記憶の中に僕は居ますか

遭綺

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俺のワークライフバランス?

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「夬皇、今からあれに乗るから」
勇緋は力強く何処かを指さす。
「あれって、もしかして、観覧車の事?」
「ああ。俺達はあの観覧車に乗らなくちゃ行けないんだ」
「乗らなくちゃいけない? ゆうひ君、急にどうしたのさ」
「いいから、来てくれ!」
「えっ、あ、ちょっと!」
勇緋は雑に彼の手をグイッと引いて、急に駆け出した。
長身の彼が体制を崩すくらい力強く。

ここに来るのはいつ振りだろうか。
勇緋は感慨深い感情を抱いているが、隣に居る夬皇は何故観覧車に乗るのか、その理由を分からずにいる。
ただ、がっちり勇緋と手を握る格好になっているので、あまり悪い気はしない。

「次のお客様、どうぞー」

二人の前にゆっくりと観覧車の箱がやって来る。
勇緋は冷静な足取りで、夬皇は急にテンションが上がった子供のように飛び乗る。

静かに動き出す観覧車は、着実に頂上へ向けて歩を進める。
「夬皇、久し振りの観覧車はどうだ?」
「うん。意外と楽しいんだね。子供の頃ぐらいしか乗った事がないから」
「…そうか」
楽しいのは結構な事だが、自分が求めている答えはそこではない。
夬皇の記憶と本気の勝負を仕掛けるのは頂上に辿り着いた一瞬。
それはまさに居合の達人になるような決戦なのだ。

夬皇の仕事が軌道に乗って来たためか、以前とほぼ変わらない生活を出来るまでになっていた。
彼はほとんど実家に帰る事は無くなったし、家に帰れば勇緋と一緒に過ごす事が出来ている。
ただ、一つだけ。
記憶だけがまだ忘れ物として見つかっていないのだ。
勇緋はその最後の1ピースを埋めようと躍起になっている。
それがこの場所にあると信じて。
勿論、当の夬皇は気付いていないが。

その間にも観覧車は頂上へと進んでいる。
「あ、ゆうひ君。あそこ見てよ、あれ、富士山じゃないの?」
「大きい山だけど、富士山じゃないよ。だけど、天気が良くて空気が澄んでいればここからでも富士山を見る事は出来るよ?」
「へぇー。ゆうひ君、物知りだね」
夬皇はそう言って彼の顔をチラッと見てから、再び景色を眺め始めた。

(まぁ。この知識はお前が教えてくれたんだけどな)

観覧車は頂上へと辿り着いた。
だが、夬皇がずっと景色を楽しそうに眺めているためか、勇緋は声を掛けるタイミング、キスを迫る瞬間を逃してしまった。
一世一代の勝負は始まる事なく終わりを告げた。

(…また、次の機会にしよう)

不甲斐ない。
もしこれが何か重要な試験本番だとしたらどうするつもりなんだと、自分を責めたくなった。

「夬皇、こっち来て」
勇緋が少し声のトーンを落としながら、手招きして彼を自分の隣に座らせる。
「こっちからも良い景色が見れるじゃん」
目を輝かせて子供のようにはしゃぐ彼の純粋な表情を、勇緋は目に焼き付ける様にしっかり見つめていた。
あと何回かは、これに乗れるチャンスがあるかも知れないけれど、本当に上手く行くとは限らない。
その恐怖を打ち消す為には彼の弾ける笑顔が必要になる。
そう本能が教えてくれた。

観覧車は静かに元の場所に戻って来た。
二人はそこから降りると、階段を降りた出口辺りで立ち止まって再び観覧車を眺める。
「また来たいか?」
「うん。結構楽しかったよ! ゆうひ君と乗れたしね」
「そうか」
その言葉だけでも良しとしよう。
合格。

それから二人は並んで歩き、駐車場へと向かって行ったのだった。


だが、勇緋の想いとは裏腹に、事はあらぬ方向へと動いていく。


「…と言う訳なのだが、神塚。やってみるか?」
会議室に勇緋の上司である部長と彼が二人で何かを話している。
勇緋の前に一枚の書類が置かれている。

【グループ企業訪問及び海外への短期研修。期間は約一か月。
 代表者は全事業部合わせて二名までとする】

勇緋は即答出来なかった。
手帳を見返してみる。
カレンダーを必死に目で追う。
真っ先に夬皇とあの観覧車が脳裏に浮かんだ。
研修期間はクリスマスの前週まで。
あの観覧車が無くなるのはクリスマスの直後。
つまり「観覧車決戦」は残すところ一回きり。
果たして自分はこの勝負に勝つ事が出来るのか。

「お前のこれからのキャリアにとって必要な経験だと私は思う。明日までに返答をしてもらえるか?」
「わかりました。よく考えてきます」
「ああ。よろしく頼む」
部長は勇緋の肩を二回程叩いてから部屋を後にしたのだった。

その日の帰りの新幹線。
勇緋は神妙な表情で窓の外を眺めていた。
自らのキャリアアップには今回の研修は絶対に外せない。
だけど、自分にとって一番大切な事は何か。

仕事?
夬皇のこと?

そんなの、どっちも大切に決まっている。
誰があの聖域を守るんだ。聖域の維持コストにはそれなりのお金が必要なんだぞ。
某カードゲームのようにはいかないんだ。
勿論、夬皇のことは命を懸けてでも守り抜く覚悟は出来ている。
何のために生きているのかと言っても過言ではないくらいに。
それに、俺は我儘だし、欲しがりだ。
あれ。
冷静になって考えてみたら、答えは意外と簡単じゃないか。

「どっちも、全力でやってやるだけだ。覚悟しておけよ」
新幹線の車内に彼の低い声が響いた。

それから家に着いた勇緋は夬皇に研修の事を話した。

「えー。凄いじゃんか!」
夬皇は おめでとう と手を叩いて賞賛している。
意外な返答に少し肩透かしにあった気分だ。
「ゆうひ君ってやっぱりデキる人なんだね」
彼の言葉に何故だか勇緋は少し寂しい気持ちになって来た。
「一か月も不在になるけど、寂しく、ない、のか?」
彼の言葉に夬皇は動きを止め、少し顔を俯かせる。
「寂しくない訳ないじゃんか。一か月、一人でココに居るんでしょ? 寂しいよ…。
でも、ゆうひ君の仕事の邪魔はしたくない。俺の為に遠慮はしないで欲しい」
夬皇の言葉に勇緋は背中を押された気がした。

ちゃんと進んで良いんだ。

「ありがとう、夬皇。これからの俺達のより良い生活の為にしっかり働いてくるわ」
「うん。頑張って来てね!」
二人は何故かキスではなく、がっちりと握手を交わしていた。

そしてその翌週。
勇緋は研修の旅へと向かって行った。
未来へとつながる、彼らの聖域のグレードアップを図る為に。
そして勇緋は覚悟を決めた。
この勝負は絶対に俺が勝つと。
彼の手帳には、観覧車決戦となるXデーの日付に大きな赤い丸が力強く記されていた。
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