私の眼を愛する男

ミナト碧依

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私の手を愛する男

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 この仕事が好きだ。
 仕上げに近づくにつれ、鏡の中の表情が明るくなっていくと、手ごたえを感じる。なりたい自分になれて嬉しいというはにかむ笑顔を見たとき、どんな無茶なオーダーも忘れてしまう。
 一番緊張するのは、実はクロスを外す瞬間だ。うちの店は清潔感のある白を採用しているから、クロスをつけているとカラーやスタイルのディティールがよくわかる。けれどそれが取り払われると、急に鏡の中で服装とヘアスタイルが一つのファッションになる。
 その瞬間に「あれ?」という顔をするお客さんがたまにいる。ヘアスタイルだけを見たときは満足そうでも、自分の服装と合わせたときに違和感を覚えることがある。
 そういうときは、ちょっと苦い気持ちになる。だからこそクロスを外した瞬間に「やっぱり素敵」と何度も鏡を確認している姿に、美容師として達成感が強まる。
「さっすが飛鳥あすか。ありがとね。インナーカラー意外とハマるなぁ」
 もう二十年来の親友が、鏡越しに微笑みかける。
 親友であるだけに遠慮もないし、表情のごまかしもお互いにできない。そんな彼女を満足させられることが、毎月の楽しみになっている。元から美人だけれど、それをもっと美人にしたと優越感が湧いた。 
 不意に思う。こんなはにかむような満足げな笑顔を、私は最近いつ鏡に見せただろうかと。
 専門学校を出て十五年以上、この業界に身を置いてきた。同期は今何人美容師をしているだろうか。美容室に就職しても、その多くがスタイリストデビューもせずに店を去る。就職直後に生き残っても、女性美容師の多くは数年後に結婚や出産で辞めていく。辞めるときは復帰するつもりでも、復職する人は意外なほど少ない。
 そんな中でスタイリストになり、店長にもなった。同僚より部下が多くなり、ジェネレーションギャップも感じるようになった。店長として指導や監督をしなければならないけれど、時代にそぐわない指導をすれば老害と呼ばれる。自分がそうなっていないか、時々すごく不安になる。
 雑念を振り払ってお会計を済ませると、親友が「今日飲みに行く?」と誘ってくれた。
「明日休みでしょ? 店閉めるまで待ってるからさ。予約ねじ込んだお詫びに一杯奢るわよ」
「あー、ごめん。実はこのあともう一件予約があって」
「こんな時間に?」
 時計はもう二十二時近い。本来は二十一時閉店だから、店内にほかのお客の姿はない。彼女は私の親友だし店にとってもオープン時からの贔屓なため、特別にこの時間に入れたのだ。ほかのお客の引きが早かったので個室以外の片付けも早く終わり、スタッフももう帰している。
さとるがね」
 私がオーナーの名前を出すと、親友は納得したように頷いた。
「上司命令じゃ仕方ないか」
 そのとき、扉をノックする音が聞こえた。VIPルームというほどではないけれど、他人の目を気にする人も来店するため、いくつか個室があるのだ。
 振り返ると、戸口に立ったオーナーの悟が読めない笑顔を浮かべている。ちなみにドアは最初から開け放たれていた。
「俺がパワハラ上司みたいな言い方やめてくれません?」
 いつもは結んでいることの多いロン毛を無造作におろし、カジュアルな服装を身に着けている。四十路だけれど、ロン毛が似合う程度に顔が整っているし、若いとも更けているとも見えない。年齢不詳感がすごい。
「オーナーによる技術チェックがこんな深夜だなんて、十分パワハラじゃないですか?」
 店の常連であるため悟とも顔なじみで、友人というほどではないけれど気安い関係だ。
 同僚だった悟が独立したのは十数年前のことだ。店が軌道に乗り、私もスタイリストとして指名客も持てるようになった十年前、この店に引き抜かれた。悟はいきなり私を店長にすると順調に店舗や事業を増やし、今やコンシェルジュ付きタワマン(しかもかなり上層階)暮らしのセレブである。
「今日の俺はただのVIPですよ。どうしても飛鳥にやってもらいたくて、オーナー特権で予約しました」
「私の親友特権の更に上を行く人がいたんですね」
 そう言って二人が笑い合う。美男美女がやると、まるで恋愛の駆け引きでもしているようだ。
 帰り際、親友が悟の目を盗んでこっそり「待ってようか?」と聞いてきた。
「ううん、多分てっぺん超えちゃうし。明日出発なんでしょ?」
「午後だから平気よ。今回はちょっと僻地に行くから、一カ月くらい連絡つかないと思うんだけど」
 彼女はそれなりに名の知られた写真家で、世界中を飛び回っている。人物を撮らないこと以外被写体にこだわりはないようだけれど、大自然や廃墟など、都市とは真逆の場所に行くことが多い気がする。
「今回もでしょ。ありがと。ごめんね、気を遣わせて」
「私が離婚したときは、飛鳥が一緒にいてくれたでしょ」
 学生結婚した彼女が離婚したのは、写真家として名が売れ出した頃だった。私もその頃にはスタイリストとしてそれなりの自信もついてきていて、二人とも自分の夢に向かって邁進しようというときで。
 この親友は離婚を乗り越え、写真家としても有名になって年々美魔女になりつつある。私は、何になれたんだろうか。
「飛鳥?」
 心配そうに見つめられた。
 誤魔化せないとわかっていても笑顔を作る。今はそれが必要だから。
「大丈夫。仕事してる方が気がまぎれるから」
 そう言うと、親友は何か言いたげに、けれど「わかった」と言って帰っていった。
 今の私にとって一番ちょうどいい距離感で、彼女のそういうところが大好きだ。

 個室に戻ると、悟が鏡の前にスタンバイしてタブレットをいじっていた。店の備品ではないから仕事をしているのだろう。
  ふと見ると道具類がリセットされ、あるべき場所に戻っている。悟はオーナーだけど偉ぶることがなく、そういう雑務も厭わずやる。そもそも年齢や上下関係を気にしない性格だ。五歳ほど違うのに出逢った頃からフランクな感じで、すぐお互い名前で呼ぶようになった。本来なら先輩なのに、対等に扱ってくれるのが嬉しかったものだ。
「今日はトリートメントだけでいいんだっけ?」
 私が声をかけると、悟はタブレットをスリープにして鏡前に置いた。鏡越しに目が合う。
「うん、時間遅いのにごめんな。先週他店にカットで行ったらシャンプー合わなかったみたいでさ、なんかコンディション悪くて」
 悟はグループ以外の店も積極的に利用している。安いところも高いところも手当たり次第だ。チャラそうに見えて実は研究熱心なところを密かに尊敬している。本人は「楽しんでるだけ」なんて言うけど、現場から離れたあとも店で使う薬剤のことはすべて把握しているし、明日店に戻っても即働けるだろう。経営もしながらなんて、なかなかできることじゃない。
 私はスツールに座って悟の髪に触れた。普段のケアやセットがいいからわかりづらいけれど、長年見ている私にとってはベストな状態とは言い難かった。
「確かに、ちょっと乾燥気味ね。てゆーかカットも……」
「雑?」
 せっかく言うのを避けたのに、悟がはっきり言ってしまう。
「そこまでは言わないけど、悟の今までの好みとは違うと思って」
「やっぱわかるかー」
「気に入らないならカットもやり直すよ」
「でももう遅いし。彼氏心配すんじゃないの」
 返事に困って、「お互い様でしょ」と濁しておいた。
「俺は待ってるような子いないもん」
 お金を持っていて、それを稼げるくらい頭が切れて、年齢不詳になる程度に容姿も整っている。そんな男がモテない筈はなく、悟自身女好きと言ってはばからないので、遊び相手が複数人いる。それさえ一人とは長く付き合わず、お互いに気軽な関係を望む女性に限定しているらしい。
「変なとこ気を遣わなくていいわよ。カットならそんなかからないし。それにタクチケくれるんでしょ?」
 頑張れば終電に間に合うだろうけど、悟はこういう遅くなった日は絶対タクシーチケットを出してくれる。店のスタッフにも例外なく配るので、私も遠慮しなくなった。
「そりゃーもちろん。じゃあお願いしてい?」
「りょーかい。じゃあ先にシャンプー台行こっか」

「あー、それめっちゃ気持ちいー。そこそこ、くるわー」
 二人きりの店内なので、悟がはばからずにおっさんのような声を上げる。
 あ、実際おっさんだったわ。
