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第17話
「……スゥーッ……。ふむ、ここが計算ミスか。……ハァ……」
「はい、修正しておきます。……あの、ガルド様。ハンコ押すたびに俺のうなじ吸うのやめてもらえます?」
王都ギルド、最上階の執務室。
俺は、防弾ガラスに囲まれた専用デスクで、背中に巨大なヒルを張り付かせたまま仕事をしていた。
ヒルの正体はもちろん、ガルドだ。
「効率化だ。君の匂いを嗅ぐと脳の処理速度が三倍になる」
「俺は栄養ドリンクじゃないんですよ」
平和な午後だった。
外野がうるさくなるまでは。
バーンッ!!
突如、執務室の重厚な扉が乱暴に開かれた。
「ガルド様! お迎えに上がりましたわ! さあ、こんなむさ苦しい場所は捨てて、わたくしと共に参りましょう!」
キンキンと響く高い声。
現れたのは、真っ赤なドレスに身を包んだ絶世の美女だった。
縦ロールの金髪、気の強そうな吊り目。背後には屈強な私兵を引き連れている。
絵に描いたような「悪役令嬢」タイプだ。
「……誰だ?」
ガルド様は俺の首筋から口を離さず、面倒くさそうに片目だけ開けた。
「ひどいですわ! あなたの婚約者、ローズ公爵家のセラフィナですわよ!」
セラフィナと名乗った令嬢は、カツカツとヒールを鳴らして近づいてきた。
そして、ガルド様に張り付いている俺を見て、柳眉を逆立てた。
「なっ……!? 何ですの、その薄汚い男は!」
彼女は扇子で口元を隠し、露骨に嫌悪感を露わにした。
「ガルド様、なぜそのような下賤な雑用係を側に置いているのです? まるでペットのように……英雄の名が泣きますわ!」
「……ペット?」
ガルド様の眉がピクリと動いた。
「ええ! あなたに相応しいのは、わたくしのような高貴な血筋と魔力を持つ者だけ! さあ、そこの雑魚! さっさとガルド様から離れなさい! そこは私の席よ!」
セラフィナが俺を指差し、白い革手袋を投げつけてきた。貴族の決闘の申し込みだ。
「……はぁ」
俺はため息をついた。面倒くさい。
「どうぞどうぞ。喜んでお譲りしますよ。俺も肩凝ってたとこなんで」
「あら、話が早くて助かるわ。身の程をわきまえているようね」
俺は立ち上がろうとした。
が、動けない。
腰に回されたガルド様の腕が、鋼鉄の万力のように締まったからだ。
「……ガルド様? 痛いです。内臓が出ます」
「動くな」
ガルド様が、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳から、光が消えていた。
室内温度が一気に氷点下まで下がる。
「ひっ……!? ガ、ガルド様……?」
セラフィナが後ずさる。ガルド様は彼女を見てもいなかった。
ただ、鼻をひくつかせ、不快そうに顔を歪めている。
「……臭い」
吐き捨てるような一言。
「え……? わたくしが……?」
「なんだ、その鼻が曲がりそうな強烈な匂いは。薔薇の香油か? 安っぽい芳香剤を頭から被ったのか?」
「なっ!? こ、これは王室御用達の最高級香水『ヴィーナスの吐息』ですわよ!?」
「ドブの吐息の間違いだろう」
ガルド様がハンカチで鼻を押さえた。
「頭が痛くなる。……貴様、その人工的な化学物質の悪臭で、俺の聖域を汚染する気か?」
ガルド様にとって、薫以外の「強い匂い」はすべてノイズであり、敵だった。
特に、香水のような自己主張の強い匂いは天敵だ。
「あ、悪臭ですって……!? わたくしを愚弄する気!?」
プライドを引き裂かれたセラフィナが、杖を構えた。
「お父様に言いつけてやりますわ! A級魔導師であるわたくしの炎で、その生意気な口を――」
ドォンッ。
ガルド様が、短くため息をついた。
ただそれだけで発生した魔力の衝撃波が、セラフィナを直撃した。
「きゃぁぁぁっ!?」
令嬢はドレスの裾を翻し、部屋の隅まで吹き飛んで回転した。
「失せろ。……次にそのふざけた臭いをさせて俺の前に現れたら、鼻を削ぎ落とすぞ」
冷酷な宣告。
セラフィナは涙目で這いつくばり、逃げ出していった。
私兵たちも慌てて後を追う。
嵐が去り、静寂が戻った執務室。
「……まったく、ひどい目にあった」
ガルド様は不機嫌そうに呟くと、俺のシャツの裾を強引に捲り上げた。
「ちょ、何すか」
「浄化だ。……あの女の毒ガスを中和するには、これしかない」
ガルド様は、俺の汗ばんだ脇腹――一番匂いがこもる場所に、顔を埋めた。
「スゥゥゥゥーーーーーーッ…………ハァァァ…………」
今日一番の、深い深呼吸。
「んんっ……! これだ……! この野生味あふれる雄の匂い……! 昼食のスパイスと、労働の汗が混じり合った、生々しい生命の香り……!」
「きもい食レポやめてください! くすぐったい!」
「生き返る……。やはり君の匂いが至高だ……。あの女の香水など、君の足の裏の匂いにも劣る」
「比較対象が最低すぎる!」
結局、ガルド様の機嫌が直るまで、俺は三十分ほど「人間空気清浄機」として脇腹を提供し続ける羽目になった。
高貴な令嬢よりも、俺の脇汗を選ぶ英雄。
この国の未来が、少し心配になった。
「はい、修正しておきます。……あの、ガルド様。ハンコ押すたびに俺のうなじ吸うのやめてもらえます?」
王都ギルド、最上階の執務室。
俺は、防弾ガラスに囲まれた専用デスクで、背中に巨大なヒルを張り付かせたまま仕事をしていた。
ヒルの正体はもちろん、ガルドだ。
「効率化だ。君の匂いを嗅ぐと脳の処理速度が三倍になる」
「俺は栄養ドリンクじゃないんですよ」
平和な午後だった。
外野がうるさくなるまでは。
バーンッ!!
