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41. 蓮の目
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ふっ、と意識が覚醒する。
自分はベットの中にいる。冷たいシーツに包まれて眠る。いつものことだ。
病院。そこが私の居場所。冷たく静謐な、死の箱の中で眠る。
傍らに誰かの気配を感じる。しょんぼりとして、不安げな、ここ数日慣れ親しんだ気配。
――蓮。私の弟。
いつも少し離れた場所で、じっとこちらを見ている。私が振り向くことを、私の意識が自分へ向くことを期待して、いつだってこっちを見ていた。
――可愛い弟。大事には思ってた。でも重たくて。
――ずっと私を見てる。無視したくても、あの子から流れ込んでくる霊力が、いつも存在を忘れさせない。
――そのくせ、あの子が求めているものは――……。
ああ、はやく終わりにしたい。
そう思ってたのに。
――儀式の直前で、あんなものを思い出すから……。
「姉さん?」
紗世は目を開いた。
暗い。ここはどこ? 病院じゃない。……病院? 当たり前だわ、何故病院にいるなんて思ったのかしら。
薄暗い部屋の中、すぐ傍らに、青ざめた顔の蓮がいた。床に膝をついて、ベットに横たわる紗世をじっと上から覗き込んでいる。
瞬きもせずに、黒い目が。
首でも絞めてきそう。
紗世は息を吸い込んだ。喉がヒリつく。
「その目で見ないで、嫌いなの」
「……なんでそんなひどいこと言うの」
「怖いから」
「怒ってるの、姉さん」
ごめんなさい、小さな声で蓮がつぶやく。ごめんなさい姉さん、ごめんなさい。
「やめて、謝らないで。同じ言葉を呪詛みたいに繰り返さないで、気味が悪い」
不意に、蓮が身を乗り出してベットへ膝をついた。明確な動きで、紗世に伸し掛かり細い肩を強く掴む。
その力の強さに、紗世は顔を顰めた。
「姉さん、記憶が戻ったの?」
記憶。
……、記憶?
あれ? 私はいま、何を話しているの?
ハッと紗世は我に返る。
なんだろう、いま、完全に無意識で喋っていた。
紗世は瞬きし、自分の置かれている状況を把握する。ここ数日で慣れた寝室。ヒヤリと冷たいベットの上で、自分の上に蓮が覆いかぶさっている。
肩を押さえつける力が強い。痛くは無いけれど、上から押さえつける力の強さと、ベットの柔らかさの対比が気持ち悪った。
部屋が暗くて、蓮の顔がよく見えない。紗世は目を細め、窮屈な体勢からそっと片手を伸ばし、蓮の頬を人差し指でなぞった。
蓮がギクリと体を強張らせる。
ここが頬、ここがこめかみ。じゃあ、目はここだわ。
閉じたカーテンの隙間から、わずかに射し込む月明りのおかげで、徐々に暗闇に目が慣れてきた。
そして気づく。黒い目が、自分を見ている。
ああ、蓮がたまに見せる、ハイライトの消えた目だわ。
紗世は輪郭を辿っていた指をそのままずらして、蓮の瞼をそっとつついた。
蓮は反応しない。すごいな、と紗世は思った。他人に瞼をつつかれたら、普通は戸惑いそうなものだけれど。
でもこの弟は、ただじっとこちらを見下ろしているだけだ。
ぞわぞわと、背筋から何かが沸き上がって来る。
怖い。何かしらなイベントの気配がする。蓮が怖いというより、この状況が怖い。
打破するにはどうすればいいだろう? お腹空いたとでも言ってみようか。場違いな台詞は、イベントをぶち壊せる可能性があるかもしれない。
「蓮、あの……」
「僕の目、そんなに気に入らない?」
えっ、台詞の強制カットイン?
