琵琶のほとりのクリスティ

石田ノドカ

文字の大きさ
57 / 76
第3章 『水とともに生きる:前編』

第14話 勝てない

しおりを挟む
「あら、雫? まだ起きてたの?」

 母の声に、私は枕にしていた腕をほどき、玄関まで出迎えに行った。
 今日は遅番だった母。時計の針はもう、零時を指そうとしていた。

「何してるの? 明日も大学でしょ?」

「うん。そうなんだけどね」

 荷物を受け取り、共にリビングの方へ。
 扉を開いてまず目に入るキッチンに、それらはあった。

「何それ、珈琲ミル? あれ? そう言えば、何だか良い香りもするわね」

「夕飯もすぐに準備するけど――とりあえず、座って待ってて」

「なぁに? まさか、あんたが入れてくれるって言うの?」

「……まぁ、ね。今日、マスターに教わったんだ。まだ練習中だけど、せっかくだから」

 母が椅子に座るのを確認した私は、傍らに準備していたエプロンを装着した。
 わざわざ淡海から持って来たもの――これは、魔法のエプロンだから。

「――分かった。ちょっとだけ仕事が残ってるから、それしながら楽しみに待ってるね」

「うん。まぁ珈琲一杯だけだから、そんなに時間もかからないけどね」

 私が言うと、母は楽し気に鼻を鳴らして、例の仕事とやらに取り掛かった。
 ノートにペンを走らせているところを見ると、何かの記録をつけているのだろうと思う。
 ただ、患者さんの情報を持ちだすことは原則出来ない筈だから――日記? なら、仕事とは言わないか。
 今は五月。新しい年度が始まって、まだ早い。
 ということは、新人さんの研修記録とかかな?

「何よ、熱心に見つめちゃって。未来のバリスタがそんなんでいいの?」

「ば、バリスタって……いやさ、それ何してるのかなーって」

「んー? 別に大した仕事じゃないわよ」

「新人さんの研修ノートみたいな感じ?」

「――え、凄い、どうして分かったの?」

 母に言われて、自分でもどうしてだろうと考える。
 きっと、日々細かなことにも目を向けなければならない仕事柄であることと、クリスさんの存在があるからだろう。
 正直、後者の方が理由としては大きいような気もする。
 ただ観察が癖になってしまっている、というだけなら、わざわざそれが何であるかまでは考えようと思わない筈だ。
 ……なんて自分を考察し、評価してしまうところも、きっとクリスさんの影響だ。

「マスターがね、言うんだよ。『喫茶店は色んなところに目を向ける仕事だ』って。ただ提供するものを作ってお出しするだけじゃないんだよ」

「へぇ。なぁに、随分と大人っぽくなったんじゃない?」

「慣れだよ、慣れ」

「慣れることは成長よ。少なくとも、ここに戻って来たばかりの雫は、そんな感じじゃなかったもの」

「……そうかも。多分、ちょっと変わったかな。大人になったっていうのとは違う気もするけど」

 看護師をしている母がそう言うのだから、事実変わったのだろう。
 ならやっぱりそれも、クリスさんのおかげだ。

「で、何でこれが研修ノートだって分かったのかしら?」

「えっ、見逃してくれないの?」

「せっかく我が子の成長を目の当たりにしているんだもの。聞かなきゃ損じゃない?」

「うーん……改めて理由を聞かれると恥ずかしいな。マスターは凄いや」

 陸也さんの蛮行を見破った時、善利さんの写真の真相を突き止めた時――どれも、クリスさんは堂々としていた。
 以前から『クリス』と呼ばれていただけに、場慣れというのも勿論あるだろうけれど、それにしても感心するばかりだ。
 まあでも、今ここには私と母しかいないことだから。

「えっと……まずお母さんが『仕事』って言った点だね。お母さんは看護師をしてるわけだけど、患者さんの情報は持ち出し口外厳禁でしょ? でも仕事って言うからには、ただの日記じゃない。だから、それ以外の何かって考えたの」

「ふむふむ」

「看護師さんの仕事って、私に思い付くのは諸々必要な情報収集と患者さんの処置・介助、それからドクターとのパイプ役かなって。でも、それってどれも外で出来る仕事じゃないでしょ?」

「だね」

「記録じゃない書き物、って考えた時、ふと今の時期を思い出したの。五月だなーって。学校でも仕事でも、基本は四月に新しい人が来るものじゃん? だから、その新人さんのプリセプターにでもなったのかなって」

