が屋敷内を飛び交うようになっていました。
けれど私はこの時点で気づいていました。これは決してただの流言ではなく、現実の動きと結びつくであろう、と。
なぜなら政界とは常に権力闘争。その中で力あるダリオン様が倒れたなら、必ずその地位を狙う者たちが動き出します。
ダリオン様のことはもちろんすでに各所に知れ渡っています。隠し通すのは不可能ですし、そうするわけにもいきませんからね。こちらから方々へ伝者を送り、報せました。
何度も言いますが、ダリオン様は要職に就かれる方です。下手に誤魔化しては政治が滞ってしまう上に、引いては国民の生活の安定を揺るがしてしまいます。そんなわけにはいきません。
「けど、まさかここまで早いとは……」
執務室に積まれた報告の束を手に取ると、次々と情報が浮かび上がります。
私は伝者を派遣する際、各所の動向を探ることも命じていました。
そしてそこに並んでいたのは、衝撃の数々でした。
一つはダリオン様に反目する有力貴族の動き。彼らは「ダリオン公爵が兼ねていた要職を空席のまま放置するのは帝国の停滞を招く」と唱え、自派の人間を臨時に据えるべく働きかけていました。
次に目についたのは北方の侯爵家。彼らは以前から交易路の利権を巡ってヴァルケスト家と対立しており、ここぞとばかりに「若きヴァレフには国政は任せられない」と吹聴しているようです。
軍部からの報せも重苦しいものでした。一部の将軍が「指揮権を分散させるべきだ」と主張し、軍の編制を組み替える口実を探しているというのです。
さらに皇宮の文官たちは、ヴァレフ様を正式な代行の任命には帝国評議会の承認が必要と制度を盾に取り、わざと手続きを煩雑にして時間を稼ごうとしているとのこと。
――彼らの狙いはただ一つ。ヴァルケスト家を“空席”にし、その地位を掠め取ること。
ダリオン様の威光が消えた瞬間を狙い、牙を剥く。なんと素早いことか。
「はぁ……」
私は思わず、深く息を吐きました。
帝都に来てまだ日も浅い私でさえ、ここまで露骨な動きが見えるのです。裏ではさらに根回しが進んでいるに違いありません。
「……状況は、思ったより厳しいかもしれないわね」
独り言のように洩らした言葉に、背後から足音がしました。振り返ればヴァレフ様が立っておられます。
その瞳は疲労の影を宿しながらも、真剣に書簡の束を見つめていました。
「何か新しい情報が?」
「はい。山のように」
私は机に書簡を並べ、一つひとつを指で示しました。
「どこもかしこもまるで一斉に連携しているかのようです。まさかこれほど動きが早いとは……」
「まるで誰もかれもが敵かのような状況だな」
「ええ。しかし気がかりなのは、地方の貴族にまですでに情報が及んでいることです。私がダリオン様の情報をお伝えしたのは、中央の各諸侯に対してだけだったのに……」
「父は国内でも相当に顔が広い人物だ。それが逆に災いしているのだろう」
「なるほど、それはそうですね」
屋敷内でもそうであるように、噂とはどんどん広がっていくもの。貴族の家や領地には様々な人間が出入りしますから、その中には地方から遠征してきている者もいます。
口々に伝わっていけば、自ずと距離も時間も加速していくことでしょう。果てはどこまで続くのやら。
……けど、果たして本当にそれだけでしょうか?
