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十五 北へ(後)
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巨人エルカーンは風雨に晒されながらも悠然と空を突き進んだ。山脈や大河も構わなかった。これも足元に係わらず済むがゆえ、地上での移動ではありえない偉業に誰もが感心した。
二三日も経てば皆この空間や、お互いの存在に慣れてきた。大体はテーブルにランプを置いて囲み語らっているが、初日ほど顔ぶれに固まった雰囲気がない。解れてきた。
ケネスが体が鈍ると腕立て伏せや腹筋をし始めて、皆それに倣った。初対面同士の交流も増えた一方、持て余す時間をどうにか費やすべく部屋で寝て過ごすことも増えた。
アーサーのように暇潰しを持ち込んでいた者は大変に賞賛された。詩人の彼自身も当然物語を語ることも出来て、後継者の随行に抜擢されるほどに達者なのでこういう場には最適な人材だった。医師の一人が盤戯の愛好者で、同じく腕に覚えのある呪術師と試合するのを皆で観戦して盛り上がりもした。そして、その様を聞き覚えたエルカーンがまた強かった。声で指示するのを受けて誰かが代わりに指すと、医師も呪術師も唸る。エルカーンはまた笑って輝いた。
ソフィアは編み物をしたりして過ごした。女たちで集っていることが多いが、顔見知り程度に面識のあった医師たちと話し始めると年齢も性別も違うが劣らぬ知識と意気で話が広がる。リリアンリヴや侍女たちが体調について大変に気遣うのには、どんと構えていた。
「平気よ、なんだか調子がいいくらいなの。リリーが来てから大きな病気はしたことがないし」
他の医師もソフィアの体を診ては健康そのものだと言いきったので、エドアルドは本当に安堵した。
「寒くないか」
「何度それを聞くのかしら。皆よくしてくれるから、案外大丈夫」
部屋に入って毎回問う夫に、ソフィアは膝掛けの毛布を叩いて軽く笑う。そうして、覗き込まないと外が見えない細い窓を見上げた。
「けれど砦はもっと寒いのでしょうね。今もう、北方にいるのね……」
まっすぐに砦を目指す道程は、七日目で中ほどを過ぎた。八つの国を越えた大地の中心部は既に、南方のログラで生活している人間には馴染みのない土地だった。
「不安だけれど。話に聞く北の暮らしがどんなものか、楽しみでもあるわ」
行き先はより一層。物語のような話を聞くばかりだ。
「雪を見られるのが楽しみよ」
けれど、戦いに行くのだが、きっと困難なばかりではないと女は微笑む。歌うように言う。勇気づけられてエドアルドも笑った。
「ねえ、貴方は楽しみなことがある? それも考えたほうがいいわ。これから私たち、夫婦で暮らすのよ」
今日もまた。大部屋のテーブルで適当に続ける話が停滞してきた頃に、イザークは声を発し立ち上がった。
「ちょっと寝てくる」
「おう」
ライナーの返事は軽く、他の誰も何か言ったりはしない。朝起きてきて顔を合わせる、食事の時間を揃える以外には、大体皆好きなときに寝て起きる、束の間の怠惰を味わっていた。
船尾へと通路を行けば途中、女部屋で楽しそうに話すソフィアの声が聞こえる。エドアルドがそこに居るのだろうと思えば、イザークは足早に通り過ぎた。
衝立の扉を開けて戦士たちが詰める一室に入る。どことなく臭いが籠もってきていたが兵舎での生活に慣れている身では忌避するほどのものでもなかった。暗い中では既に二人寝ていていびきも聞こえる。
イザークは敷きっぱなしの寝具に横になり、溜息を吐いた。
彼は憂鬱だった。結婚したばかりで残してきた妻のことが気がかりなのでは、ない。一応、まったく無いとは言えなかったが。
それが話題になることのほうが憂鬱だった。初日よりはましだが、やはり話の種が少ないものだから何かと弄られる。彼はエドアルドの前でこういう話をしたくなかった。エドアルドはよく気遣ってくれるが、それがまた苦痛だった。何故なら彼は、本当は女と結婚などしたくなかったからだ。
結婚しないままスヴィエーに逃れられたらと思っていた。家族に許されず、女には他の男とは結婚しないで待つなどと言われ、さすがに酷薄だと思って呑んだが、後悔していた。やはりこんな結婚などするべきではなかったと。
他のことがどうにもならないなら、せめて自分のことだけは意地を張るべきだったと思う。
彼はエドアルドを愛していた。上官としての敬愛のみならず、恋をしていた。
もう何年ものことだ。部隊に誘われ、その凛々しい顔を緩め微笑まれてから、転がり落ちるようだった。エドアルドほど美しい男は居ないと心酔し、彼が望むように振る舞い、すべてを捧げてきた。
叶わぬ恋だとは分かっていた。エドアルドにはソフィアが居る。子供の頃からの婚約者で、美しく賢い、尊敬すべき女だと、愛しているのだと語るのを聞いたことも幾度とある。イザークは悔しいけれどお似合いの二人だと思って、エドアルドが結婚して笑うときを待っていたのだった。そういう愛を選んだ。
しかし――実際婚儀の日が来てしまうと弱った。愛する人は本当に手に入らないものになったのだと分かって、幸せそうな二人が恨めしくて、その傷も癒えぬうちに形だけの結婚をした自分が惨めで、疲れきった。暫らく立ち直れないだろうと思うのに使命は待ってもくれず、無理を強いて鎧を纏った。本当に戦いに放り込まれてしまえば憂う暇もなくなるだろうと思うのに、実際にはこうして暇を持て余し、繰り返し同じことを考えては落ち込んでいたりする。
ソフィアも羨ましいが、もっと羨ましいのが、守護天使ウェーレイキオルだった。
エドアルドが今回の旅に従者を誰も連れてこないと聞いたとき、その代わりをウェーレイキオルがすべてこなすのだと理解したとき、イザークは、ああ、と思った。手足が冷えた。
――そこは俺の場所だったのに。
そう思い、嫉んだ。
――エドアルド卿の天使。
ウェーレイキオルが降りる以前。金髪で見目がよく、エドアルドに付き従ってあれこれと働くイザークに言い出したのは誰だったか。悪意を孕むその言葉を知ったとき、彼は酷く憤った。
エドアルドを傷つけられたと、怒りに燃えたのもある。しかし同時に、八つ当たりのように思いもした。
――そうだったらどんなによかったか!
