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ハルトマン家の当主
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────1────
カリカリカリカリ。
羽ペンで紙に文字を走らせる度に鳴る、この心地良い音。
私はこの音がとてもお気に入りだ。
これは恐らく、亡き父の影響だろう。
子供の頃、書斎で仕事をする父の姿には、子供ながらに酷く感銘を受けたものである。
羽ペンをまるでタクトのように操り、譜面を綴るよう文字を記していくあのお姿、あの音は、今でも目に、耳に焼き付いている。
だから私は好きなのだろう、この音が。
憧れの父が日夜奏でた、演奏だったから。
父は良き侯爵だった。
それを父上は私にも望んだ。
我が子にも良き侯爵となって欲しい、と。
私自身もそうなりたいと望んだ。
故に父は、私が将来良き侯爵となれるよう、厳しく接してくださった。
その日々は、とてもとても苦しい毎日だった。
泣き出したい、逃げ出したいと何度思ったことかわからない程に。
だが私は逃げなかった。
厳しいだけでなく、同時に愛情も注いでくれた父上の気持ちを裏切りたくなかったからから私は耐えた。
耐えられた、あの日々を。
その教育のお陰で今の私があるのだと思える。
多くの者達に信頼され、期待される良き侯爵に。
しかし私は父上のような、良き父親とはなれなかった。
我が子、カイネル。
今のあの子を見ていると、そう思わざるを得ない。
「…………カイネルよ、父はお前の心がわからない。 何故ああも変わってしまったのだ、カイネル。 我が愛しき息子よ」
カイネルは変わってしまった。
およそ一月半前、あの女と生活を共にするようになってから。
「よりにもよってソーマ殿を殺そうとするなど…………彼のお陰で今の私があるというのに」
ソーマ=イグベルト。
いや、ソーマ殿に救われたお陰で私はこうして生き長らえる事が出来ている。
いわば命の恩人なのだ、彼は。
そんな彼を息子は殺そうとしている。
これほど嘆かわしい事はない。
なんとか阻止せねば。
恩義に報いる為に。
「…………ラーセン」
我が忠実なる老執事ラーセンの名を呼んだ直後、書斎の扉がゆっくりと開く。
「お呼びですかな、旦那様」
現れたのは、そのラーセンだった。
相変わらず見事な白ひげを生やしている。
私も老衰した暁には、ラーセンのような白髭の似合う男になりたいものだ。
「彼の元に送られたカイネルの配下達は未だ帰っていないのか? そろそろ一日経つ頃の筈だが」
「まだ何も報告はございません。 しばしお待ちを」
ふむ、可能であれば生きて戻ってきて欲しいものだ。
「もしもの場合は、わかっているな」
「勿論でございます。 これ以上ソーマ様の悪評がつかないよう、情報操作を致しますのでご安心を。 とはいえ、あの方自身が起こした悪評の方はどうしようもありませぬが」
「フッ、それは構わん。 英雄は色を好む、とも言うからな。 何もしなくて良い。 むしろあの悪評こそが、彼を表していると言っても過言ではないだろう」
「ほほ、ですな」
と、ラーセンと笑いあっていた最中。
示し合わせたように、我が娘。
エイラが息を切らしてやってきた。
「お父様!」
「む……なんだ、エイラ。 騒々しいぞ。 お前も淑女であれば、もう少し落ち着きを……」
「そんな事を言っている場合ではございません、お父様! 例の者達が帰ってきたのです! 重症を負って!」
「……!」
ほう、生きて帰ってきたか。
彼に刃を向けて死なずに済んだとは、なんとも運の良い。
いや、それともわざと生かされた、のか?