 うちの店はシャンプー時にマッサージをする。美容院で少しでも気持ちを上げてもらいたいという悟の発案で、かなりしっかりしたマッサージだ。敢えてヘッドスパのコースを設けない徹底ぶり。
「裕翔も飛鳥直伝だけあっていい腕してたんだけどなぁ。辞めちゃったなぁ。辞めないでほしかったなぁ。なんか今更泣いちゃいそう」
「はいはい」
 裕翔が店を辞めて二年以上経つのに、悟は今もたまにこういうことを言う。決断を振り返らない悟にしては珍しい。それほど裕翔を買っていたのだろう。その気持ちは少しわかる。
 裕翔は店を辞めてモデルに転身した私たちの元部下だ。昔から整った顔と恵まれた体格をしていたからモデルの誘いはあったのに、初めてこの店に来た高校生の頃から美容師になると言ってひたむきに頑張っていた。
 ずば抜けた美形がそう見せていただけかもしれないけれど、どこか影のある子で、若いのに浮ついたところがない努力家なところが気に入っていた。
 それがどうして急にモデルになることを受け入れたのか、実はよく知らない。でも裕翔がどれほど真剣に美容師を目指していたのかを知っているから、それを辞めたいと言ったとき、本気なのだと思った。私は引き留めなかった。悟が辞めるスタッフを、それもアシスタントを引き留めたのは意外だった。
 プロの整体師ではないけれど、やっぱり触れているとわかるものがある。
「なんか左が異常に凝ってない?」
「あー……実は」
「忙しいの? アパレルブランドの方、またなんか企画動かしてるんでしょ?」
 悟は美容室のほかにエステやネイルサロン、最近ではアパレルも手掛けている。正直かなり多忙だ。
「最近『七星の剣』が電子化されてさー!」
「は?」
「もう止まんなくて。左にタブレット持っちゃうからだろね」
「仕事じゃないんかーい」
 予想外の言葉に呆れて、棒読みで雑に返してしまう。
 悟が言っているのは私たちが子どもの頃に流行ったバトルマンガだ。確か百巻近くあった人気シリーズだったけれど、今はもう絶版になっているらしい。なんでそれを知っているかというと、悟が手に入らないとこぼしていたからだ。
 シャンプー台から席に戻ると、鏡前のタブレットが目に入った。ということは、さっきも仕事じゃなくて、マンガを読んでいただけなのか。
「気になるなら読んでていいわよ」
「俺飛鳥の手技見るの好きだもん」
「私はあんまり得意じゃないんだけどね」
「今更じゃない?」
「あんたの目はよく知ってるもの。ずっと緊張するわよ。多分この先も」
 技術チェックに来たわけじゃないというのは本当だ。けれどもし私の腕が少しでも落ちたら、きっと悟はすぐに気づく。そうなったらいずれ私からこの店を取り上げるだろう。私にはこの仕事しかないのに。
「飛鳥のそういうとこ、偉いよね」
「馬鹿にしてる?」
「すげぇ褒めてる」
 悟の髪をカットするとき、お互いに自然と口数が少なくなる。私は緊張しているし、悟はそんな私を鏡越しに観察している。緊張はするけど、実はこの時間が嫌いじゃない。目の前のお客さんに集中できるから。
 ただし従業員たちには不評だ。オーナーと店長が無言とか、そりゃ威圧的か殺伐として見えるだろう。悟が閉店後に予約を入れるのは、そういう事情もあった。たまになら店の空気が引き締まっていいんだけど。
 切った髪を払ってクロスを取ると、悟は鏡の中の自分を見て満足そうに言った。
「やっぱり君の手が一番だな」
 ひじ掛けに両手を置いて泰然と座っている様は、まるで王様だ。王様の一言に、私はほっと胸をなでおろす。同時に達成感で高揚した。
 二人で片付けをして、もう店を出るというとき、悟が不意に言った。
「なあ」
「なに?」
「君、なんかあったの」
 反応が遅れた。親友と上司に仕事ぶりを褒められて嬉しかったのに、その気分のままでいさせてほしかったのに、なんで今言うの。
「なんかって?」
「仕事は完璧だけど、様子は少し変だよ。……もしかして十年同棲してるって彼氏となんかあった?」
 ぎくりとした。本当のことを言うか迷ったけれど、そういえば住所変更届でばれたのかもしれない。
「……まだ九年よ」
「あと一年くらい、俺らの歳じゃ変わんねぇよ」
 変わらなくない。それが一年に満たない差でも、一ケタと二ケタじゃ雲泥の差だ。
 急に、これから一人の家に帰ることを想像してぞっとした。
 店の鍵を閉め終えると、悟が私の頭にポンと手を置いた。
「やっぱ、飲みにでも行こっか。俺フンパツしちゃう」
 いつものにやけ顔じゃなく、優しい微笑み。昨今はコンプライアンスが厳しいからとやらなくなっていたけれど、新人の頃、こうしてよく慰められたことを思い出す。ああ、私そんなに落ち込んで見えるのか。
「嫌よ」
「えー、つれなーい」
 悟が下手なオカマ声で言う。
「安いお酒でさっさと雑に酔いたい」
 私の可愛げのないリクエストに、悟は嫌な顔ひとつせず「りょーかい」と親指を立てた。そのポーズがそこはかとなくダサくてちょっと笑った。中年の割に格好いいのに、なんで時々こう、おっさんくさいことするかな。

「で、なんであんたの家なのよ。しかも全然安くないお酒じゃない!」
 カウンターキッチンのスツールに座って、私は悟を睨みつけた。
 ワインに詳しくはないけれど、バローロなんて私でも知っている高級ワインだ。
「俺安い店も好きだけどさ、今日は飛鳥ちゃんを大事にもてなしたい気分なの」
 そう言いながら、悟は手際よくコルクを抜いた。
「ま、店で飲むより安いし、素人のつまみでバローロ飲ますのも結構雑じゃんってことで手を打ってよ」
 カウンター越しに悟がボトルを傾ける。高そうなグラスを手に取って注いでもらった。悟は手酌で自分のグラスにも注ぐと「乾杯」と微笑んだ。悔しいくらい決まっていて、一体何人の女がここでその笑顔を見たのだろう。
 悟はワインを口に含んで飲み下すと、満足そうに口角を上げてラベルを見た。施術後の笑顔に重なって、なんだか少しだけワインに嫉妬した。
 グラスを鼻に近づけると、赤ワインの芳醇な香りがする。お高いワインは確かに美味しかった。これを表現する言葉を持たないのが残念だ。
 悟は買ってきたチーズとドライフルーツを先に出すと、料理を始めた。
 意外なほど手慣れていて、あっという間に一品目が出てきた。マグロのカルパッチョだ。マンションに着く前にスーパーに寄って色々仕入れてきた。カルパッチョといえば白ワインと合わせるイメージだけれど、マグロくらい味がしっかりしていると赤ワインにも合う、というのは悟の言だ。単に好みの問題かもしれないけれど。
「思ったより重めの味だったから、ちょっと合わないかも。ごめんね」
 あっさりと前言を撤回されて、笑ってしまう。でも知っている。悟がカルパッチョを用意したのは私の好物だからだ。
「初デートファミレスがありかなしか問題で騒いでる男に聞かせてやりたいわね。私相手にさえここまでするんだから、普段のお相手たちはどこに連れてってもらってることやら」
「ああ、あれなー。そもそも論点ずれてるって思うの俺だけ?」
「ずれてるって?」
「初デートでファミレス連れてく男も、それを嫌がる女も、別にどっちも悪くないって話。価値観の相違ってだけだろ」
 ただの家飲みでカルパッチョをレストランばりにおしゃれに盛り付ける男に言われても、説得力がない。しかも赤ワインに合うようにか、バルサミコソースでしっかりめのアクセントをつけている。合わないかもなんて言ってたのに、十分美味しい。
「あんたは連れていかないでしょ? ファミレス」
「店出した頃はファミレスとかチェーンの居酒屋だったろ。飛鳥怒んなかったじゃん」
「そりゃそうだけど、別に私彼女じゃないし」
 あの頃の悟はお金がないどころか借金があった。お互いに若かったし、割り勘どころか私が奢ったことも何度もある。でも私たちは友人、或いは元同僚だったからそんなものだ。
「あの頃は口説くとしてもそんなもんだったよ。俺にとってはそれだって苦しいときあったけど、大事な時間だった」
 焼いたチキンをトマトで煮込む間、悟はキッチンから出てきて私の隣に座った。空になる直前のグラスにワインを注いでくれる。
「デートって特別にしたいじゃん。初デートならなおさら。そこに特別感を見出せるかどうかでしょ。男にとってはファミレスも特別だったのかもしれないし、女はそれを特別だと思えなかったのかもしれない。価値観の相違だろ」
「安く扱われたって感じるのよ」
「それは理由によるだろ。店出した頃の俺に飛鳥が怒らなかったみたいにさ。今そういう安いところ連れてったらどう思う?」
「連れてってってお願いしたくらいよ」
「ほら。それが好きで選んだなら問題ないしちゃんと特別。まあ金も十分あるのに一方的にケチるためだけのチョイスなら個人的にはクズだと思うけど」
