ウェーレイキオルは微笑んでいる

綿入しずる

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九 守護天使来るまで

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 初めは光。
 戦いの最中、星の光、加護があった。一瞬を照らすその輝きを地に留める為に天使という存在が生み出された。やがて人に上手く仕える為に人型を模ることとなった。それから四百年余り経つ。
 遍く世を照らす白き星の光が使命を持つことで、守護天使は生まれる。
 英雄――その末裔たち。その魂に紐づいて天使の魂はおこり、意識が目覚める。存在を自覚した瞬間から彼らは使命の為に動き始める。英雄の守護、その為に、まずは生まれ落ちるのだ。
 ウェーレイキオルの魂はエドアルドの成人が近づくと共に発生し、即座に、守護天使として生まれようとした。胎母ははの身に宿り、光を翼に束ね、人を模るのである。
 ――だが阻まれた。彼ははらに宿る前に黒い光を見た。今や世界の裏に座す極彩の輝きを放つ黒き星。その意思が、彼を貫いた。一瞬の出来事だった。羽根になるはずだった白き光輝は黒く焼けつき、遂には芯まで砕かれた。爛れた魂で彼は最後にも主の名を呼んだ。
 経たず、ウェーレイキオルは再び目覚めた。エドアルド・クラウスには守護天使が在る。それは揺るがぬことだった。彼は再び、生まれようとした。
 その度に焼かれた。
 幾度も幾度もウェーレイキオルは試みた。主に仕える為に、目覚めた。
 その度に、焼かれた。
 白き星から出ずるもっとも強い加護を阻むという黒き星の意思が、何度も、彼を焼いて殺した。存在さえも、焼いた事実さえも焼き尽くす一閃が繰り返された。――その隙に何羽もの天使が逃れて生まれていったことは、彼の知らざる、知られざる功績である。ウェーレイキオルが黒き星を引きつけ続けたから、守護天使の降臨は途絶えなかったのだ。
 彼もまた、生まれようと足掻き続けた。
 何度でも繰り返すのだ。主の為なら、諦めないだけのこと。至極単純明快だった。それがウェーレイキオルの使命なのだから。
 彼はけっして諦めなかった。諦めることなど知らなかった。黒き星が輝くならなお、持てるだけのすべてを持ってエドアルドのもとに馳せ参じるのだ。エドアルドのもとへ。エドアルドの為に。それが彼の、すべてだった。
 ――わたしは、あなたの、もとへ。
 十年。
 幾千。挑戦を経て、彼はついに打ち勝った。ようやく胎母たいぼの身に逃げ込み、翼を束ねて人の身を纏った。疲れ果て眠るともうすべて忘れていた。他の守護天使がそうであるように、ただ、生まれるまで主のことだけを想っていた。

 やがて彼は産道を経て清らかな水の中に生まれ落ちる。大地を見下ろす星の下、空に在り続ける岩壁の小島が如き天の生家の麓、巨大な雌鶏の印象をもつ白銀の翼の集合体――胎母ユスキエラは天使誕生を知らせる麗しい鳴き声で天を突き、また一羽、子を世界へと送り出した。
 卵の殻の代わりに纏った純白の胞衣えなを、広がった翼が押しやり破った。光宿す黒い翼はその力を示すように広がり、長い黒髪も水を揺蕩った。顔を上げて息をする。空の色が、星の光が、目に沁みるほどに眩かった。
「エドアルドさま、」
 産声にも主の名を呼んで、彼は水を掻いた。そのうちに濡れた翼が宙を捉え、働き始める。すぐ、浮かび上がって行き先を探す。その足を掴む手がある。
「何処に行くのですウェーレイキオル」
「エドアルド様のもとへ」
 逃れようとしても留められて、ウェーレイキオルは身を捩り振り返った。問いは愚問だった。何故そのようなことを聞くのかと思った。ウェーレイキオルはただエドアルドの為に存在し、傍にあらねばならないのに。
 彼を捕らえた天使――導父どうふイーシシールは黄金の天使だった。白布纏う長躯は逞しく、一羽、こちらは銀髪の、ウェーレイキオルより幾らか早くに生まれた天使を従えて、堂々と立つ。
「貴方はまだ下界に降りられません。まだ立てもしない」
 導父は冷徹に言いきった。もがくウェーレイキオルを強引に引き下ろす。水しぶきが上がった。
「よろしいですか。それでは主にはお仕えできません。足手まといです」
 まだ羽搏こうとしていたウェーレイキオルは雷にでも打たれたかのように、凄まじい衝撃に固まった。出来たての心臓が止まるかと思った。倒れてしまうかと思った。とても酷いことを言われた。蒼白になって目を見開いた彼に、導父はなおも厳しく言った。
「貴方はまずその体に慣れて、学ばねばなりません。降りるのはそれからです」
 ――何を。私に命ずるのか。エドアルド様ではないのに?
