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出汁巻き卵を「一生食べたい」とまで絶賛してくれた瀬野を会社へと見送り、湊は一人、広々としたタワマンのリビングで食器の後片付けをしていた。
最新式の食洗機があるにもかかわらず、手持ち無沙汰でついスポンジを握ってしまう。
(瀬野くん、本当に美味しそうに食べてくれたな……)
自己評価が地の底を這っていた湊にとって、自分の作った料理があんなにも喜ばれたことは、干からびた心に染み渡るような小さな救いだった。
少なくとも、新しい部屋が見つかるまでの間、恩返しできるだけの役割はある。
そう思って少しだけ口角を上げた時――テーブルの上に置いていた湊のスマホが、無機質な通知音を鳴らした。
画面に表示された名前に、湊の心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
昨日別れたばかりの、元恋人からだった。
『ごめん、来週の日曜、俺の荷物取りに行っていい? 今の彼氏が車出してくれるっていうからさ。あ、水漏れしたんだっけ? 大変だね(笑)』
文字面からだけでも伝わってくる、無神経さと優越感。
浮気して自分を捨てたくせに、新しいハイスペックな恋人の存在をわざわざアピールしてくるその神経に、湊は息が詰まった。
「……っ」
惨めだった。五年も付き合って、最後がこれなのか。
自分はどれだけ軽く、どうでもいい存在として扱われていたのだろう。
スマホを握りしめたまま、湊はぽたりとシンクに涙を落とした。
「先輩? どうしたんですか」
「えっ……瀬野くん!?」
不意に背後から声がして、湊は弾かれたように振り返った。
玄関からリビングに戻ってきたのは、ついさっき出社したはずの瀬野だった。
「わ、忘れ物? ごめん、なんでもないよ!」
「……なんでもない人が、そんな顔で泣くわけないでしょう」
慌てて目元を拭う湊の前に歩み寄ると、瀬野は湊の手からすっとスマホを抜き取った。
そして、画面に表示されたままのメッセージに目を落とす。
「……あ」
見られた。最悪だ。
こんな情けないLINEを見られて、また惨めな自分を晒してしまった。
湊が羞恥に俯いた瞬間、瀬野の周囲の空気が、ふっと氷点下にまで下がったような錯覚を覚えた。
「――最低ですね、この男」
低く、地を這うような冷たい声。
いつも爽やかな瀬野からは想像もつかないほど、明確な怒気が孕んでいた。
「せ、瀬野くん……?」
「先輩は、こんな男のために泣く必要なんて一ミリもありません。むしろ、こんな無神経な人間と別れられて正解だったんです」
瀬野はスマホをテーブルに伏せると、湊の両肩を真正面からガシッと掴んだ。
覗き込んでくる黒曜石のような瞳には、先ほどの冷たい怒りとは違う、ひどく熱っぽい光が宿っている。
「先輩。この男を見返してやりましょう」
「み、見返すって……どうやって?」
「僕が、先輩の彼氏になります」
「…………はい?」
突拍子もない提案に、湊は瞬きを繰り返した。
思考が完全に停止する。今、このハイスペック完璧後輩はなんと言った?
「か、彼氏って……いやいや! 瀬野くんは男だし、それに俺なんかと付き合うメリットがどこにもないだろ!?」
「ありますよ。実は僕、実家からしつこくお見合いを勧められていて、ものすごく迷惑してるんです。だから、『同棲している恋人がいる』という既成事実が喉から手が出るほど欲しかったんですよ」
流れるような口上で、瀬野はもっともらしい理由を並べ立てた。
もちろん、お見合いの話など完全なでっち上げである。しかし、焦っている湊にそんな嘘を見抜けるはずもなかった。
「だからこれは、お互いのためです。僕はお見合いを断るためのアリバイができ、先輩は元恋人を見返すことができる。『お試しの彼氏役』……利害は一致していますよね?」
あまりにも論理的で、有無を言わさぬプレゼンテーション。
まるで営業先のクライアントを落とすかのような鮮やかな手口に、湊はぐるぐると目を回す。
「お、お試しって言っても……俺、男だし、瀬野くんに釣り合わないよ」
「そんなことありません。先輩は優しくて、料理が上手で、一緒にいて誰より落ち着く。僕の恋人役として完璧です」
「っ……」
「それに……悔しくないんですか。先輩をこんなに傷つけた男に、一矢報いてやりたくないんですか?」
痛いところを突かれ、湊はぐっと唇を噛んだ。
悔しい。悲しい。このまま泣き寝入りして、惨めな男として終わるのは嫌だ。
「……わかった。俺で役に立つなら……お見合いを断るためのお試し彼氏、やるよ」
ついに、湊が頷いた。
その瞬間、瀬野の瞳に爆発的な歓喜の色が走ったことなど、湊は気づかない。
「ありがとうございます、先輩。じゃあ、さっそく……」
瀬野はふわりと微笑むと、そのまま湊を抱き寄せた。
広い肩幅と、微かに香る高価なシトラスの香水。男らしくて力強い腕の中にすっぽりと収められ、湊は心臓が飛び跳ねるのを感じた。
「えっ、ちょ、瀬野くん!?」
「恋人同士なんですから、これくらい慣れておかないと。まずはハグの練習です」
耳元で囁かれる、甘く低い声。
『お試し』という名目に隠された、瀬野の長年燻らせてきた激重な執着。
湊はただ「後輩の優しさと演技」だと信じて疑わないまま、自ら甘い檻の扉を内側から閉めてしまったのだった。
