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Hold on Stare
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夬皇の記憶が元に戻り、勇緋の風邪もようやく落ち着いた頃。
二人は揃って病院を訪れていた。
本当に夬皇の記憶は大丈夫なのか、確かめるために。
医師は神妙な面持ちでレントゲン写真を見つめている。
二人にも緊張感が走る。
もし、記憶が戻ったのが一過性だとしたらと思うと気が気ではない。
「それで、記憶が戻ったきっかけが、頭をぶつけたからと?」
その言葉に、二人は静かに頷く。
「なるほど。確かに外部性ショックによる記憶の回復と言う事象は、幾つか報告が上がっています。
まぁ、この写真を見るからにも、脳に腫瘍とか傷とかがある訳ではないですし、簡単なテストを受けて
貰いましたが、特段、異常も見られませんでしたし…」
「という事は、先生」
「ええ。問題はないと言えるでしょう」
その言葉に、二人はホッとした。
お手本のような深いため息が漏れた。
「ただ、記憶と言うのは目に見えないモノ。この写真の上では、問題なく見えますが、何が起きるかは私にも分かりません。ただ、毎日。脳を使う事を続けて下さい。どんな些細な事でも良いのです。常に前向きに、記憶を重ねて行く。それが、柊さんの記憶を維持する最も良い方法だと私は思います」
「記憶を重ねる…か」
「そうです。これからもお二人で素敵な記憶を紡いで行って下さい」
「あ、ありがとうございます!」
二人は大きく一礼をした。
「無茶は駄目ですからね、柊さん」
「は、はぃぃ…」
頼りない返事をした夬皇に、勇緋と医師は笑って見せたのだった。
病院をあとにした二人。
「良かったな、夬皇」
「ああ。本当に何もなくて良かった。これも全て、勇緋のおかげだ。ありがとな」
「だけど、夬皇。俺達はまだ、やるべき事があるんだよ」
「やるべき事?」
そう尋ねる彼に、勇緋はスマホをちらつかせながら答える。
「お世話になった人達へ、お前の記憶が戻った事の報告行脚だよ」
「何その、事務的な言いぶりは」
急な仕事モードに、流石の夬皇も戸惑ってしまった。
それから二人は色々とお世話になった人達へ、夬皇の記憶復活の報告行脚を敢行していった。
夬皇の母親と凜に関しては泣いて喜び、翌日には彼らの聖域に押し掛けて来た。
本当にありがとう、これも勇ちゃんのおかげよと身体が軋む程の強めのハグを頂く事は分かっていたし、無論、夬皇も心配をかけ過ぎた報いとして数時間、二人の説法を聴くことになったのも当然の事だった。
勇緋は自室に追いやられてしまったが、二人の愛ある説法を聴き、シュンとしている夬皇の姿を想像すると少し可笑しくなって笑ってしまった。
それからすぐ、二人は勇緋達の元気な姿を見届けると、せっかくなら観光して帰りましょうと、さっさと聖域を後にして、思いっきり羽を伸ばしに街に繰り出して行ったのだった。
本当にオンオフの切り替えがしっかりしている二人である。
続いて、定食屋・弘原海。
暖簾をくぐってすぐ、夬皇の雰囲気が変わっている事に気付いた女将さんが駆け寄って来てくれた。
夬皇がご心配をおかけしましたと言うと同時に、女将さんは涙を流しながら、彼をそっと抱き締めた。
本当に良かったわねと、我が子のように接してくれた。
勿論、ご主人も喜んでくれて、夬皇の肩を何度も叩いて喝を入れてくれた。
この二人には感謝してもしきれない程、お世話になった。
最高の報告が出来た事を、心の底から喜べた勇緋自身もまた、感慨深いものがあった。
そして二人はいつものお気に入りメニューに舌鼓を打ちながら、談笑を楽しむ。
今日も美味しかったよ、また来るね。
店を後にする二人の後ろ姿が見えなくなるまで、ご夫婦は優しい笑みを見せながら手を振っていた。
勇緋の先輩である鴻上には取り急ぎ電話で状況を伝えた。
【そうか。それは良かったな】
「はい、ご心配をおかけしました」