「そうか、帰ってきたか。 して、重症とは?」
「カイネルの配下がどんな重症だのと、そんな事はどうでもよいのです、お父様! 問題はソーマ様が、自らに刃を向けた相手を死体に変えるどころか五体満足で返した方が問題なのです!」
「あの……エイラ様。 その者は足と腕を折られている程の重症でして、決して五体満足では……」
「お黙りなさい!」
正確な報告をしようとしたエイラの配下は、主に咜られ謝罪をし下がった。
「エイラ、すまないが私は正確な報告を聞きたいのだ。 お前は少しの間下がっていろ。 まずはそこの者の報告を……」
「お父様は気にならないのですか! あのソーマ様が人を生きて返したんですよ!? も、もしや具合が悪いのでは!? それとも身体に異変があるのやも! どうしましょう、どうしましょう! ああ……これでは居ても経っても居られません! やはりここはわたくし自ら……!」
「良いから一旦落ち着きなさい。 あのソーマ殿とて体調が悪い時くらい……」
「ダーリン、今行きますわ! 貴方の未来の妻である、このエイラがすぐ駆けつけますわー!」
まったく、どうして私の子供達はこうも落ち着きがないのだ。
「はぁ……ラーセン」
「かしこまりました、旦那様。 申し訳ありませんが失礼致します、お嬢様」
「あふん」
私の考えを手に取るよう理解したラーセンは、娘の首筋に正確無比な手刀を打ち、見事気を失わせた。
「では旦那様、わたくしめはこれで失礼致します」
「うむ」
一言返事をするとラーセンは娘を抱えて書斎から出ていった。
それを見届けたのち、私は娘の配下に改めて……。
「騒がしくしてすまなかったな。 では改めて聞かせてくれるか。 その重症者達の話を」
────2────
彼から聞けた話はなかなか興味深いものだった。
なんでもその者達を率いた者の話では、ソーマ殿はわざと重症を負わせ、帰らせたのだそうだ。
これはなかなか面白い。
相変わらず頭の冴える御仁だ。
なかなかどうして、胆の据わった事をする。
「流石だな、ソーマ殿。 息子の愚策に敢えて乗り、懐に飛び込もうとするとは。 であれば、私も手を貸さずにはおられまい。 息子を正気に戻す為にも」
呟き終えるなり、私は引き出しからとある人物への書状をしたためる。
「こんな物だろう。 後はこれを彼女に渡せば…………おい、誰か居るか」
「お呼びでしょうか、旦那様」
呼ぶと現れたのは、我が屋敷のメイドを指南するメイド長であり、元殺し屋のメイ・スーだった。
メイは黒髪から覗く鋭い眼光を光らせながら、深くお辞儀をした。
「うむ、すまないがこの書状三通を、魔王様、レイシア嬢。 そして、サラーナ君に渡してきて貰いたい。 早急に」
「承知致しました。 でしたら私が直々に参りましょう。 その方が安全かつ最速でお渡し出来るかと思いますので」
メイが行くなら安泰だ。
彼女以上に信用出来る配下は他に居ない。
「頼む」
「では直ぐ取りかかります。 失礼致します、旦那様」
「ああ」
頷くと、メイは踵を返し、瞬く間に姿を消した。
比喩ではなく、目の前で忽然と。
まるで煙のように。
「…………」
誰も居なくなった空間を見つめながら、私は暫くの間思案に耽る。
それから少しして。
「……そろそろ行くとするか」
考えが纏まった私は重い腰を上げ、書斎を後にした。
我が最愛の息子。
カイネルの様子を確認する為に。
カリカリカリカリ。
羽ペンで紙に文字を走らせる度に鳴る、この心地良い音。
私はこの音がとてもお気に入りだ。
これは恐らく、亡き父の影響だろう。
子供の頃、書斎で仕事をする父の姿には、子供ながらに酷く感銘を受けたものである。
羽ペンをまるでタクトのように操り、譜面を綴るよう文字を記していくあのお姿、あの音は、今でも目に、耳に焼き付いている。
だから私は好きなのだろう、この音が。
憧れの父が日夜奏でた、演奏だったから。
父は良き侯爵だった。
それを父上は私にも望んだ。
我が子にも良き侯爵となって欲しい、と。
私自身もそうなりたいと望んだ。
故に父は、私が将来良き侯爵となれるよう、厳しく接してくださった。
その日々は、とてもとても苦しい毎日だった。
泣き出したい、逃げ出したいと何度思ったことかわからない程に。
だが私は逃げなかった。
厳しいだけでなく、同時に愛情も注いでくれた父上の気持ちを裏切りたくなかったからから私は耐えた。
耐えられた、あの日々を。
その教育のお陰で今の私があるのだと思える。
多くの者達に信頼され、期待される良き侯爵に。
しかし私は父上のような、良き父親とはなれなかった。
我が子、カイネル。
今のあの子を見ていると、そう思わざるを得ない。
「…………カイネルよ、父はお前の心がわからない。 何故ああも変わってしまったのだ、カイネル。 我が愛しき息子よ」
カイネルは変わってしまった。
およそ一月半前、あの女と生活を共にするようになってから。
「よりにもよってソーマ殿を殺そうとするなど…………彼のお陰で今の私があるというのに」
ソーマ=イグベルト。
いや、ソーマ殿に救われたお陰で私はこうして生き長らえる事が出来ている。
いわば命の恩人なのだ、彼は。
そんな彼を息子は殺そうとしている。
これほど嘆かわしい事はない。
なんとか阻止せねば。
恩義に報いる為に。
「…………ラーセン」
我が忠実なる老執事ラーセンの名を呼んだ直後、書斎の扉がゆっくりと開く。
「お呼びですかな、旦那様」
現れたのは、そのラーセンだった。
相変わらず見事な白ひげを生やしている。
私も老衰した暁には、ラーセンのような白髭の似合う男になりたいものだ。
「彼の元に送られたカイネルの配下達は未だ帰っていないのか? そろそろ一日経つ頃の筈だが」
「まだ何も報告はございません。 しばしお待ちを」
ふむ、可能であれば生きて戻ってきて欲しいものだ。
「もしもの場合は、わかっているな」
「勿論でございます。 これ以上ソーマ様の悪評がつかないよう、情報操作を致しますのでご安心を。 とはいえ、あの方自身が起こした悪評の方はどうしようもありませぬが」
「フッ、それは構わん。 英雄は色を好む、とも言うからな。 何もしなくて良い。 むしろあの悪評こそが、彼を表していると言っても過言ではないだろう」
「ほほ、ですな」
と、ラーセンと笑いあっていた最中。
示し合わせたように、我が娘。
エイラが息を切らしてやってきた。
「お父様!」
「む……なんだ、エイラ。 騒々しいぞ。 お前も淑女であれば、もう少し落ち着きを……」
「そんな事を言っている場合ではございません、お父様! 例の者達が帰ってきたのです! 重症を負って!」
「……!」
ほう、生きて帰ってきたか。
彼に刃を向けて死なずに済んだとは、なんとも運の良い。
いや、それともわざと生かされた、のか?