 あっはっはと悟が軽く笑う。
「まあそれだって、結局価値観の違いってことで落ち着くんじゃない?」
 価値観。
「私には価値がなかったってことか」
 つい口から出たそれは、会話というよりほとんど独り言だった。
「彼女に金使いたくないってやつだったの?」
 聞き流すこともできただろうけれど、悟はナチュラルにそれを受けた。誰がとは言わない。多分、私が話を逸らしたらそれ以上は踏み込まない。そういう人だ。
 穏やかな表情で私の言葉を待つ悟に、ああ、私は聞いてほしいんだと思った。だからここまでついてきた。ほかに人がいるときや職場はともかく、プライベートな空間で二人きりになったことなんてなかったのに。
「節約自体は、同棲当初に私が言い出したことだった。結婚式したかったし、悟の店が続くかわかんなかったし」
 従業員の失礼な物言いにオーナー様は怒りもせず、グラスを傾けながら笑った。
「そういう堅実なところ好きよー」
 元彼と住み始めたのは、ちょうど悟の店に引き抜かれた頃だった。二十代も後半だったから当然結婚するつもりだったし、軌道に乗ってきたとはいえ若い店に行くこと自体が不安で随分悩んだ。そもそも同棲も、家賃や生活費の節約から始まったことだったのだ。
「『特別』まで我慢する気はなかったのよ」
 声のトーンを落とした私に、悟はワインを注ぐ。
「もともと休みも時間も合わなかったし、いつの間にか二人で外食することも減って、誕生日とか記念日もおろそかになって。プレゼントなんて、もう最後にもらったものも思い出せない。忘れられたとかじゃないの。『俺たちもうそういうのやる感じじゃないだろ?』って流されたのが悲しかった。しかも」
 口走りそうになって、慌てて口を噤んだ。
 けれど悟はしっかり聞いていて。
「しかも?」
 カウンターに頬杖をついて、続きを待っている。
 いくら親しいといっても異性だし、悟とこういう話をしたことはなかった。少なくとも私のプライベートの深いところは。
 私の続きを諦めたのか、頃合いだったのか。悟がキッチンに戻って鍋の蓋を開けた。トマトとバジルのいい香りが漂う。香りだけで飲めそうだ。そう思って手酌で注いだら、一本目が空いてしまった。あれ、もうそんなに飲んだんだっけ。
「もう一本開けるかー。飛鳥、セラーから好きなの選んで」
 私がラベルも見ずに(見てもわからないから)適当に取ると、いつの間にか側に立っていた悟がそれを取り上げた。駄目なやつだったかなと心配した私をよそに、さっさとキッチンに持っていって開栓する。
 新しいグラスに注がれたワインは血のように重い赤をしていた。さっきのバローロもそうだけど、悟はどっしりとした重い赤ワインが好きなのだ。
 悟が味見をしながら「やっぱり牛肉にするべきだったかな」なんて言っている。私も口に含むと、確かにステーキやローストビーフなんかが合いそうだなと思った。でも今日は雑な飲み方をする日だから、むしろ似合いな気がした。や、全部美味しいんだけど。それにこの時間から牛肉を胃に入れる気になれない。
 チキンのトマト煮が出てきて、ほかほかと湯気を上げている。ワインより明るい赤で満たされた皿。少し生クリームがかかっていて、さっきのカルパッチョもそうだけど家飲みで出す料理のクオリティじゃない。
 恋人でない私への「おもてなし」が無性に嬉しくて、その反面むなしくなって、私は気づけば続きを口にしていた。
「レスだったの」
「え」
 隣に座り直そうとしていた悟が、少し固まった。
「なんて?」
「セックスレスだったの、元彼と」
 白状すると、悟が絶句した。素で驚かないでほしい。傷つくから。
 やっぱり言うんじゃなかったかと後悔して、やけくそでワインを煽った。
「えー、それ、その……どのくらい?」
「もう五年くらい」
「付き合った半分レス? マジ?」
「我ながらびっくりだけどマジ」
 ほかほかのトマト煮を口に突っ込んだ。見た目通りこれも美味しくて、なんか悔しい。
「明確な原因ってあったの?」
「なんかもう、私とは家族だからそういうのは気持ち悪いんだって」
 軽めに言ったつもりだった。悟もそう返してくれると思ってた。なのに真剣な表情で、労わるように言葉を発した。
「『気持ち悪い』は傷つくな」
 傷つく。
 そうだ。私は悲しかった。傷ついた。女として求められないことへの焦燥感と絶望感でいっぱいだった。
「そのくせ別れようとしないの。『家族だから大事に思ってるよ』なんていうの」
 彼は本心から言っていた。だからやり直せるんじゃないかと期待してた。お互いに嫌いになったわけじゃない。だから離れる決心がずっとつかなかった。
「なんなのよ。『もう子どもとかもいらないだろ?』って勝手に決めんな」
「飛鳥はいいお母さんになりそうだよね」
「わかんないわよ。もうアラフォーだし、子どもを持たない人生を考えたことだってあるわ。仕事好きだし、それもいいかもって」
「でも話し合いもなにもなく、勝手に決められたから嫌だったんだろ」
 長く一緒にいた。相手をわかったつもりでいた。わかってくれてるとも信じてた。けれど些細な決めつけが、どんどん私をがんじがらめにしていった。
「『お前だって全然濡れないし、しなくていいだろ?』って言うのよ。ふざけんな、人のこと不感症扱いして。あんたが下手なだけでしょ」
 味わう余裕もなく高いワインを飲み干すと、悟はけらけら笑った。
「いいねー。もっと言っちゃえ。俺飛鳥のそういう強いとこ大好き」
 その言葉に少しだけカチンときた。
「あんたまでそれ言う⁉」
「おおっと。まま、飲んで」
 八つ当たりされた悟が、かいがいしくワインを注ぐ。
 ――俺は弱いから、お前みたいな強い女と生きていきたかったよ。でもお前は強すぎて、俺なんか要らなかったね。
 別れるときの、被害者ぶった彼の言葉が耳にこびりついている。
「そういう奴ほど守ってあげたくなるようなあざと可愛い女が好きで、私みたいなのは『強すぎる』って引いてくのよ」
「『君は一人で生きていけるだろ』って?」
「それ!」
 失礼にもほどがあるけど、オーナー様を指さして同意を示した。
 元彼も「強い女が好き」と言いながら、それでも自分がいないと駄目な女がよかったらしい。矛盾している。大体「強い女」ってなんだ。ほっといても面倒じゃない都合のいい女がよかっただけだろ。
「三歩うしろをついてきてくれる女子って、いつの時代よ」
「ついてきてくれる女ってのは嬉しいもんだよ」
「悟までそういうタイプ」
「俺についてこられる女ってグッとくるじゃん」
 それはそもそも求めるものが違う。たった数年で年商を億にまで押し上げた男に自力でついていける女性って。
「あんたのキャリアに並べる女ってどんなよ」
「案外いると思うけど」
 納得いかない。返す言葉が見つからなくて、グラスに口をつけた。
「どういうところが好きだったの?」
「不器用だったけど、優しい人だった。居心地よくて、私の気が強いとことか口悪いとことか、受け入れて、宥めてくれて。つつましいデートでも十分幸せだったから、ずっと一緒にいるならこういう人かなって思ってた」
 燃え上がるような恋心はなかった。けれど彼との穏やかな時間が大好きだった。可愛げのないことを自覚している私だけれど、彼と一緒なら柔らかくなれる気がした。
「一緒にいるうちにどんどんお互いが生活の一部になっていって、気が抜けて、気づいたら格好もつけなくなってた。ずっと気を張るのも疲れるし、それが居心地よかったの。そういうの許してくれるなんて優しいとすら思ってた」
 最初それは優しさだった。けれど次第に怠惰に、そして無関心に変わっていった。
「でも『特別』がどんどんなくなっていることに気づいて、満たされなくなっていった。セックスだけが私を彼の『恋人』にしてくれる気がした。でもそれもなくなって。私はまだ、あの人の『女』でいたかったの。でも彼はそうじゃなかった。彼のPCに、エロ動画の検索履歴があったの」
「あーそれは、男の子だからねぇ。それだけは俺も、男の味方しちゃうわ」
「別にそれはいいの。別腹だってわかってるつもりよ」
「寛大な飛鳥に感謝を」
 胸に手を当ててしおらしくする悟が少しおかしかった。
「でも私とは気持ち悪いのに、ほかの女には興奮するのかと思ったら、私はもうこの人の『女』じゃないんだって理解した。そしたらもう、一緒に暮らせなかった」
 多分、セックスレスが駄目なんじゃない。私はまだ『女』でいたかった。彼は私をそう扱えなくなった。ただそれだけ。
「なあ」
「うん?」
「煙草吸っていい?」