イザークはその呼び名に羨望を抱いた。エドアルド卿の天使。ならば、自分の思いは許されるはずだ。何を置いてもエドアルドの傍に居ることが許されるはずだ。男だろうと。エドアルドが結婚しようと。エドアルドにあんなにも欲されて、彼の望みを癒すことができるはずだ。そうありたかった。
エドアルドの為だけに在れたなら――恋した人の為に在れたなら、それはどんなにか幸福だろうか。エドアルドだってもう思い詰めず笑ってくれるのにと思っていた。それほどに想って傍に居るのに、エドアルドはけっしてイザークでは満足しないのだから、悲しくて仕方がなかった。
それでも。どう見られようと、何を言われようと気丈に振る舞うエドアルドの横で、彼も周りに構わず立ち続けていた。エドアルドが、天使ではなくとも、信頼はしてくれていたから。
ようやく降臨した天使を見たときには、彼は目を疑ったものだ。
――これが守護天使? エドアルド様の?
その言葉をどうにか飲み込んだ。
信じられないほど美しくて、敵いそうにもない存在なら納得できただろうにと思う――実際はどうか、知れないが、思う――のに、ウェーレイキオルは予想外だった。黒くて美しくもなくて、問題だらけの守護天使。
イザークはエドアルドが労しかった。長年待ち続けてこれではと思った。何か言葉をかけたかったが、何を言っても下手につつくことになりそうで、言えなかった。他の者たちが持ち上げるのに合わせて様子を見た。
ウェーレイキオルにあらぬ噂が広まったときには、憤った。噂を広める馬鹿な奴らにではない、ウェーレイキオルに。エドアルドの天使ならば瑕疵なく完璧でいてほしいのに、なんという体たらくかと思った。結局誤解はすぐ解かれ、それどころではない事態に発展して有耶無耶になったが――エドアルドを煩わせたことが腹立たしい。
しかしエドアルドが結局、ウェーレイキオルを特別に思っているのも見てとれ、イザークは認めるほかなかった。エドアルドが待ち望んでいた守護天使とは彼なのだと。
エドアルドは今となっては、イザークを呼びもしないのだ。薄情なわけではない。部下として、仲間として大いに信頼されてはいる。自身の世話から解放されたイザークが存分に働くことを期待している。ただ真実として、彼は天使ではなかったのだった。もう傍には置いてくれないのだった。
イザークが今まで立っていた場所で、ウェーレイキオルは笑っている。そこが自分の居場所だと――生まれながらにして当然に。
――そこは俺の場所だったのに。
――ずるい。
イザークはウェーレイキオルが憎い。天使だというだけでその位置を占めることができるのが羨ましくて仕方がない。滑稽な空想ながら、自分がエドアルドの守護天使だったならと思ってしまうのをやめられない。天使は来たというのに、未だに。
エドアルドがウェーレイキオルとどう過ごしているのかも気になる。天使は人と色恋しないとサイラスなどは言ったが、主とは特別親密になりうるのをイザークは知っていた。たとえばトラウゴットの後継ベリウスと天使ネシファラスがそうであることなどは、一部には知れた話だった。エドアルドがウェーレイキオルをどう扱うのか、あの見目でも、もしやと思えば想像が止まらない。
イザークはまた一つ、溜息を吐いて寝返りを打った。
砦へと向かうのに、戦いにいくのに、こんなことばかり考えている自分は愚かだと思った。こんな有様を知られてはならない。誰にも打ち明けられないし、誰より、エドアルドには知られるわけにはいかなかった。憧れの美しい男。共に立ち続けるには強くあらねばならない。
上手く眠れる気はしなかったが、彼はともかく目を閉じた。
夜。横たわるエドアルドはふと目を開け、見慣れつつある白い洞状の天井を眺めた。次に、他に部屋などないので傍らに控えているウェーレイキオルと目が合う。もう驚かなくなった。
「もう動いているか」
「はい。先程より」
掠れる声で訊ねると明瞭な返事がある。降り立った河原で煮炊きや行水をして、就寝、エルカーンの休息が済み次第出発の予定だった。エドアルドも慣れ、起きて様子を窺っていることもなくなった。ただ今日はなんとなく眠りが浅く目が覚めてしまった。
「起きられますか」
曖昧な返事をしながらエドアルドは身を起こした。その肩にウェーレイキオルはそっと上着をかける。まだ深夜、朝には随分遠いが。
「お茶でもご用意いたしましょうか」
少し、喉が渇いた。エドアルドがそう思うか思わないかというほどすぐに声がかかる。水ではなく温かい物をというのも合っていた。容易く再び寝つける気がしない。エドアルドは一度起きることにした。
他の者を気遣い静かに動いて部屋を抜け出し大部屋に入ると、灯りはないが星月の明かりに明るい。光を屈折する、金剛石に似たエルカーンの核が輝いている。