 一息に言い切ったところで、大きく息を吐いた。
 同時に、珈琲のドリップも終わった。

「はい、出来たようちのブレンド。って言うと、まだまだかなって言われちゃうかもだけど」

「ふふっ、ありがと」

 差し出したカップを受け取ると、少し香りを楽しんだ後で、小さくあおった。
 そうして何度か舌の上で転がし、喉へと送ったところで、

「うん、美味しい。いい味出てるんじゃない?」

 優しく微笑み、大きく頷いてくれた。

「あんた、将来あのお店継がしてもらえば? 雇うつもりなかった外部の雫を雇ってくれたような場所なんでしょ?」

「えっ、何言い出すのかと思ったら。それはさすがに無理じゃないかな。と言うか、今の私にはそんなつもりないよ」

「ちょっとぐらい考えたりはしないの?」

「うーん……今のところ考えたことはないかな。いいお店だし、二人とも凄くよくしてくれてるけど、今はそれに甘えるばかりだし。何年後かの未来でどうなるかは分かんないけど、現状はね」

「ふぅん……意外とちゃんと考えて頑張ってるのね、感心感心」

 にやりと笑って、母はまた一口。
 小さく「美味しい」と呟きながら、少しずつ飲み進めてゆく。

「あんた、腕良いんじゃない? 同僚とよく喫茶店に行く私でも美味しいって思うわよ」

「嬉しい言葉だけど、多分豆が良いんだよ。うちの店主さんとそのおばあ様が二人で導き出した黄金比率なんだって」

「比率、ってことはプレミックスなんだ。へぇ、凄いわね」

「えっ、知ってるんだ……なんか負けた気分なんだけど」

「何言ってんのよ。私だって、常連になってる所のマスターに教えて貰っただけよ」

 そうは言っても、すっと言葉が出て来る辺りはまだまだ敵わないなと思ってしまう。
 私は少し考えてやっと出て来る程度の知識しかないのだ。

「ふんふんふーん……」

 母が鼻歌を歌いだした。
 上機嫌な時、母は私の知らないメロディーを即興で口遊む癖がある。仕事が忙しくなってからは、めっきり見られなくなっていた。
 リラックスしてくれてる、ということなのだろう。

(なんか……いいな、こういうの)

 キッチンからリビングのテーブルは隣同士。
 お店のカウンター席さながら、ここで作業をしながら、それを飲んでくれる人が何かをしている――それが、重要なお仕事だったり、趣味の続きだったり、はたまた友人や恋人との談笑だったりといったことの助けになっている様子を見られるのが、とても面白く、また嬉しいものに思えるようになってきた。
 カウンターで作業をしながらフロアを見渡して笑顔を浮かべているクリスさんの気持ちが、少し分かった気がする。
 母に言われた言葉ですら、少しまんざらでもないくらいだ。

「なぁに、ニヤニヤして。そんなに母親が美人かしら?」

「それ、自分で言ってて恥ずかしくないの? そうじゃなくて、ちょっと店主さんの気持ちが分かったって言うか、そんな感じ」

「ふぅん。あんた、やっぱりマスターとか似合ってるんじゃない?」

「今はそんなつもりもないけどね……」

 後々、とも考え辛い。
 少なくとも、今は。

「あっ、そうだ。あんたんとこの職場って、八幡宮の近くでしょ?」

 そんな出だしに、私はデジャヴのようなものを感じた。

「そうだけど――まさか、幽霊騒動?」

「あら、知ってるんだ。そうそう、それ。病院で変な話聞いたから、一応の忠告にね」

「忠告?」

 そんな言葉が出て来るとは思わず、私は母に聞き返す。

「忠告って、どういうこと?」

「別に危険があるかどうかは分かんないんだけどね。妙な声が聞こえるって話は聞いてない?」

「え、何それ、知らない。どんな声?」

「赤ちゃんの泣き声だって話よ。それも、そこかしこから取り囲まれたように、色んな方向から聞こえるって話。うわーん、うわーん、って。少なくとも、昨年度中にはなかった話よ」

