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詰められない距離
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パチン、パチンと部屋の中に将棋の駒を打つ音が響く。
1Kのアパートの一室の中で、彼は床に将棋盤を置いて本を見ながら一人で将棋を打っていた。瞳は獲物を狩るときの肉食獣のような鋭さがあったが、口元は悔しそうにへの字に曲がっていた。太陽に照らされて溶けていく雪だるまみたいに、縮こまった背中は弱々しさも感じられた。
「また将棋しかしてないんじゃん」
カピカピに乾ききった台所、周りに積み上げられた将棋の本、将棋盤の脇に並べられたからのペットボトル。部屋の隅には敷布団が押しやられ、彼の後ろには毛布がくしゃくしゃに丸めて置かれている。
彼がいるのは、生活感の感じられないがらんとした部屋の真ん中。8畳と広さは十分にあるのに、彼の生活範囲は彼の周り2メートルで終わっていた。
どうやら彼はまた将棋に没頭するあまりに、一般的な人間の生活を忘れてしまったらしい。
「まったくもう、セイジったら」
母親のような口調で彼の名前を呼ぶが、私はセイジの母親ではない。
セイジの隣の家に生まれ、同じ幼稚園、同じ小学校、同じ中学校に通っていた、いわゆる幼馴染というやつだ。残念ながら学力の差で高校と大学は違うところに通っていたが。
そしてここは、セイジが大学進学のときに上京してきてから住んでいる部屋だ。
私もつい最近まで数駅先に部屋を借りていたから、よく遊びに来ていた。でも、いつ来てもセイジは将棋しかしていなかった。そんな中私は、コンビニの弁当やカップ麺ばかり食べて、人間らしい生活を全くしていないセイジにご飯を作ったり、溜まった洗濯物を片付けたりしていた。
「仕方ないいから」なんて口先では言うが、それでも、その方法で自分の居場所がセイジの中にあるならそれでいいと思っていた。
いつか私が必要じゃなくなるその日まで、なんて考えていたけれど、「その日」は突然やってきてしまったのだ。
だから、今日がここに来る最後の日だ。
「ミク」
セイジが私の名前を呼ぶ。
「なあに」
「なんで、そこにいるんだよ」
私に背を向けたままセイジは言う。
「ごめん、連絡もなしにいきなり来ちゃって」
「なんで、いるんだよ」
その声は小さく震えていた。
「ごめん。でも今日で最後だから」
「そんなのおかしいじゃないか」
「でもそうするって決めていたから」
「決めったっていつだよ」
さっきまでよりも少し口調が荒い。
「その日が来るまでこういう関係でいられたらいいなって思っていたの。その日っていうのは最初に私が思っていたのとはちょっと違った形になっちゃったけれど、それでも、その日っていうのには変わりないよ」
「だって俺は昨日、ミクの葬式に出たんだよ!」
ダンっと音を立ててセイジの拳がフローリングの床に打ち付けられる。
「知っているよ。だって、見ていたもの」
「じゃあなんで、そこにいるんだよ」
「いいじゃない。来たくなったのよ」
セイジの肩が小さく震えている。回り込んで表情を見ようとしたら、露骨に顔を避けられた。
「ね、泣いているんでしょう?」
「うるさい」
「いつからセイジのこと知ってると思ってるのよ。それくらい分かるって。だってほら、小学生の時に川に水筒を落としちゃったときもそうやって泣いていたじゃない。私が顔を覗き込んだらぷいってしちゃってさ」
「そんな小さいときの話、今持ち出してくるなよ。もう小学生じゃないんだから、そんなことしてないし」
「でもあのときと同じよ。顔のそむけ方」
私はセイジの頬に触れようとした。触れて、涙を拭いてやろうとした。
でも、できなかった。
私の手はセイジの頬と重なることはなく、そのまますっと通り抜けてしまった。まるで、セイジがそこに映し出された映像のようだ。
「あっ……」
何にも触れることのできなかったその手を、じっと見る。生きていたときと何一つ変わらないように見えるその手は、もう、セイジに触れることはできないのだ。