「まあいいでしょう。とりあえず、ここで取り乱してしまっては彼らの思う壺です。屋敷の者が不安を囁き合えば、その声はすぐ外に漏れ、余計に今が攻め時と彼らの目には映ってしまうでしょう。だからこそ、まずは上に立つ私たちだけでも落ち着きを示さねばなりません」
「うむ……」
ヴァレフ様は小さく頷かれました。ですが、その横顔にはまだ迷いが残っているように見えました。
無理もありませんね。たったこれだけの時しか経っていないのに、目まぐるしく状況が動こうとしているのですから。
書簡の束を机に戻したとき、ヴァレフ様は大きく息を吐き、椅子に身を沈めました。
「……父上が倒れられてから、まだ半月しか経っていない」
呟く声は掠れていて、普段の気丈な響きは影を潜めています。
「なのに、もう周囲は代わりを求めている。誰も私が次の当主を務めるとは思っていない。それがこうして、形となって表れている……」
「ヴァレフ様……」
「私は父上のようにはなれない。政務も、軍の采配も、あれほど多くの人に慕われることも……。すべて父上だからこそ成し得たことだ。私は……まだただの子どもにすぎない」
「そんなことは……」
私が声をかけようとした瞬間、ヴァレフ様はポツリと言いました。
「……師匠」
「? なんです?」
「……もうここまでだ。師匠は今すぐ荷物をたたみ、自分の屋敷に戻ってくれ。いや、なんなら実家の領地に帰ってもいい。むしろそうすべきだ」
「え?」
いったいなぜ……私は驚いてしまいました。
「もともと師匠がこの家に来たのは、伯爵の地位に加えて屋敷で自由に魔法の研究に没頭するためだったのであろう?」
おや、ご存じでしたか。ヴァレフ様には何も話していなかったのに。
「こうなった以上、それはもう叶わぬ。この状況、下手を打てばヴァルケスト家の領地そのものまで危ういかもしれん。……最悪のケースを想定して動くのも、領主としての務めであろう?」
たしかにその通りです。此度の各貴族たちの動きは、ハッキリ言って想像よりもずっと苛烈です。この勢いであれば、ダリオン様の地位だけではなく家そのものを滅ぼそうとするものまで現れてもおかしくありません。それが貴族社会と言うものです。
「師匠は私にとって恩人だ。父も母も感謝している。そんな人を巻き添えで危険な目に遭わせるわけにはいかん」
……そういうことでしたか。つまり、ヴァレフ様は私に逃げろと。
「すまないな。せっかく養女として我が家に入ってくれたと言うのに……」
諦めたように紡がれたその言葉に、私は胸が詰まりました。彼がどれほど必死に平静を装ってきたかを知っているからです。
なにより出会った頃はあれほど横暴だったヴァレフ様が、このように私の身を案じてくれるのは感慨深くもありました。
「……父上がいなければ、この家は終わりだ」
――ですが、やっぱりその言葉だけは聞き捨てなりませんでした。
「……終わり、などではありません」
「え?」
「いいえ、終わらせてなるものですかっ!!」
「うおっ!」
突如としてバンッと机を叩いて立ち上がった私に、ヴァレフ様が目を見開きました。
「し、師匠? どうした急に……?」
「どうもこうもありません! 私はヴァルケスト家の令嬢です。あなたの父上に養女として迎えられ、この家に身を置く者です。ここから逃げるなど、決してあり得ません!」
言葉を叩きつけると、ヴァレフ様は愕然としたように息を呑みました。
私は構わず続けます。
「いいでしょう。向こうがその気なら、こちらも手加減無用です。真っ向から迎え撃ってやりましょう」
「む、迎え撃つ……?」
「ええ、全力で叩き潰します。全面戦争です」
戦争……そう聞いた瞬間、ヴァレフ様はギョッとしました。
私の口から出たその言葉が、決して冗談ではないと悟ったからでしょう。ええ、大正解です。
「お、おい師匠……分かってると思うが、相手は政敵とはいえ同じ国の貴族だぞ? くれぐれも直接手荒なマネは……」
「ええ、もちろんしませんとも」
「その顔は絶対するやつだろうっ!!」
はて、その顔とはいったいどんな顔でしょうかね?
え? 笑ってる? はは、まさかまさか。こう見えても今や私は偉大なる公爵家の令嬢ですよ? そんな羽虫を踏みつぶす蛮族のような笑みなど……。
「さあ、参りましょうヴァレフ様。まずは皇帝陛下に謁見の申し出を!」
「……はぁ。もうどうにでもなれだ」
またしても諦めた表情でヴァレフさが項垂れました。
しかし、私はもう決意しました。必ずやこの家を守り抜くと。それが『雷神』などと蔑まれていた私を取り立てていただいたダリオン様への恩返しでもありますからね。
そうです、今こそ我が『雷神』の名を天下に轟かせるとき!