エドアルドはウェーレイキオルが灯りを点けようとするのを制した。目が慣れるのを待つ。暗さに構わず手際よく湯沸かしに水を注いで起こすのを横目にしながら、テーブルの端に腰を下ろした。
「眠れないかい、紅玉髄の君」
やはり時間に配慮した雰囲気の、エルカーンの小さな声が響く。エドアルドは首肯した。
「砦に着くと思うと気が逸ります」
「ようやく、かい?」
「貴殿のお陰で随分早く着きそうですが。俺にとってはようやくです。総督への就任も――今回の使命のことも。急いでは来ましたが、我が天使が知らせてからこんなに時が経ってしまったと、焦っているのは否めません」
訥々とエドアルドは語った。ウェーレイキオルが来て、その記憶が目覚めてから、何もかも急に日々が過ぎたが――
「まだ何が起きるかも分からないのに。間に合うものかと、不安に思う」
エドアルドはウェーレイキオルが知らせたことを無駄にしたくなかった。
知れているのは一つだけ。黒き星がまだ世界を諦めず瞬くのだということ。それを知った以外は、地上は静まっているようだった。しかし――既に何か始まっているのだという焦燥があった。エドアルドは吐露してしまった後に、こんな弱気はならないと思った。暗い中で白い掌を握り、エルカーンが無言のうちに仕切り直す。
「エルカーン殿は――星別れの戦の末期の頃の生まれであると聞いていますが」
「左様。四百と少しを生きている」
「では竜を見たことが、ある」
エルカーンの姿勢が少し変わった。ように思えた。エドアルドは夜空に煌めく巨人の心臓を見つめた。
「ある。一度、遭った」
声は溜息のように聞こえた。その後、常の流暢さを取り戻し、エルカーンは言う。
「一度だけだが、その一度で我が一派は壊滅した。私は若かったから生き延びたのだ。まだ小さく――このように体を持っていなかったので、見逃された。ソリエェスの一派が絶えなかったのはそうした幸運ゆえだ」
これは語り継がれた話ではない、当人の経験談だ。癒えぬ傷に触れている、とエドアルドは思う。
だが語るのは、聞くのは、生きる者の負った使命だ。
「恐ろしいものだった。力そのもののようだった。赤く大きな竜だった。巨人を殺し、山を砕いて、去った。――だがその竜も死んだ」
ぐらぐらと湯の沸く音が聞こえる。
端的な言葉は重く響き――エルカーンは酷くあっさりと言った。
「諸君が退けた。輝く鎧、七人の英雄、詩人が語るとおりだとも。竜も、死ぬのだ」
エルカーンは酸鼻を語るのに言葉を尽くさなかった。彼はこれから戦う勇士に向けての鼓舞を選んだ。若き戦士の不安を知り、その弱さを許さない心を知り、そのように寄り添った。
「それに――……当時より我らの文明は進んでいる。このように、巨人が空を飛ぶ術を獲得した。武器は多く鍛えられ、仲間は地に栄えている。一方竜はどうだろう。出てこないのも、戦って勝つ自信がないからなのではないか。勝てると思っていれば、出てきているはずだ。今は前より、分がよいのだ」
「竜が、戦意を失っているということは」
「それはありえない」
エドアルドの控えめな問いを、エルカーンは即座に両断した。白き星の子が平和のうちに竜に触れない選択をしたように、竜も敗北を知り眠ることにしたのではないか――との可能性は、無い。
竜にはありえない。彼らは気高く、屈辱の安寧など選ばない。それに、エルカーンが四百年前の記憶を我がこととして抱えているように、竜も長命の者として当時の続きを生きているのだ。エドアルドたちのように代替わりしていない、彼らの戦意は鮮明だろうとエルカーンは断じる。
「同志、君たちがまず竜を討つことにしたのは懸命だと、私は考えている。竜はきっと、いずれ起きる。そのとき必ず、積年の怨みを晴らすだろう。私は長らくそう思っていた。恐れていた。そのときは――黒き星が目覚めたなら、近いと思う」
エドアルドは頷く。やはり竜は捨て置けない。この道が正しい。避けられない戦いだと決意を固める。
「今のうちだ。急ぐことだ」
「それでこの助力を?」
「これは何れは人々に試してもらおうと思っていたがね。丁度よく、見せ場が来たのだ」
エルカーンは少し調子を明るくして言った。きらりと光が散る。
「紅玉髄の君、英雄の末裔よ。どうかこの地に永久の平和を」
「――賢き巨人の盟友に誓って」
彼の祈りに、エドアルドは心から応える。床に――エルカーンの身に拳を置いて、応じた。
――まず。隠れているのを見つけられるかが勝負だ。
胸に呟く。砦では既に竜の探索が始まっていたが、未だ朗報は無い。砦の兵は全力を尽くしていると思うが、歯痒いことだった。この先も成果が上がるのか分からない、間に合うのかと、また不安が過ぎってしまう。
――……今はまず、無事着くことだ。
焦りを伏せて、エドアルドは己に言い聞かせる。己が今すべきことをする。それが戦士の、英雄の資質だ。
ウェーレイキオルが茶を差し出した。飾り気のない木杯。エドアルドは湯気が星明かりに溶けるのを眺め、熱いのを用心して啜った。鼻先に当たる香りと熱に緊張がほっと解ける。