「いいけど、やめたんじゃなかったの?」
「やめてたけど、無性に吸いたくなった」
 そう言って持ってきたのは、見たことのある銘柄の煙草。ライターと灰皿もすんなり出てきたところを見ると、たまに吸っているのだろう。悟は煙草をくわえると、慣れた手つきで火をつけた。
 なんとなく、その仕草を眺めてしまう。煙草を持つ指は深爪気味で、煙草をくわえる唇は薄い。
「不感症ってそんなに駄目?」
「相手が下手だったんなら、不感症じゃないでしょ。ほかの男とはどうだったの」
「多分感じてたと思うけど」
 正直、彼とセックスの相性は良くなかった。それは付き合い始めからわかっていた。けれど私もセックスに快楽を求める性質ではなかったし、彼が好きだったから一緒にいた。彼だから抱かれたかった。
「十年一緒にいたなら、下手なりにコツとか掴むもんだろ。お互いに関してはプロなはずじゃん。それなのにこれって、君を感じさせる努力しなかったってことだろ。それはもうセックスじゃなくて、相手の体使ったオナニーだよ」
 悟の苛立ったような物言いが、胃のあたりにずしんと落ちた。
「今の、ちょっと痛かった」
「君のことじゃないよ」
「私のことよ。私、セックスの快楽なんて正直どうでもよかった。触れ合うことに意味があって、彼が私で感じてることがすごく幸せだったの。でも彼には、そういう私の姿、見せられてなかったのね。……幸せだったの、私だけか」
 見てるつもりで、相手を見られていなかった。だから彼は私とのセックスに幸せを見いだせなかったし、抱きたいと思わなくなっていったのだろう。
「本当にいい女だね。やっぱり馬鹿だよ、その男」
 悟はため息とともに紫煙を吐き出し、一本目を消した。
 不意に悟が私の髪に触れた。手入れされた綺麗な指先が、私の毛先をもてあそぶ。
「なあ飛鳥。慰めてよ」
 その誘いは少し意外だった。悟は遊び人だけれど、「結婚なんてしたくない」と公言するような奴だからか、そういう付き合いができない性質の私を誘ったことはなかった。
「慰めてやる、じゃなくて?」
「大事な部下をクズ男に蔑ろにされて傷ついてんの、俺」
「あんたって本当にたらしよね。男前なのが逆にむかつく」
「君が施術したんだから当然だろ? 今日の俺、最強よ」
 悟はビジネスで容赦しない。そんな悟が私の腕を認めている。それは恋愛には関係ないけれど、傷ついた私の自己肯定感を上げるには十分で。この男に抱かれたらどんなだろうと、初めて想像した。
「……いいわ」
 自分が誘ったくせに、悟は少し驚いたように目を瞠った。けれどすぐに相好を崩し、穏やかに微笑む。
 スツールから立ち上がり、悟は流れるように私にキスをした。久しぶりの煙草の匂いを強く感じる。昔はよく吸っていたから、これが悟の匂いだった。
 唇の柔らかさを確かめるようなキス。舌を入れるわけでもないのに、食べられているような気分になった。
 キスが気持ちいいと思ったのはいつぶりだろう。酔いもあってかもっと、と貪欲になって誘うように唇を開いた。けれど丁度唇が離れて、自分ばかり夢中になっていたのが恥ずかしくなる。
 そんな私に気付いていただろうけど、悟は優しく尋ねた。
「俺とのキスは嫌じゃない?」
 嫌じゃないどころかおかわりしたいくらいだ。とは、さすがに言えなくて。
「悪くない」
 私の強がりに、悟は気を悪くすることなく笑みを浮かべた。
「じゃあ大丈夫かな。ベッド、行こっか」
 何年も友人より近くて、恋人や家族よりは近くないところにいた。ずっと悟との間に色恋を感じたことなんてなかったのに。急展開なのに、ごく自然に、私は初めて悟の寝室に足を踏み入れた。

 無駄に広いベッドの中心で、悟は一本ずつ私の指にキスをした。
「私、指は性感帯じゃないけど」
「それも楽しそうだけど、だったら仕事中困りそうだな」
 水仕事だし薬剤もよく触るから、私の手は荒れている。お世辞にも綺麗とは言えない手をまるで壊れ物のように大事にされるのは、なんだか座りが悪い。
「俺が慰めてもらう側だし、俺がしたいことしてる。俺、飛鳥の手は俺の一番の財産だと思ってるから」
「あんたの、なの」
「束縛するつもりないけど、君が俺の側にいてくれるうちは、そう思わせてよ」
 長いこと上司と部下だった。所有物のような言い方は私の好みじゃないけれど、あかぎれだらけの指に、掌にキスをする様子はすごく真摯で。所有物どころか、この男が私のものだと勘違いしそうになる。
「俺、女性が綺麗になるところが好きでこの仕事してんだよね。綺麗になったとき、女の人ってすげぇいい顔すんじゃん」
「うん、わかる」
「俺は施術はあんまり向いてなかったからさ、飛鳥のこの手がすごいっていつも思ってる」
 悟は決して美容師に向いていなかったわけじゃない。私の髪だって今もたまに切ってくれる。経営の方が向いていただけだ。
「でも俺、飛鳥より上手かもって思うんだよね」
「何が?」
「女の人ってサロンとかエステ以上に、満足するセックスをしたあとが一番綺麗だって思う。さすがに飛鳥ちゃんは取ったことない方法でしょ?」
 そりゃそうだ。異性愛者だから、女性とセックスをしたことはない。
「飛鳥の気持ちわかるよ。自分とセックスした相手が気持ちよさそうな姿が好きって」
 だから女遊びが激しいのか、と妙に納得した。そして悟がモテる理由も。
 女好きで誠実じゃないように見えて、誰よりも女性を大事にしている。少なくとも一緒にいる間はそう思わせてくれる。それが心地いいんだ。
「俺に見せてよ。飛鳥の一番綺麗なとこ」 
 キスをしながら、悟は慣れた手つきで私を脱がせた。私も悟を脱がせようとしたけれど手探りじゃ上手くいかない。ちゃんと見ようと顔を離すと、顎に指が触れて引き戻された。後頭部が固定されて、長めのキスをされる。
 唇が離されて、でも触れるほどの距離で囁かれる。
「何もしなくていいから。俺に集中して」
「私があんたを慰めるんでしょ?」
「慰められてるよ。こんな最高にいい女を抱けるんだから」
 あっという間に下着姿にされる。室内は暗いけれど、モデルや美女ばかりと付き合っている悟に、何年も抱かれてないたるみ始めた体を見られることに抵抗があった。デブというほどではないと信じたいけれど、お腹だってちょっと出ている。三十代になって贅肉が落ちにくくなった。
 羞恥心で逃げ出したくなったけれど、悟は予想外のことを言った。
「こんなエロい体してたの。想像以上で鼻血でそう」
 上から下にゆっくりと視線を動かし、舐めるように私の体を見る。お世辞には見えなくて、そういうところが女の自尊心を満たすのだと知った。
「想像したことあったの、私のハダカ」
「当然だろ? 男なんて、知り合った女をとりあえず脳内で脱がせるもんだよ」
「あんただけよ」
「そうかなぁ」
 悟も脱いで下着姿になった。
 ベッドの上で胡坐をかく悟に、向かい合わせで跨る。
 悟は何度か私の太ももをなぞると、手を上に持ってきてブラジャーごと胸を包んだ。そのままやわやわと控えめに揉まれる。
 ブラには形を整えるためのパッドが入っている。大きく見せるためのものではないけれど、胸というかバッドを揉まれてる気がして、なんか居たたまれない。大きい方じゃないのは事実だし。胸を見られるのは恥ずかしいけど、ブラを外していいか聞かれてちょっと安心した。
 私の胸は悟の手に足りない。それを慎重に、大事そうに揉まれて心がこそばゆい。
「気持ちいいね」
「う、ん」
 私のぎこちない返事に、悟が「ごめん」と言った。
「手触りが最高ってこと。気持ちいいの俺だけだ」
「胸が性感帯の人もいるでしょ」
「胸で気持ちよくなるのって、実は結構上級者だろ。基本は脂肪だし、の割にデリケートだったりするし。だからこそ性的に気持ちよくなるには難しいんじゃないかな。恋愛感情がなければ余計に」
 さすが女性の体に詳しいことで。
「感じるふりとかしなくていい。勝手に探すから。でもあんまり緊張しないで。俺のこと忘れてもいいから、自分の体に集中して」
「それは相手を使ったオナニーにならないの?」
「セックスの在り方は、当人たちが決めていいんだよ」
「調子のいいやつ」
「俺のこと忘れるってことは快楽に没頭してくれてるってことだろ? 俺はそれ、かなり嬉しい」
 不意に悟の手が腰に触れた。
「わっ」
 体を止めようと思うより先に反射的に逃げてしまい、反動で悟を突き離してしまった。物理的に。
「飛鳥さん?」
 倒れはしなかったけれど、悟はちょっと不満そうだ。
 多分悟はもう少し抱き寄せようとしただけだ。私だって可愛くない逃げ方なのはわかるけれど、こればっかりは意思の力じゃどうにもならない。本当に反射的に動いてしまうのだ。
