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第3話
しおりを挟む「……ここが、君の城か」
俺の住むボロアパートの前で、ガルドは厳粛な面持ちでそう言った。
まるで、伝説のダンジョンの最深部に到達したかのような口ぶりだ。
ただの築三十年、家賃四万五千円の木造アパートなのだが。
「城っていうか、ただの寝る場所ですよ。……狭いし汚いんで、やっぱり帰った方がいいんじゃ――」
ガチャリ。
俺が鍵を開けた瞬間だった。
「ッ……!!」
ガルドが息を呑み、その場に膝をついた。
「ガルド様!?」
「……すごい……」
ガルドは震える手でドア枠を掴み、室内の空気を貪るように吸い込んだ。
「密度が……違う……! まるで、君の体液の中に浸っているようだ……!」
「表現が気持ち悪いです」
俺の抗議も虚しく、ガルドはふらふらと部屋の中に吸い込まれていく。
六畳一間のワンルーム。
そこに身長二メートル近い鎧姿の巨漢が入ると、もはや部屋の容積の半分が埋まったような圧迫感がある。
「靴! 靴脱いでください!」
俺は慌ててガルドのブーツを脱がせた。
ガルドは夢遊病者のように部屋の中央へ進み、そして――。
バフッ!!
万年床のシングルベッドに、ダイビングした。
「あぁぁぁ……」
ガルドが布団に顔を埋め、悶絶している。
俺が三年間使い古した、ニトリの安布団だ。
しかも、激務のせいでここ1ヶ月シーツを洗っていない。
「ちょ、汚いですよ! 汗臭いし!」
「それがいい」
ガルドが枕を両手で鷲掴みにし、顔を押し付けたままこもった声で答えた。
「洗剤の匂いなど邪魔だ……。ここには、君の寝汗、フケ、皮脂、そして吐息……すべてが凝縮されている……。いわば、君の出汁のきいたスープの底だ」
「頼むから黙ってください!!」
俺の羞恥心は限界を突破した。
S級探索者が、俺の枕(よだれのシミ付き)を高級ブランド品のように愛でている。
彼は枕に鼻を擦り付け、深々と息を吸い込んだ。
「スゥーーーーッ……ハァ……。芳醇だ……。君は昨夜、どんな夢を見たんだ? 恐怖で脂汗をかいたのか? それとも……」
「やめろ! 分析するな!」
俺は枕を奪い返そうと引っ張ったが、びくともしない。
ガルドは恍惚の表情で、枕の匂いを「おかず」に飯が食えそうな顔をしている。
「ガルド様、いい加減にしてください。俺、風呂入って寝ますから」
「風呂? ……待て」
ガルドが鋭く反応し、枕から顔を上げた。
「洗うのか? その……極上の匂いを?」
「当たり前でしょ! 三徹明けですよ!?」
「ならん」
「は?」
「もったいない」
ガルドは真顔で立ち上がり、俺の前に立ちはだかった。
「君の肌に蓄積された三日分の聖香を、排水溝に流すなど言語道断だ。国家的な損失だ」
「俺の衛生観念の方が大事です!」
俺は強引にバスタオルを掴んで脱衣所に逃げ込んだ。
背後で「ああ、せめて脱いだ服だけでも……!」という悲痛な叫びが聞こえたが、無視だ。絶対に無視だ。
◇
シャワーを浴びて、さっぱりした気分で部屋に戻った。
少しは頭も冷えただろう。
そう期待していた俺が馬鹿だった。
「……遅かったな」
部屋の明かりが消されていた。
薄暗い中、ベッドの上に巨大な影が鎮座している。
俺のパジャマを無理やり着たガルドだ。サイズが合わず、胸元がはだけて筋肉が露わになっている。
「あの、俺どこで寝れば……」
「ここだ」
ガルドが自分の隣――というか、ベッドの隙間を叩いた。
シングルベッドに巨男が寝ているのだ。隙間なんて二十センチもない。
「無理です。床で寝ます」
「駄目だ。風呂に入って匂いが薄まった今、発生源の君と密着していないと、俺の肺が保たん」
ガルドの長い腕が伸びてきて、俺の手首を掴む。
抵抗する間もなく、俺はベッドの上に引きずり倒された。
「わっ!?」
ふかふかの布団の中に、俺の身体が収まった。
すかさず、背後から丸太のような腕が回される。
バックハグ。
それも、逃げられないほど強固な。
「ガ、ガルド様、狭いです、苦しいです」
「我慢しろ」
ガルドの顔が、俺のうなじのあたりに埋まった。
風呂上がりで無防備になった首筋に、ガルドの高い鼻梁が当たる感触。
「スゥッ……」
濡れた髪から立ち上るシャンプーの匂いと、その奥にある俺自身の匂い。
ガルドはそれを確かめるように、ゆっくりと吸い込んだ。
「……石鹸の匂いが混じっているが……悪くない。風呂上がりの君は、生まれたての赤子のように甘い匂いがする」
「おっさんを赤子扱いしないでください……」
「温かい……」
ガルドの腕に力がこもる。
俺の背中は、ガルドの広い胸板に完全に密着していた。
ドクン、ドクン、と、力強い心音が伝わってくる。
「……ずっと、寒かったんだ」
耳元で、ガルドが独り言のように呟いた。
「魔力中毒のせいで、身体の芯が凍りついたように冷たくて……どんな炎魔法でも溶かせなかった。……でも、君の匂いを嗅ぐと、溶けていく」
その声は、昼間の傲慢な英雄とは別人のように弱々しかった。
俺の首筋に触れる唇が、熱を帯びている。
「薫……。どこにも行くな」
ガルドの吐息が、くすぐったい。
でも、不思議と嫌悪感はなかった。
この人は、ただ怯えているだけなんだろうか。
最強の力を持っているのに、自分の内側から壊れていく恐怖に。
「……行きませんよ。仕事ですから」
俺は諦めて、身体の力を抜いた。
すると、ガルドは安心したように喉を鳴らし、俺の頭に顎を乗せた。
「……いい匂いだ……おやすみ、俺の薫……」
「誰が俺のですか」
ツッコミを入れる気力もなく、俺は重たい瞼を閉じた。
背中の温かさと、意外と心地よい重み。
あんなに騒がしかったのに、数分後には、ガルドの寝息が聞こえ始めた。
◇
翌朝。
「ん……重い……」
目が覚めると、金縛りにあっていた。
いや、違う。
ガルドだ。ガルドが俺の上に覆いかぶさっている。
「……スゥーッ……」
しかも、俺のパジャマのボタンが外され、ガルドの頭が俺の腹部に埋まっていた。
朝からへそで深呼吸されている。
「ぎゃぁぁぁっ!?」
俺が飛び起きると、ガルドがむくりと起き上がった。
窓から差し込む朝日を浴びたその顔は、昨日のやつれ具合が嘘のように輝いていた。
肌はツヤツヤ、目はキリッとしていて、溢れ出るフェロモンで部屋の空気が歪んで見える。
「おはよう、薫。最高の朝だ。……君の腹の匂いは、焼きたてのパンのような安心感があるな」
爽やかな笑顔で変態発言をかます英雄。
俺は確信した。
この生活、俺の精神が持たない、と。
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