暫らく黙って飲む間、ウェーレイキオルも黙して侍っていた。じいとエドアルドを眺めている。暗くとも、会話がなくとも関係はない。エドアルドが眠っていてもこうなので、動きがある分やりがいがあるくらいだ。
けれど不意に、視線が逸れる。やがてエドアルドも気配に顔を上げた。部屋のほうが明るいので、誰と気づくのは相手が少し早い。
「――エドアルド様。どうしました、何か?」
「……イザークか」
エドアルドは一瞬遅れて呟き、首を振った。
「いや、少し目が冴えただけだ。茶を飲んだら寝る。……お前も眠れないか?」
「ええ……昼に寝すぎたんですかね。体を動かしていないとやはり……」
「夜に起きている者は結構多いようだ。この部屋まで来てくれれば話し相手をするのだが」
「……エルカーン殿も退屈ですか?」
「いいや、私は巨人であるから。あまりそういう感覚はない」
――それは、居るよな。
イザークはエドアルドを見つけると同時にウェーレイキオルを見つけたので些か落胆していた。当たり前に、そこに居る。居なかったとして、エルカーンが居るので二人きりではなかったなと思いなおして笑う。エドアルドも微笑んだのが見え、心が少し、弾む。
「飲んでいけ。――酒ではないが、多少休まるだろう」
「……ありがとうございます」
その上誘いもあったので喜んだ。茶を用意しているのが嫉ましい天使だとして、エドアルドの隣に座れるのならば横に片付けられた。
ウェーレイキオルが新しい杯を満たすのにも礼を言って、一口、二口、飲んで喉を温める。彼も船首の空を見て呟いた。
「降りたら、酒が飲みたいですね」
エドアルドの目が再びイザークを見る。イザークは慌てて、しかし落ち着いた口調で付け足した。
「ああいえ、勿論、忙しくなることでしょうが。暫らく色々我慢した分、一杯くらいは呷りたいという話です」
イザーク自身は、懊悩が多くて酒でも飲んで気を紛らわしたいというのも正直なところではあったが。酒を欲するのはこの旅で節制を強いられている皆の総意だった。
一方エドアルドは総督就任に向けて気負い、常にも増して張り詰めていた。それで今、親しい部下に遠慮されたのだと分かって、彼は意識して頬を緩めた。戦いに挑むにあたり自分も部下も律しなければならないのは確かだが、戦士たちはあまり抑えつけすぎても上手くいかないものだし、自分自身についても緊張が過ぎれば却って失敗を招くと分かっていた。
この窮屈な時間から解放されたらと思い描くのは当然の権利だ。到着後、多少の酒くらいは許すべきだろうと思いながら、今は茶の残る杯を揺らして、呟く。
「そうだな。北の酒は強いと言うが、どんな味だろうな?」
考えると少し餓える。酒の味が恋しいのは彼も同じだった。その反応に、イザークは安堵して応じる。
「よく、蒸留酒よりきついと聞きますね」
「楽しみだな。……皆お前のように一杯くらいに留めてくれればいいが」
エドアルドは先に一杯と言ってしまったイザークを揶揄って茶を飲む。ふ、と息を吐いて、目を細めた。
「ソフィアにも言われたんだ。我らは戦いに赴くが――それは違いないが、生きにいくのだから、楽しみも見出したほうがいいと。確かにそうだ。俺は領民の上に立つのだし、明るい目で彼らを見ないとならない……」
声は話題に沿って柔らかい。
「お前たちにも何年も付き合ってもらうことになる。……共にやりとげよう。着いたら、飲もう。強い酒なら気合いが入ることだろう」
エドアルドは信頼する部下を見つめて笑った。彼も長旅でくたびれているはずが、曇りはどこにもなかった。今のイザークには、横のウェーレイキオルのことは見えなかった。妻の名を出して誇らしそうに語るのも――胸は締めつけられるが共に嬉しかった。
「――はい、勿論、どこまでもお供します、エドアルド様」
イザークは慕う男のみを見て、涙を堪えて笑った。
二三日も経てば皆この空間や、お互いの存在に慣れてきた。大体はテーブルにランプを置いて囲み語らっているが、初日ほど顔ぶれに固まった雰囲気がない。解れてきた。
ケネスが体が鈍ると腕立て伏せや腹筋をし始めて、皆それに倣った。初対面同士の交流も増えた一方、持て余す時間をどうにか費やすべく部屋で寝て過ごすことも増えた。
アーサーのように暇潰しを持ち込んでいた者は大変に賞賛された。詩人の彼自身も当然物語を語ることも出来て、後継者の随行に抜擢されるほどに達者なのでこういう場には最適な人材だった。医師の一人が盤戯の愛好者で、同じく腕に覚えのある呪術師と試合するのを皆で観戦して盛り上がりもした。そして、その様を聞き覚えたエルカーンがまた強かった。声で指示するのを受けて誰かが代わりに指すと、医師も呪術師も唸る。エルカーンはまた笑って輝いた。