【何はともあれ、また年明けから元気に出社して来い。しっかし、お前が研修中は大変だったわー】
「またお昼ご馳走しますから」
【ああ。まあ、早い年末休み、満喫するが良いさ】
実は、長期研修中の休暇分が年末休みと合体して、クリスマス以降は全て年始まで休みとなっていた。
その事に対するやっかみか。
「ちょっと怒ってます? 先輩。一応、公休ですからね」
【わかってらぁ!】
そう言って電話は切れた。
少し嫌味っぽくも、悪意はない鴻上の雰囲気に、勇緋はフッと笑って見せた。
(先輩。本当にありがとうございます。あと、こんなに長期休みを頂いてごめんなさい。
俺、滅茶苦茶、休み満喫させてもらってますッ! 合掌)
そして夬皇も、自身の職場へ向かう。
久し振りに自分で運転をして職場へ向かい、運転席から降りる。
その姿をいち早く見つけた三輪と数名のスタッフがこちらに駆け寄って来る。
「柊、お前、今日。一人で運転して来たのか」
「だ、大丈夫なの?」
まるで子供もように大切に扱ってくれるので、夬皇は戸惑った。
(ああ、俺、こんなに心配をかけていたんだな)
記憶が無い状況の事はあんまり憶えていないが、何故かここは落ち着く。
あんなことがあったけど、やっぱり俺はこの職場が好きらしい。
夬皇はゆっくりと口を開く。
「色々とご心配をおかけしました。三輪先輩、皆さん」
「柊、お前…」
「はい。自分でも実感がないんですけど、記憶、戻ったみたいです」
その言葉に三輪をはじめ、そこに居たスタッフがマジかよと口を揃えて言って、彼に抱きついたのだ。
そしてそのまま彼を事務所へ連行した。
「皆、聞いてくれ! 柊が復活したぞ!」
その言葉と、いそいそと事務所にやって来たいつもと雰囲気が違う夬皇の姿に、全スタッフの動きが止まる。
「ほら、ちゃんと皆の前で報告しておいで」
女性スタッフに背中を押されて、夬皇は一歩前に出てしまった。
「あ、その、えっと。皆さん、本当にご迷惑をおかけしましたが、柊、無事記憶が帰って来ました」
深々とお辞儀をすると、事務所は歓声に沸いた。
もみくちゃにされながら、手厚い歓迎を受けた。
帰って来るのが遅い!
わーい、元のわこちゃんだぁ。
と言った温かい言葉の数々を貰った。
だが、それと同時にすぐに事務所の雰囲気が変わる。
「三輪さん。という事はあのプランが発動するって事ですね」
「ああ。ついに念願のアレが出来るって訳だ」
皆の目が一斉にギラっと変わったので、夬皇は身の危険を感じた。
「念願のアレって何ですか?」
「よしっ。今日は仕事をきっちり終わらせて、アレの準備だ! 皆、よろしく頼むぞー」
三輪は彼の言葉を無視して、事を進めて行く。
「すみません、アレって何ですかぁ!」
「お前は気にせず、仕事をしてくれ。はい、よろしく」
「三輪先輩、気になって仕事に集中出来ないっスよ!」
慌てる彼の姿を見た三輪は笑いながら、何処かへと行ってしまった。
「俺、何されるんだ…」
まさか穢されちゃう?と、有らぬ事を想像しながらも、とりあえずその日は頑張って仕事に勤しむのだった。
「ただいま」
疲れ切った夬皇の声が玄関から聞こえて来た。
「おかえり、久し振りの仕事はどうだった?」
勇緋は何故か少し笑いながら話す。
その姿に、夬皇は身体を震わせる。
「勇緋の策にまんまと嵌ったわ! あんな事されるなんてさ」
「えっ? 俺はただ、盛大に祝ってやって下さいって言っただけだけど?」
「ホント、恐ろしい奴だよ、お前は。あ、ここにも付いてるし! どんだけだよ」
夬皇は服の袖の後ろ辺りに付いていた白い泡のようなモノを手で拭きとる。
「ハハハ。お前からめっちゃ甘い匂いする。蟻とか寄って来るくらいにさ」
「ホントだよ。ちゃんと落ちるかな、この匂い」
それは数時間前に遡る。
念願のアレとは、夬皇の復活祭と冠した彼へのパイ投げの刑であった。
事務所に急遽設けられた特設ステージに夬皇は上げられ、椅子に座らされ、両手両足を縛られた状態で、全スタッフからおめでとうやそれ以外?の想いがこもったパイを投げつけられると言うイベントを受けて来たのだった。