場を和ますと思った言葉は、口にすら出せずに紗世の中で消えた。
「そんなに僕の目が嫌いなら、このまま潰してもいいよ」
物騒な言葉と共に、蓮は自分に触れている紗世の指を掴んだ。
そのまま瞼に強く押し当てる。眼球の丸みを指先に感じ、紗世はひるんだ。
「目でも腕でも足でも、何でも潰して、捨てて行ったって構わない。僕はこれさえあればいいんだろ」
蓮は紗世の指を引っ張り、自らの胸に押し当てた。
心臓の真上。紗世へ霊力を送るために彫られた刺青の上に。
押し付けられた手から、急速に流れ込む霊力を感じる。
「姉さんのために生きてきたのに」
絞り出すような声で蓮が低く呟く。
目のハイライトどころか、顔色までもが黒く変色していくように見えて、紗世は息を呑んだ。
ひどく寒い。
「なんでも言うこと聞いただろ。一度だって逆らわなかった。なのにどうして」
「蓮、待って」
「見てただけだ! 好きだからずっと見てた! 他に何も望まなかっただろ!」
「やめて蓮、痛い!」
掴まれた指が凍り始める。
ビキビキと、部屋のあちこちから音がした。ものすごいスピードで部屋が凍っていく。暗くとも、分厚い氷が部屋中に出現していくのが分かった。
柔らかかったはずのベットの感触が、冷たく硬いものへと変化していく。
「どうしたの姉さん、跳ね返さなくていいの?」
凍っちゃうよ。
ハイライトの消えた暗い目のまま、蓮が薄く笑った。
どうして、と紗世は泣きそうになりながら考える。
凍っていても、自分の指は蓮の刺青の上にある。霊力が勢いよく流れ込んできているのを感じるのに。
それなのにこんな風に部屋中を凍らせてしまったら、蓮の霊力は急速に減少していくのではないのか。
急激な霊力の低下は……ゲームでは致命傷を受けたと判断される。画面上が赤黒く染まり、徐々に狭まり、音も聞こえにくくなる。
実際に致命傷を受けているわけじゃないけど、でも一昨日、炎舞の壁を使ったときは、急速に減っていく霊力にひどく眩暈がした。あのまま術を発動させていたら、きっと視界が赤く染まっていただろうと思うくらいには。
この子は大丈夫なの?
まさか暴走しかけているの? だから霊力が枯渇する恐怖を感じていないの?
「蓮、やめて、死んじゃう……」
「姉さんを死なせたりしないよ」
そうじゃない、私じゃない。あなたが。
吸い込む空気が冷たすぎる。うまく声が出せない。
その時、ドアがガツンと蹴られる音がした。
蓮の体がビクリと跳ね、ドアを睨む。
『なにやってんの』
ドアの向こうから夏樹の声がする。分厚い氷に阻まれて、それは妙に遠くからのように聞こえた。
「……関係ないだろ」
『本気で言ってる? こんな真夜中に廊下中凍らせて』
俺たちはともかく、新島さん死んじゃうよ。
物騒なことを言う割に、夏樹の声はいつもと変わらずのんびりとしている。けれどもじわりじわりと、ドアの向こうから熱が発せられ始めた。
まるで威嚇行為のように。
蓮が息を呑み、素早く上体を起こした。そして紗世の腕を荒々しく掴んで引き起こすと、自分の背に庇う。
部屋の様相が変化する。喉を焼くほど冷たいと感じた凍気は紗世の周りから離れ、紗世を守るように周囲を漂い始めた。
ドア付近の氷がじわじわと溶けていく。震えるほど寒かった部屋が、急速に温まっていった。
それと同時に、蓮の息がどんどんと荒くなっていく。
拮抗が崩れるのは時間の問題だ、と紗世は感じた。二人の霊力が、実際の所どれくらいあるのかは自分には分からない。
でも、蓮の霊力がいま、かなり目減りしていて、逆に夏樹は満タンに近いことだけは分かる。
