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002 ユーリは実家を後にする。

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 執務室を出たユーリは脇目も振らず、廊下を突き進んでいく。
 身につけているのは貴族令嬢に相応しい装飾過多で動きにくいドレスだ。
 ふわりと広がったスカートをつまみ、軽く走るくらいの速さで足を動かす。

 以前のユーリであれば、こんな速さで歩くのは不可能だ。
 だが、皇帝としての――戦場の覇者としての身体の動かし方を思い出した彼女にとっては、少し鬱陶しい程度で、なんら問題もな――。

「ふにゃっ」

 深い絨毯に足をとられ、転んでしまう。
 両手がふさがっていたので、顔を廊下に強く打ちつけた。
 そのはずみに、可愛い声が漏れ出た。
 いくら抜群のバランス感覚があっても、身体の方がついてこなかったようだ。

 ――やはり、違和感がある。早いところ、この身体に慣れないとな。

 立ち上がりながらも、自分の身体への不満をもらす。

 ――常在戦場。

 前世では、いつ、どんなときに襲われても、反射的に身体が動いた。
 そうでなければ、生き残れなかった。
 だから、身体を十全に使いこなせない今の状態は、どうにも落ち着かない。

 起き上がった彼女は、先ほどより少しペースを落して歩き出す。
 頭の中で、ユーリという娘の記憶をたどっていく。
 貴族令嬢としての教育で、地理や歴史の簡単な知識は備わっていた。

 ――この娘の記憶によれば、この世界はずいぶんと平和ボケしてるようだ。

 どうやら、前世から二百年ほど経過しているらしい。
 ただ、二百年前になにが起こり、ユリウス帝がどうなったのか――ユーリの記憶からは不明だ。

 ――まあそれは、おいおい考えれば良い。

 まずはこの身体でできることの確認だ。
 そう思ったとき、後ろから声がかけられる。

「おっ、お嬢様。お待ち下さい」

 執事長だ。
 老齢の彼は急に走ったことで息が上がっている。
 青ざめた顔には、ユーリへの心配が貼りついていた。

 ――ほう。もう立ち直ったか。

 ついさっきユーリの殺気を浴びたにも関わらず、早く立ち直った執事長に関心する。
 ほんのわずかな殺気だったとはいえ、なかなかの者だ。
 加えて、それだけ彼女のことを大事に思っているのだと分かる。

 だが、もう関係ない相手だ――そう思って無視しようとしたところに、ユーリの記憶が蘇る。

 母はユーリを生むとすぐに亡くなった。
 父である伯爵や兄弟からは十分な愛情を受けたとは言い難い。

 だが、執事長を含む館の者は、彼女を大切に扱い、不遇な彼女を労《いたわ》ってくれた。
 ユーリにとっては大切な心の支えだった。
 彼らなくしては、ユーリは心を閉ざした人形になっていただろう。

 ゆえに――ユーリは足を止め、振り返る。

「お嬢様……」

 執事長は彼女が自分の知るユーリではないと、すぐに悟る。

「あなたはいったい……」
「心配するな。今の余は、無力で守られるべき幼子《おさなご》ではない。理由は話せぬが、自分の身は自分で守れる」

 その言葉は執事長の心にストンと落ち、不安が薄まっていく。

「其方《そなた》らには、世話になった。その忠義は決して忘れぬ。落ち着いたら、一度、顔を出す。それまで息災であれ」

 古めかしい言い回し。
 確固と揺るがぬ自信。
 人を従える者の風格。

 どれをとっても、執事長の知るユーリからは程遠い。
 だが、彼は彼女の中に、ユーリの面影を感じとった。

「お嬢様、どうかご無事で……」

 執事長は深々と頭を下げる。
 不安はもう消え去っている。

 ――これでよいか?