ソフィアは編み物をしたりして過ごした。女たちで集っていることが多いが、顔見知り程度に面識のあった医師たちと話し始めると年齢も性別も違うが劣らぬ知識と意気で話が広がる。リリアンリヴや侍女たちが体調について大変に気遣うのには、どんと構えていた。
「平気よ、なんだか調子がいいくらいなの。リリーが来てから大きな病気はしたことがないし」
他の医師もソフィアの体を診ては健康そのものだと言いきったので、エドアルドは本当に安堵した。
「寒くないか」
「何度それを聞くのかしら。皆よくしてくれるから、案外大丈夫」
部屋に入って毎回問う夫に、ソフィアは膝掛けの毛布を叩いて軽く笑う。そうして、覗き込まないと外が見えない細い窓を見上げた。
「けれど砦はもっと寒いのでしょうね。今もう、北方にいるのね……」
まっすぐに砦を目指す道程は、七日目で中ほどを過ぎた。八つの国を越えた大地の中心部は既に、南方のログラで生活している人間には馴染みのない土地だった。
「不安だけれど。話に聞く北の暮らしがどんなものか、楽しみでもあるわ」
行き先はより一層。物語のような話を聞くばかりだ。
「雪を見られるのが楽しみよ」
けれど、戦いに行くのだが、きっと困難なばかりではないと女は微笑む。歌うように言う。勇気づけられてエドアルドも笑った。
「ねえ、貴方は楽しみなことがある? それも考えたほうがいいわ。これから私たち、夫婦で暮らすのよ」
今日もまた。大部屋のテーブルで適当に続ける話が停滞してきた頃に、イザークは声を発し立ち上がった。
「ちょっと寝てくる」
「おう」
ライナーの返事は軽く、他の誰も何か言ったりはしない。朝起きてきて顔を合わせる、食事の時間を揃える以外には、大体皆好きなときに寝て起きる、束の間の怠惰を味わっていた。
船尾へと通路を行けば途中、女部屋で楽しそうに話すソフィアの声が聞こえる。エドアルドがそこに居るのだろうと思えば、イザークは足早に通り過ぎた。
衝立の扉を開けて戦士たちが詰める一室に入る。どことなく臭いが籠もってきていたが兵舎での生活に慣れている身では忌避するほどのものでもなかった。暗い中では既に二人寝ていていびきも聞こえる。
イザークは敷きっぱなしの寝具に横になり、溜息を吐いた。
彼は憂鬱だった。結婚したばかりで残してきた妻のことが気がかりなのでは、ない。一応、まったく無いとは言えなかったが。
それが話題になることのほうが憂鬱だった。初日よりはましだが、やはり話の種が少ないものだから何かと弄られる。彼はエドアルドの前でこういう話をしたくなかった。エドアルドはよく気遣ってくれるが、それがまた苦痛だった。何故なら彼は、本当は女と結婚などしたくなかったからだ。
結婚しないままスヴィエーに逃れられたらと思っていた。家族に許されず、女には他の男とは結婚しないで待つなどと言われ、さすがに酷薄だと思って呑んだが、後悔していた。やはりこんな結婚などするべきではなかったと。
他のことがどうにもならないなら、せめて自分のことだけは意地を張るべきだったと思う。
彼はエドアルドを愛していた。上官としての敬愛のみならず、恋をしていた。
もう何年ものことだ。部隊に誘われ、その凛々しい顔を緩め微笑まれてから、転がり落ちるようだった。エドアルドほど美しい男は居ないと心酔し、彼が望むように振る舞い、すべてを捧げてきた。
叶わぬ恋だとは分かっていた。エドアルドにはソフィアが居る。子供の頃からの婚約者で、美しく賢い、尊敬すべき女だと、愛しているのだと語るのを聞いたことも幾度とある。イザークは悔しいけれどお似合いの二人だと思って、エドアルドが結婚して笑うときを待っていたのだった。そういう愛を選んだ。
しかし――実際婚儀の日が来てしまうと弱った。愛する人は本当に手に入らないものになったのだと分かって、幸せそうな二人が恨めしくて、その傷も癒えぬうちに形だけの結婚をした自分が惨めで、疲れきった。暫らく立ち直れないだろうと思うのに使命は待ってもくれず、無理を強いて鎧を纏った。本当に戦いに放り込まれてしまえば憂う暇もなくなるだろうと思うのに、実際にはこうして暇を持て余し、繰り返し同じことを考えては落ち込んでいたりする。
ソフィアも羨ましいが、もっと羨ましいのが、守護天使ウェーレイキオルだった。
エドアルドが今回の旅に従者を誰も連れてこないと聞いたとき、その代わりをウェーレイキオルがすべてこなすのだと理解したとき、イザークは、ああ、と思った。手足が冷えた。
――そこは俺の場所だったのに。
そう思い、嫉んだ。
――エドアルド卿の天使。
ウェーレイキオルが降りる以前。金髪で見目がよく、エドアルドに付き従ってあれこれと働くイザークに言い出したのは誰だったか。悪意を孕むその言葉を知ったとき、彼は酷く憤った。
エドアルドを傷つけられたと、怒りに燃えたのもある。しかし同時に、八つ当たりのように思いもした。
――そうだったらどんなによかったか!