夏樹はたぶん、今日も応接間のソファで眠っていたのだろう。セーフルームにいたのなら、大して休んでいなくても、霊力はきちんと最大値まで回復したはずだ。
対して蓮は、たぶん寝ていない。だから昼間に使用した霊力は回復しておらず、おまけにこの部屋はセーフルームではないから、さっき使用した分だけまた霊力が減っている。
ドアの向こうから発せられる炎の力に負けて、部屋中の氷が割れ始めた。蓮が呻いてぐらりとよろめく。紗世は咄嗟に、蓮を後ろから抱きしめて支えた。
「夏樹さん、待って! やめて」
ピタリ、と炎の気配が止まる。
でも、氷は割れ続けた。割れた氷は床へ落ちる前に煙のように消えていく。
『紗世さん、大丈夫?』
「大丈夫! ちょっとふざけてただけなの!」
この言い訳は無理があるな、と思ったけれど、ドアの向こうからは『ふむ』という気のない返事が聞こえ、そのまま静かになった。
でも階段を下りる足音は聞こえない。おそらく夏樹はドアの向こうで様子を見ている。
「蓮、大丈夫?」
後ろから蓮を抱きしめたまま、紗世は小声でそっと聞いた。刺激しないように、そしてドアの向こうの夏樹に聞こえないように。
蓮はのろのろと手を持ち上げ、自分を抱く紗世の腕を掴んだ。
その手があまりにも冷たくて、紗世は息を呑む。
「姉さん……、僕のこと、思い出した?」
「え?」
いま聞くようなこと? と一瞬戸惑ったが、腕の中で蓮の体が緊張したように硬くなったのを感じて、紗世はあやすように、後ろから蓮の頬に口づけた。
ビクリと蓮の体が跳ね、振り返る。
「ごめん、まだ、なんにも」
紗世の言葉に、蓮は探るような目をしてじっとこちらを見た。
その目にはハイライトがきちんと入っている。いや実際に入っているわけではないけれど、少なくともさっきまでの、暗く黒い目ではなかった。
「不甲斐ないお姉ちゃんでごめんね」
「……いいんだ、そのままで」
「あれ、昨日は怒ってたのに」
「昨日は昨日だ……もういいよ、思い出さなくて」
「そんな投げやりな」
蓮は首を振ると、体を反転させて紗世を抱きしめ返した。そのままグッと体重をかけられ、紗世はまたポフンとベットへ逆戻りする。
ベットはもう硬くなかった。柔らかいシーツの感触を背に感じる。
蓮もそのまま紗世の横へ倒れこんだ。
「蓮、大丈夫?」
「大丈夫じゃない。頭が痛い」
「自業自得だよ」
手を伸ばして、蓮の頭をよしよしと撫でる。髪が氷のように冷たくて、紗世はため息をついた。
部屋の氷はいつの間にか消えて、凍気も今は漂っていなかった。でも蓮の体だけは、まだひどく冷たい。
季節は夏だっていうのに。
「姉さん、僕のこと好き?」
小さな声で蓮が聞いた。
質問が恥ずかしくて、はぐらかしても良かったけれど、たぶんこれちゃんと答えた方がいいんだろうなぁと、紗世は感じる。
「だいすき」
紗世はそう答え、伸びあがって蓮の額にキスをした。
蓮がまぶしいものを見るかのように目を細める。
「ほら、もう寝た方がいいよ。あなたのその頭痛ねぇ、霊力不足でしょ。寝ないと回復しないよ」
「寝たくない。このまま姉さんを見ていたい」
「駄目! 明日も私は蓮の隣にいるから、だからもう寝なさい」
蓮はそれでも眠気に反抗していたようだったが、ほどなくしてウトウトし始め、やがて小さく寝息が聞こえ始めた。
紗世は弟の寝顔を見る。暗闇に慣れた目は、月明りだけで部屋の大体のものは見えるようになっていた。
眠っている蓮からは、先ほどのハイライトが消えた目で話していた時の、異様な空気は感じない。
けれども気のせいとも思えなかった。今朝も思ったのだ。
この子、たまに怖い。