「あたりまえだろ。今のミクは幽霊なんだから」
「そっか。そうだった」
暗くなりそうな声をぐっと持ちこたえさせて私は続ける。
「いやー、死んじゃったこと忘れていたよ。車にぶつかって、ぐっちゃぐちゃになっちゃったのにさ」
「そんなに無理しなくていいから」
「無理なんかじゃないよ」
「わかるよ。ミクのこといつから知ってると思ってるんだよ」
さっき言った言葉がそのまま返ってくる。
「そうね」
そしてようやく私と顔を合わせてセイジは言った。
「将棋、やらない?」
「珍しい。セイジが私のことを将棋に誘うなんて。中学生、いや、小学生の時以来じゃない?」
「いいだろ、今日くらい」
「もちろん、と言いたいところだけど、今の私は駒を触れないのよ」
「将棋は駒の位置を変えていくだけだからね。ミクが言った場所に俺が駒を動かせばいい」
将棋盤を挟んで向かい合う。
「お手柔らかにね」
「そうも行かないかもしれない。ほら、先にいいよ」
どうやら手加減をしてくれるつもりはないようだ。
「ええっと、右端の歩を一個前に」
パチン。パチン。
私の駒を動かしたあと、セイジはすぐに自分の駒を動かす。
「右から二番目の歩を一個前に」
「おいおい、順番に行くのか?」
パチン、パチン。
駒が動く。
「さわれないのは不便ね。あ、次は一番左の歩」
パチン、パチン。
「今のミクと俺じゃ世界が違うから、仕方ないよ」
「次元?」
「そう。俺が住んでいる世界の真上にミクの世界があって、重なっているんだよ。ほら、次の一手はどうするの?」
と、セイジは挑発するような笑いを口元に浮かべて言う。
「じゃあ、左から二番目の歩」
「順番通りだね」
パチン、パチン。
「世界が重なっているから、触れないの?」
「違う、違う。世界が重なっているから同じ場所にいるのに、それぞれ別の世界だからさわれないってことだよ」
「そっかぁ」
じりじりとセイジの駒との距離が詰まってくる。
でも、他の距離はもう詰められない。
幼馴染という距離。
私の世界とセイジ世界の距離。
将棋盤を挟んだ二人の間の距離。
この距離はもう、ここから一ミリも詰めることはできないのだ。
1Kのアパートの一室の中で、彼は床に将棋盤を置いて本を見ながら一人で将棋を打っていた。瞳は獲物を狩るときの肉食獣のような鋭さがあったが、口元は悔しそうにへの字に曲がっていた。太陽に照らされて溶けていく雪だるまみたいに、縮こまった背中は弱々しさも感じられた。
「また将棋しかしてないんじゃん」
カピカピに乾ききった台所、周りに積み上げられた将棋の本、将棋盤の脇に並べられたからのペットボトル。部屋の隅には敷布団が押しやられ、彼の後ろには毛布がくしゃくしゃに丸めて置かれている。
彼がいるのは、生活感の感じられないがらんとした部屋の真ん中。8畳と広さは十分にあるのに、彼の生活範囲は彼の周り2メートルで終わっていた。
どうやら彼はまた将棋に没頭するあまりに、一般的な人間の生活を忘れてしまったらしい。
「まったくもう、セイジったら」
母親のような口調で彼の名前を呼ぶが、私はセイジの母親ではない。
セイジの隣の家に生まれ、同じ幼稚園、同じ小学校、同じ中学校に通っていた、いわゆる幼馴染というやつだ。残念ながら学力の差で高校と大学は違うところに通っていたが。
そしてここは、セイジが大学進学のときに上京してきてから住んでいる部屋だ。
私もつい最近まで数駅先に部屋を借りていたから、よく遊びに来ていた。でも、いつ来てもセイジは将棋しかしていなかった。そんな中私は、コンビニの弁当やカップ麺ばかり食べて、人間らしい生活を全くしていないセイジにご飯を作ったり、溜まった洗濯物を片付けたりしていた。
「仕方ないいから」なんて口先では言うが、それでも、その方法で自分の居場所がセイジの中にあるならそれでいいと思っていた。
いつか私が必要じゃなくなるその日まで、なんて考えていたけれど、「その日」は突然やってきてしまったのだ。
だから、今日がここに来る最後の日だ。
「ミク」
セイジが私の名前を呼ぶ。
「なあに」
「なんで、そこにいるんだよ」