 ウェーレイキオルの中に強い拒否感が湧き上がった。生まれるより前に、あまりにも一人を思い過ぎていた為にか、彼はエドアルドのことしか考えられなかった。焦がれた主以外の者から命じられるなど、ありえないことのように思えた。
 一方導父は眉一つ動かさず、見透かして言い放った。
「それも主の、エドアルド様の為ですよ、分かりますね」
 ウェーレイキオルはまた、ぴしゃんと打たれたような心地になった。半ば威嚇のように開いていた翼がゆるゆると閉じていく。
「はい……」
 返事は細く。ウェーレイキオルは一瞬で悟って、猛烈に反省した。早くエドアルドに会いたくて堪らなかったが、他の者の言うことなど聞きたくもなかったが、エドアルドの為なのだ。それは、絶対、大切なことなのだった。エドアルドの為ならば何事も仕方がない。
「よろしい。よき従者となるべく励みなさい。その為にその身はあるのです。さあ、立って、歩いてごらんなさい」
 ウェーレイキオルは飛ぶのを諦めて足をついた。立ち方は知っていて、立ち上がることはできた。
 しかし思うようにはならず、数歩を踏みしめるだけで労した。翼で浮くより随分難儀だった。確かにこれでは下界で暮らせない。
 上手く歩かなくてはならない。それが守護天使たちの、文字どおり最初の一歩だった。
「黒いだけのようだ」
 現実を知るウェーレイキオルに対して悠然と、導父はまだ水の滴る髪を手で梳いた。そのときウェーレイキオルはやっと、己の翼や髪が黒いことに気づいた。
「この色はどうしたことでしょう」
 天使は皆金や銀に、白き星の光を宿した色をしているはずだった。よく見れば確かに金の光が見えはするが、このような色合いは彼自身思いもよらなかった。
 導父も、黒い天使に覚えはなかった。だが泰然としていた。探ったところで異常が見受けられなかった――そこに黒き星の気配はなかった――ので、生まれたての子に不安を与えぬように、落ち着いていた。
「さて。四百年もあればそういうこともあるのかもしれません。下界の人々は気にするやも知れませんが、加護に不足なし、……見た目など些事です。どうこう言って変わるものでもないのなら、受け入れるしかないでしょう。……ラウレリィ、体を拭いておやりなさい」
 彼は控えていた天使に命じた。ラウレリィは手にしていた布をウェーレイキオルにかけ、優しく水滴を拭った。彼もまたこれから主に仕える為にそうしたことの練習をしているので、至極丁寧な手つきだった。翼が乾くまで、彼も、導父も悠長だった。
「服を着てごらんなさい」
 次に言われて、ウェーレイキオルは着衣を思い描いた。先程脱ぎ捨てた胞衣がするりと肌を覆い、知識にある人の服を真似、翼のある背は開けながらもシャツとズボンのような形を成す。靴まで一揃い、一体で、織り目も縫い目もない不思議な天使の装束はすぐに完成した。
「よろしい」
 それからウェーレイキオルは、導父と生まれた天使たちが暫らく暮らす家に向かった。長く続く石段で躓けば見越したように導父の腕が受け止める。そのうちに、足取りは確かになっていった。
 服と同じように人の暮らしを真似た、しかし無垢な住まいでウェーレイキオルは生活を始めた。日々、覚えて生まれた知識を整理しなおし、行動に映していく。体の扱い、言葉遣いに慣れ、主の為の仕事を導父や同胞を相手にして覚える。
 ウェーレイキオルは主に何が必要かを知っていた。まさしく英雄の器、戦士であるエドアルドの為には武具の扱いを覚えることも肝要であったし、六氏族の一員ともなれば従者とて相応に礼節を備えるべきである。
 そして、人の髪を梳いて編むのは愛情表現と似た特別な仕事だ。導父はいつでも練習に編ませてやった。最初は縺れたウェーレイキオルの指先は徐々に滑らかに動くようになり、長い髪を見事に編み上げるのだった。