拒否権はなかった。
寧ろ、勇緋からのお墨付きを頂いていたらしく、思いっきりやられてきた。
「ちょっと、口に入ったし。しかも、味がちゃんとしてるのがまた腹が立ったわ。ガチじゃんって」
「だいぶ楽しそうな写真が届いていたよ、さっき。ほら」
そう言って勇緋がスマホの画面を見せると、全身真っ白になっている夬皇と思われる人物が磔にされている写真があったのだ。
「やば、誰だかわからない」
「ホント、盛大にやってくれて良かったよ。俺も見たかった」
「てか、いつのまに三輪先輩と連絡先交換してるんだよ、勇緋…」
「お前が色々忘れている間に、相談に乗って貰ってたんだ」
「ふーん」
「何、その感じ。まさか、お前。嫉妬?」
「そんな訳あるかぁ!」
咄嗟に勇緋は逃げ出す。すぐさま、夬皇も彼を追いかける。
リビングで勇緋を捕まえた夬皇は、その勢いのまま、彼をソファへ倒した。
「捕まえた♪」
「ちょ、ちょっと。離して」
勇緋を眼下に、夬皇は彼を押さえ付けたまま、視線を合わせる。
すると、夬皇の髪に隠れて付いていたクリームがぽたりと勇緋の頬に落ちた。
「あっ…」
「こんなところにも付いていたのかよ。やり過ぎだよ、全く」
「凄い甘い匂いがする」
彼の態度に、夬皇はフッと怪しく笑って見せると、そのまま顔を近づけて、そのクリームを舐め取ったのだ。
まさかの行動に、勇緋は顔を赤らめた。
「夬皇…お前、今」
「ずっとお預けだったからね。それと、さっきのパイの件のお返し」
そう言いながら、ニコッと笑う彼の表情に、勇緋は身体を震わせる。
この気障っぽく、心を鷲掴みにされるくらい大好きな夬皇の表情。
ずっと勇緋はコレを待っていたのかも知れない。
自然と目がトロンとしてしまって、勝手に唇が動いてしまう。
その変化を夬皇は見逃さない。
「勇緋、どうしたの? そんな顔して」
その言葉に、勇緋は少し目を赤らめて言葉を続ける。
「俺はずっと、今、目の前に居るお前を待っていたんだなって。そう思ったら、嬉しくなってさ」
優しい笑みを見せる彼に、夬皇もドキッとしてしまう。
夬皇は体勢を落とし、二人の頬同士が触れ合うくらい身体を抱き締め合う。
「ユウ。好きだよ」
「ッ!」
他の人には絶対に呼ばせない、彼だけに許した自分の呼び名。
もうそれだけで勇緋は報われた気がした。
二人は揃って病院を訪れていた。
本当に夬皇の記憶は大丈夫なのか、確かめるために。
医師は神妙な面持ちでレントゲン写真を見つめている。
二人にも緊張感が走る。
もし、記憶が戻ったのが一過性だとしたらと思うと気が気ではない。
「それで、記憶が戻ったきっかけが、頭をぶつけたからと?」
その言葉に、二人は静かに頷く。
「なるほど。確かに外部性ショックによる記憶の回復と言う事象は、幾つか報告が上がっています。
まぁ、この写真を見るからにも、脳に腫瘍とか傷とかがある訳ではないですし、簡単なテストを受けて
貰いましたが、特段、異常も見られませんでしたし…」
「という事は、先生」
「ええ。問題はないと言えるでしょう」
その言葉に、二人はホッとした。
お手本のような深いため息が漏れた。
「ただ、記憶と言うのは目に見えないモノ。この写真の上では、問題なく見えますが、何が起きるかは私にも分かりません。ただ、毎日。脳を使う事を続けて下さい。どんな些細な事でも良いのです。常に前向きに、記憶を重ねて行く。それが、柊さんの記憶を維持する最も良い方法だと私は思います」
「記憶を重ねる…か」
「そうです。これからもお二人で素敵な記憶を紡いで行って下さい」
「あ、ありがとうございます!」
二人は大きく一礼をした。
「無茶は駄目ですからね、柊さん」
「は、はぃぃ…」
頼りない返事をした夬皇に、勇緋と医師は笑って見せたのだった。
病院をあとにした二人。
「良かったな、夬皇」
「ああ。本当に何もなくて良かった。これも全て、勇緋のおかげだ。ありがとな」
「だけど、夬皇。俺達はまだ、やるべき事があるんだよ」
「やるべき事?」
そう尋ねる彼に、勇緋はスマホをちらつかせながら答える。