「ちょっ、分かったからその雰囲気作りやめて!」

 私は両手を突き出して母を制止した。

「ま、そういうこと。あんた怖いの苦手でしょ? だから、万が一その声が聞こえちゃったら、きっと腰抜かしちゃうんじゃないかって」

「それで忠告って……お母さんの一言で寿命縮まったんだけど」

「ふふっ。まぁ用心なさいな。あんた、人よりビビりなんだから」

「ビビりとか子どもっぽいこと言わな――」

「キャッ、何あれ!」

「えっ、なになに…!?」

 思わず、母の指さす方向に目を向ける。
 そこには、ソファに座ってテレビを見やる、大きな熊のぬいぐるみがいた。

「……お母さん?」

「ふふっ、ほらビビり」

「こんなん誰でもビビるわ! ほんまやめてって、寿命なくなる!」

「はーいはいっと。悪戯ママはお風呂にでも入って来ますよーだ」

 笑いながらそう言うと、母は残っていた珈琲を飲み干して、開いていたノートを閉じ席を立った。
 そうしてノートを鞄へと仕舞う手前で、母はニヤリと悪戯な笑みを浮かべた。

「そうそう、さっきのあんたの推理だけどね」

 言いながら、ノートの表紙を私に見せて来る。

「あっ! それ――」

「そういうこと、あんたもまだまだね。お風呂入って来るから、おかわり淹れながら反省点を考えておくように。じゃね」

 したり顔でルンルンと部屋を後にする母。
 これは一本取られた。言葉だけを取った私の負けだ。
 あの表紙——母がいつもつけている、ただの『自分の日記帳』だ。

「何が『仕事』や。『どうして分かったの?』や、ほんと。ドヤ顔で推論口にした私がアホみたいやんか……」

 表紙を確認するまでもなく、と思った私が甘かった。
 珍しく一本貰ったと思ったけど、母にすらまだまだ届かないらしい。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

烏の王と宵の花嫁

水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。 唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。 その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。 ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。 死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。 ※初出2024年7月

後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜

二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。 そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。 その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。 どうも美華には不思議な力があるようで…?

あやかし警察おとり捜査課

紫音みけ🐾書籍発売中
キャラ文芸
※第7回キャラ文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。 【あらすじ】  二十三歳にして童顔・低身長で小中学生に見間違われる青年・栗丘みつきは、出世の見込みのない落ちこぼれ警察官。  しかしその小さな身に秘められた身体能力と、この世ならざるもの(=あやかし)を認知する霊視能力を買われた彼は、あやかし退治を主とする部署・特例災害対策室に任命され、あやかしを誘き寄せるための囮捜査に挑む。  反りが合わない年下エリートの相棒と、狐面を被った怪しい上司と共に繰り広げる退魔ファンタジー。  

美味しいコーヒーの愉しみ方 Acidity and Bitterness

碧井夢夏
ライト文芸
<第五回ライト文芸大賞 最終選考・奨励賞> 住宅街とオフィスビルが共存するとある下町にある定食屋「まなべ」。 看板娘の利津(りつ)は毎日忙しくお店を手伝っている。 最近隣にできたコーヒーショップ「The Coffee Stand Natsu」。 どうやら、店長は有名なクリエイティブ・ディレクターで、脱サラして始めたお店らしく……? 神の舌を持つ定食屋の娘×クリエイティブ界の神と呼ばれた男 2人の出会いはやがて下町を変えていく――? 定食屋とコーヒーショップ、時々美容室、を中心に繰り広げられる出会いと挫折の物語。 過激表現はありませんが、重めの過去が出ることがあります。

私の守護霊さん

Masa&G
キャラ文芸
大学生活を送る彩音には、誰にも言えない秘密がある。 彼女のそばには、他人には姿の見えない“守護霊さん”がずっと寄り添っていた。 これは——二人で過ごした最後の一年を描く、かけがえのない物語。

花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。 舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。 結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。 失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。 やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。 男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。 これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。 静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。 全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

小さなパン屋の恋物語

あさの紅茶
ライト文芸
住宅地にひっそりと佇む小さなパン屋さん。 毎日美味しいパンを心を込めて焼いている。 一人でお店を切り盛りしてがむしゃらに働いている、そんな毎日に何の疑問も感じていなかった。 いつもの日常。 いつものルーチンワーク。 ◆小さなパン屋minamiのオーナー◆ 南部琴葉(ナンブコトハ) 25 早瀬設計事務所の御曹司にして若き副社長。 自分の仕事に誇りを持ち、建築士としてもバリバリ働く。 この先もずっと仕事人間なんだろう。 別にそれで構わない。 そんな風に思っていた。 ◆早瀬設計事務所 副社長◆ 早瀬雄大(ハヤセユウダイ) 27 二人の出会いはたったひとつのパンだった。 ********** 作中に出てきます三浦杏奈のスピンオフ【そんな恋もありかなって。】もどうぞよろしくお願い致します。 ********** この作品は、他のサイトにも掲載しています。

処理中です...