イザークはその呼び名に羨望を抱いた。エドアルド卿の天使。ならば、自分の思いは許されるはずだ。何を置いてもエドアルドの傍に居ることが許されるはずだ。男だろうと。エドアルドが結婚しようと。エドアルドにあんなにも欲されて、彼の望みを癒すことができるはずだ。そうありたかった。
エドアルドの為だけに在れたなら――恋した人の為に在れたなら、それはどんなにか幸福だろうか。エドアルドだってもう思い詰めず笑ってくれるのにと思っていた。それほどに想って傍に居るのに、エドアルドはけっしてイザークでは満足しないのだから、悲しくて仕方がなかった。
それでも。どう見られようと、何を言われようと気丈に振る舞うエドアルドの横で、彼も周りに構わず立ち続けていた。エドアルドが、天使ではなくとも、信頼はしてくれていたから。
ようやく降臨した天使を見たときには、彼は目を疑ったものだ。
――これが守護天使? エドアルド様の?
その言葉をどうにか飲み込んだ。
信じられないほど美しくて、敵いそうにもない存在なら納得できただろうにと思う――実際はどうか、知れないが、思う――のに、ウェーレイキオルは予想外だった。黒くて美しくもなくて、問題だらけの守護天使。
イザークはエドアルドが労しかった。長年待ち続けてこれではと思った。何か言葉をかけたかったが、何を言っても下手につつくことになりそうで、言えなかった。他の者たちが持ち上げるのに合わせて様子を見た。
ウェーレイキオルにあらぬ噂が広まったときには、憤った。噂を広める馬鹿な奴らにではない、ウェーレイキオルに。エドアルドの天使ならば瑕疵なく完璧でいてほしいのに、なんという体たらくかと思った。結局誤解はすぐ解かれ、それどころではない事態に発展して有耶無耶になったが――エドアルドを煩わせたことが腹立たしい。
しかしエドアルドが結局、ウェーレイキオルを特別に思っているのも見てとれ、イザークは認めるほかなかった。エドアルドが待ち望んでいた守護天使とは彼なのだと。
エドアルドは今となっては、イザークを呼びもしないのだ。薄情なわけではない。部下として、仲間として大いに信頼されてはいる。自身の世話から解放されたイザークが存分に働くことを期待している。ただ真実として、彼は天使ではなかったのだった。もう傍には置いてくれないのだった。
イザークが今まで立っていた場所で、ウェーレイキオルは笑っている。そこが自分の居場所だと――生まれながらにして当然に。
――そこは俺の場所だったのに。
――ずるい。
イザークはウェーレイキオルが憎い。天使だというだけでその位置を占めることができるのが羨ましくて仕方がない。滑稽な空想ながら、自分がエドアルドの守護天使だったならと思ってしまうのをやめられない。天使は来たというのに、未だに。
エドアルドがウェーレイキオルとどう過ごしているのかも気になる。天使は人と色恋しないとサイラスなどは言ったが、主とは特別親密になりうるのをイザークは知っていた。たとえばトラウゴットの後継ベリウスと天使ネシファラスがそうであることなどは、一部には知れた話だった。エドアルドがウェーレイキオルをどう扱うのか、あの見目でも、もしやと思えば想像が止まらない。
イザークはまた一つ、溜息を吐いて寝返りを打った。
砦へと向かうのに、戦いにいくのに、こんなことばかり考えている自分は愚かだと思った。こんな有様を知られてはならない。誰にも打ち明けられないし、誰より、エドアルドには知られるわけにはいかなかった。憧れの美しい男。共に立ち続けるには強くあらねばならない。
上手く眠れる気はしなかったが、彼はともかく目を閉じた。
夜。横たわるエドアルドはふと目を開け、見慣れつつある白い洞状の天井を眺めた。次に、他に部屋などないので傍らに控えているウェーレイキオルと目が合う。もう驚かなくなった。
「もう動いているか」
「はい。先程より」
掠れる声で訊ねると明瞭な返事がある。降り立った河原で煮炊きや行水をして、就寝、エルカーンの休息が済み次第出発の予定だった。エドアルドも慣れ、起きて様子を窺っていることもなくなった。ただ今日はなんとなく眠りが浅く目が覚めてしまった。
「起きられますか」
曖昧な返事をしながらエドアルドは身を起こした。その肩にウェーレイキオルはそっと上着をかける。まだ深夜、朝には随分遠いが。
「お茶でもご用意いたしましょうか」
少し、喉が渇いた。エドアルドがそう思うか思わないかというほどすぐに声がかかる。水ではなく温かい物をというのも合っていた。容易く再び寝つける気がしない。エドアルドは一度起きることにした。
