橘言

綿入しずる

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 ――もう何年も過ごし、タチバナも帝とお会いするのに酷い緊張はしなくなった頃でした。
「嶺獅と精霊の話をせよ」
 帝はそう請われました。話をせよと言われるのは常のことでしたが、何の話をと言われたのは初めてでした。同じ話を再びするのも、あの話を口にするのも。
 慣れたと思っていたのにどうしてか、当時のように声が震えました。幸い、あのように短い話でしたので忘れてはおりませんでした。タチバナは一番最初の拙い嘘話を、そのまま口にしました。
 帝はじっと聞き入って、嶺獅と精霊の姿を思い浮かべるように瞼を下ろしました。あのときも御帳の向こうでこんな顔をされていたのだろうかと、タチバナは思いました。そうして顔を見られることが、改めて不思議に思えました。もうずっと向かい合って話をしてきたのに。
「それが最も美しいな」
 陛下はいつものように短く褒めて、頷かれました。その夜は眠りませんでした。
 それを最後に、タチバナはもう呼ばれなくなりました。
 それまで后のもとへと行かれていた時期とは違う、たしかな隔たりを感じました。遠ざけられたのです。帝は元のように手の届かぬ、顔を見ることのない御方になりました。タチバナはもう白い帳さえ見ることはないのです。
 一月、二月……一年と過ぎて確信を得るにつれ、タチバナの胸は重いような軽いような、妙な落ち着かなさになって苛まれました。
 ああやっと飽きたのだと思いました。不相応の重荷が下りてほっとするはずなのに心は蟠る。
 飽きられたのだと囁く声が幾度と胸を刺しましたがそれも次第に聞こえなくなりました。白玉の簪だけは変わらず髪にあって、外してしまいこんでしまおうかと思っても、結局はならずに身に着け続けました。
 頂いた宝物が確かに手元に残っていることが、あの日々は嘘ではなかったことの印でした。
 どうしても、過ぎたことと思いきることができずに、タチバナはつまらない話を考えては誰に聞かせるでもなく心の内にしまいこむのを繰り返していました。日々花の影や石の上に精霊の姿などを見出して、しかし誰にもそれを言わずにおりました。
 呼ばれぬのはとうとうが尽きたのかと同輩に尋ねられたので、ただ零しました。
「尽きようはずもない。幾らでも作れる。御前でした話は嘘だった。陛下は知っていて好まれた……」
 橘言が嘘と皆に知られたのはこのときです。不敬だいや大したものだと、以前よりもっと噂されるようになりました。しかし何と、どれほど言われようが、タチバナにはどうでもよかった。それよりただ一言、つまらぬ話に相応の素っ気ないお言葉だけが、また聞きたくて堪らなかった。
 そんなある日、民の名に関して触れが出されました。ただ音のみ当てる名づけが普通であった当時に、コンヨ国の民として、もっと意味持つ名を名乗るようにせよとのお達しでした。同時に、しかし王侯のように大層な名にしすぎてもならないので、これを参考にせよと書が齎されました。
 草木花名そうもくかめいと申します。
 すべての草木の名前をあつめた書物です。帝は、民はそこから選んで子に名づけるようにと仰ったのです。人々は冷徹な帝の勅《みことのり》にしては穏やかな中身だと意外がりましたが、タチバナはそうは思いませんでした。むしろあの方の奥底にあったものが滲んできたものと感じられました。
 そして、そこにはタチバナの名も載っているのです。橘。薫りよく冬も緑に繁り、白い花に橙の実をつける。棘があり家を守る――と。
 ……そう、それから、民は草木や花の名を名乗るようになりました。もう随分馴染んで、周りは皆そんなものだと思うでしょうが、それはこの頃からなのです。名鑑は今やすべての役場にあり、子供に名をつけようと思う親たちが見ることができると言います。
 ですが、勅からほんの半年ほど後のこと。陛下が身罷られたとの報が宮廷を巡りました。
 病によるものだったと後に聞こえ、ならば上の者たちは何かしら知っていたかも知れませんが、下々にとっては突然の崩御。タチバナにとっても青天の霹靂でした。
 聞いた瞬間に、天と地があったのかさえも覚えてはいなかった。頽れて溺れるほどに泣いて、その日から暫らくはどのように過ごしたのか定かではありません。
 だから陛下は皆が名乗った名を存じ上げないのです。木々の名が名簿に立ち並ぶところ、娘たちが花の名で呼び合うところを、知らぬまま。きっとお喜びになられたでしょうに、なんとも惜しい、悔しいことです。
 橘言というのの真実のところは、このようなものです。上手い話でなくとも愛でた御方が居た。それで遺ったものがある。そういう話なのです。
 時代は移りました。もう長く経ちました。陛下の御子、次の帝の世も平らかであるというのに、私は未だあの方だけが帝だと思うのです。あの方の陵《みささぎ》に自分も納めてくれぬものかと、いつも、本気で思うのです。
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