突如、執務室の重厚な扉が乱暴に開かれた。
「ガルド様! お迎えに上がりましたわ! さあ、こんなむさ苦しい場所は捨てて、わたくしと共に参りましょう!」
キンキンと響く高い声。
現れたのは、真っ赤なドレスに身を包んだ絶世の美女だった。
縦ロールの金髪、気の強そうな吊り目。背後には屈強な私兵を引き連れている。
絵に描いたような「悪役令嬢」タイプだ。
「……誰だ?」
ガルド様は俺の首筋から口を離さず、面倒くさそうに片目だけ開けた。
「ひどいですわ! あなたの婚約者、ローズ公爵家のセラフィナですわよ!」
セラフィナと名乗った令嬢は、カツカツとヒールを鳴らして近づいてきた。
そして、ガルド様に張り付いている俺を見て、柳眉を逆立てた。
「なっ……!? 何ですの、その薄汚い男は!」
彼女は扇子で口元を隠し、露骨に嫌悪感を露わにした。
「ガルド様、なぜそのような下賤な雑用係を側に置いているのです? まるでペットのように……英雄の名が泣きますわ!」
「……ペット?」
ガルド様の眉がピクリと動いた。
「ええ! あなたに相応しいのは、わたくしのような高貴な血筋と魔力を持つ者だけ! さあ、そこの雑魚! さっさとガルド様から離れなさい! そこは私の席よ!」
セラフィナが俺を指差し、白い革手袋を投げつけてきた。貴族の決闘の申し込みだ。
「……はぁ」
俺はため息をついた。面倒くさい。
「どうぞどうぞ。喜んでお譲りしますよ。俺も肩凝ってたとこなんで」
「あら、話が早くて助かるわ。身の程をわきまえているようね」
俺は立ち上がろうとした。
が、動けない。
腰に回されたガルド様の腕が、鋼鉄の万力のように締まったからだ。
「……ガルド様? 痛いです。内臓が出ます」
「動くな」
ガルド様が、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳から、光が消えていた。
室内温度が一気に氷点下まで下がる。
「ひっ……!? ガ、ガルド様……?」
セラフィナが後ずさる。ガルド様は彼女を見てもいなかった。
ただ、鼻をひくつかせ、不快そうに顔を歪めている。
「……臭い」
吐き捨てるような一言。
「え……? わたくしが……?」
「なんだ、その鼻が曲がりそうな強烈な匂いは。薔薇の香油か? 安っぽい芳香剤を頭から被ったのか?」
「なっ!? こ、これは王室御用達の最高級香水『ヴィーナスの吐息』ですわよ!?」
「ドブの吐息の間違いだろう」
ガルド様がハンカチで鼻を押さえた。
「頭が痛くなる。……貴様、その人工的な化学物質の悪臭で、俺の聖域を汚染する気か?」
ガルド様にとって、薫以外の「強い匂い」はすべてノイズであり、敵だった。
特に、香水のような自己主張の強い匂いは天敵だ。
「あ、悪臭ですって……!? わたくしを愚弄する気!?」
プライドを引き裂かれたセラフィナが、杖を構えた。
「お父様に言いつけてやりますわ! A級魔導師であるわたくしの炎で、その生意気な口を――」
ドォンッ。
ガルド様が、短くため息をついた。
ただそれだけで発生した魔力の衝撃波が、セラフィナを直撃した。
「きゃぁぁぁっ!?」
令嬢はドレスの裾を翻し、部屋の隅まで吹き飛んで回転した。
「失せろ。……次にそのふざけた臭いをさせて俺の前に現れたら、鼻を削ぎ落とすぞ」
冷酷な宣告。
セラフィナは涙目で這いつくばり、逃げ出していった。
私兵たちも慌てて後を追う。
嵐が去り、静寂が戻った執務室。
「……まったく、ひどい目にあった」
ガルド様は不機嫌そうに呟くと、俺のシャツの裾を強引に捲り上げた。
「ちょ、何すか」
「浄化だ。……あの女の毒ガスを中和するには、これしかない」
ガルド様は、俺の汗ばんだ脇腹――一番匂いがこもる場所に、顔を埋めた。
「スゥゥゥゥーーーーーーッ…………ハァァァ…………」
今日一番の、深い深呼吸。
「んんっ……! これだ……! この野生味あふれる雄の匂い……! 昼食のスパイスと、労働の汗が混じり合った、生々しい生命の香り……!」
「きもい食レポやめてください! くすぐったい!」
「生き返る……。やはり君の匂いが至高だ……。あの女の香水など、君の足の裏の匂いにも劣る」
「比較対象が最低すぎる!」
結局、ガルド様の機嫌が直るまで、俺は三十分ほど「人間空気清浄機」として脇腹を提供し続ける羽目になった。
高貴な令嬢よりも、俺の脇汗を選ぶ英雄。
この国の未来が、少し心配になった。
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