「そうか、帰ってきたか。 して、重症とは?」
「カイネルの配下がどんな重症だのと、そんな事はどうでもよいのです、お父様! 問題はソーマ様が、自らに刃を向けた相手を死体に変えるどころか五体満足で返した方が問題なのです!」
「あの……エイラ様。 その者は足と腕を折られている程の重症でして、決して五体満足では……」
「お黙りなさい!」
正確な報告をしようとしたエイラの配下は、主に咜られ謝罪をし下がった。
「エイラ、すまないが私は正確な報告を聞きたいのだ。 お前は少しの間下がっていろ。 まずはそこの者の報告を……」
「お父様は気にならないのですか! あのソーマ様が人を生きて返したんですよ!? も、もしや具合が悪いのでは!? それとも身体に異変があるのやも! どうしましょう、どうしましょう! ああ……これでは居ても経っても居られません! やはりここはわたくし自ら……!」
「良いから一旦落ち着きなさい。 あのソーマ殿とて体調が悪い時くらい……」
「ダーリン、今行きますわ! 貴方の未来の妻である、このエイラがすぐ駆けつけますわー!」
まったく、どうして私の子供達はこうも落ち着きがないのだ。
「はぁ……ラーセン」
「かしこまりました、旦那様。 申し訳ありませんが失礼致します、お嬢様」
「あふん」
私の考えを手に取るよう理解したラーセンは、娘の首筋に正確無比な手刀を打ち、見事気を失わせた。
「では旦那様、わたくしめはこれで失礼致します」
「うむ」
一言返事をするとラーセンは娘を抱えて書斎から出ていった。
それを見届けたのち、私は娘の配下に改めて……。
「騒がしくしてすまなかったな。 では改めて聞かせてくれるか。 その重症者達の話を」
────2────
彼から聞けた話はなかなか興味深いものだった。
なんでもその者達を率いた者の話では、ソーマ殿はわざと重症を負わせ、帰らせたのだそうだ。
これはなかなか面白い。
相変わらず頭の冴える御仁だ。
なかなかどうして、胆の据わった事をする。
「流石だな、ソーマ殿。 息子の愚策に敢えて乗り、懐に飛び込もうとするとは。 であれば、私も手を貸さずにはおられまい。 息子を正気に戻す為にも」
呟き終えるなり、私は引き出しからとある人物への書状をしたためる。
「こんな物だろう。 後はこれを彼女に渡せば…………おい、誰か居るか」
「お呼びでしょうか、旦那様」
呼ぶと現れたのは、我が屋敷のメイドを指南するメイド長であり、元殺し屋のメイ・スーだった。
メイは黒髪から覗く鋭い眼光を光らせながら、深くお辞儀をした。
「うむ、すまないがこの書状三通を、魔王様、レイシア嬢。 そして、サラーナ君に渡してきて貰いたい。 早急に」
「承知致しました。 でしたら私が直々に参りましょう。 その方が安全かつ最速でお渡し出来るかと思いますので」
メイが行くなら安泰だ。
彼女以上に信用出来る配下は他に居ない。
「頼む」
「では直ぐ取りかかります。 失礼致します、旦那様」
「ああ」
頷くと、メイは踵を返し、瞬く間に姿を消した。
比喩ではなく、目の前で忽然と。
まるで煙のように。
「…………」
誰も居なくなった空間を見つめながら、私は暫くの間思案に耽る。
それから少しして。
「……そろそろ行くとするか」
考えが纏まった私は重い腰を上げ、書斎を後にした。
我が最愛の息子。
カイネルの様子を確認する為に。
応援ありがとうございます!
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