 ウェーレイキオルはいつも真剣で大変一生懸命だったので、物を覚えるのは早かった。多くの天使を見てきた導父も感心するほどに。だが、もう十分学んだと思っては飛び出し下界に降りようとするので、褒められるよりこっ酷く叱られるのが常でもあった。
 ウェーレイキオルはこればかりは納得できなかった。猛烈に駄々を捏ねた。
「もう行くのです。エドアルド様をお待たせしております、早くお守りせねばなりません」
「待っているでしょう。貴方が急いだところで、もうお待たせする時間に差はありません。いたずらに疲れるだけです」
「私はいくらでも飛べるのですが」
「幾ら長く飛ぼうと早くは飛べないと言っているのです。此処は天の彼方に在り続けているのだから。降臨の日取りは決まっているのだから、落ち着いて、辛抱なさい。……まったく聞き分けの無い。お前のようなのは初めてだ」
 天使が加護の光だけで在った頃とは違い、人としての肉体を持った以上は、そういうものだ。
 言われることはウェーレイキオルにも分かるのだが。一向に納得ができない。このことについては感情が高ぶって仕方がないのだ。導父はいつも溜息を吐いた。
「そのようでは主も困りますよ」
 そう言われるとウェーレイキオルは大人しくなるしかないのだった。エドアルドが困るのは困る。
 エドアルドの為ならば、他の者の言いつけも守れる。これは生家で培った大切な忍耐だった。以降人の中で暮らすことを思えば、彼には確かに必要な時間だったといえる。
 それでも悲しいことには違いないので、ウェーレイキオルは導父から離れては胎母の傍に行き、その羽に埋もれて慰められた。口煩い父の対の彼女は何一つ物言わず、ただ優しい。
 目を凝らせば彼方にエドアルドが見える。天使を待っている。それがウェーレイキオルの寄る辺だった。先に発っていったラウレリィが羨ましくて仕方がなかった。
 待って、待ち焦がれて、とうとう月と日がエドアルドが生まれたときと同じように並んだその日、エドアルドの二十五歳の誕生日、ウェーレイキオルは脇目も振らず家を飛び出した。導父は勿論止めなかった。見越して前日に挨拶をしてやったので。瞬く間に光に身を投じるのを、ただ目を細めて眺めた。
「静かになりましたね、ユスキエラ」
 そうして父母の二羽で暫し、下界を眺めたのだった。ウェーレイキオルは上手くやるだろうか。ラウレリィはもう馴染んだか。先に見送った、多くの子らのことも思って。

 そうして彼はエドアルドのもとへと降り立ったのだ。
 ――ウェーレイキオル。
 呼ぶ声のよろこびと言ったらなかった。
 ようやく主の傍に寄れて。声を聞けて。触れられて。ウェーレイキオルはこの上なく幸せだった。やっと生まれられたような気分で、何処にもついて歩くだけで嬉しくて笑わずにはおれなかった。
 しかしエドアルドの表情は徐々に険しくなった。
 理由はウェーレイキオルも分かっていた。他の人々にはどう見られようが何と言われようがどうでもよいが、それを受け止めるエドアルドの反応だけは、気になっていた。ウェーレイキオルにとってはそれがすべてだ。どうやら彼の意に沿わないことだけが酷く――悲しかった。傍に居られてずっと嬉しいけれど、時折羽の色を確かめて自分の顔を見てしまうのだ。
 それでもエドアルド自身はそれを言わなかった。むしろ、美しいと褒められたので、ウェーレイキオルは嬉しかった。黒い翼を一度好きになれた。エドアルドが認めるならと、もっと誇らしく広げられた。
 しかし――
 ――お前など全然理想と違う――不満がないとでも思っているのか!