「ごめん、脇腹とか腰回り駄目なの。くすぐったいってレベルじゃないの」
 我慢しようとしても体が動いてしまい、ひどく疲れる。大した事をされていないのはわかっているけれど、どうしても刺激を強く受け取ってしまう。
「もしかして、触られるの断ってた? クズ男とも」
 ベッドでする話か、とちょっと思ったけれど、カウンセリングだと思ったので頷いた。
「う、ん。触られるって心構えしてても駄目で、体動いちゃうし。それで一回蹴っちゃったことあって。もちろんわざとじゃないんだけど」
「そっか。敏感過ぎるだけだよ。知ってた? くすぐったいところって性感帯だって」
「ええ……」
 聞いたことはある気がするけれど、正直不快感の方が強い。
「もったいないな。体動いてもいいから、もう少し試させて? 本当に駄目だったらやめるから」
「うん……」
「蹴られるのは嫌だから、ちょっと動きづらくしておこうか。動きそうだったらそのまましがみついてて」
 促されて、恐る恐る悟の首に両腕をまわして密着する。下着越しに性器が重なる。お互いにまだ、という感じだった。
 悟の両手が背中に触れた。指ではなく掌全体でベタっと触れられて、悟の手が温かいのがよくわかる。
「背中は平気?」
 頷くと、掌がゆっくりと私の背をなぞって下におりていく。身構えたけれど、意外に平気だった。敢えてフェザータッチではなくしっかり触っているのが逆にいいみたいだ。我ながら驚く。
「指じゃなくて面で触ったら平気そう」
 コツを掴んだ悟は、両手でゆっくりと私の背中から腰を撫でていく。多少くすぐったいときもあったけれど、体はびくつかない。そのことと温かい掌に安心して、少しずつ緊張がほぐれていく。
「エステのお客さんでも腰とお尻が駄目って人たまにいるらしくてさ、エステティシャンに教えてもらったんだよね」
 職業柄足腰が痛くなりがちだ。私も一回だけオイルマッサージに行ったけど、同じ理由で駄目だった。指か掌か、そんな簡単な違いだったなんて。
「まさかだったわ。エステ行けなくてちょっと悩んでたのに」
「グループ店なのに利用したことなかったな?」
 オーナー様の顔が覗いて、おかしくて二人でちょっと笑った。
 右手だけ背中から離れた。左は掌全体で腰を持ったまま、右手の指先が背中に触れる。それは徐々に下りてきて、肩甲骨の下あたりで体が震えた。それでも不意打ちされたさっきとは全然違う。というかくすぐったいところが性感帯という悟の言葉を初めて実感していた。
「嫌な感じする?」
 悟が耳元で囁くように尋ねる。本気で心配しているのが声からわかって、嫌な感じどころかむしろ感じてます、なんて恥ずかしくて言えなくて。悟の首に縋りついたまま首を横に振る。「よかった」と独り言のような声が、少し掠れて色っぽかった。
 ゆっくりと指が下りていって、腰を通るとさらに体は反応した。吐息が漏れる。迷うように指が一瞬止まったから、「へいき」と小さく促した。そのままお尻をなぞられて、吐息とも声ともつかない音が口から漏れる。
「また体強張ってる。一旦止めるから、リラックスして」
 そう言われて、無意識に身構えて力んでいたことに気づいた。
 宣言通り手が止まって、悟の掌のぬくもりを感じる。深呼吸して脱力すると、悟は背中のくすぐったくないところを撫でてくれた。なんだか安心して体を預ける。
 しばらくして一度完全に緊張がほぐれると、合図のようにこめかみにキスされた。
 指が上下に動いて背中から腰、お尻までを行き来する。その度に体はびくついたけれど、さっきよりも力まずに済んだ。変わらず面で触れている左手のおかげで過剰反応もしなくて、ちゃんと快楽を拾える安心感がある。
 しばらくそれが繰り返されたあと、お尻がゆっくりと揉まれた。
「ふぅっ」
 声が出て体が無意識に強張る。羞恥心で顔が赤くなったのがわかった。見られていないなくてよかった。けれどさっきとは違って悟は手を止めなくて、絶えず声が漏れる。
「悟、待っ……んっ」
 止めようとするけれど、自分の声に邪魔される。喘ぎ声のせいで喋れないなんて。胸と同じような脂肪の塊だと思っていたのに、こんな風に感じるなんて思いもしなかった。
「普段人に触られない場所が敏感なのは当然だよ。嫌じゃないなら、そのまま気持ちよくなって」
 快楽と羞恥心が混ざり合って思考がぐちゃぐちゃになる。こんなところ悟に見せるなんて嫌だ。
 泣きそうになって、でも言葉は喘ぎ声にしかならなくて。さすがに背中を引っ掻くか叩けばすればやめてくれるだろうか。
 いざ引っ搔こうとしたとき、悟の息が耳にかかった。その吐息は意外なほど熱くて、聞き間違いじゃなければ「可愛い」と言った。本当に、ただの独り言だった。
 すると跨った下にある悟の性器に急に気づいた。さっきとは違い熱を持っている。興奮しているのは私だけじゃないことに妙に安心する。
 前戯は一方的にするかされるものだと思っていた。けれどこれももうセックスなんだと嬉しくなる。悟の顔が見たい、と思った。
 首に回してた手を前に戻して、快楽に耐えながら悟の胸に手をついて上半身を少しだけ離した。いつものにやけ顔が消えていて、欲情した目にぞくりとする。思わず乾いた唇を舐めた。
 腰を持っていた左手が急にうなじに触れて、抱きこむようにキスをされた。急に激しいキスをされて思考が止まる。
「なに、急に」
 困惑する私に、悟が意外そうな顔をする。
「キスのオネダリかと思ったんだけど」
 そんなつもりはなかったけれど、キスが気持ち良すぎてもう一度したくなった。
「そうね」
「エロ……」
 もう一度下唇を舐めてみせると、悟はオネダリに応えてくれた。
 右手は相変わらず私の尻を揉んでいて、左手の支えがなくなったからか体の反応が大きくなってしまっていたけれど、快感が強すぎるのも嬌声が大きくなるのももう怖くない。悟は全部受け入れてくれる。
 この人と繋がりたい。私で気持ちよくなってほしい。
 キスをしながら触れていた悟の胸を撫でた。四十代と思えないほどには鍛えている。そのまま徐々に下の方へ動かしていった。さすがにシックスパックとはいかないけれど、脂肪の少ない腹部と小さなへそをなぞる。悟の体に興奮する日が来るなんて。
 そのまま手探りで触っていると、指先が下着を押し上げる先端を掠めた。
「んっ」
 悟が声を漏らす。
「ごめん、爪あたった?」
「いや、興奮して敏感になってるだけ」
「よかった」
「君は何もしなくていいよ?」
 悟は私の髪を撫でながら優しく言った。
 唐突に、悟が私を「君」と呼ぶ声が好きだなぁと思った。
 この人は私を「お前」と呼ぶことはほとんどない。おちゃらけた場の空気で使うことはあっても、名前以外だと「君」と呼んでくれる。オーナーだけど、上司だけど、そういう小さな部分で対等に扱ってくれていることがずっと嬉しかった。
「私も触りたい。駄目?」
「駄目じゃない。嬉しい」
 悟は笑って、啄むような軽いキスをした。そして促すように両手をおろして脱力する。
 私が少し胸を押すと、そのまま後ろに倒れてくれた。いくつも重なったクッションにもたれて、自分に触れる私を見下ろしている。
 私は悟の唇だけじゃなく首や胸にキスをしながら触れていった。乳首を舐めてもみたけれど、特に反応はない。不安になって見上げると、思いのほか余裕のない視線とぶつかった。
 下着の上からそっと性器に触れる。硬くなっているのが嬉しかった。何度かさすると硬さが増して、女としての自尊心が慰められる。下着のふちに手をかけると、悟は焦れていたのかほとんど自分で脱いだ。
 男性器を触るのはもちろん久しぶりだ。力加減がわからず、ゆるめに握って上下させる。
「もう少し強くてもいいよ」
 私の心を読んだように悟が言った。
「このくらい?」
 慎重に力を強めると、悟は笑った。そして私の手ごと自分で握る。
「このくらい、かな」
 予想以上に強い力で、間に挟まれた私の手が少し痛いくらいだった。私は思い切って強めに握り、それをしごいた。しばらくすると悟の息が乱れてくる。
「俺も触りたい」
 そう言われて顔を上げると、少し強引に引き寄せられてキスをした。
「もうちょっとこっち来て、全部脱いで」
 最後に残っていたショーツを脱ごうとして脱がされ、私たちはようやく全裸で向かい合った。
 ベッドに投げ出した悟の両足を跨ぎ、膝をついて腰を浮かせる。私は悟に覆いかぶさる形で彼のペニスを握り、悟も私のヴァギナに触れた。悟の指が中で動くのがわかる。その動きに合わせて私もペニスを愛撫した。
