11 / 26
第11話
しおりを挟む「薫、少し席を外す」
その日、ガルド様は眉間に皺を寄せて立ち上がった。
「マスターが呼んでいる。……五分だ。五分で戻る」
「はいはい、行ってらっしゃい。」
「動くなよ? 俺の結界から一歩も出るな」
「わかりましたって」
俺は軽く手を振って、過保護な英雄を送り出した。
執務室の重厚な扉が閉まる。
ふぅ、と息を吐く。
ガルド様と離れるのは、昨日の夜以来だ。
たった数分だが、常に「スゥーッ」という呼吸音を聞かされている身としては、この静寂が何よりの保養だった。
「……コーヒーのおかわり、貰いに行こうかな」
俺は立ち上がり、給湯室へ向かおうとした。
ガルド様には「動くな」と言われたが、同じフロア内だ。問題ないだろう。
そう思って、廊下に出た時だった。
「……見つけた」
ゾワリ。
背筋に冷たいものが走った。
ガルド様の視線とは違う。あちらが「燃え盛る炎」なら、これは「冷たいメス」のような視線だ。
「誰ですか?」
振り返ると、そこには白衣を着た男が立っていた。
痩せこけた頬、黒いクマ、そして異様に大きな眼鏡。
手には怪しげな水晶玉を持っている。
「初めまして、三上薫くん。……いや、『聖香』の宿主とお呼びすべきかな」
男はニチャリと笑い、一歩近づいてきた。
「私はネロン。王立魔導研究所の副所長だ」
「はあ……」
「単刀直入に言おう。君、私のラボに来ないか?」
ネロンは俺を上から下まで舐めるように見た。
「素晴らしい……! 魔力を一切感じないのに、周囲の魔素を分解している……! 君は生きているだけで奇跡だ!」
「褒め言葉どうも。でも、俺はギルドの職員なんで」
「ギルド? くだらん! 君の価値は事務仕事などではない!」
ネロンが興奮して身を乗り出した。
薬品の臭いが鼻をつく。
「君を解剖すれば……いや、体液を調べるだけでも、魔力中毒の特効薬が作れるかもしれない! 血液、唾液、髄液……すべて提供してくれ!」
「お断りします! 帰ってください!」
俺は恐怖を感じて後ずさった。
こいつ、目が笑っていない。完全にマッドサイエンティストだ。
「遠慮するな。君は人類の進歩のために犠牲に……いや、貢献になるんだ!」
「離せ!」
ネロンの手が伸びてくる。
俺は避けようとしたが、魔導師特有の拘束魔法で足を止められた。
「動くな。サンプルを採取するだけだ。……まずは皮膚の一部を……」
ネロンの冷たい手が、俺の手首を掴んだ。
その感触に、鳥肌が立つ。
「やめろッ!」
俺が叫んだ、その瞬間だった。
バキィッ!!
乾いた音が響いた。
何かが折れる音だ。
「……あ?」
ネロンが間の抜けた声を上げた。
彼の手首が、ありえない方向に曲がっていたからだ。
そして、その腕を掴んでいたのは――。
「……俺の『所有物』に、許可なく触れるな」
地獄の底から響くような、絶対零度の声。
「ガ、ガルド様……?」
そこには、鬼がいた。
ガルド・ベルンシュタイン。
だが、いつものような甘い雰囲気は微塵もない。
彼の瞳は、感情の一切を欠落させた虚無の色をしていた。
「ガ、ガルド……!?」
ネロンが悲鳴を上げて後ずさる。
だが、ガルド様の手は万力のように彼の手首を締め上げていた。
「貴様……どこの馬の骨だ?」
「わ、私は魔導研究所の……ぐぁっ!?」
メキメキメキッ……!
ガルド様がさらに力を込める。
ネロンの腕が、枯れ木のように粉砕されていく。
「名前など聞いていない。……俺が聞いているのは、『どの指で触ったか』だ」
「ひぃぃぃッ!! 親指! 親指ですぅぅ!!」
「そうか。なら、いらん」
ボシュッ!!