「お世話になった人達へ、お前の記憶が戻った事の報告行脚だよ」
「何その、事務的な言いぶりは」
急な仕事モードに、流石の夬皇も戸惑ってしまった。
それから二人は色々とお世話になった人達へ、夬皇の記憶復活の報告行脚を敢行していった。
夬皇の母親と凜に関しては泣いて喜び、翌日には彼らの聖域に押し掛けて来た。
本当にありがとう、これも勇ちゃんのおかげよと身体が軋む程の強めのハグを頂く事は分かっていたし、無論、夬皇も心配をかけ過ぎた報いとして数時間、二人の説法を聴くことになったのも当然の事だった。
勇緋は自室に追いやられてしまったが、二人の愛ある説法を聴き、シュンとしている夬皇の姿を想像すると少し可笑しくなって笑ってしまった。
それからすぐ、二人は勇緋達の元気な姿を見届けると、せっかくなら観光して帰りましょうと、さっさと聖域を後にして、思いっきり羽を伸ばしに街に繰り出して行ったのだった。
本当にオンオフの切り替えがしっかりしている二人である。
続いて、定食屋・弘原海。
暖簾をくぐってすぐ、夬皇の雰囲気が変わっている事に気付いた女将さんが駆け寄って来てくれた。
夬皇がご心配をおかけしましたと言うと同時に、女将さんは涙を流しながら、彼をそっと抱き締めた。
本当に良かったわねと、我が子のように接してくれた。
勿論、ご主人も喜んでくれて、夬皇の肩を何度も叩いて喝を入れてくれた。
この二人には感謝してもしきれない程、お世話になった。
最高の報告が出来た事を、心の底から喜べた勇緋自身もまた、感慨深いものがあった。
そして二人はいつものお気に入りメニューに舌鼓を打ちながら、談笑を楽しむ。
今日も美味しかったよ、また来るね。
店を後にする二人の後ろ姿が見えなくなるまで、ご夫婦は優しい笑みを見せながら手を振っていた。
勇緋の先輩である鴻上には取り急ぎ電話で状況を伝えた。
【そうか。それは良かったな】
「はい、ご心配をおかけしました」
【何はともあれ、また年明けから元気に出社して来い。しっかし、お前が研修中は大変だったわー】
「またお昼ご馳走しますから」
【ああ。まあ、早い年末休み、満喫するが良いさ】
実は、長期研修中の休暇分が年末休みと合体して、クリスマス以降は全て年始まで休みとなっていた。
その事に対するやっかみか。
「ちょっと怒ってます? 先輩。一応、公休ですからね」
【わかってらぁ!】
そう言って電話は切れた。
少し嫌味っぽくも、悪意はない鴻上の雰囲気に、勇緋はフッと笑って見せた。
(先輩。本当にありがとうございます。あと、こんなに長期休みを頂いてごめんなさい。
俺、滅茶苦茶、休み満喫させてもらってますッ! 合掌)
そして夬皇も、自身の職場へ向かう。
久し振りに自分で運転をして職場へ向かい、運転席から降りる。
その姿をいち早く見つけた三輪と数名のスタッフがこちらに駆け寄って来る。
「柊、お前、今日。一人で運転して来たのか」
「だ、大丈夫なの?」
まるで子供もように大切に扱ってくれるので、夬皇は戸惑った。
(ああ、俺、こんなに心配をかけていたんだな)
記憶が無い状況の事はあんまり憶えていないが、何故かここは落ち着く。
あんなことがあったけど、やっぱり俺はこの職場が好きらしい。
夬皇はゆっくりと口を開く。
「色々とご心配をおかけしました。三輪先輩、皆さん」
「柊、お前…」
「はい。自分でも実感がないんですけど、記憶、戻ったみたいです」
その言葉に三輪をはじめ、そこに居たスタッフがマジかよと口を揃えて言って、彼に抱きついたのだ。
そしてそのまま彼を事務所へ連行した。
「皆、聞いてくれ! 柊が復活したぞ!」
その言葉と、いそいそと事務所にやって来たいつもと雰囲気が違う夬皇の姿に、全スタッフの動きが止まる。
「ほら、ちゃんと皆の前で報告しておいで」
女性スタッフに背中を押されて、夬皇は一歩前に出てしまった。
「あ、その、えっと。皆さん、本当にご迷惑をおかけしましたが、柊、無事記憶が帰って来ました」
深々とお辞儀をすると、事務所は歓声に沸いた。
もみくちゃにされながら、手厚い歓迎を受けた。
帰って来るのが遅い!