公爵様が執務室で倒れられた――その侍女からの報せを耳にした瞬間、私は全身の血が引くような感覚に襲われ、気づけば病室へと駆け込んでいました。
「ダリオン様!」
震える声が、自分の喉から迸りました。
寝台には、あまりに蒼白な顔をしたダリオン様が横たわっていました。閉じられた瞼の下からは息遣いすら感じられず、ただ蝋燭の灯が映す影ばかりが不安を煽ります。
その手を固く握り締めていたのは、エルリーゼ様でした。夫人は凛とした表情を保とうとしていましたが、その瞳には涙が滲み、指先はわずかに震えていました。
「セレイナ……」
呼ばれただけで胸が詰まりました。
「……執務中、突然頭を押さえてそのまま椅子から崩れ落ちられました。机の書類が散らばりすぐに介抱いたしましたが……お声は戻らず」
後方に控えていた執事が低い声で補いました。
エルリーゼ様が視線を伏せ、苦渋に満ちた声で告げられます。
「主治医の見立てでは――脳に腫瘍があるのではないか、とのことです。回復は、奇跡でもなければ望めない。いつ目覚められるかは……誰にも分からないのだそうです」
「……そんな……」
言葉はそこで途切れました。胸の奥に冷たい穴が開くような感覚。
横に立つヴァレフ様は、父君を凝視したまま動きません。蒼い瞳がわずかに揺れ、結ばれた唇には力がこもっています。
「……父上が、このような……」
声は震えていましたが、それでも叫ぶことも取り乱すこともなく、必死に耐えているのが伝わってきます。
ですがその姿に、私は余計に胸が締め付けられる思いがしました。
公爵の席は空席のままではいられません。帝都の政務も、各地の折衝も、誰かが受けねば動かない。慣例では、家門の職は家の権利として引き継がれるとはいえ、実際の執務は能力と実績が問われます。
――つまり、父の名の重みごと若すぎる肩にのしかかる。
私自身も必死に心を繋ぎ止めていました。涙に視界が滲みそうになるのを堪え、呼吸を整えようとしても、胸の奥で不安が膨れ上がるばかりです。
帝国の未来において、ダリオン様がいかに大きな存在であるかは、私でも理解しています。
皇帝陛下の右腕として幾度も政争を勝ち抜き、領地経営でも数多の功績を上げてきた方。その威光があるからこそ、ヴァルケスト家は他の大貴族から安易に侮られずに済んでいる。
ですが、それは逆に言えば――。
ヴァレフ様が小さく息を吐きました。
「帝宮の月例会議……父上の席は、どうなるのだろうか」
「当面は代理を、と申し出ることはできるはずです」
私は思わず答えていました。
けれどすぐに首を横に振ります。
「……ですが、今は答えを急がない方がよろしいでしょう。喫緊のご予定だった領内の税率改定の請願は延期の手続きを。その他の進行中の案件についても、書式に従って『当主不在中の確認』を挟めば、ある程度の日数は稼げます」
そう、それで当面の時間稼ぎはできるはず。
有事だからこそ、今はなんとか冷静に対処しなければ。
「ヴァレフ様、今日のところは我々も休みましょう。今後の段取りは明日の朝に決めましょう。私も手伝いますから」
「……ああ、そうだな。ありがとう、師匠」
エルリーゼ様もベッド脇で「心配しないで。この人には私がついているから」と頷かれました。今夜はこのまま病室でダリオン様のお傍で過ごされるそうです。
そうして、その日はそれで解散となりました。
私はエルリーゼ様にもくれぐれもお体にお気をつけくださいと申し上げ、ヴァレフ様とともに病室を後にしました。
――けれど、そんな私たちに訪れたのはさらなる嵐でした。
***
翌朝からの屋敷は、空気そのものが変わっていました。