他の者を気遣い静かに動いて部屋を抜け出し大部屋に入ると、灯りはないが星月の明かりに明るい。光を屈折する、金剛石に似たエルカーンの核が輝いている。
エドアルドはウェーレイキオルが灯りを点けようとするのを制した。目が慣れるのを待つ。暗さに構わず手際よく湯沸かしに水を注いで起こすのを横目にしながら、テーブルの端に腰を下ろした。
「眠れないかい、紅玉髄の君」
やはり時間に配慮した雰囲気の、エルカーンの小さな声が響く。エドアルドは首肯した。
「砦に着くと思うと気が逸ります」
「ようやく、かい?」
「貴殿のお陰で随分早く着きそうですが。俺にとってはようやくです。総督への就任も――今回の使命のことも。急いでは来ましたが、我が天使が知らせてからこんなに時が経ってしまったと、焦っているのは否めません」
訥々とエドアルドは語った。ウェーレイキオルが来て、その記憶が目覚めてから、何もかも急に日々が過ぎたが――
「まだ何が起きるかも分からないのに。間に合うものかと、不安に思う」
エドアルドはウェーレイキオルが知らせたことを無駄にしたくなかった。
知れているのは一つだけ。黒き星がまだ世界を諦めず瞬くのだということ。それを知った以外は、地上は静まっているようだった。しかし――既に何か始まっているのだという焦燥があった。エドアルドは吐露してしまった後に、こんな弱気はならないと思った。暗い中で白い掌を握り、エルカーンが無言のうちに仕切り直す。
「エルカーン殿は――星別れの戦の末期の頃の生まれであると聞いていますが」
「左様。四百と少しを生きている」
「では竜を見たことが、ある」
エルカーンの姿勢が少し変わった。ように思えた。エドアルドは夜空に煌めく巨人の心臓を見つめた。
「ある。一度、遭った」
声は溜息のように聞こえた。その後、常の流暢さを取り戻し、エルカーンは言う。
「一度だけだが、その一度で我が一派は壊滅した。私は若かったから生き延びたのだ。まだ小さく――このように体を持っていなかったので、見逃された。ソリエェスの一派が絶えなかったのはそうした幸運ゆえだ」
これは語り継がれた話ではない、当人の経験談だ。癒えぬ傷に触れている、とエドアルドは思う。
だが語るのは、聞くのは、生きる者の負った使命だ。
「恐ろしいものだった。力そのもののようだった。赤く大きな竜だった。巨人を殺し、山を砕いて、去った。――だがその竜も死んだ」
ぐらぐらと湯の沸く音が聞こえる。
端的な言葉は重く響き――エルカーンは酷くあっさりと言った。
「諸君が退けた。輝く鎧、七人の英雄、詩人が語るとおりだとも。竜も、死ぬのだ」
エルカーンは酸鼻を語るのに言葉を尽くさなかった。彼はこれから戦う勇士に向けての鼓舞を選んだ。若き戦士の不安を知り、その弱さを許さない心を知り、そのように寄り添った。
「それに――……当時より我らの文明は進んでいる。このように、巨人が空を飛ぶ術を獲得した。武器は多く鍛えられ、仲間は地に栄えている。一方竜はどうだろう。出てこないのも、戦って勝つ自信がないからなのではないか。勝てると思っていれば、出てきているはずだ。今は前より、分がよいのだ」
「竜が、戦意を失っているということは」
「それはありえない」
エドアルドの控えめな問いを、エルカーンは即座に両断した。白き星の子が平和のうちに竜に触れない選択をしたように、竜も敗北を知り眠ることにしたのではないか――との可能性は、無い。
竜にはありえない。彼らは気高く、屈辱の安寧など選ばない。それに、エルカーンが四百年前の記憶を我がこととして抱えているように、竜も長命の者として当時の続きを生きているのだ。エドアルドたちのように代替わりしていない、彼らの戦意は鮮明だろうとエルカーンは断じる。
「同志、君たちがまず竜を討つことにしたのは懸命だと、私は考えている。竜はきっと、いずれ起きる。そのとき必ず、積年の怨みを晴らすだろう。私は長らくそう思っていた。恐れていた。そのときは――黒き星が目覚めたなら、近いと思う」
エドアルドは頷く。やはり竜は捨て置けない。この道が正しい。避けられない戦いだと決意を固める。
「今のうちだ。急ぐことだ」
「それでこの助力を?」
「これは何れは人々に試してもらおうと思っていたがね。丁度よく、見せ場が来たのだ」
エルカーンは少し調子を明るくして言った。きらりと光が散る。
「紅玉髄の君、英雄の末裔よ。どうかこの地に永久の平和を」
「――賢き巨人の盟友に誓って」
彼の祈りに、エドアルドは心から応える。床に――エルカーンの身に拳を置いて、応じた。