 久しぶりの膣への刺激に、腰が砕けそうになる。悟の胸に倒れこんでしまい、腕が動かせない。
 悟は私の体をひっくり返し、自分が上になった。私の膣に指を入れて動かしながら、再び私の手ごと自分のペニスを握ってしごく。挿入していないのに、もう入っているみたいだった。
 久しぶりだからじゃない。こんな快楽、ほかに知らない。
 すごく中に欲しい、と思った。けれど口がキスで塞がれて、言葉が出せない。それに指が抜けてしまうのも嫌だった。もっとこの快楽を感じていたい。すべての快楽を貪るように、キスに応えた。
 悟がひときわ手を強く握った。痛みを感じると同時に、悟の腰が震えて手の中がじっとりと濡れる。
 口を放した悟が、私の上で脱力する。重い。
「あー、出ちゃった」
 膣から指が引き抜かれて、もどかしさに中が震える。
「ごめん、俺だけ先に」
 体はもどかしかったけれど、絶頂の余韻が残る悟が色っぽくて、普段と違って余裕の姿がなんだか嬉しくて、不満には感じなかった。
 悟は私の上からどいて、ごろんと横になった。
「俺普段はこんな早くないんだけど。飛鳥の手、やばい。頭皮マッサージと同じで、なんかすげえ絶妙。なんでこんな俺好みの動きできんの?」
「握ってたの悟じゃない」
「でもなんか、自分だけのときと全然違うわ。背徳感で死ねそうなのにめちゃくちゃ興奮して、我慢できなかった」
「背徳感?」
「大事な手だもんよ。俺にとっちゃご神体レベルよ?」
 そう言って悟はまた私の手にキスをした。始めるときと同じように指一本ずつにキスをして、そのまま舐め始める。まだついたままだったから抵抗したけれどお構いなしで、最初より丁寧に一本ずつ執拗に指を舐めて、しゃぶって、手の甲にキスをした。中途半端にされた中が疼く。
「気持ちは全然萎えてないから、すぐ復活すると思う。続けてい?」
 言いながら指の股を舐められる。くすぐったいのか感じているのかわからなくなる。
「私も、入れて欲しい」
「ほんと可愛いね。どこに隠してたの。好きになっちゃいそう」
 調子いいやつ、と思ったけれど言わなかった。誰にでも言っているとわかっていたけれど、その言葉に今は救われていたから。
 悟は本当にまたすぐ勃起した。私は自分から悟に乗っかって挿入した。性に貪欲でも悟は引かないとわかったから。むしろ喜んでくれると思ったから。
 元彼にセックスレスを責める度、言いようのない虚しさがあった。それはしたがらない彼に迫る罪悪感だとか、セックスを求める自分への嫌悪感とか、そういうものだった。セックスに快楽を求めなかったのも、理性を無くして乱れて貪欲になるところを見られたくなかったからかもしれない。そりゃあ彼が私とのセックスに夢中になるわけないし、セックスレスにもなる。
 唐突に理解して、ちょっと泣けてきた。そんな私に悟は困ったように笑い、何百回目かのキスをした。何度も「可愛い」と囁いてくれた。

 後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
 セックスしたこと自体は後悔してない。それでも冷静になると、やらかした感が重くのしかかってくる。そもそも私たちは関係が微妙だ。
 翌日はずっと悟と一緒にいて、ほとんど服も着ないまま過ごした。気を付けてはいたけれど、年甲斐もなく一日中行為にふけっていたのだから、そのあとの結果は必然といえるかもしれない。
 次に会ったのは更にその翌日の営業日だった。いつものにやけた顔で店の様子を見に来た悟に、私はいつも以上に業務的に接してしまった。仕事に影響するのが嫌だったのだ。以来、あの日の話はしていない。
 別に社内恋愛禁止じゃないけど、そもそも付き合い始めたわけじゃない。雇用主と雇われ店長がそういう関係とか、ややこしい未来しか見えない。自分が部下だったら嫌だ。転職すべきかと本気で考えた。
 けれど日々の忙しさに忙殺されて次第にそんな気もなくなってきた。悟は店に常駐しているわけじゃない。その後も変わらない頻度で様子を見には来てくれるが、あの日以来そういうお誘いもなく、仕事で話があるときも普通。セックスしたことが嘘だったみたいに、私たちは「普通」だった。やはりあれはあの夜だけのことだったのだ。ならこのままでもいいかと思い始めていた。
 けれど変わらざるを得なくなった。妊娠はすぐにわかった。父親はもちろん悟だ。
 中絶するという選択肢はなくはなかったけれど、ほとんど考えなかった。アラフォーだし、これを逃したらもうチャンスはないかもしれないと思ったから。元彼と別れた時は子どもを持たない生き方になるかもと思っていたのに、不思議なほど迷わなかった。
 ただ悟にどう伝えるかは迷った。店に残るにしろ辞めるにしろ、上司である悟には話さなければならない。
 悟が予定にない来訪をしたのは、妊娠がわかって二週間ほど後のことだった。
 神妙な顔をして来店した悟に、嫌な予感がする。
「ちょっと話があるんだけど」
「このあと予約入ってるから、手短に済ませて」
 私の答えに、悟はちょっと不満そうだった。それでもサブの美香に声をかけて、私を連れて事務所に入ろうとする。その時だった。
「飛鳥さん⁉」
 先に声を上げたのは美香だった。私は急に寒気のようなものを感じて、視界が暗くなる。
「飛鳥!」
 珍しく悟の焦ったような声がする。それを聞きながら、私はそのまま意識を失ったのだった。

 気が付くと事務所のソファに横になっていた。
 意識が戻るとまず時計を見た。予約時間から三十分は経っている。慌てて飛び起きると、またしても貧血を起こしてめまいがした。
「飛鳥」
 ふわりと香水が香って、悟に抱き留められたと気づいた。
「急に起きるな。まだ寝てろ」
「お客様は」
「まずそれかよ。そんなの気にしてる場合じゃねえって」
「でもせっかく今日ご来店下さるのに」
 悟はため息をついて教えてくれた。
「美香に頼んで連絡してもらった。できれば飛鳥がいいってリスケになったよ。店は向こうからヨシキも呼んで来たからなんとかなる」
 ヨシキは近くの店舗の店長だ。元々美香の前のサブで、新店オープンに伴って店長になった。この店の勝手もよくわかっているし、腕もいいから私のお客様だって任せられる。とはいえ。
「ヨシキも自分のお客さんの予約あったんじゃ」
「あーもう、病人は気にしなくていいから!」
 悟は苛立った様子でガシガシと頭を掻いた。何を考えているかはともかく、表面上は穏やかな様子をほとんど崩すことがないのに。
「飛鳥、やっぱり病院行くぞ」
「いい」
「さっきも頑なに救急車呼ぶなっつーからやめたけどな、んな青い顔して俺が言うこと聞くと思ってんの?」
「仕事はちょっと無理そうだけど、横になってたら平気」
「でも一回診てもらえって。君が我慢強いのは知ってるけど、取り繕えてないから。美香が俺に連絡してくるくらいだぞ?」
 それを聞いて今日の訪問の理由がわかった。確かに美香にはここ数日心配されていて、ずっとはぐらかしていたから。私を説得できるのは悟だけだと思ったんだろう。悟としても、上司として私の不調について把握しておく必要があったのかもしれない。
「大丈夫。病院は、……ちゃんと行ってるから」
 さすがに店の中で妊娠の話はできない。病院にかかっていることだけは伝えると、悟は渋々折れてくれた。
「わかった。でも送ってく。車回してくるから、それまでここにいろ。美香、ちょっとこいつ見張ってて。――働くなよ」
 働いたらボーナス削ると脅して、悟は出て行った。頑張ったら増えるのがボーナスじゃないのか、オーナー様。
 そのあとは悟の車で連れ帰られた。後部座席で横になっていたけれど、車の振動や慣れない車内の匂いに本格的に気持ち悪くなってくる。
 マンションについて一安心と思っていると、運転席から降りてきた悟に抱きかかえられた、いわゆるお姫様抱っこだ。歩くのも億劫だったから助かるけれど、車よりも大きな振動は今の私には駄目だった。マンションのエントランスに入ったところで吐き気が込み上げる。
「悟、おろして」
「我慢しろ」
 悟は私が強がっていると思ったらしい。ぴしゃりと却下されたけれど、割と切羽詰まっていた私はすぐに白状した。
「じゃなくて、吐く」
 それを聞いた悟はぎょっとした。
「早く言え!」
 言ったし、と反論する元気もない。
 おろしてもらったけれど適当な場所がない。口を抑えようとしたけど間に合わず少し吐いてしまった。それが悟の上着にかかる。
「馬鹿、我慢するな」
 悟が上着を脱いで、そこに吐くように言う。我慢も限界で、マンションの床にぶちまけるよりはとそのまま吐いた。いくらするんだろとぼんやり思った。