蓮は、何か大きなイベントを抱えている気がする。
そのイベントが、発動する機会をずっと伺っている。そんな気配がする。隙あらばイベントを起こそうと、何か、大きな力が――……。
それがどんなイベントか分かると良いのだけど。
でも、秀悟の弟なんて、ゲームには出てこなかったのに。
自分はベットの中にいる。冷たいシーツに包まれて眠る。いつものことだ。
病院。そこが私の居場所。冷たく静謐な、死の箱の中で眠る。
傍らに誰かの気配を感じる。しょんぼりとして、不安げな、ここ数日慣れ親しんだ気配。
――蓮。私の弟。
いつも少し離れた場所で、じっとこちらを見ている。私が振り向くことを、私の意識が自分へ向くことを期待して、いつだってこっちを見ていた。
――可愛い弟。大事には思ってた。でも重たくて。
――ずっと私を見てる。無視したくても、あの子から流れ込んでくる霊力が、いつも存在を忘れさせない。
――そのくせ、あの子が求めているものは――……。
ああ、はやく終わりにしたい。
そう思ってたのに。
――儀式の直前で、あんなものを思い出すから……。
「姉さん?」
紗世は目を開いた。
暗い。ここはどこ? 病院じゃない。……病院? 当たり前だわ、何故病院にいるなんて思ったのかしら。
薄暗い部屋の中、すぐ傍らに、青ざめた顔の蓮がいた。床に膝をついて、ベットに横たわる紗世をじっと上から覗き込んでいる。
瞬きもせずに、黒い目が。
首でも絞めてきそう。
紗世は息を吸い込んだ。喉がヒリつく。
「その目で見ないで、嫌いなの」
「……なんでそんなひどいこと言うの」
「怖いから」
「怒ってるの、姉さん」
ごめんなさい、小さな声で蓮がつぶやく。ごめんなさい姉さん、ごめんなさい。
「やめて、謝らないで。同じ言葉を呪詛みたいに繰り返さないで、気味が悪い」
不意に、蓮が身を乗り出してベットへ膝をついた。明確な動きで、紗世に伸し掛かり細い肩を強く掴む。
その力の強さに、紗世は顔を顰めた。
「姉さん、記憶が戻ったの?」
記憶。
……、記憶?
あれ? 私はいま、何を話しているの?
ハッと紗世は我に返る。
なんだろう、いま、完全に無意識で喋っていた。
紗世は瞬きし、自分の置かれている状況を把握する。ここ数日で慣れた寝室。ヒヤリと冷たいベットの上で、自分の上に蓮が覆いかぶさっている。
肩を押さえつける力が強い。痛くは無いけれど、上から押さえつける力の強さと、ベットの柔らかさの対比が気持ち悪った。
部屋が暗くて、蓮の顔がよく見えない。紗世は目を細め、窮屈な体勢からそっと片手を伸ばし、蓮の頬を人差し指でなぞった。
蓮がギクリと体を強張らせる。
ここが頬、ここがこめかみ。じゃあ、目はここだわ。
閉じたカーテンの隙間から、わずかに射し込む月明りのおかげで、徐々に暗闇に目が慣れてきた。
そして気づく。黒い目が、自分を見ている。
ああ、蓮がたまに見せる、ハイライトの消えた目だわ。
紗世は輪郭を辿っていた指をそのままずらして、蓮の瞼をそっとつついた。
蓮は反応しない。すごいな、と紗世は思った。他人に瞼をつつかれたら、普通は戸惑いそうなものだけれど。
でもこの弟は、ただじっとこちらを見下ろしているだけだ。
ぞわぞわと、背筋から何かが沸き上がって来る。
怖い。何かしらなイベントの気配がする。蓮が怖いというより、この状況が怖い。
打破するにはどうすればいいだろう? お腹空いたとでも言ってみようか。場違いな台詞は、イベントをぶち壊せる可能性があるかもしれない。
「蓮、あの……」
「僕の目、そんなに気に入らない?」
えっ、台詞の強制カットイン?