私に背を向けたままセイジは言う。
「ごめん、連絡もなしにいきなり来ちゃって」
「なんで、いるんだよ」
その声は小さく震えていた。
「ごめん。でも今日で最後だから」
「そんなのおかしいじゃないか」
「でもそうするって決めていたから」
「決めったっていつだよ」
さっきまでよりも少し口調が荒い。
「その日が来るまでこういう関係でいられたらいいなって思っていたの。その日っていうのは最初に私が思っていたのとはちょっと違った形になっちゃったけれど、それでも、その日っていうのには変わりないよ」
「だって俺は昨日、ミクの葬式に出たんだよ!」
ダンっと音を立ててセイジの拳がフローリングの床に打ち付けられる。
「知っているよ。だって、見ていたもの」
「じゃあなんで、そこにいるんだよ」
「いいじゃない。来たくなったのよ」
セイジの肩が小さく震えている。回り込んで表情を見ようとしたら、露骨に顔を避けられた。
「ね、泣いているんでしょう?」
「うるさい」
「いつからセイジのこと知ってると思ってるのよ。それくらい分かるって。だってほら、小学生の時に川に水筒を落としちゃったときもそうやって泣いていたじゃない。私が顔を覗き込んだらぷいってしちゃってさ」
「そんな小さいときの話、今持ち出してくるなよ。もう小学生じゃないんだから、そんなことしてないし」
「でもあのときと同じよ。顔のそむけ方」
私はセイジの頬に触れようとした。触れて、涙を拭いてやろうとした。
でも、できなかった。
私の手はセイジの頬と重なることはなく、そのまますっと通り抜けてしまった。まるで、セイジがそこに映し出された映像のようだ。
「あっ……」
何にも触れることのできなかったその手を、じっと見る。生きていたときと何一つ変わらないように見えるその手は、もう、セイジに触れることはできないのだ。
「あたりまえだろ。今のミクは幽霊なんだから」
「そっか。そうだった」
暗くなりそうな声をぐっと持ちこたえさせて私は続ける。
「いやー、死んじゃったこと忘れていたよ。車にぶつかって、ぐっちゃぐちゃになっちゃったのにさ」
「そんなに無理しなくていいから」
「無理なんかじゃないよ」
「わかるよ。ミクのこといつから知ってると思ってるんだよ」
さっき言った言葉がそのまま返ってくる。
「そうね」
そしてようやく私と顔を合わせてセイジは言った。
「将棋、やらない?」
「珍しい。セイジが私のことを将棋に誘うなんて。中学生、いや、小学生の時以来じゃない?」
「いいだろ、今日くらい」
「もちろん、と言いたいところだけど、今の私は駒を触れないのよ」
「将棋は駒の位置を変えていくだけだからね。ミクが言った場所に俺が駒を動かせばいい」
将棋盤を挟んで向かい合う。
「お手柔らかにね」
「そうも行かないかもしれない。ほら、先にいいよ」
どうやら手加減をしてくれるつもりはないようだ。
「ええっと、右端の歩を一個前に」
パチン。パチン。
私の駒を動かしたあと、セイジはすぐに自分の駒を動かす。
「右から二番目の歩を一個前に」
「おいおい、順番に行くのか?」
パチン、パチン。
駒が動く。
「さわれないのは不便ね。あ、次は一番左の歩」
パチン、パチン。
「今のミクと俺じゃ世界が違うから、仕方ないよ」
「次元?」
「そう。俺が住んでいる世界の真上にミクの世界があって、重なっているんだよ。ほら、次の一手はどうするの?」
と、セイジは挑発するような笑いを口元に浮かべて言う。
「じゃあ、左から二番目の歩」
「順番通りだね」
パチン、パチン。
「世界が重なっているから、触れないの?」
「違う、違う。世界が重なっているから同じ場所にいるのに、それぞれ別の世界だからさわれないってことだよ」
「そっかぁ」
じりじりとセイジの駒との距離が詰まってくる。
でも、他の距離はもう詰められない。
幼馴染という距離。
私の世界とセイジ世界の距離。
将棋盤を挟んだ二人の間の距離。
この距離はもう、ここから一ミリも詰めることはできないのだ。
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