――まず。隠れているのを見つけられるかが勝負だ。
胸に呟く。砦では既に竜の探索が始まっていたが、未だ朗報は無い。砦の兵は全力を尽くしていると思うが、歯痒いことだった。この先も成果が上がるのか分からない、間に合うのかと、また不安が過ぎってしまう。
――……今はまず、無事着くことだ。
焦りを伏せて、エドアルドは己に言い聞かせる。己が今すべきことをする。それが戦士の、英雄の資質だ。
ウェーレイキオルが茶を差し出した。飾り気のない木杯。エドアルドは湯気が星明かりに溶けるのを眺め、熱いのを用心して啜った。鼻先に当たる香りと熱に緊張がほっと解ける。
暫らく黙って飲む間、ウェーレイキオルも黙して侍っていた。じいとエドアルドを眺めている。暗くとも、会話がなくとも関係はない。エドアルドが眠っていてもこうなので、動きがある分やりがいがあるくらいだ。
けれど不意に、視線が逸れる。やがてエドアルドも気配に顔を上げた。部屋のほうが明るいので、誰と気づくのは相手が少し早い。
「――エドアルド様。どうしました、何か?」
「……イザークか」
エドアルドは一瞬遅れて呟き、首を振った。
「いや、少し目が冴えただけだ。茶を飲んだら寝る。……お前も眠れないか?」
「ええ……昼に寝すぎたんですかね。体を動かしていないとやはり……」
「夜に起きている者は結構多いようだ。この部屋まで来てくれれば話し相手をするのだが」
「……エルカーン殿も退屈ですか?」
「いいや、私は巨人であるから。あまりそういう感覚はない」
――それは、居るよな。
イザークはエドアルドを見つけると同時にウェーレイキオルを見つけたので些か落胆していた。当たり前に、そこに居る。居なかったとして、エルカーンが居るので二人きりではなかったなと思いなおして笑う。エドアルドも微笑んだのが見え、心が少し、弾む。
「飲んでいけ。――酒ではないが、多少休まるだろう」
「……ありがとうございます」
その上誘いもあったので喜んだ。茶を用意しているのが嫉ましい天使だとして、エドアルドの隣に座れるのならば横に片付けられた。
ウェーレイキオルが新しい杯を満たすのにも礼を言って、一口、二口、飲んで喉を温める。彼も船首の空を見て呟いた。
「降りたら、酒が飲みたいですね」
エドアルドの目が再びイザークを見る。イザークは慌てて、しかし落ち着いた口調で付け足した。
「ああいえ、勿論、忙しくなることでしょうが。暫らく色々我慢した分、一杯くらいは呷りたいという話です」
イザーク自身は、懊悩が多くて酒でも飲んで気を紛らわしたいというのも正直なところではあったが。酒を欲するのはこの旅で節制を強いられている皆の総意だった。
一方エドアルドは総督就任に向けて気負い、常にも増して張り詰めていた。それで今、親しい部下に遠慮されたのだと分かって、彼は意識して頬を緩めた。戦いに挑むにあたり自分も部下も律しなければならないのは確かだが、戦士たちはあまり抑えつけすぎても上手くいかないものだし、自分自身についても緊張が過ぎれば却って失敗を招くと分かっていた。
この窮屈な時間から解放されたらと思い描くのは当然の権利だ。到着後、多少の酒くらいは許すべきだろうと思いながら、今は茶の残る杯を揺らして、呟く。
「そうだな。北の酒は強いと言うが、どんな味だろうな?」
考えると少し餓える。酒の味が恋しいのは彼も同じだった。その反応に、イザークは安堵して応じる。
「よく、蒸留酒よりきついと聞きますね」
「楽しみだな。……皆お前のように一杯くらいに留めてくれればいいが」
エドアルドは先に一杯と言ってしまったイザークを揶揄って茶を飲む。ふ、と息を吐いて、目を細めた。
「ソフィアにも言われたんだ。我らは戦いに赴くが――それは違いないが、生きにいくのだから、楽しみも見出したほうがいいと。確かにそうだ。俺は領民の上に立つのだし、明るい目で彼らを見ないとならない……」
声は話題に沿って柔らかい。
「お前たちにも何年も付き合ってもらうことになる。……共にやりとげよう。着いたら、飲もう。強い酒なら気合いが入ることだろう」
エドアルドは信頼する部下を見つめて笑った。彼も長旅でくたびれているはずが、曇りはどこにもなかった。今のイザークには、横のウェーレイキオルのことは見えなかった。妻の名を出して誇らしそうに語るのも――胸は締めつけられるが共に嬉しかった。
「――はい、勿論、どこまでもお供します、エドアルド様」
イザークは慕う男のみを見て、涙を堪えて笑った。
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