場を和ますと思った言葉は、口にすら出せずに紗世の中で消えた。
「そんなに僕の目が嫌いなら、このまま潰してもいいよ」
物騒な言葉と共に、蓮は自分に触れている紗世の指を掴んだ。
そのまま瞼に強く押し当てる。眼球の丸みを指先に感じ、紗世はひるんだ。
「目でも腕でも足でも、何でも潰して、捨てて行ったって構わない。僕はこれさえあればいいんだろ」
蓮は紗世の指を引っ張り、自らの胸に押し当てた。
心臓の真上。紗世へ霊力を送るために彫られた刺青の上に。
押し付けられた手から、急速に流れ込む霊力を感じる。
「姉さんのために生きてきたのに」
絞り出すような声で蓮が低く呟く。
目のハイライトどころか、顔色までもが黒く変色していくように見えて、紗世は息を呑んだ。
ひどく寒い。
「なんでも言うこと聞いただろ。一度だって逆らわなかった。なのにどうして」
「蓮、待って」
「見てただけだ! 好きだからずっと見てた! 他に何も望まなかっただろ!」
「やめて蓮、痛い!」
掴まれた指が凍り始める。
ビキビキと、部屋のあちこちから音がした。ものすごいスピードで部屋が凍っていく。暗くとも、分厚い氷が部屋中に出現していくのが分かった。
柔らかかったはずのベットの感触が、冷たく硬いものへと変化していく。
「どうしたの姉さん、跳ね返さなくていいの?」
凍っちゃうよ。
ハイライトの消えた暗い目のまま、蓮が薄く笑った。
どうして、と紗世は泣きそうになりながら考える。
凍っていても、自分の指は蓮の刺青の上にある。霊力が勢いよく流れ込んできているのを感じるのに。
それなのにこんな風に部屋中を凍らせてしまったら、蓮の霊力は急速に減少していくのではないのか。
急激な霊力の低下は……ゲームでは致命傷を受けたと判断される。画面上が赤黒く染まり、徐々に狭まり、音も聞こえにくくなる。
実際に致命傷を受けているわけじゃないけど、でも一昨日、炎舞の壁を使ったときは、急速に減っていく霊力にひどく眩暈がした。あのまま術を発動させていたら、きっと視界が赤く染まっていただろうと思うくらいには。
この子は大丈夫なの?
まさか暴走しかけているの? だから霊力が枯渇する恐怖を感じていないの?
「蓮、やめて、死んじゃう……」
「姉さんを死なせたりしないよ」
そうじゃない、私じゃない。あなたが。
吸い込む空気が冷たすぎる。うまく声が出せない。
その時、ドアがガツンと蹴られる音がした。
蓮の体がビクリと跳ね、ドアを睨む。
『なにやってんの』
ドアの向こうから夏樹の声がする。分厚い氷に阻まれて、それは妙に遠くからのように聞こえた。
「……関係ないだろ」
『本気で言ってる? こんな真夜中に廊下中凍らせて』
俺たちはともかく、新島さん死んじゃうよ。
物騒なことを言う割に、夏樹の声はいつもと変わらずのんびりとしている。けれどもじわりじわりと、ドアの向こうから熱が発せられ始めた。
まるで威嚇行為のように。
蓮が息を呑み、素早く上体を起こした。そして紗世の腕を荒々しく掴んで引き起こすと、自分の背に庇う。
部屋の様相が変化する。喉を焼くほど冷たいと感じた凍気は紗世の周りから離れ、紗世を守るように周囲を漂い始めた。
ドア付近の氷がじわじわと溶けていく。震えるほど寒かった部屋が、急速に温まっていった。
それと同時に、蓮の息がどんどんと荒くなっていく。
拮抗が崩れるのは時間の問題だ、と紗世は感じた。二人の霊力が、実際の所どれくらいあるのかは自分には分からない。
でも、蓮の霊力がいま、かなり目減りしていて、逆に夏樹は満タンに近いことだけは分かる。
夏樹はたぶん、今日も応接間のソファで眠っていたのだろう。セーフルームにいたのなら、大して休んでいなくても、霊力はきちんと最大値まで回復したはずだ。
