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第二章 失って得たもの
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部屋の中が仄明るくなっていることに気がついて、僕は慌ててベッドから身を起こした。寝過ごしてしまったと焦ってベッドから下りようとして、はたと動きを止める。いつもなら、鉛のように重い体を無理矢理引き起こさねばならないのに、今日は妙に軽い。恐る恐る立ち上がって、大きく伸びをしてみた。朝の少し冷たい空気を吸い込んでも、肺が悲鳴を上げて咳き込むどころか清々しさに満たされた。こんなに気持ちの良い朝を迎えたのは何日ぶりだろう。昨日までの熱っぽい体と倦怠感が嘘のようだ。
体の隅々まで心地よい中で、一点だけ不快感を感じる場所がある。妙にごわつく下履きだ。僕は昨夜のことを思い出し、その瞬間に晴々とした気持ちが塞ぎ込んでしまった。
この体の好調は、間違いなく昨夜クリストフに教えてもらった自慰のおかげなのだろう。それなのに、誤解とはいえ僕はクリストフを傷付けてしまった。しかも、行為の中で熱に浮かされてキスまでしてしまったのだ。僕は無意識に自分の唇に触れた。昨日までかさついていたそこは、体調と同じように随分と潤っている。
クリストフは昨日のキスをどう思っただろうか。僕なんかにされてさぞ不快になったことだろう。それでも撥ね除けなかったのは、僕に自慰を教えるという義務があったからか、或いは混乱している僕を哀れに思ったからだろう。きっと不本意ながらも応えてくれたのだ。
僕とクリストフとの心の温度差を思うと、僕の気分は益々落ち込んでいった。だって僕の方は、昨日の触れ合いを少なからず嬉しいと感じていたから。
そこまで考えて、僕は自分の軽薄な感情に驚いた。
嬉しいだなんてどの口が言うのだろう。クリストフは僕に自慰を教えることすら初めは渋っていた。それを強要し、キスを迫り、挙句拒絶し傷付けた僕が、その行為を嬉しいなどと思うのはあまりにも厚かましい。
僕は両手で思い切り頬を張った。大事な友人にこれ以上失望されたくはない。僕は気持ちを切り替えて、急いで着替えを済ませると朝食の準備に取り掛かることにした。
すっかり元気になった姿をすぐにでもクリストフに見せて感謝を伝え、昨日の数々の非礼を詫びたい。そう思ってはいたが、そろそろ店じまいの時間になっても、酒場に彼の姿はなかった。クリストフは今では数日に一度、それも慌ただしく店の様子を覗きに来る程度で、昨夜会ったのも随分久しぶりのことだった。
早く謝りたいと気持ちが逸って落ち着かなかったが、優しく穏やかなクリストフは僕からの謝罪を別に求めてはいないだろう。これは僕の自己満足に他ならない。客やクリストフのことを思えば、彼がこの宿屋を監視せずに済んでいる安全な現状に喜びこそすれ、頻繁な来訪を望むのは違うはずだ。僕は焦る心をそうやって宥めながら、いつかふらりとやって来るだろうクリストフを待っていた。
しかし、それから十日が過ぎてもクリストフが店にやって来ることはなかった。その間、怪しい静かな集団の来訪もなかったから何も問題はないのだが、これほどの期間クリストフと会わないことは今までなかったので、僕は不安に苛まれるようになっていた。
なにせ最後に会ったのはあの夜だ。僕に呆れ、顔を合わせたくないと思ったのかもしれない。もしくは、任務で怪我でも負って動けないのだろうか。あらゆる良くない想像が脳裏を掠め、僕は一日に何度も酒場の扉を振り返っては、溜息を吐いていた。
少し神経が過敏になっていたからだろう。普段なら喧騒に紛れ聞き流してしまうような、客達のささやかな噂話を僕の耳が捕らえた。
「ほらお前が気に入らねぇっつってたあの男、とうとう身を固めるらしいぞ」
「あぁ? どいつだ」
「ほら、あの赤い騎士だよ」
「近衛の団長か?」
「違う違う、その息子の方だ」
「あぁ、クリストフっつったか。シュヴァリエ家の」
僕はどきりとして思わず手を止めた。
冒険者達は同じ戦いを生業としながら、大した仕事もせずそれでいて自分達よりも待遇の良い騎士を目の敵にしている者も多い。しかし、こうして個人の名前が出てくることは稀だ。それだけクリストフが注目を集めている人物だということなのだろう。僕は仕事をしている振りをして、こっそりと聞き耳を立てた。