 エントランスだったので管理人さんも出てきてちょっと騒ぎになりかけたけれど、ひとしきり吐いたらすっきりしたので悟に支えられて部屋に戻った。管理人さんはいい人で、結局少し汚してしまった床の掃除を請け負ってくれた。引っ越していくらも経たないのにこんな迷惑、最悪だ。今度お詫びに行かなきゃ。
 洗面所で口をすすぐと、リビングのソファに倒れこむ。ここ数日でつわりが一気にひどくなった。悟に話をしなきゃと思うのに、考えがまとまらない。
「飛鳥、休むならベッドで……」
 母親のような小言が、不自然に止まる。視線を上げると、悟がダイニングテーブルを見ているのに気づいてはっとする。母子手帳を置いたままだった。
 何度か瞬きをしたあと、事態を飲み込んだらしい悟が私を見た。その目からは感情が読めない。
「俺にいつ言うつもりだった?」
「……近いうちに。でもまだ辞めるか産休にするか、迷ってたから」
「産む気なんだな」
 どうしよう、堕ろせって言われたら。言われても従う気なんてないけど、弱ってるときに聞きたくない。
「結婚しよう」
「……へ?」
 予想の斜め上の言葉に、間抜けな声が出た。
「も、元彼の子よ」
 焦って変な嘘をついてしまう。あの夜のことは合意の上だし、妊娠したことは私に責任がある。悟にそんな責任の取り方をさせたいなんて思ってない。
「違っててもいいよ。結婚しよ」
 なにそれ。なんで。自分の子じゃないなら結婚する理由なんてないでしょうに。
「結婚なんていやだって言ってたじゃない」
「それは過去の俺だろ。俺、人間て変わるものだと思ってるから」
「都合のいいこと言わないで」
「だってそうだろ。裕翔だってあんなに頑張ってたのに美容師やめて、今モデルとして成功してるし。モデルにしたって最初ずっと断ってただろ」
 なんでここで裕翔。そんなに気に入ってたのか。
「俺たちだって変わっただろ」
 それはセックスしたことか、子どもができたことか、それともその両方か。
「一人で産む」
「その決断は俺が信用ないから?」
 答えられなかった。
 信用してないわけじゃない。そんな人の部下を何年もできない。けれどすぐに決断もできなかった。
 私が答えられずにいると、悟は一人で違う方向に納得して「自業自得か」と呟いた。
「わかった。結婚の話は保留でいい。でも関わらせろ。どのみち一人じゃ辛いだろ。病院とか、普段の買い物とか家事とか」
「親友様に来てもらう」
「彼女今撮影で海外なんだろ」
 そうだった。一カ月連絡が取れないとは聞いていて、連絡がつくようになった途端、帰国の予定が伸びたと連絡が入っていた。誰にも言ってないのに、なんで把握してんのよ。
「辛いときに話して悪かった。体調不良の原因もわかったし、今はとりあえず帰る。詳しいことは追々詰めよう。鍵、一本もらってくから」
「なんで」
「緊急時用。お前もなんかあったら連絡よこせよ。子どものためだからな」
 そう言われてしまっては意地も張れない。
 店のことは気にするなと言って、悟は帰っていった。頼れるところが格好よく見える。そんなの、オーナーとしての仕事ぶりを見てずっと知ってたのに。妊娠のせいかメンタルがぐらぐらだ。

 あの後なんとか寝室に行ってベッドにもぐりこんだ。目が覚めるととっくに室内は暗くて、時計を見ると深夜だった。変な時間に目が覚めてしまった。
 吐き気はとりあえず収まっている。
 リビングの方から人の気配がして、恐る恐る様子を伺った。
 ダイニングテーブルで勝手にPCやら書類やらを広げる悟がいて、面食らう。悟は敏感に私に気づき、顔を上げた。服装が変わっているのは、私が吐しゃ物をかけてしまったからだろう。
 悟が私に気づき顔を上げた。気まずそうに頬を掻く。
「あー、すまん。携帯も反応ないし一応インターホン鳴らしたけど出なかったから。倒れてたらどうしようと思って勝手に入った。寝てるだけみたいだったから起こさんかったわ」
 寝顔見られたのか。
「体調は?」
「さっきよりまし。今日の営業どうだった?」
「まず聞くのそれかよ。大丈夫だったよ。平日で予約も余裕あったし。あとしばらくお前休職な。スタッフには体調不良とだけ言ってあるけど、まあその内告知しないとだから、その辺はまた話そう。――で、体調ちょっといいなら本題話していい?」
「いいけど、本題?」
 そう言って悟はPCや書類を脇に押しやり、封筒をテーブルに置いた。
 両手でどうぞと促されるので中を見ると、札束が入っていた。ご丁寧に札帯がついている。
「うわあ」
「嫌そうな顔するなあ。普通喜ぶところじゃねえ?」
「いや逆に引くわ。なにこのお金」
「なんだよー。指輪買ってきたらその方が嫌がると思ったからこっちにしたんだろ」
「現金も十分嫌だわ。あんたには大した額じゃないのかもしれないけど」
「大した額だよ。確かに使える額は増えたけど、俺が働いた大事な金だもん。飛鳥たちが一生懸命俺を支えてくれた大事な結果だよ」
 綺麗事に聞こえるけれど、本気で言っているのを私は知っている。
「結婚しようよ、飛鳥」
 結婚。
 悟から最も遠い言葉が聞こえて、さっきのプロポーズが夢じゃなかったと知る。
 そういえばさっき、指輪がどうとか言ってた。
「悟、子ども欲しかったの」
「嘘を言ってもばれるから言うけど、正直、いらないと思ってた」
 予想していた言葉だけれど、心臓が掴まれるような思いだった。ふくらみも何もない下腹部を撫でる。
「でも知ったとき、嬉しかった。自分でもこんな感情があったんだって驚くくらい。飛鳥が俺の子を宿してくれたこと、神様からの最高のギフトに思えたよ。俺無神論者なのにね。そしたら自然に言ってた。『結婚しよ』って」
 私は知っている。その言葉を簡単に使う人じゃないってこと。だから驚いた。すぐには信じられないくらいに。
「なんかすごく自然に、飛鳥といることを想像できたんだよね。だってもう知り合って二十年近いし、この十年は店も一緒にやってきた。これからも一緒にやっていくんだろうなってビジョンは前からあったよ。あの夜、新しい選択肢をもらった気がした。あの日のことは成り行きだったけど、すごく、良かった」
「なにそれ」
「真面目に言ってる。俺は遊び人だけど、セックスは大事にしてる。人間の三大欲求なんだよ。飯食うのと同じくらい、生き方に関わる重要なことだよ。飛鳥が俺に身を任せてくれたことだって、簡単じゃなかったでしょ? 仕事を一緒にやれて体の相性もいいなら、『ああ、恋人とか夫婦って形もありなのか』って思ったんだよ」
 悟はたぶん、何事にも真剣だ。遊びであることにさえ真剣で、不誠実に見えるけれど。だから後ろめたいなんて感情を持たない。
「まあ俺信用ないし、飛鳥が嫌ならあれはあれきりでも仕方ないかって。今までの関係も居心地良かったし。でも子どもができて変わらざるを得なくなったとき、俺は君と子どもと家族になる未来を想像した。ずっと自分にはない選択だと思ってたのに、すごく自然に頭に浮かんだよ」
「子どもって、重いよね。人の命なんだもん。でもその重さに引きずられて、簡単なこと言ってほしくない。悟の言葉が軽く聞こえる」
 これは挑発だ。悟が簡単に「結婚」なんていうはずない。ほかの責任の取り方なんていくらでも持っている人だから。
 でも悟は怒らなかった。
「俺軽いやつだし、重い物なんて持てない、持ちたくない人間だった。だから結婚も子どもも自分の人生には不要だった。飛鳥がそう言うのもわかるよ。我ながら情けないけどね。でも店を持って会社を持って、ちょっとは重い物を持てる男になったつもりだよ。飛鳥がいたからそうなれた」
「私はただ店を回すのに必死だっただけよ」
「飛鳥があの店を守ってくれたおかげで、俺は経営に専念できたんだよ。俺についてこられる女性、案外いると思うって言ったろ。あれ、君のことだから」
 それはあの夜のことで、とはいえセックスする流れになる前のことで。ずっとそう思ってくれていたのか。
「私、重いよ」
「うん。知ってる」
「浮気とか嫌だし、遊びでも許せないよ」
「知ってるよ」
「悟は私のために変わってくれるの」
「うん。君のそういう一途なところ知ってて、結婚したらこれまでみたいな遊び方できなくなるなーって想像して、それでも結婚したいと思ったよ。多分、もう変わってる。結婚したいと思ったの、飛鳥だけだよ」
「どうして」
「正直、あれからほかの女の子とも会ったよ。でも飛鳥とのことばっかり思い出してた。あの可愛い顔が見られるなら、ずっと飛鳥に触ってもらえるなら、俺の人生かけてもいいかもって考えてた。だから、全部切った」