 端々に感じていた主の苛立ちはその日堰を切った。とうとう叩きつけられた直接の拒絶の言葉にウェーレイキオルは悲嘆し、決心した。
 エドアルドの為に死のうと思った。
 そうすれば、新たに天使が生まれるのだ。もっと美しく、金か銀色で、他の天使のようになるだろうと思った。
 ウェーレイキオルはエドアルドの為ならなんだってできる。それが今回は死であるというだけだった。
 別れるのは寂しい、身を切るようにつらいけれど、それがエドアルドにとってよいことならば、構わない。主の望みを叶えられぬままいるくらいなら。
「……」
 エドアルドが与えた部屋で、エドアルドがそうしてくれたようにランプを灯して、その光を見つめ、彼は横たわった。深く呼吸をして目を閉じる。
 存在を解く。
 天使は死にづらい。人間のようにはいかない。模った人の身を殺したところで、天使の本性が生き延びようとする。息の根を止める必要があった。それも容易ではない。長く苦しむだろうと察しがついた。それ自体はあまり問題ではないが、エドアルドの為には早くしなくてはならないと思った。躊躇は一切なかった。
 程無くしてリベルヨルンの悲鳴が聞こえた。他のことなどどうでもよかったが、彼はすぐエドアルドを呼んだので目が開いた。気配が近づいた。
 ――ああ、
 ウェーレイキオルはエドアルドが来てくれて嬉しかった。今一目見られて幸福だった。上手くやるので待っていてほしいと笑うウェーレイキオルを――エドアルドは叩き起こした。
 主の声が天使を呼ぶ。
 死んではならないとエドアルドが言う。そんなことは命じていないと、言われて、ウェーレイキオルは目が覚めた。
 思惑とは真逆の命令がウェーレイキオルの存在を繋ぎ留めた。傷んだ翼は勝手に修復を始める。守護天使にとって主の命令は自己の意識にも勝るのだ。それは本能とも言えた。
 ウェーレイキオルは、とても、とても嬉しかった。初めて会えたときと同じほどに。エドアルドはウェーレイキオルを待っていたのだ。
 ――それなのに、自分はなんてことを。
 ――ああ、愚かな真似をしました。
 ウェーレイキオルは恥じ入りエドアルドの意思に従った。導父が自身の向こう見ずに呆れていた意味を幾らか理解した。もう二度とこのような失態は犯すまいと誓った。
 無論、彼も分かっている。エドアルドの傍に居てその身を守ることこそウェーレイキオルの至上の命だ。ただ、エドアルドの意あらばそれを上回ることもあるというだけで――天使は主人の守護を優先する者と命令を優先する者がいるが、ウェーレイキオルが完全に後者だっただけで――今回はその意図を汲み違っただけで。
 傍に居て守りたいという願いは、変わらない。許されるならば、ウェーレイキオルはずっとエドアルドと共に居たい。ウェーレイキオルはその為に生まれてきたのだから。
 ウェーレイキオルは一晩かけて、死に近づいた身を束ねなおした。翼も、人の形も、元どおりにした。
 その最後、魂が記憶を拾い上げた。何度も死して再生し、ようやく生まれた経験を今なぞり――思い出した。
 黒い光が、彼を焼く。
「――!」
 ウェーレイキオルは震えて目を開けた。窓からは白い星明かりが差し込み、ランプの火も明るく部屋を照らしていた。そして、そこにはエドアルドが居た。テーブルに伏して顰め面で眠っている。ウェーレイキオルは深く安堵した。
 起きようと考える間もなく起き上がって近づいていた。足はしっかりと床を踏みしめた。ランプを倒したりしないように翼を閉じて消すのももう慣れて自然な動きだった。残った黒髪が揺れた。
 ――私はそれで黒いのですね。
 ウェーレイキオルはようやく、生まれてよりかねての疑問、エドアルドの問いへの答えを得た。まったく、喜ばしいことではなかったが、思い出せたのは幸いだった。忘れたまま死んでいたらと思うと、エドアルドの意に背くことと共に恐ろしい。
 戦いの予感がある。
 もう、彼は死ねない。エドアルドから離れられない。黒き星は力を取り戻しつつあり、白き星を呪い天地を呪い、再び昇ろうとしている。守護天使の使命は今こそ果たされる。
 それに何より、エドアルドが言ったのだから。
 ウェーレイキオルが立ち上がると共、すぐに目覚めたエドアルドは心配そうに彼を見上げていた。ウェーレイキオルは微笑んだ。
「申し訳ございません、お待たせいたしました、おはようございます、エドアルド様」
 その名を囀るとき、ウェーレイキオルは酷く幸福で、満ち足りる。どうかずっと傍に居たい。居てよいのだと分かって、これからのことを考えても、どうにも幸せだった。
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