伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい

マンスーン

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第8話

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​「……やっと、一人になれた」

​深夜二時。
俺はボロアパートの自室に辿り着き、崩れ落ちるように玄関に座り込んだ。
​今日のダンジョン攻略は地獄だった。
肉体的にはガルド様におんぶされていただけだが、精神的疲労が半端ない。
四六時中、耳元で「ハァハァ」という荒い息遣いを聞かされ続けたのだ。
三半規管がおかしくなりそうだ。

​「ガルド様はギルドで報告会……今夜は帰ってこれないはずだ」
​俺は震える手で鍵を開けた。
久しぶりの、静寂。
誰にも首筋を嗅がれない、誰にも腹肉を吸われない、平和な夜。
​「シャワー浴びて、泥のように寝よう……」
​そう思って、電気のスイッチに手を伸ばした時だった。
​ピチャッ。
​足元で、濡れた音がした。
雨漏り? いや、今日は晴れだ。
​「……ん?」
​薄暗い部屋の床が、動いていた。
いや、違う。
床一面に、黒いタールのような液体が広がっているのだ。
​「な、なんだこれ!?」
​俺が後ずさろうとした瞬間、その液体が鎌首をもたげた。
不定形の魔物、スライムだ。
だが、普通のスライムじゃない。ドブのような悪臭を放ち、禍々しい紫色の核が脈打っている。
​『……イイ……ニオイ……』
​頭の中に、直接響くような不快な声。
​『……アマァイ……清ラカ……喰ワセロ……』
​「しゃ、喋った!?」
​スライムが俺の足首に巻き付いてきた。
冷たくて、ヌルヌルとした感触。
ズボンの裾から入り込み、生足に触手が這い上がる。
​「うわぁぁぁッ!! 離せ! 気持ち悪い!!」
​俺は必死に足を振ったが、粘着力が強すぎて取れない。
スライムは俺の足を包み込み、皮膚を溶かすように、あるいは味わうように蠢いている。
​『……モット……中カラ……吸ワセロ……』
​「ひぃッ!?」
​スライムが急激に膨れ上がり、俺の全身を飲み込もうと迫ってきた。
逃げ場がない。
玄関は塞がれた。
​(終わった……こんな、得体の知れないスライムに消化されて死ぬなんて……)
​走馬灯が見えた。
なぜか、ガルド様の変態的な笑顔ばかりが浮かんでは消える。
ああ、あの人の匂い嗅ぎも大概だったけど、これに比べれば天国だったな……。
​「……ガルド様……」
​無意識に、その名を呼んでいた。
​その瞬間。
​ドゴォォォォォンッ!!!!!
​轟音と共に、アパートの壁が吹き飛んだ。
ドアではない。コンクリートの壁そのものが、粉砕されたのだ。
​「――っ!?」
​舞い上がる粉塵。
そこには、鬼の形相をした男が立っていた。
​「……見つけたぞ、害虫」
​ガルド・ベルンシュタイン。
報告会はどうした。
いや、そんなことはどうでもいい。
​彼の目は、今まで見たことがないほど冷たく、そして激しく燃えていた。
その視線が、俺の足に巻き付いているスライムに注がれる。
​「……俺の宝に、何をしている?」
​地獄の底から響くような低音。
​『……キ……キサマ……邪魔……』
​スライムが威嚇しようとした、その時だ。
​「触るな」
​ガルド様が、ただ一歩踏み出した。
​「その汚らわしい粘液で……俺が丹精込めて育てた『聖域(ふともも)』を汚すなァァァッ!!!」
​ズシャァァッ!!
​ガルド様の手刀が、空気を切り裂いた。
衝撃波が発生し、スライムの体が四散する。
俺の足首に残っていた部分も、正確無比な魔力操作によって弾き飛ばされた。
​「ギャァァァッ……!?」
​スライムが悲鳴を上げ、部屋の隅で再生しようとする。
だが、ガルド様はそれを許さなかった。
​「消毒だ」
​ガルド様の手のひらに、青白い炎が灯る。
​「貴様のような下等生物が、薫の匂いを嗅ぐなど……一億年早い!! 薫の匂いを嗅いでいいのは、この俺だけだ!!」

​ゴォォォォォッ!!
​青い炎がスライムを包み込んだ。
アパートへの延焼を防ぎつつ、魔物だけを分子レベルで消滅させる超高等魔法だ。
スライムは断末魔を上げる間もなく、ただの塵となって消えた。
​「……ふぅ」
​ガルド様は炎を握りつぶして消すと、大股で俺に近づいてきた。
​「薫! 無事か!?」
「は、はい……なんとか……」
​ガルド様は俺を抱き上げると、スライムに触られた足首を凝視した。
少し赤くなっている。
​「……許さん……許さんぞ……」
​ガルド様は懐からハンカチを取り出すと、俺の足を狂ったように拭き始めた。
​「汚い……! 俺以外の粘液がついている……! クソッ、俺の薫が……!」
「痛い! 皮が剥けます!」
「消毒だ! 上書き保存だ!」
​ガルド様はハンカチを投げ捨てると、直接俺の足首に口付けた。
チュッ、チュッ、と音を立てて吸い付く。
​「うわぁっ!? 何してんすか!」
「毒素を吸い出している!」
「嘘つけ! ただのセクハラだろ!」
​ひとしきり俺の足を堪能した後、ガルド様はようやく顔を上げた。
その目は真剣そのものだった。
​「……薫。ここはもう駄目だ」
「え?」
「君の体質が、活性化しすぎている。俺がそばにいて魔力を中和している時はいいが、離れると反動で匂いが拡散し、魔物を引き寄せてしまうようだ」
​ガルド様は俺の部屋を見渡した。
壁には大穴が空き、夜風が吹き込んでいる。
スライムのドブ臭いにおいも微かにする。
​「……それに、壁も壊れてしまったしな」
「あんたが壊したんでしょうが…」
「修理には時間がかかる。……仕方ない」
​ガルド様は俺を「お姫様抱っこ」したまま、ニヤリと笑った。
それは、獲物を完全に追い詰めた捕食者の笑みだった。
​「行くぞ、薫。……俺の家へ」
「えっ、ちょ、荷物は!?」
「いらん。全部ある。君の歯ブラシも、パジャマも、三日前に捨てた靴下も、俺のコレクションルームに保管してある」
「……通報していいですか?」
​「却下だ」
​ガルド様は窓枠に足をかけた。
夜空には満月が輝いている。
​「今日から君は、俺の屋敷の住人だ。……もう二度と、一人になんてさせないからな」
​その言葉は、プロポーズのようであり、終身刑の宣告のようでもあった。
俺の抵抗も虚しく、夜の空へと連れ去られていく。
さようなら、俺のプライバシー。
さようなら、俺の平穏な独身生活。
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