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しおりを挟む「お試し彼氏」という謎の協定を結んでから迎えた、初めての週末。
タワマンの広いリビングで掃除機をかけていた湊は、ソファでコーヒーを飲んでいた瀬野から不意に声をかけられた。
「先輩。今日の午後、出かけませんか」
「えっ? 買い物なら俺が一人で行ってくるよ。瀬野くん、平日は激務なんだから休んでて」
「いえ、そうじゃなくて……『彼氏役の練習』ですよ」
さらりと告げられた言葉に、湊は掃除機を止めた。
「れ、練習?」
「はい。いざという時にボロが出ないよう、休日のデートプランをこなしておきたいんです。僕のお見合い回避のためにも、ご協力いただけますよね?」
にっこりと、有無を言わさぬ爽やかな笑顔を向けられる。
「お見合い回避」という大義名分を出されては、居候の身として断れるはずがなかった。
「わ、わかった。じゃあ、着替えてくるね」
数十分後。
湊がクローゼットから引っ張り出してきた、無難なパーカーとチノパン姿でリビングに戻ると、瀬野は少しだけ眉をひそめた。
「……先輩、休日はいつもそんな格好ですか?」
「えっ、うん。おかしいかな? 一応、一番マシなやつなんだけど」
「おかしくはないです。可愛いです。でも、僕の隣を歩くなら、もう少し……僕好みに染まってほしいなと思いまして」
そう言うと、瀬野は自分の寝室から、タグのついた真新しい服をいくつか持ってきた。
上質な素材のシャツや、シルエットの綺麗なスラックス。どれも明らかに高級品だ。
「これ、先輩に似合うと思って買っておいたんです。着てみてください」
「いやいやいや! こんな高い服、受け取れないって!」
「衣装代です。彼氏役の、必要な経費ですから」
有無を言わさぬ圧に押し切られ、湊は渋々着替えることになった。
鏡の前に立つと、そこには普段の冴えない自分とは見違えるような、洗練された大人の男性が映っていた。サイズもなぜか、恐ろしいほどぴったり合っている。
「……うん。完璧です。世界一可愛い」
背後からスッと現れた瀬野が、湊の肩に顎を乗せるようにして鏡を覗き込んだ。
耳元で囁かれた低く甘い声に、湊の顔がボフッと赤く染まる。
「せ、瀬野くん、距離近い……っ!」
「練習ですから。さあ、行きましょうか」
連れ出された先は、おしゃれなセレクトショップやカフェが立ち並ぶ表参道だった。
隣を歩く瀬野は、長身でスタイルが良く、行き交う人々が思わず振り返るほど目を引く。
そんな完璧な男が、車道側を歩き、さりげなく湊をエスコートしてくれるのだ。
「先輩、疲れてませんか? あそこのカフェで少し休みましょうか」
優しく微笑みかけられるたび、湊の心臓は警鐘を鳴らした。
(落ち着け、これは練習だ。瀬野くんは演技が上手いだけ!)
オープンテラスのカフェで向かい合って座ると、ふと、隣の席の女性客たちがヒソヒソとこちらを見ているのに気がついた。
『ねえ、あの二人めっちゃカッコよくない?』
『右の人、モデルみたい。でも左の人も、可愛い……』
女性たちの視線が、瀬野だけでなく湊にも向けられている。
それに気づいた瞬間、瀬野の表情がスッと消えた。
「先輩」
「ん? どうし――」
突然、瀬野が立ち上がり、湊の顔のすぐ横に手をついた。
長い指が湊の頬に触れ、親指の腹でそっと唇の端を拭う。
「……クリーム、ついてましたよ」
甘く、とろけるような声音。しかし、その瞳は湊越しに、隣の席の女性たちを氷のように冷たく射抜いていた。
『俺のものを見るな』とでも言わんばかりの、強烈な威圧感。
女性たちはビクッと肩を揺らし、そそくさと目を逸らした。
「え、あ、ごめん……ありがとう」
超鈍感な湊は、瀬野が周囲を牽制したことなど全く気づかず、ただ至近距離の美しい顔にドキドキと心臓を跳ねさせるばかりだった。
(瀬野くん、演技上手すぎない……? 勘違いしそうになるから、本当にやめてほしい……)
帰宅後。
「今日の練習、完璧でしたね。先輩もすごく良かったです」と上機嫌な瀬野に対し、湊は疲れ切った顔でソファに崩れ落ちた。
「瀬野くん……お願いだから、あんな心臓に悪い練習は今日限りにしよう。俺、寿命が縮むかと思った」
「ふふ、先輩が可愛すぎるせいですよ。……でも、今日限りなんて約束はできません」
瀬野は湊の足元に膝をつき、下から見上げるように目を細めた。
「だってまだ、手をつなぐ練習も、キスをする練習も残っていますから」
冗談めかして笑うその後輩の瞳の奥が、全く笑っていないことに――湊はまだ、気づいていなかった。
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