廊下を行き交う侍女の足音は落ち着きを失い、下働きの従僕たちは視線を合わせることなく小声で囁き合っている。厨房からも「どうなるのだろう」という不安の声が漏れ聞こえました。
加えて、さらにはこんな声も。
「他の貴族が動き始めているそうですよ」
「若すぎる当主では務まらぬと……皆が言っているとか」
「直談判しようと皇帝陛下に謁見を求める家もあるそうです」
ダリオン様がお倒れになった二週間も経った頃には、もうそんな噂話が屋敷内を飛び交うようになっていました。
けれど私はこの時点で気づいていました。これは決してただの流言ではなく、現実の動きと結びつくであろう、と。
なぜなら政界とは常に権力闘争。その中で力あるダリオン様が倒れたなら、必ずその地位を狙う者たちが動き出します。
ダリオン様のことはもちろんすでに各所に知れ渡っています。隠し通すのは不可能ですし、そうするわけにもいきませんからね。こちらから方々へ伝者を送り、報せました。
何度も言いますが、ダリオン様は要職に就かれる方です。下手に誤魔化しては政治が滞ってしまう上に、引いては国民の生活の安定を揺るがしてしまいます。そんなわけにはいきません。
「けど、まさかここまで早いとは……」
執務室に積まれた報告の束を手に取ると、次々と情報が浮かび上がります。
私は伝者を派遣する際、各所の動向を探ることも命じていました。
そしてそこに並んでいたのは、衝撃の数々でした。
一つはダリオン様に反目する有力貴族の動き。彼らは「ダリオン公爵が兼ねていた要職を空席のまま放置するのは帝国の停滞を招く」と唱え、自派の人間を臨時に据えるべく働きかけていました。
次に目についたのは北方の侯爵家。彼らは以前から交易路の利権を巡ってヴァルケスト家と対立しており、ここぞとばかりに「若きヴァレフには国政は任せられない」と吹聴しているようです。
軍部からの報せも重苦しいものでした。一部の将軍が「指揮権を分散させるべきだ」と主張し、軍の編制を組み替える口実を探しているというのです。
さらに皇宮の文官たちは、ヴァレフ様を正式な代行の任命には帝国評議会の承認が必要と制度を盾に取り、わざと手続きを煩雑にして時間を稼ごうとしているとのこと。
――彼らの狙いはただ一つ。ヴァルケスト家を“空席”にし、その地位を掠め取ること。
ダリオン様の威光が消えた瞬間を狙い、牙を剥く。なんと素早いことか。
「はぁ……」
私は思わず、深く息を吐きました。
帝都に来てまだ日も浅い私でさえ、ここまで露骨な動きが見えるのです。裏ではさらに根回しが進んでいるに違いありません。
「……状況は、思ったより厳しいかもしれないわね」
独り言のように洩らした言葉に、背後から足音がしました。振り返ればヴァレフ様が立っておられます。
その瞳は疲労の影を宿しながらも、真剣に書簡の束を見つめていました。
「何か新しい情報が?」
「はい。山のように」
私は机に書簡を並べ、一つひとつを指で示しました。
「どこもかしこもまるで一斉に連携しているかのようです。まさかこれほど動きが早いとは……」
「まるで誰もかれもが敵かのような状況だな」
「ええ。しかし気がかりなのは、地方の貴族にまですでに情報が及んでいることです。私がダリオン様の情報をお伝えしたのは、中央の各諸侯に対してだけだったのに……」
「父は国内でも相当に顔が広い人物だ。それが逆に災いしているのだろう」
「なるほど、それはそうですね」
屋敷内でもそうであるように、噂とはどんどん広がっていくもの。貴族の家や領地には様々な人間が出入りしますから、その中には地方から遠征してきている者もいます。
口々に伝わっていけば、自ずと距離も時間も加速していくことでしょう。果てはどこまで続くのやら。
……けど、果たして本当にそれだけでしょうか?