対して蓮は、たぶん寝ていない。だから昼間に使用した霊力は回復しておらず、おまけにこの部屋はセーフルームではないから、さっき使用した分だけまた霊力が減っている。
ドアの向こうから発せられる炎の力に負けて、部屋中の氷が割れ始めた。蓮が呻いてぐらりとよろめく。紗世は咄嗟に、蓮を後ろから抱きしめて支えた。
「夏樹さん、待って! やめて」
ピタリ、と炎の気配が止まる。
でも、氷は割れ続けた。割れた氷は床へ落ちる前に煙のように消えていく。
『紗世さん、大丈夫?』
「大丈夫! ちょっとふざけてただけなの!」
この言い訳は無理があるな、と思ったけれど、ドアの向こうからは『ふむ』という気のない返事が聞こえ、そのまま静かになった。
でも階段を下りる足音は聞こえない。おそらく夏樹はドアの向こうで様子を見ている。
「蓮、大丈夫?」
後ろから蓮を抱きしめたまま、紗世は小声でそっと聞いた。刺激しないように、そしてドアの向こうの夏樹に聞こえないように。
蓮はのろのろと手を持ち上げ、自分を抱く紗世の腕を掴んだ。
その手があまりにも冷たくて、紗世は息を呑む。
「姉さん……、僕のこと、思い出した?」
「え?」
いま聞くようなこと? と一瞬戸惑ったが、腕の中で蓮の体が緊張したように硬くなったのを感じて、紗世はあやすように、後ろから蓮の頬に口づけた。
ビクリと蓮の体が跳ね、振り返る。
「ごめん、まだ、なんにも」
紗世の言葉に、蓮は探るような目をしてじっとこちらを見た。
その目にはハイライトがきちんと入っている。いや実際に入っているわけではないけれど、少なくともさっきまでの、暗く黒い目ではなかった。
「不甲斐ないお姉ちゃんでごめんね」
「……いいんだ、そのままで」
「あれ、昨日は怒ってたのに」
「昨日は昨日だ……もういいよ、思い出さなくて」
「そんな投げやりな」
蓮は首を振ると、体を反転させて紗世を抱きしめ返した。そのままグッと体重をかけられ、紗世はまたポフンとベットへ逆戻りする。
ベットはもう硬くなかった。柔らかいシーツの感触を背に感じる。
蓮もそのまま紗世の横へ倒れこんだ。
「蓮、大丈夫?」
「大丈夫じゃない。頭が痛い」
「自業自得だよ」
手を伸ばして、蓮の頭をよしよしと撫でる。髪が氷のように冷たくて、紗世はため息をついた。
部屋の氷はいつの間にか消えて、凍気も今は漂っていなかった。でも蓮の体だけは、まだひどく冷たい。
季節は夏だっていうのに。
「姉さん、僕のこと好き?」
小さな声で蓮が聞いた。
質問が恥ずかしくて、はぐらかしても良かったけれど、たぶんこれちゃんと答えた方がいいんだろうなぁと、紗世は感じる。
「だいすき」
紗世はそう答え、伸びあがって蓮の額にキスをした。
蓮がまぶしいものを見るかのように目を細める。
「ほら、もう寝た方がいいよ。あなたのその頭痛ねぇ、霊力不足でしょ。寝ないと回復しないよ」
「寝たくない。このまま姉さんを見ていたい」
「駄目! 明日も私は蓮の隣にいるから、だからもう寝なさい」
蓮はそれでも眠気に反抗していたようだったが、ほどなくしてウトウトし始め、やがて小さく寝息が聞こえ始めた。
紗世は弟の寝顔を見る。暗闇に慣れた目は、月明りだけで部屋の大体のものは見えるようになっていた。
眠っている蓮からは、先ほどのハイライトが消えた目で話していた時の、異様な空気は感じない。
けれども気のせいとも思えなかった。今朝も思ったのだ。
この子、たまに怖い。
蓮は、何か大きなイベントを抱えている気がする。
そのイベントが、発動する機会をずっと伺っている。そんな気配がする。隙あらばイベントを起こそうと、何か、大きな力が――……。
それがどんなイベントか分かると良いのだけど。
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