君に一生分の休みを。

桜庭つむぎ

文字の大きさ
4 / 9

雨上がりの境界線

しおりを挟む
(……生きている、のか?)
久我宗介は、ふっと意識の底から浮上した。
先ほどまで肺を焼き、思考を塗り潰していた毒の熱も、背を貫いていた矢の激痛も、嘘のように消え失せている。それどころか、こびり付いていた死の気配さえ、今はどこか遠い。
ゆっくりと目を開けると、最初に見えたのは、雨に濡れた木の葉と――自分を見下ろす一人の女の顔だった。
自分の後頭部には、柔らかく温かな感触がある。膝枕だ。
「……あ。……お気づき、になられましたか?」
泥だらけの、見たこともない奇妙な黒い服を着た女。
彼女は今にも泣き出しそうな、けれど心底安堵したような顔で、久我を見つめていた。
「……君は、一体……」
掠れた声で、それだけを口にする。
だが、女は自分の正体を明かすよりも先に、震える声で気遣いを漏らした。
「お身体……大丈夫、ですか……? どこか、まだ、痛むところは……ありませんか……?」
「…………」
その瞳に宿っているのは、偽りのない献身だった。
彼女は凍える指先で久我の頬に触れようとして、ハッとしたように手を引いた。
「……あ、……すみません、不躾に。手が、冷たいですよね。……でも、よかった。本当によかった……」
「答えてくれ。君は、何をしたんだ。私の毒も、傷も……跡形もない」
久我が問い詰めようと上半身を起こしかけた時、女の肩からふっと力が抜けた。
そのまま糸が切れたように、彼女の身体がゆっくりと久我の胸へと倒れ込む。
「おっと……! 君、身体が氷のようじゃないか」
慌ててその肩を支えた久我の腕の中で、彼女は小さく口角を上げた。
「……ふふ。……私……仕事……やり遂げ、ました、よね……」
満足げに、そして少し眠そうにそう呟くと、彼女はそのまま久我の腕の中で、穏やかな寝息を立て始めた。
激しい雨が、静まり返った戦場を叩き続けている。
久我は、己の腕の中で急速に体温を失っていく「得体の知れない女性」を凝視した。
致命傷だったはずの自分の体には、今や傷跡一つ残っていない。代わりに、この女性はまるで自分の熱をすべて分け与えたかのように、凍りつくほどに冷たくなっている。
(……仕事、だって? この凄惨な戦場で、見ず知らずの私を救うのが君の仕事だというのか)
戦場で数多の策略を巡らせ、盤面を支配してきた軍師の脳が、かつてないほどの混乱に陥る。
目の前で起きたことは、医術でも呪術でも説明がつかない。だが、論理よりも先に、彼女をこのままにしてはおけないという「教師」としての本能が優先された。
「……やれやれ、困ったな。これほど大きな貸しを作らされては、放っておくわけにもいかないじゃないか」
久我は、羽のように軽い彼女の体を、壊さないよう優しく、けれどしっかりと抱き上げた。
「風邪をひいてしまうな。……家へ帰ろう」
彼は雨に打たれる彼女を自分の衣で包み込むと、教え子たちの待つ寺子屋へ向けて、静かに走り出した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

暴君幼なじみは逃がしてくれない~囚われ愛は深く濃く

なかな悠桃
恋愛
暴君な溺愛幼なじみに振り回される女の子のお話。 ※誤字脱字はご了承くださいm(__)m

新人メイド桃ちゃんのお仕事

さわみりん
恋愛
黒髪ボブのメイドの桃ちゃんが、働き先のお屋敷で、旦那様とその息子との親子丼。

ブラック企業で倒れた私を、ネトゲ仲間の社長が強制保護して溺愛しています

紅 与一
恋愛
過労で倒れた私を救ったのは、 ネトゲ仲間――そしてIT企業の若き社長。 「もう君は、僕の管理下だよ」 退院と同時に退職手続きは完了。 住む場所も、生活も、すべて彼に囲われた。 外出制限、健康管理、過保護な独占欲。 甘くて危険な“保護生活”の中で、 私は少しずつ彼に心を奪われていく――。 元社畜OL×執着気味の溺愛社長 囲い込み同棲ラブストーリー。

極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です

朝陽七彩
恋愛
 私は。 「夕鶴、こっちにおいで」  現役の高校生だけど。 「ずっと夕鶴とこうしていたい」  担任の先生と。 「夕鶴を誰にも渡したくない」  付き合っています。  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  神城夕鶴(かみしろ ゆづる)  軽音楽部の絶対的エース  飛鷹隼理(ひだか しゅんり)  アイドル的存在の超イケメン先生  ♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡  彼の名前は飛鷹隼理くん。  隼理くんは。 「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」  そう言って……。 「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」  そして隼理くんは……。  ……‼  しゅっ……隼理くん……っ。  そんなことをされたら……。  隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。  ……だけど……。  え……。  誰……?  誰なの……?  その人はいったい誰なの、隼理くん。  ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。  その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。  でも。  でも訊けない。  隼理くんに直接訊くことなんて。  私にはできない。  私は。  私は、これから先、一体どうすればいいの……?

旦那様の愛が重い

おきょう
恋愛
マリーナの旦那様は愛情表現がはげしい。 毎朝毎晩「愛してる」と耳元でささやき、隣にいれば腰を抱き寄せてくる。 他人は大切にされていて羨ましいと言うけれど、マリーナには怖いばかり。 甘いばかりの言葉も、優しい視線も、どうにも嘘くさいと思ってしまう。 本心の分からない人の心を、一体どうやって信じればいいのだろう。

一途な恋

凛子
恋愛
貴方だけ見つめてる……

抱きしめて

麻実
恋愛
夫の長期に亘る不倫に 女としての自信を失った妻は、新しい出会いに飛び込んでいく。

処理中です...