「え」
「飛鳥の一途さはよく知ってる。多分例のクズ男よりもずっと。あの日のことは弱ってる飛鳥に俺がつけ込んだだけのイレギュラーだ。あの日以来そういう話をしなかったのは、ちゃんとしてからじゃないと君は話すら聞いてくれないと思ったから」
 それはつまり、妊娠を知る前に遊び相手を全部切ってきたということ。
「一緒にいようよ。これまでみたいに、これまでとは違う形で」
 同僚だった。友人だった。雇い主と従業員だった。
 私たちはもうこれまでのようにはいられない。変わらざるを得ない。セックスをしたから。子どもができたから。私が子どもを産むと決めたから。それなら、こういう形を選んでもいいのかもしれない。
 無言でいると、悟が立ち上がって私の側に膝をついた。あかぎれだらけの手を取って、丁寧に撫でる。そして左手の薬指にキスを落とした。
 ゆっくりと視線を上げた悟が、嬉しそうに口角を上げる。
「ねえ、やっぱり指輪買っていい? この指に俺のって証つけときたい」
「結婚するってまだ言ってない」
「断られなかったってことは、前向きってことでしょ」
「……似合わないわよ」
「きっと似合うよ。こんなに綺麗なんだからさ」
 それに共感はできない。でも、私がどんなに否定したって、悟は肯定するのだろう。それがすごく、嬉しかった。

 本気になった悟も大概重いということを知るまで、そう時間はかからなかった。そもそも経営者としての行動力は申し分ないのだから、決断した後はもろもろをものすごい勢いで整え始めた。
 引越し、両親への挨拶、関係者への根回し、結婚式の準備、そして入籍。正直迷う隙を与えないとか、外堀を埋められているとかいう気もしなくはなかったけれど、自分でも不思議なほど不安がなかったので流されておくことにした。
「裕翔、明日遅れるって」
「は? いい度胸だな、あいつ」
 ベッドの上で向かい合っているときに言うと、悟がちょっと拗ねたように言った。本当に気に入っているんだな。
「帰国遅れてるんですってよ」
 モデルの仕事で海外にいる裕翔が、トラブルで帰国が遅れると連絡してきたのだ。仕方ないことだとこちらも納得するけれど、当人は可哀想なほどテンパっていた。
「え、それ出席できんの?」
「絶対行くって言ってたから大丈夫じゃない?」
 ベッドの上で向かい合って、手にハンドクリームを塗ってもらう。それが一緒に住み始めてからのルーティンになった。その日にあったことなんかをお互いに話して、お互いに相手の手をマッサージして、眠りにつく。
 初期からつわりが酷かったせいもあって、妊娠してからセックスをしていない。だからこれがいまの私たちの疑似セックスだった。
 つわりが収まるまで休職していたし、悟が丁寧にケアしてくれるおかげでだいぶあかぎれもましになった。
「明日楽しみだな」
「客寄せパンダになるのが?」
「飛鳥のドレス姿に決まってるじゃん」
 明日は結婚式だ。子どもが生まれる前にどうしてもと悟が言うので、マタニティウエディングと相成った。身内だけで小ぢんまりとやるのかと思っていたら、老舗ホテルの庭園でガーデンウェディング、しかもちゃんと関係各者をゲストに招待してるんだからすごい。業界人も多く、半分仕事だ。
 そんなわけで前乗りしているホテルの部屋で、私はいつものハンドマッサージに加えて悟にスキンケアをされていた。明日の私のヘアセットは悟をしてくれることになっている。
「世界一綺麗になるよ」
 そう言って悟は私の手にキスをした。キザな仕草がお似合いになるこって。
「あんただけよ、そんなこと言うの」
「俺現場は離れちゃったけど、飛鳥のことは美容師として世界一信用してんの。そんな飛鳥の御指名なんだから、失敗するわけないじゃん」
「わかんないわよ? 技術じゃなくて気持ちの問題ってだけかも」
「いけずだねー。でも結婚式って大事なときのヘアメイクを任せてくれたのは、理由が技術でも感情でも結局めちゃくちゃ嬉しいわ。惚れた女を自分で飾れるって、美容師やってた甲斐があるよね」
 思いがけない言葉に、一瞬固まってしまった。そんな私を、悟が不思議そうに見つめる。
「もしもし、飛鳥さん?」
「悟、私のこと好きなの?」
「え、結婚後に聞く? それ」
 もう入籍は済ませていた。
「だって友人とか同士? の延長で結婚するのかと」
 これまでと同じように、これまでと違う形で。
 悟がプロポーズのときに言ってくれたことだ。その表現はすごくしっくりきて、「夫婦」や「家族」という名前がついた以外、関係性が大きく変わるという認識がなかった。
「あー、まあそれも否定はしないし、確かに俺ら子ども作った以外はあんまり変わらんもんなあ」
 悟は怒るでもなく、うんうんと頷いた。
「ほんとはずっと好きだったーなんてドラマみたいなこと言う気はないけど、今までもずっと特別で、それに名前がついたって感じが俺的に一番しっくりくるかな」
「それは、なんかわかる気がするわ」
「だろ。俺らはずっと変わらないようで、多分ずっと少しずつ変化してて、結婚と子どものことでちょっといつもより変化が大きかっただけ。でもその『だけ』がすごく大事で、家に帰るの楽しみになったし、俺の子お腹に入れてる飛鳥は女神様みたいに見えるし、俺の妻だってお披露目したくてたまらないし。ここだってプロポーズ翌日に予約したよね」
「え、まさか結婚式がこの規模になったのってそんな理由?」
 出産前にとねじ込まれたためあまり時間もない上に、私がつわりで動けない時期もあった。悟は元々多忙だし、招待客やドレスなど必要最低限を除き、ほぼプランナーの仕事だ。自分たちの結婚式というよりは、会社のイベントに二人で出席するという感覚の方が近くなっている。
「そうだよー。どうせやるならほかの男にも牽制しなきゃだし、元遊び人としては『俺はもうこの人一筋です』ってけじめつけなきゃだし。それに飛鳥、結婚式したいって言ってたでしょ」
「覚えてたの」
 あの夜、お酒の勢いで話したことだ。
「当然。まあ業界向けには別にやってもよかったけど、運よく大きいとこ抑えられたからさ。一回で済ませちゃえって勢いで」
 だからやたらと家でプランをプレゼンされたのか。私のこだわりがあるんじゃないかと。
 結婚式はしたかったけれど、漠然と「花嫁」に憧れがあっただけで、プランそのものに強いこだわりはなかった。悟が雇ったプランナーが優秀だったのもあり、ほぼ丸投げた。
「独身主義者だった俺が、浮かれまくってこんなに先走ったんだよ? 俺はやっぱり、飛鳥に惚れてるよ」
 直球で言われて、なんだか面映ゆい。
 私は照れ隠しをするように、悟と交代してハンドマッサージを始めた。悟はそれをにこにこと眺めている。「やっぱり君の手には適わないな」なんて言いながら。
 私だって敵わない。悟はいつだって私の欲しい言葉をくれる。
「ねえ悟」
「うん?」
「私、あんたのこと幸せにしたい」
 ハンドマッサージをしながら言うと、悟の返事がなかった。「あれ?」と思って視線を上げると、なんとも言えない顔をした悟と目が合う。
「ほんと、格好いいよね」
 悟は急に私の手を掴んだ。そして引き寄せて、私はそのまま悟の腕に収まる。
「ほんとは明日までとっておこうと思ってたけど、ちょっといちゃいちゃしてもい?」
 ほかの誰が聞いているでもないのに、囁くような低い声。
 私は頷いた。
「ほんとは、もうこういうことしないのかなって、ちょっと不安だった」
 白状すると、悟がため息をついた。呆れられたかと視線を上げると、ちょうど顔を近づけてきた悟と唇が重なる。軽いキスはこれまでもあったけど、唇をはむような、前戯のようなキスは久しぶりだった。
 唇が離れると、欲情した悟の視線とぶつかった。あの夜以来、何度か見た目だ。
「不安にさせてごめん。妊娠のこともあるし、ちょっと慎重になってた」
「や、うん。それがわかってたから、私もタイミングわかんなくて。悟が寝室での時間、意識的に大事にしてくれてるのも感じてたし」
 そういうところが好きだなと思う。なんだ、私もとっくに悟に惚れている。
「私のこと、一番綺麗にしてくれるんでしょ?」
 女は満足したセックスをしたあとが一番綺麗だと言ったのは悟だ。
「仰せのままに」
 うやうやしく言って、悟が大事そうに私をベッドに横たえる。悟が私の左手にキスをして、マッサージのために外していた指輪をつけ直した。
 明日、この指にもう一本指輪が触れることになる。
 その未来を予想して、私は幸せに浸った。
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