 ユーリは心の中の幼女に語りかける。

 ――ありがとうございます。

 その声はかすれ、涙に滲んていた。

 ユーリは踵《きびす》を返し、前に進む。
 過去を断ち切って――。

 執事長に声をかけられたことで中断してしまったが、今の自分になにができるか、なにができないか、確認するのが最優先だ。

 廊下を歩みながら、ユーリは手のひらに魔力を集める。
 前世に比べたらだいぶ弱体化しているが、魔力が使えることに安心する。

 ――うむ。魔力も使えるな。だが、心許《こころもと》ない。

 体内の魔力を確認し、さっそく魔法を発動させる。

『――【身体強化《ライジング・フォース》】』

 ユーリの身体を魔力が包む。
 魔法によって身体能力が向上し、さっきよりも速いペースで歩けるようになった。

 続いて、次の魔法を確認する。

『――【虚空庫《インベントリ》】』

 短く唱えると、頭の中に架空の倉庫が浮かび上がる。
 異空間に物を収納し、自由に出し入れ出来る魔法だ。

 ざっと確認しただけだが、【虚空庫《インベントリ》】の中には皇帝時代の収納物があることが分かった。

 ――【虚空庫《インベントリ》】も問題なしだ。なら、ここに用はない。

 もし、【虚空庫《インベントリ》】が使えなければ、いろいろ持ち出す必要があったが、その心配はなくなった。
 ユーリはとっとと、この屋敷を後にすることに決めた。

 廊下にいたメイドたちはユーリの姿を認めると、驚きに目を見開き、無意識のうちにひざまずく。
 今までではあり得なかった光景だ。ユーリが無意識に放つ覇気に、身体が勝手に反応したのだ。
 ユーリを止められる者は誰もいなかった。

 それを気に留めることもなく、ユーリは廊下を突き進んでいく。
 そして、屋敷を出ると、まっすぐに厩舎に向かった。

 獣と干し草と糞尿の混ざった臭い。
 貴族令嬢であれば、顔を背け、鼻をつまみ、決して近づこうとはしない場所だ。
 だが、ユーリにとっては馬はともに戦場を駆けた仲間だ。
 不快どころか、むしろ、懐かしい臭いだった。

 厩舎に入ったユーリは馬の世話をしている馬丁《ばてい》の少年たちを気にすることもなく、一頭の馬の前で立ち止まった。
 遠くから見たことしかないご令嬢の突然の登場に、少年たちは手を止めて呆気《あっけ》にとられる。

「うむ。なかなか良い馬だ」

 前世の愛馬とは比べ物にならないが、伯爵家で一番の白馬だ。
 ユーリと目が合うと馬は静かに首を下げ、服従の意を示した。
 本能によって、人間よりも敏感にユーリの本質を悟ったのだ。

「名前は?」

 ユーリは言葉に魔力を乗せて、白馬に問いかける。

「ヒヒン」
「そうか、ヴァイスか。今日からお前は余《よ》の馬だ」

 馬の名前を当てたユーリに少年たちは驚く。
 ユーリは近くにいた少年に命ずる。

「鞍と手綱を用意せよ。鐙《あぶみ》はいらん」

 少年はユーリに気圧される。
 深窓のご令嬢であるはずユーリから感じられたのは、騎士団長のような威圧感。
 可憐な姿から発せられる凛々しい声に、すぐには動けなかった。

「早くせよ」

 繰り返され、少年は「はっ、はい」と慌てて動き出した。
 頭では理解が追いついていないが、命令に従わねばと身体を動かす。

 用意が整うと、ユーリはヴァイスの背に飛び乗る。

『――【身体強化《ライジング・フォース》】』

 さきほどより強く魔力をこめ、強化魔法を唱える。
 今の身体では乗馬は無理だが、強化した身体なら問題ない。

「さあ、ヴァイス。駆けるのだ」

 ユーリが手綱に魔力を流すと、ヴァイスは「ヒヒーン」といななき、駆け出した――。


【後書き】
次回――『ユーリは前世の臣下と再会する』
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