出汁巻き卵を「一生食べたい」とまで絶賛してくれた瀬野を会社へと見送り、湊は一人、広々としたタワマンのリビングで食器の後片付けをしていた。
最新式の食洗機があるにもかかわらず、手持ち無沙汰でついスポンジを握ってしまう。
(瀬野くん、本当に美味しそうに食べてくれたな……)
自己評価が地の底を這っていた湊にとって、自分の作った料理があんなにも喜ばれたことは、干からびた心に染み渡るような小さな救いだった。
少なくとも、新しい部屋が見つかるまでの間、恩返しできるだけの役割はある。
そう思って少しだけ口角を上げた時――テーブルの上に置いていた湊のスマホが、無機質な通知音を鳴らした。
画面に表示された名前に、湊の心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
昨日別れたばかりの、元恋人からだった。
『ごめん、来週の日曜、俺の荷物取りに行っていい? 今の彼氏が車出してくれるっていうからさ。あ、水漏れしたんだっけ? 大変だね(笑)』
文字面からだけでも伝わってくる、無神経さと優越感。
浮気して自分を捨てたくせに、新しいハイスペックな恋人の存在をわざわざアピールしてくるその神経に、湊は息が詰まった。
「……っ」
惨めだった。五年も付き合って、最後がこれなのか。
自分はどれだけ軽く、どうでもいい存在として扱われていたのだろう。
スマホを握りしめたまま、湊はぽたりとシンクに涙を落とした。
「先輩? どうしたんですか」
「えっ……瀬野くん!?」
不意に背後から声がして、湊は弾かれたように振り返った。
玄関からリビングに戻ってきたのは、ついさっき出社したはずの瀬野だった。
「わ、忘れ物? ごめん、なんでもないよ!」
「……なんでもない人が、そんな顔で泣くわけないでしょう」
慌てて目元を拭う湊の前に歩み寄ると、瀬野は湊の手からすっとスマホを抜き取った。
そして、画面に表示されたままのメッセージに目を落とす。
「……あ」
見られた。最悪だ。
こんな情けないLINEを見られて、また惨めな自分を晒してしまった。
湊が羞恥に俯いた瞬間、瀬野の周囲の空気が、ふっと氷点下にまで下がったような錯覚を覚えた。
「――最低ですね、この男」
低く、地を這うような冷たい声。
いつも爽やかな瀬野からは想像もつかないほど、明確な怒気が孕んでいた。
「せ、瀬野くん……?」
「先輩は、こんな男のために泣く必要なんて一ミリもありません。むしろ、こんな無神経な人間と別れられて正解だったんです」
瀬野はスマホをテーブルに伏せると、湊の両肩を真正面からガシッと掴んだ。
覗き込んでくる黒曜石のような瞳には、先ほどの冷たい怒りとは違う、ひどく熱っぽい光が宿っている。
「先輩。この男を見返してやりましょう」
「み、見返すって……どうやって?」
「僕が、先輩の彼氏になります」
「…………はい?」
突拍子もない提案に、湊は瞬きを繰り返した。
思考が完全に停止する。今、このハイスペック完璧後輩はなんと言った?
「か、彼氏って……いやいや! 瀬野くんは男だし、それに俺なんかと付き合うメリットがどこにもないだろ!?」
「ありますよ。実は僕、実家からしつこくお見合いを勧められていて、ものすごく迷惑してるんです。だから、『同棲している恋人がいる』という既成事実が喉から手が出るほど欲しかったんですよ」
流れるような口上で、瀬野はもっともらしい理由を並べ立てた。
もちろん、お見合いの話など完全なでっち上げである。しかし、焦っている湊にそんな嘘を見抜けるはずもなかった。
「だからこれは、お互いのためです。僕はお見合いを断るためのアリバイができ、先輩は元恋人を見返すことができる。『お試しの彼氏役』……利害は一致していますよね?」
あまりにも論理的で、有無を言わさぬプレゼンテーション。
まるで営業先のクライアントを落とすかのような鮮やかな手口に、湊はぐるぐると目を回す。
「お、お試しって言っても……俺、男だし、瀬野くんに釣り合わないよ」
「そんなことありません。先輩は優しくて、料理が上手で、一緒にいて誰より落ち着く。僕の恋人役として完璧です」
「っ……」
「それに……悔しくないんですか。先輩をこんなに傷つけた男に、一矢報いてやりたくないんですか?」
痛いところを突かれ、湊はぐっと唇を噛んだ。
悔しい。悲しい。このまま泣き寝入りして、惨めな男として終わるのは嫌だ。
「……わかった。俺で役に立つなら……お見合いを断るためのお試し彼氏、やるよ」
ついに、湊が頷いた。
その瞬間、瀬野の瞳に爆発的な歓喜の色が走ったことなど、湊は気づかない。
「ありがとうございます、先輩。じゃあ、さっそく……」
瀬野はふわりと微笑むと、そのまま湊を抱き寄せた。
広い肩幅と、微かに香る高価なシトラスの香水。男らしくて力強い腕の中にすっぽりと収められ、湊は心臓が飛び跳ねるのを感じた。
「えっ、ちょ、瀬野くん!?」
「恋人同士なんですから、これくらい慣れておかないと。まずはハグの練習です」
耳元で囁かれる、甘く低い声。
『お試し』という名目に隠された、瀬野の長年燻らせてきた激重な執着。
湊はただ「後輩の優しさと演技」だと信じて疑わないまま、自ら甘い檻の扉を内側から閉めてしまったのだった。
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