「身を固めるってのは、どういうこった」
「結婚すんだとよ」
“結婚”の一言を耳に入れた瞬間、一気に体温が失われた気がした。心臓が血液を送るのを止めてしまったように、体中が静かで、冷たい。
結婚の話なんて、本人からは一度も聞いたことがない。けれど貴族同士のことであれば、正式に決まるまでは他人に軽々しく話したりはできないのかもしれない。ましてや身分も違う僕になどは。
どんなに忙しくても数日おきに顔を出してくれていたクリストフがぱたりと訪れなくなったのは、結婚に関わる準備や手続きでこちらに足を向ける暇もなかったのかもしれない。そう考えると辻褄が合う気もした。火のない所に煙は立たぬと言うし、根も葉もない噂話ではなさそうだった。
体の隅々まで心地よい中で、一点だけ不快感を感じる場所がある。妙にごわつく下履きだ。僕は昨夜のことを思い出し、その瞬間に晴々とした気持ちが塞ぎ込んでしまった。
この体の好調は、間違いなく昨夜クリストフに教えてもらった自慰のおかげなのだろう。それなのに、誤解とはいえ僕はクリストフを傷付けてしまった。しかも、行為の中で熱に浮かされてキスまでしてしまったのだ。僕は無意識に自分の唇に触れた。昨日までかさついていたそこは、体調と同じように随分と潤っている。
クリストフは昨日のキスをどう思っただろうか。僕なんかにされてさぞ不快になったことだろう。それでも撥ね除けなかったのは、僕に自慰を教えるという義務があったからか、或いは混乱している僕を哀れに思ったからだろう。きっと不本意ながらも応えてくれたのだ。
僕とクリストフとの心の温度差を思うと、僕の気分は益々落ち込んでいった。だって僕の方は、昨日の触れ合いを少なからず嬉しいと感じていたから。
そこまで考えて、僕は自分の軽薄な感情に驚いた。
嬉しいだなんてどの口が言うのだろう。クリストフは僕に自慰を教えることすら初めは渋っていた。それを強要し、キスを迫り、挙句拒絶し傷付けた僕が、その行為を嬉しいなどと思うのはあまりにも厚かましい。
僕は両手で思い切り頬を張った。大事な友人にこれ以上失望されたくはない。僕は気持ちを切り替えて、急いで着替えを済ませると朝食の準備に取り掛かることにした。
すっかり元気になった姿をすぐにでもクリストフに見せて感謝を伝え、昨日の数々の非礼を詫びたい。そう思ってはいたが、そろそろ店じまいの時間になっても、酒場に彼の姿はなかった。クリストフは今では数日に一度、それも慌ただしく店の様子を覗きに来る程度で、昨夜会ったのも随分久しぶりのことだった。
早く謝りたいと気持ちが逸って落ち着かなかったが、優しく穏やかなクリストフは僕からの謝罪を別に求めてはいないだろう。これは僕の自己満足に他ならない。客やクリストフのことを思えば、彼がこの宿屋を監視せずに済んでいる安全な現状に喜びこそすれ、頻繁な来訪を望むのは違うはずだ。僕は焦る心をそうやって宥めながら、いつかふらりとやって来るだろうクリストフを待っていた。
しかし、それから十日が過ぎてもクリストフが店にやって来ることはなかった。その間、怪しい静かな集団の来訪もなかったから何も問題はないのだが、これほどの期間クリストフと会わないことは今までなかったので、僕は不安に苛まれるようになっていた。
なにせ最後に会ったのはあの夜だ。僕に呆れ、顔を合わせたくないと思ったのかもしれない。もしくは、任務で怪我でも負って動けないのだろうか。あらゆる良くない想像が脳裏を掠め、僕は一日に何度も酒場の扉を振り返っては、溜息を吐いていた。
少し神経が過敏になっていたからだろう。普段なら喧騒に紛れ聞き流してしまうような、客達のささやかな噂話を僕の耳が捕らえた。
「ほらお前が気に入らねぇっつってたあの男、とうとう身を固めるらしいぞ」
「あぁ? どいつだ」
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「近衛の団長か?」
「違う違う、その息子の方だ」
「あぁ、クリストフっつったか。シュヴァリエ家の」
僕はどきりとして思わず手を止めた。
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