わーい、元のわこちゃんだぁ。
と言った温かい言葉の数々を貰った。
だが、それと同時にすぐに事務所の雰囲気が変わる。
「三輪さん。という事はあのプランが発動するって事ですね」
「ああ。ついに念願のアレが出来るって訳だ」
皆の目が一斉にギラっと変わったので、夬皇は身の危険を感じた。
「念願のアレって何ですか?」
「よしっ。今日は仕事をきっちり終わらせて、アレの準備だ! 皆、よろしく頼むぞー」
三輪は彼の言葉を無視して、事を進めて行く。
「すみません、アレって何ですかぁ!」
「お前は気にせず、仕事をしてくれ。はい、よろしく」
「三輪先輩、気になって仕事に集中出来ないっスよ!」
慌てる彼の姿を見た三輪は笑いながら、何処かへと行ってしまった。
「俺、何されるんだ…」
まさか穢されちゃう?と、有らぬ事を想像しながらも、とりあえずその日は頑張って仕事に勤しむのだった。
「ただいま」
疲れ切った夬皇の声が玄関から聞こえて来た。
「おかえり、久し振りの仕事はどうだった?」
勇緋は何故か少し笑いながら話す。
その姿に、夬皇は身体を震わせる。
「勇緋の策にまんまと嵌ったわ! あんな事されるなんてさ」
「えっ? 俺はただ、盛大に祝ってやって下さいって言っただけだけど?」
「ホント、恐ろしい奴だよ、お前は。あ、ここにも付いてるし! どんだけだよ」
夬皇は服の袖の後ろ辺りに付いていた白い泡のようなモノを手で拭きとる。
「ハハハ。お前からめっちゃ甘い匂いする。蟻とか寄って来るくらいにさ」
「ホントだよ。ちゃんと落ちるかな、この匂い」
それは数時間前に遡る。
念願のアレとは、夬皇の復活祭と冠した彼へのパイ投げの刑であった。
事務所に急遽設けられた特設ステージに夬皇は上げられ、椅子に座らされ、両手両足を縛られた状態で、全スタッフからおめでとうやそれ以外?の想いがこもったパイを投げつけられると言うイベントを受けて来たのだった。
拒否権はなかった。
寧ろ、勇緋からのお墨付きを頂いていたらしく、思いっきりやられてきた。
「ちょっと、口に入ったし。しかも、味がちゃんとしてるのがまた腹が立ったわ。ガチじゃんって」
「だいぶ楽しそうな写真が届いていたよ、さっき。ほら」
そう言って勇緋がスマホの画面を見せると、全身真っ白になっている夬皇と思われる人物が磔にされている写真があったのだ。
「やば、誰だかわからない」
「ホント、盛大にやってくれて良かったよ。俺も見たかった」
「てか、いつのまに三輪先輩と連絡先交換してるんだよ、勇緋…」
「お前が色々忘れている間に、相談に乗って貰ってたんだ」
「ふーん」
「何、その感じ。まさか、お前。嫉妬?」
「そんな訳あるかぁ!」
咄嗟に勇緋は逃げ出す。すぐさま、夬皇も彼を追いかける。
リビングで勇緋を捕まえた夬皇は、その勢いのまま、彼をソファへ倒した。
「捕まえた♪」
「ちょ、ちょっと。離して」
勇緋を眼下に、夬皇は彼を押さえ付けたまま、視線を合わせる。
すると、夬皇の髪に隠れて付いていたクリームがぽたりと勇緋の頬に落ちた。
「あっ…」
「こんなところにも付いていたのかよ。やり過ぎだよ、全く」
「凄い甘い匂いがする」
彼の態度に、夬皇はフッと怪しく笑って見せると、そのまま顔を近づけて、そのクリームを舐め取ったのだ。
まさかの行動に、勇緋は顔を赤らめた。
「夬皇…お前、今」
「ずっとお預けだったからね。それと、さっきのパイの件のお返し」
そう言いながら、ニコッと笑う彼の表情に、勇緋は身体を震わせる。
この気障っぽく、心を鷲掴みにされるくらい大好きな夬皇の表情。
ずっと勇緋はコレを待っていたのかも知れない。
自然と目がトロンとしてしまって、勝手に唇が動いてしまう。
その変化を夬皇は見逃さない。
「勇緋、どうしたの? そんな顔して」
その言葉に、勇緋は少し目を赤らめて言葉を続ける。
「俺はずっと、今、目の前に居るお前を待っていたんだなって。そう思ったら、嬉しくなってさ」
優しい笑みを見せる彼に、夬皇もドキッとしてしまう。
夬皇は体勢を落とし、二人の頬同士が触れ合うくらい身体を抱き締め合う。
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