ガルド様の掌から黒い炎が噴き出した。
ネロンの右腕が、肘から先まで一瞬で炭化した。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁッ!!??」
ネロンが激しい痛みにのたうち回る。
ガルド様はそれをゴミのように蹴り飛ばした。
「失せろ。……次に俺の視界に入ったら、研究所ごと更地にする」
「ひ、ひぃぃ……!」
ネロンは片腕を失ったまま、這いつくばって逃げていった。
廊下には、焦げた肉の臭いと、俺の震える息遣いだけが残った。
「……薫」
ガルド様がゆっくりと振り返る。
その顔には、先ほどの冷酷さはなく、ただただ深い悲しみと焦燥が張り付いていた。
「ガ、ガルド様……あの、俺は……」
「触られたな?」
ガルド様が俺の手首を掴む。
ネロンに掴まれた場所だ。
「汚い……。なんてことだ……。他人の脂が、垢が、細菌が……俺の聖域を汚染した……!」
ガルド様はブツブツと呟きながら、ハンカチで俺の手首を乱暴に拭った。
皮膚が赤くなるほど強く。
「痛いっ! 痛いですガルド様!」
「黙ってろ! 消毒しないと腐るぞ!」
ガルド様はハンカチを投げ捨てると、俺の手首に唇を押し当てた。
いや、唇じゃない。舌だ。
「んっ……!?」
ジュルリ、と。
ガルド様の熱い舌が、俺の手首を舐め上げた。
犬が傷口を舐めるような、あるいは獣が獲物を味わうような、生々しい音。
「ガルド様、やめて……! ここ廊下!」
「上書きだ。……俺の唾液で、俺の匂いで、あの虫の痕跡を塗り潰す……」
ガルド様は俺の抗議など聞こえていないようだった。
手首を舐め、吸い、噛み跡がつくほど強く歯を立てる。
そこには、純粋な独占欲と、俺を失うことへの病的なまでの恐怖があった。
「……お前は俺のだ。……誰にも渡さん。……指一本、髪の毛一本だって……」
俺は抵抗するのをやめた。
震えるガルド様の頭を、反対の手でそっと抱きしめる。
この人は最強の英雄だ。
でも、俺がいなければ、こんなにも脆い。
「……大丈夫ですよ。俺はここにいます」
俺がそう呟くと、ガルド様はピクリと動きを止め、濡れた瞳で俺を見上げた。
その目は、捨てられた子犬のようで……悔しいけれど、愛おしいと思ってしまった。
「……帰ろう、薫。……今日はもう、君を誰の目にも触れさせたくない」
「……はい」
俺たちは早退した。
その日、ガルド様の屋敷の寝室から、俺が一歩も出してもらえなかったことは言うまでもない。
22
あなたにおすすめの小説
どこにでもある話と思ったら、まさか?
きりか
BL
ストロベリームーンとニュースで言われた月夜の晩に、リストラ対象になった俺は、アルコールによって現実逃避をし、異世界転生らしきこととなったが、あまりにありきたりな展開に笑いがこみ上げてきたところ、イケメンが2人現れて…。
捨て子の僕が公爵家の跡取り⁉~喋る聖剣とモフモフに助けられて波乱の人生を生きてます~
伽羅
ファンタジー
物心がついた頃から孤児院で育った僕は高熱を出して寝込んだ後で自分が転生者だと思い出した。そして10歳の時に孤児院で火事に遭遇する。もう駄目だ! と思った時に助けてくれたのは、不思議な聖剣だった。その聖剣が言うにはどうやら僕は公爵家の跡取りらしい。孤児院を逃げ出した僕は聖剣とモフモフに助けられながら生家を目指す。
無能なので辞めさせていただきます!
サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。
マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。
えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって?
残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、
無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって?
はいはいわかりました。
辞めますよ。
退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。
自分無能なんで、なんにもわかりませんから。
カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。
αからΩになった俺が幸せを掴むまで
なの
BL
柴田海、本名大嶋海里、21歳、今はオメガ、職業……オメガの出張風俗店勤務。
10年前、父が亡くなって新しいお義父さんと義兄貴ができた。
義兄貴は俺に優しくて、俺は大好きだった。
アルファと言われていた俺だったがある日熱を出してしまった。
義兄貴に看病されるうちにヒートのような症状が…
義兄貴と一線を超えてしまって逃げ出した。そんな海里は生きていくためにオメガの出張風俗店で働くようになった。
そんな海里が本当の幸せを掴むまで…
銀狼様とのスローライフ
八百屋 成美
BL
激務に心身を病み、逃げるように田舎へ移り住んだ佐伯湊。
ある雨の日、彼は庭先で銀色に輝く巨大な狼を拾う。
それは、人間に追われ傷ついた神獣、リュカだった。
傷の手当てをきっかけに、湊の家に居座ることになったリュカ。
尊大で俺様な態度とは裏腹に、彼は湊が作ったご飯を美味しそうに食べ、寒い夜にはその温かい毛並みで湊を包み込んでくれる。
孤独だった湊の心は、リュカの無償の愛によって次第に満たされていく。
しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。
絶対に追放されたいオレと絶対に追放したくない男の攻防
藤掛ヒメノ@Pro-ZELO
BL
世は、追放ブームである。
追放の波がついに我がパーティーにもやって来た。
きっと追放されるのはオレだろう。
ついにパーティーのリーダーであるゼルドに呼び出された。
仲が良かったわけじゃないが、悪くないパーティーだった。残念だ……。
って、アレ?
なんか雲行きが怪しいんですけど……?
短編BLラブコメ。
神様は身バレに気づかない!
みわ
BL
異世界ファンタジーBL
「神様、身バレしてますよ?」
――暇を持て余した神様、現在お忍び異世界生活中。
貴族の令息として“普通”に暮らしているつもりのようですが、
その振る舞い、力、言動、すべてが神様クオリティ。
……気づかれていないと思っているのは、本人だけ。
けれど誰も問いただせません。
もし“正体がバレた”と気づかれたら――
神様は天へ帰ってしまうかもしれないから。
だから今日も皆、知らないふりを続けます。
そんな神様に、突然舞い込む婚約話。
お相手は、聡明で誠実……なのにシオンにだけは甘すぎる第一王子!?
「溺愛王子×お忍び(になってない)神様」
正体バレバレの異世界転生コメディ、ここに開幕!
完結·氷の宰相の寝かしつけ係に任命されました
禅
BL
幼い頃から心に穴が空いたような虚無感があった亮。
その穴を埋めた子を探しながら、寂しさから逃げるようにボイス配信をする日々。
そんなある日、亮は突然異世界に召喚された。
その目的は――――――
異世界召喚された青年が美貌の宰相の寝かしつけをする話
※小説家になろうにも掲載中
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる