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第2話
「け、警察……いや、憲兵を呼んでくれぇぇぇッ!!」
俺の絶叫が、破壊されたギルドのロビーに響いた。
だが、誰一人として動こうとしない。
職員たちは顔を青ざめさせ、遠巻きにこちらを眺めているだけだ。
無理もない。
相手は国の英雄、ガルド・ベルンシュタイン。
しかも現在進行形で、俺の首筋に顔を埋め、野生動物のようなフゴフゴという鼻息を漏らしているのだから。
「スゥーッ……ハァ……。落ち着く……」
「お、落ち着かないでください! 離せ! 加齢臭が移るだろ!」
「いい匂いだ……もっと……」
ガルドは俺の抵抗など意に介さず、太い腕で俺の腰を締め上げる。
肋骨が悲鳴を上げている。物理的に痛い。
「おい! 何事だ!」
そこへ、ようやく救世主が現れた。
ギルドマスターのドワーフ、ガンツだ。
彼は半壊したロビーと、抱き合う(一方的に捕食されている)俺たちを見て、目を丸くした。
「ガルド!? お前、発作はどうした!? 暴れてたんじゃなかったのか?」
「……ガンツか」
ガルドが俺の肩に顎を乗せたまま、億劫そうに顔を上げる。
その目は、先ほどまでの充血が嘘のように澄んでいた。
「発作は治まった。……この『薬』のおかげでな」
「薬?」
ガンツの視線が、ガルドの腕の中にいる俺に向けられる。
「あ、あの、マスター。助けてください。食われます」
「三上? なんでお前が……」
ガンツが近づこうとした、その時だった。
「グルルルゥッ……!!」
「ひっ!?」
ガルドの喉の奥から、低く、地を這うような唸り声が響いた。
まるで、餌を横取りされそうになった猛獣だ。
ガルドの瞳孔が縦に裂け、殺気がガンツを射抜く。
「近づくな。……俺のだ」
「「はぁ!?」」
俺とガンツの声が重なった。
「ガルド、お前正気か? それはウチの事務員だぞ」
「知らん。こいつが離れると、また頭が割れるように痛くなる。……だから、渡さん」
ガルドは子供のように――いや、駄々をこねるヒグマのように、俺をさらに強く抱きしめた。
俺の顔が、ガルドの硬い胸板に埋まる。
鎧の冷たさと、その下にある恐ろしいほどの体温。
そして、微かに香る鉄と血の匂い。
(……この人、震えてる?)
ふと、気づいた。
俺を拘束する腕が、小刻みに震えている。
まるで、命綱を手放すのを怖がるように。
「……場所を変えよう」
ガンツがため息交じりに言った。
「ここでは目立ちすぎる。応接室へ来い。……三上もだ」
「は、はい。歩きますから、離して……」
「駄目だ」
ガルドは短く拒絶すると、ひょい、と俺を持ち上げた。
お姫様抱っこではない。
米俵担ぎだ。
「ぶっ!?」
俺の腹がガルドの肩に食い込む。
視界が逆さまになり、床が流れていく。
「ちょ、ガルド様!? 降ろして! 恥ずかしい!」
「暴れるな。匂いが逃げる」
「もうやだこの人!!」
俺はジタバタと足を動かしたが、S級探索者の筋力には敵わない。
ガルドは俺を担いだまま、何事もなかったかのようにスタスタと歩き出した。
すれ違う同僚たちの視線が痛い。
「あいつ、英雄に拉致られてるぞ……」「生贄か?」「合掌」というひそひそ話が聞こえる。
俺の社会的な尊厳が、音を立てて崩れ去っていった。
◇
ギルドの最上階にある応接室。
革張りの重厚なソファに、俺はようやく降ろされた。
……いや、降ろされてはいない。
「あの、ガルド様。隣に座ってもらえませんか」
「嫌だ」
ガルドはソファに深く腰掛け、その膝の上に俺を座らせていた。
いわゆる「膝抱っこ」だ。
成人男性が成人男性にする体勢ではない。
「離れると、匂いが薄まる」
ガルドは俺の腰に腕を回し、背後から俺のうなじに鼻先を押し当てている。
喋るたびに唇が首筋に触れ、ゾワゾワとした感覚が走る。
「さて……」
向かいに座ったガンツが、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「ガルド。説明しろ。何がお前をそうさせた」
「……俺にもわからん」
ガルドは俺の髪の匂いをスゥーッと吸い込みながら答えた。
変態の所業だが、声だけは真面目な会議のトーンだ。
「ここ数ヶ月、魔力中毒の症状が悪化していたのは知っているだろう? どんな浄化魔法も、聖女の祈りも効かなかった。……世界が、腐った泥のように見えていたんだ」
ガルドの手が、俺の腹の上で組まれる。
大きくて、傷だらけの手だ。
「だが、ギルドに入った瞬間……風が吹いた。清浄な、懐かしい風だ。それを辿ったら、こいつがいた」
ガルドが俺のこめかみに頬ずりをする。
ジョリジョリと痛い。
「こいつの周りだけ、空気が澄んでいる。こいつを吸うと、頭の霧が晴れるんだ。……ガンツ、こいつは『聖香』の持ち主だぞ」
「聖香だと!?」
ガンツが椅子から転げ落ちそうになった。
「聖香って……あの、伝説の?」
「あぁ。魔力を中和し、浄化する特異体質だ。文献でしか見たことがないが……間違いない。俺の身体が証明している」
ガルドは確認するように、俺の耳の裏を「すんっ」と嗅いだ。
「極上だ……。百年物のヴィンテージワインより、こいつの汗の方が価値がある」
「比較対象がおかしいです」
俺は思わず突っ込んだ。
聖香? なんだそれ。初耳だ。
ただ単に「虫除けスプレーがいらない体質」だとは思っていたが。
「なるほどな……」
ガンツが納得したように頷く。
「ガルドの魔力汚染は末期だ。正直、いつ魔物化してもおかしくなかった。……それが三上のそばにいるだけで治まるなら、これは国益に関わる問題だ」
嫌な予感がした。
このドワーフ、今、俺の人権を天秤にかけたな?
「三上くん」
「はい」
「諦めてくれ」
「マスター!?」
ガンツは良い笑顔で親指を立てた。
「君は今日から、ガルド様の専属管理官だ。業務内容は『ガルド様のそばにいて、深呼吸させてあげること』。特別手当も出す」
「嫌です! 僕は事務職ですよ!? こんなおっさんの人間空気清浄機なんて……」
「……おっさん……」
背後でガルドがショックを受けたように呟いた。
そして、ガルドの手が俺の手を包み込む。
「薫。……名前は、薫というのか」
「そうですけど…」
「いい名前だ。その名の通り、君は香り立つようだ」
ガルドは俺の指を一本一本、愛でるように撫で回した。
指の付け根、手のひら、手首の血管。
いやらしい手つきで、執拗に。
「頼む、薫。君がいないと、俺はまたあの暗闇に戻ってしまう。……俺を、殺さないでくれ」
耳元で囁かれた声は、あまりにも切実で、弱々しかった。
振り返ると、ガルドと目が合った。
国の英雄。最強の男。
そんな男が、捨てられた子犬のような目で、俺に縋り付いている。
「…………」
ズルい。
そんな顔をされたら、無下にできないじゃないか。
「……はぁ。わかりましたよ」
俺は降参して、ため息をついた。
「とりあえず、発作が治まるまでは協力します。でも! 膝の上はやめてください。あと匂いを嗅ぐときは許可を取ること!」
「……善処する」
「約束してください!」
ガルドは不服そうに鼻を鳴らしたが、一応拘束を緩めてくれた。
俺はようやくソファから立ち上がる。
「よし、じゃあ今日はもう帰ります。疲れたし」
「待て」
ガルドが素早く立ち上がり、俺の手首を掴んだ。
「どこへ行く」
「え、家に……」
「なら、俺も行く」
「は?」
ガルドは真顔で、当然のことのように言い放った。
「発作はいつ再発するかわからん。君が離れたら、俺は夜中に暴走して、君の家の近所を火の海にするかもしれないぞ」
「脅迫ですか!?」
「事実だ。……だから、君の家に泊まる」
ガルドは俺の手を引いて、出口へと向かう。
「待って、俺の家ワンルーム! 狭い! むさ苦しい!」
「構わん。君の匂いが充満している空間……それは天国だ」
「人の家を巣穴みたいに言わないでください!」
抵抗も虚しく、俺は再び英雄に引きずられていく。
残業は終わったはずなのに、俺の本当の労働は、ここからが本番だったらしい。
「あぁ……薫の家の匂い……楽しみだ……」
背後で聞こえる、興奮を隠せない荒い息遣いに、俺は戦慄した。
今夜、俺は無事に眠れるのだろうか。
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