「まあいいでしょう。とりあえず、ここで取り乱してしまっては彼らの思う壺です。屋敷の者が不安を囁き合えば、その声はすぐ外に漏れ、余計に今が攻め時と彼らの目には映ってしまうでしょう。だからこそ、まずは上に立つ私たちだけでも落ち着きを示さねばなりません」
「うむ……」
ヴァレフ様は小さく頷かれました。ですが、その横顔にはまだ迷いが残っているように見えました。
無理もありませんね。たったこれだけの時しか経っていないのに、目まぐるしく状況が動こうとしているのですから。
書簡の束を机に戻したとき、ヴァレフ様は大きく息を吐き、椅子に身を沈めました。
「……父上が倒れられてから、まだ半月しか経っていない」
呟く声は掠れていて、普段の気丈な響きは影を潜めています。
「なのに、もう周囲は代わりを求めている。誰も私が次の当主を務めるとは思っていない。それがこうして、形となって表れている……」
「ヴァレフ様……」
「私は父上のようにはなれない。政務も、軍の采配も、あれほど多くの人に慕われることも……。すべて父上だからこそ成し得たことだ。私は……まだただの子どもにすぎない」
「そんなことは……」
私が声をかけようとした瞬間、ヴァレフ様はポツリと言いました。
「……師匠」
「? なんです?」
「……もうここまでだ。師匠は今すぐ荷物をたたみ、自分の屋敷に戻ってくれ。いや、なんなら実家の領地に帰ってもいい。むしろそうすべきだ」
「え?」
いったいなぜ……私は驚いてしまいました。
「もともと師匠がこの家に来たのは、伯爵の地位に加えて屋敷で自由に魔法の研究に没頭するためだったのであろう?」
おや、ご存じでしたか。ヴァレフ様には何も話していなかったのに。
「こうなった以上、それはもう叶わぬ。この状況、下手を打てばヴァルケスト家の領地そのものまで危ういかもしれん。……最悪のケースを想定して動くのも、領主としての務めであろう?」
たしかにその通りです。此度の各貴族たちの動きは、ハッキリ言って想像よりもずっと苛烈です。この勢いであれば、ダリオン様の地位だけではなく家そのものを滅ぼそうとするものまで現れてもおかしくありません。それが貴族社会と言うものです。
「師匠は私にとって恩人だ。父も母も感謝している。そんな人を巻き添えで危険な目に遭わせるわけにはいかん」
……そういうことでしたか。つまり、ヴァレフ様は私に逃げろと。
「すまないな。せっかく養女として我が家に入ってくれたと言うのに……」
諦めたように紡がれたその言葉に、私は胸が詰まりました。彼がどれほど必死に平静を装ってきたかを知っているからです。
なにより出会った頃はあれほど横暴だったヴァレフ様が、このように私の身を案じてくれるのは感慨深くもありました。
「……父上がいなければ、この家は終わりだ」
――ですが、やっぱりその言葉だけは聞き捨てなりませんでした。
「……終わり、などではありません」
「え?」
「いいえ、終わらせてなるものですかっ!!」
「うおっ!」
突如としてバンッと机を叩いて立ち上がった私に、ヴァレフ様が目を見開きました。
「し、師匠? どうした急に……?」
「どうもこうもありません! 私はヴァルケスト家の令嬢です。あなたの父上に養女として迎えられ、この家に身を置く者です。ここから逃げるなど、決してあり得ません!」
言葉を叩きつけると、ヴァレフ様は愕然としたように息を呑みました。
私は構わず続けます。
「いいでしょう。向こうがその気なら、こちらも手加減無用です。真っ向から迎え撃ってやりましょう」
「む、迎え撃つ……?」
「ええ、全力で叩き潰します。全面戦争です」
戦争……そう聞いた瞬間、ヴァレフ様はギョッとしました。
私の口から出たその言葉が、決して冗談ではないと悟ったからでしょう。ええ、大正解です。
「お、おい師匠……分かってると思うが、相手は政敵とはいえ同じ国の貴族だぞ? くれぐれも直接手荒なマネは……」
「ええ、もちろんしませんとも」
「その顔は絶対するやつだろうっ!!」
はて、その顔とはいったいどんな顔でしょうかね?
え? 笑ってる? はは、まさかまさか。こう見えても今や私は偉大なる公爵家の令嬢ですよ? そんな羽虫を踏みつぶす蛮族のような笑みなど……。
「さあ、参りましょうヴァレフ様。まずは皇帝陛下に謁見の申し出を!」
「……はぁ。もうどうにでもなれだ」
またしても諦めた表情でヴァレフさが項垂れました。
しかし、私はもう決意しました。必ずやこの家を守り抜くと。それが『雷神』などと蔑まれていた私を取り立てていただいたダリオン様への恩返しでもありますからね。
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中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています
浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】
ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!?
激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。
目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。
もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。
セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。
戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。
けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。
「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの?
これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、
ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。
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